花の下にて



「ここに来るのは久しぶりですね」
「そうだね……」
そう言って彼は頭上に咲き乱れる桜の花を見上げる。
「…桜の美しさは日本でも紐育でも変わらないんですね……」
「紐育には日本から贈られた桜もあるからね、これもそうなのかもしれないよ」
彼は歩みを止め、掌を桜にかざす。舞い散る花びらを受け止めようとするかの如く。
だが、気まぐれな桜の花は彼の掌に触れることなくするすると横をすり抜け地面へ降り積もる。
「懐かしいなぁ……ぼくが紐育華撃団への配属を命じられた時も、上野公園の桜が咲いていたんですよ」
呟きながら目を細める彼の脳裏には…当時の光景が映っているのだろう。
そよそよと彼の頬を撫でる優しい風は、その時も吹いていたのだろうか。

「……あ」
「どうしたんだい?」
彼の視線を追うと数メートル先にある湖に向けられていた。
湖ではカップルや親子連れが楽しそうにボート遊びをしている、そのはしゃぐ声が聞こえたらしい。
陽の光を浴びて煌めく水面や、水鳥たちが優雅に泳ぐ姿を眩しそうに眺めていた彼がふいに僕へ向き直る。
「昴さん、ぼくたちも乗りませんか?」
「ボートにかい?」
「―――――ダメですか?」
「……いいよ、君が乗りたいなら」
そう答えると、彼は昔と変わらない人懐っこい笑みを浮かべた。

「乗り場はあっちかな…それじゃ、行こうか」
解けていた腕を組みなおし、彼の歩調に合わせながらゆっくり歩き出す。
刹那、名残惜しむように背後から吹く風に煽られて桜の花びらが僕らを包み追い抜かして行く。
まるで行かないで、行かないで、と言いたげに。
「少し…風が強くなってきたな。寒くはないかい?」
舞い上がる髪を押さえつつ気遣うと
「ぼくは大丈夫です」
と彼は静かに首を振った。
「あ、昴さん。肩に花びらが……」
「え?」
そう言われ、確認する間もなく彼は一枚の花びらを摘むと僕の前に差し出した。
「桜も、昴さんが好きなんですね。ぼくと同じように」
「馬鹿……何を言っている。だが、ありがとう……」
どちらの意味にも取れる感謝の言葉を述べると、彼は満足したように花弁を解放する。
風に揺られ左右に舞ったその花びらは、やがて他と同じように芝生の上にその身を横たえた。
それを見届け、僕らはピンク色の絨毯の上を再び歩き出す。


ボート乗り場までは5分くらいだっただろうか。
予想よりも近かったのにほっとする。
広いセントラルパークとはいえ、彼を長時間歩かせるような真似はしたくない。
「足元に気をつけて……」
先にボートに乗り込むと、彼に向かって手を差し伸べる。
「すいません、昴さん」
僕の手を借りて乗り込むと彼は船尾の方へと腰掛けた。
「漕ぐのは任せてもいいですか?」
「ああ、構わないよ」
漕ぎたいと言い出したらどうするべきか…と考えていたので彼の申し出を心置きなく受諾する。
「あんたら日本人かい?孫と一緒にボートを乗りに来るなんて日本人にも家族仲が良いのが居るもんだな」
ボートの管理人に送り出されるついでに言われ、彼と顔を見合わせて微笑む。
聞き慣れた間違いだが、何度聞いても笑ってしまう。
「残念ながら…僕は彼の孫ではないよ」
「へっ?」
「強いて言うなら……恋人同士、かな」
「……」
呆気に取られる管理人を横目に、中央に腰を据えオールを手に取るとゆっくりとボートを漕ぎ出す。

「昴さんがあんなことを言うから…、あの人まだこっちを怪訝そうな顔で見てますよ……」
喉の奥でくすくすと彼が笑う。
僕は背になっていて見えないが、どんな顔をしているかは大体予想はついた。
「……恋人じゃなく愛人とでも言えば良かったか」
「昴さんは愛人じゃありません」
ムッとして彼が言い返す。
「わかってるよ……さて、何処へ行こうか」
「そうですね…桜が見えるところなら、何処へでも」
あくまで彼は桜に拘るらしい。
「わかった……探してみよう」
ボートを漕いでボウ・ブリッジの下をくぐり、開けた湖面に出ると彼はきょろきょろと辺りを見回した。
「どうした?」
「いえ…昴さんの住んでいたホテルが見えないかなと思って」
「……僕の居たホテルはもっと南だ。ここからじゃ流石に見えないよ」
「そうですか…」
彼は残念そうに肩を落とす。
「どうせ後で見れるじゃないか、今日はそこに泊まるんだしね」
「それは…そうなんですけど。ここから見たらどんな風に見えるのかなぁ……と」
「……仕方ないな、あとでよく見える場所に案内するよ」
彼に答えながらもボートを漕ぎ進め、桜の見える場所を探す。
流石に桜の見れる場所は限られているので、辿り着いたのは寄り添うように立つ二本の若木の傍だった。
辺りはベンチや芝生もない奥まった小路だからか、人通りは少なく淋しげな場所だが。
湖面に映った桜と水面に浮かぶ花びらを愛おしそうに見下ろす姿を見てほっとする。
彼をここに連れて来て良かったと、素直にそう思った。

ボートを漕ぐ手を止め、静かに桜を眺める彼の横顔を見つめる。
……その瞳の輝きは昔と少しも変わらない。
初めて出会ったときから、ずっと―――――。

「……昴さん?」
僕の視線に気付いた彼が小首を傾げる。桜を見ないんですか?と問いたげに。
「僕は……桜より君を見ているほうが楽しいからね…」
「……なんだか、昔聞いた台詞ですね」
「そうかい?……」
はぐらかすように肩を竦めると、彼はすっと立ち上がり僕の隣に腰掛けてくる。
重みが移動したせいでボートが軽く左右に凪いだが、幸い大きく傾く事はなかった。

「……新次郎」
「昴さんの隣は、温かいですね」
咎めるように睨んでも彼はその微笑で僕の追及をかわしてしまう。

「昴さん」
「何だい」

「昴さんは……幸せでしたか」

唐突にそんな事を問うた彼に、僕は迷うことなく答えた。
「―――――答えはノーだ」
「……」
即答に驚いたのか、眼を見開き僕を凝視する彼にため息をつく。
やれやれ……僕がイエスと答えると思っていたのか。
だとしたら見くびられたものだ。
「君の、聞き方が悪い…そこは幸せ『でした』かじゃなく、幸せ『か』と問うべきだ」
意味を理解したのか、はっとした彼は即座に問い直す。
「……昴さんは、幸せですか」
「僕は、幸せだよ……君は?どうなんだい…新次郎」
「ぼくも、幸せです……」
そう言って、彼が僕の肩に頭を預けてくる。
「ちょっと……疲れちゃいました。少し、こうして居てもいいですか」
「いいよ……君の気の済むまで……こうしていよう…」
彼に合わせて眼を閉じると、風に煽られた桜の花が僕の頬をそっと撫でた。
涙の通り道をかすめたそれに、何故か胸が締め付けられる想いがしたのは何故だろう。
……散り行く桜への憐憫だろうか。

それきり、黙ってお互いの体温を感じあったままどれくらい経ったのか。
心なしか彼の体温が下がってきたような気がして戻るべきか声をかけようとした時。
「昴さん…一つ、お願いをしてもいいですか?」
ふいに、眼を閉じたままの彼が呟いた。
「いいよ…なんだい?」
「歌を……歌ってくれませんか」
「歌……?」
「小さい頃…こうやって母と一緒にボートに乗ったときに歌ってくれた歌があるんです」
「―――――ゴンドラの唄、かい?」
閉じた瞳がぱちりと開いたところを見ると、図星らしい。
「……昴さんは凄いですね。なんで、わかるんですか」
拗ねた子供のように、彼は鼻を鳴らした。
なんでか、と言われれば思い浮かんだとしか言い様がない。
「さぁね……、僕が唄いたかったからかな……」
「昴さんの黒髪は…いつまで経っても褪せませんね」
歌詞を思い出したのだろうか、彼はそんなことを呟いたがやがて僕に唄を促すように眼を閉じた。
僕はすぅっと息を吸うと、囁くような声で唄いだす。

 
『いのち短し……恋せよ…乙女……』  


桜の降りしきる中、彼のためだけに想いをこめて唄う。
奇しくも今の状況は歌詞とよく似ていて、僕は唄いながら思わず口元に笑みを零した。


彼は何も言わず、僕の唄を聴いている。
(どうせなら…僕の手を取るくらいして欲しいものだけどね) 
言葉を替え乙女を恋に誘う唄なのだから、と思いつつ。
歌は空に舞い、大気に溶け込むようにして消えていく。
繰り返し同じ問いかけをするゴンドラの唄は、終わりなく永遠に続きそうな錯覚に陥る不思議な歌だ。

だが、歌にも命にも永遠などない。
終わりはいつかやってくるのだ。

「………」
「新次郎……?」
歌い終わっても、彼は黙って僕に寄り掛かったままだった。
寝てしまったのだろうか、と様子を窺うと彼は幸せな夢を見ているかのように微笑んでいる。
桜の花が膝の上に置かれた彼の掌の上に優しく降り立っても彼は身動ぎ一つしなかった。
「……」
花びらごと、彼の手をぎゅっと握りしめる。
彼は、夢の中でラチェットやサニーサイドに…星組のみんなに出会えただろうか。


変化は、すぐに訪れた。
(ああ……)
ぴしり、と音を立てて。
全身に絡み付く錆びついた鎖が崩れて行く感触を、僕ははっきりと感じていた。
霊力が急激に衰えていく感覚も、怖いとは思わなかった。
力も業もない、遠い昔の自分に戻るとしても。
……僕は、永遠を捨てやっと人としての生を手に入れられるのだ。
彼の…新次郎のおかげで。


「……ありがとう。あなたに出会えて……あなたに愛されて……私は……とても幸せでした……」
うわ言のように、僕は呟く。

頭の中で、過ぎ去りし日の情景が走馬灯のように思い出される。
僕にとっては果てしない孤独のはじまりであり、永遠という名の鎖に縛り付けられた日―――――。


「時の輪廻が続くのならば……もう一度……あなたと……、いや」
そこで言葉を切る。
その先は、さきほど彼に『幸せか』と問われて心に飲み込んだ台詞だった。

「君と、出会えて……君は……僕を……愛してくれた……だから、僕は幸せだよ、新次郎……」

風に煽られた枝から零れた花びらが雨のように僕らに降り注ぐ。
……桜も、彼を悼んでいるのだろうか。
それとも僕の代わりに泣いてくれるのだろうか。


彼に寄り添いそっと眼を閉じると、今度は自分のためにゴンドラの唄を口ずさむ。
永い、恋の終わりを唄うために。


END


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