Sweet Days
「大河くん、ごめんなさいね。貴方までつき合わせちゃって」
唇に悪戯っぽい笑みを浮かべながらラチェットは、新次郎を振り返る。
絶世の美女と評されたクレオパトラを演じた時の衣装に身を包んだラチェットは
その名に恥じぬ女神の如き美しさだ。
「い、いえ…ラチェットさんが謝ることじゃないですよ」
そんなラチェットに微笑みかけられて照れつつも、自分の着ている衣装を顧みて
やや引きつった笑顔のまま答える新次郎の内心は複雑だ。
何せ、プチミント姿なのだから。
「昴は言った…大河、鼻の下が伸びているぞ、と」
「す、昴さん!ぼくは別に…」
横に居るマダム・バタフライの衣装に身を包んだ昴の冷たい言葉に慌てて昴の方を見ると
案の定、冷ややかな視線が新次郎に向いていた。
そして、目の合った瞬間にぷいとそっぽを向いてしまう。
こうなってしまった昴は、大抵しばらく口を聞いてくれない。
(あああ…)
今日は恋人達の記念日と呼ばれるバレンタイン・デー。
なのに何で自分はこんな事をしているんだろうと思うと新次郎は内心泣きそうになった。
昨日までは昴とどうやって過ごすかを楽しみにしていたのに。
2月14日、バレンタイン・デー。
日本人である新次郎は知らなかったが欧米では親しい人の間で
お互いがカードや花束、お菓子などをプレゼントし合う日らしい。
当然、表では人気スターである星組の隊員達にも数日前から山のようなプレゼントが届いている。
「せっかくだしお客さんに感謝を込めてプレゼントを返そうじゃないか」
というサニーサイドの提案で今日は公演の代わりにシアターにプレゼントを持って訪れた人に
星組隊員が一輪のバラの花をプレゼントし返す日になったのだが。
「衣装はどうしましょう、サニー」
「ん〜…どうせなら女性から貰う方がいいんじゃない?」
ということでそれぞれが女性役を務めた舞台衣装をメインに着ることになったのだが…
ふと思いついたようにサニーサイドはにやりと笑って新次郎にこう言った。
「どうせなら大河くんも参加してくれよ」
「へ、ぼくもですか?」
「うん、プチミントへのプレゼントも届いてるからね。君からプレゼントを欲しい人もいるだろう」
待ってください、と新次郎が言おうとする前に
「新次郎!頑張ろうねー」
「お、いいじゃないか。久しぶりにプチミントが見れるのか」
「しんじろーも一緒なのか?リカも頑張るぞーくるくるくるー」
「大河さん…よろしくお願いしますね」
「昴も賛成する…客が喜ぶのであれば、その方がいい」
と、反論出来ぬ雰囲気になってしまい、素直に承諾するしかなかったのだ。
急に決まったこともあってそれからの日々は大忙しで連日帰りも遅く、二人きりになる時間すらなくて。
ファンサービスが終わった後にでも一緒に過ごさないかと昴に言おう言おうと思ったままとうとう当日になってしまった。
それでもプレゼントだけはなんとか用意したものの、相変わらず誘うきっかけが掴めない。
その上この始末。
「ありがとうございます。これをどうぞ」
バラの花を渡しながら微笑む昴をちらりと横目で盗み見る。
ラチェットのクレオパトラ姿も綺麗だと思ったが昴のマダム・バタフライ姿もやっぱり美しい。
こうして見ると女性にしか見えないのだが…未だに昴は自分の性別を教えてくれない。
性別がどちらであっても自分の気持ちが動かない自信はあるが、昴はどう思っているのか。
考えてもキリがないのだがどうしても考え出すと止まらない。
「大河」
「は、はいっ」
「ぼーっとするな、ほら客が待っているぞ」
「あ…」
昴に言われて目の前をみると若い男性がプレゼントを差し出している。
「ありがとうございます、これをどうぞ」
すぐに新次郎は営業スマイルを作り、男性からプレゼントを受け取るとお礼にバラの花を渡す。
男性は喜んでバラを受け取ると握手を求めてきたのでそれにも快く応じる。
…嬉しそうに去っていく背中が羨ましい。
好きな相手にプレゼントをしてプレゼントを貰って。
すごく簡単な事のはずなのに、何故だか今の新次郎には遠い世界のように感じられた。
「ありがとうございました〜」
「またね〜ん」
ワンペアの二人が扉を閉めて、長かったファンサービスが終わる。
朝から始めて既に夜の6時を回っている。
一応、途中に休憩は貰ったものの、ある意味舞台より大変かもしれない。
そんな事を考えつつ、新次郎はふーっと大きなため息をつく。
さっきまでは緊張してたせいかあんまり疲れてる感覚がなかったが、終わったという安堵からか一気に気が抜けた感じがする。
そしてもちろん忙しくて昴に話しかける暇すらないままこんな時間になってしまった。
「お疲れ様、大河くん。さぁ、着替えましょう」
「ラチェットさんもお疲れ様です。はい、わかりました」
「お疲れ、新次郎」
「可愛かったぞ、久しぶりのプチミント」
「しんじろー可愛かったぞーいししししー」
「ええ、本当の女の子みたいで…ふふふ」
新次郎の肩をぽんと叩いてラチェットやジェミニ達は楽屋へと消えてゆく。
大道具部屋を更衣室代わりに使っている新次郎も着替えに向かおうとした瞬間
「…大河」
裾を掴まれて振り向くと一人残っていた昴が新次郎をその切れ長の瞳で見つめていた。
…何だか睨まれているようなやたら真剣な面持ちだ。
また、自分は何か昴を怒らせるような事をしただろうか、と新次郎は不安になる。
だが、幸いというか辺りには誰も居ない。誘うなら今かもしれないと思い切って口を開こうとした時
「昴さん、あの…」
「昴は言った…大河はこの後の予定はあるか…と」
「え…それって」
思わず驚いて即座に返答を返さなかったのを昴は勘違いしたらしい。
「…もう、あるのかい?」
形の良い眉を顰めてもう一度聞き返す。
「いえ、ありません!ありませんよ!」
首を振りすぎて思わずかつらが取れたのも気にせずに新次郎は必死に首を振る。
「そうか…良かった。じゃあ…後で僕の部屋に来てくれないか」
「はい…!」
「それじゃあ…僕も着替えてくるよ」
新次郎の答えに満足したのか硬い表情を崩し、いつもの澄ました表情に戻るとくるりと踵を返し、昴は行ってしまう。
(もしかして…昴さんもぼくを誘おうと機会をうかがっていたのかな)
そう考えると途端に心に羽が生えたかのように軽くなる。
怒っていたように見えたのも照れ隠しだったのかもしれない。
良くも悪くも新次郎は落ち込みやすく立ち直りやすい前向きな性格なので、さっきまでが嘘のように幸せだった。
「よーし!早く着替えて帰るぞー」
プチミント姿のまま叫んで駆け出す。
着替えたら即行で家に帰ってシャワーを浴びてプレゼントを持って昴さんの部屋に行こう。
二人で一緒にディナーを楽しみながらゆっくり過ごして…。
プレゼント、昴さんは喜んでくれるだろうか…。
既に新次郎の頭の中はその事で一杯で、ジェミニも真っ青の妄想が繰り広げられていたが
そうは問屋がおろさなかった。
「ふぅ…さて、帰るか。その前に皆に挨拶をしないと」
最後に皆に挨拶をしようと入り口が半開きになっている楽屋に顔を出すと
「みんなお疲れ様〜。いやぁ、大好評のようでよかったよ。さぁ、打ち上げと行こうか」
「……」
サニーサイドの明るい声が聞こえてきた。
「あ、大河くんも来たんだね。これでみんな揃ったな」
「きゃふ〜ん。料理はもう用意してあるわよ〜。たくさん食べてね〜」
「みなさん、お疲れ様です。では、屋上へどうぞ」
…とてもじゃないが帰ると言える雰囲気ではない。
すがるように昴を見ると昴も肩を竦めながら目で「仕方ない」と言っている。
一刻も早く昴と二人きりになりたかったが、一体何時に帰れるのやら…と新次郎はこっそりため息をついた。
「新次郎!どうしたの、浮かない顔しちゃってさ」
「あ、ジェミニ…」
適当に料理をつまみながらシャンパングラスを片手にうろうろしていた所をジェミニに背中を叩かれる。
「疲れた?今日は本当立ちっぱなしだったもんねー。ボクも足がガクガクだよ」
「そうだね、朝からずっとだったもんね」
ジェミニと話しつつも頭の中はどうやってこの場を抜けるかばかりを考えて、目線は昴ばかり追っていた。
視線の先の昴は新次郎の視線に気付いているのかいないのか、ダイアナと歓談している。
(昴さんは…早く二人きりになりたくないのかな)
そう思っているのは自分だけなのだろうか。
昴の表情はいつも通りでそわそわしているのは自分だけに思えてくる。
かといってこの場を昴と二人で抜け出すいい手立ても考えてみたが、良い方法が思いつかない。
「…じゃあ、ボク飲み物取りにいってくるから」
「ああ…いってらっしゃい、ジェミニ」
手を振りながらジェミニはたたっと駆けていく。
それと入れ替わるようにしてダイアナと話していた昴がこちらに近づいてきた。
「大河。あまり食べていないようだが、食欲がないのかい?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど…」
約束の事などおくびにも出さずにっこりと昴は微笑む。
「そうか。ならいいんだが……っと」
昴の持っていたシャンパンのグラスが手から滑り、ぱしゃんと泡を弾かせて新次郎の服にかかった。
「うわっ…」
「おや、すまない。手が滑ってしまったようだ。悪いね」
昴はそう言ってすっとハンカチを出すと新次郎の服にあてる。
しかし、悪いね、と言ったその顔はかすかな笑みを浮かべていた。
(まさか…昴さん)
「新次郎、大丈夫かい?」
「すばるー、おっちょこちょいだなぁ、もう」
疑問を口に出すより前に、グラスが地面に倒れる音を聞いて周りの人々が集まってくる。
「あ、はい。ぼくは平気ですけど…」
「すまないな、大河。…着替えた方がいい、風邪を引くよ」
「…でも、着替えどうするの?」
「ボクのを貸してもいいけど、大河君には大きいだろうしねぇ」
「衣装なら、あるじゃないか。大河にぴったりなのが」
首を傾げる人々をよそに、昴は新次郎をからかう時特有の、婉然とした笑みを浮かべた。
「…じゃあ、ぼくにこの姿のまま帰れと…」
「ごめんなさいね、大河くん…。コートは貸してあげるから」
「大河さん。染みになるといけないからこれは洗っておきますよ。感謝してくださいね」
ラチェットや杏里の優しい言葉に礼を言う気にすらなれず
がっくりと肩を落とすとかつらから垂れる長い金髪が新次郎の顔を覆う。
やっと着替えたと思ったプチミントの衣装に再び逆戻りだ。
当然、かつらつきで…。
しかし、新次郎の着替えている間にお開きになったらしく
着替えて屋上に戻ろうとする前に既にほとんどの人間は下へ戻ってきていた。
「じゃあ、帰ります。お疲れ様でした」
「お疲れ様〜新次郎」
「襲われないようになー」
「バイバイ!しんじろー」
「大河さん…気をつけて帰ってくださいね」
サジータの台詞に、新次郎の背中に嫌な汗が流れる。
確かにこの格好だとちょっと自信がない…。
「そうだね…僕のせいだし、大河は僕が送っていくよ」
「へ?」
「不満かい?」
「いえ、お願いします…」
「じゃあ行こうか、大河」
新次郎は「どうしてそんなに嬉しそうなんですか昴さん…」という言葉を飲み込んで、昴と共に歩き出した。
「昴さん」
「何だい?」
「さっきのは…わざとだったんですか?」
「大河、見てご覧。星が綺麗だよ」
そう言って昴は夜空を見上げる。
しかし新次郎は膨れっ面のまま昴に詰め寄った。
「昴さん!」
「だって、一時でも早く、君と二人きりになりたかったからさ…」
昴は歩いていた足を止めて、新次郎の手をそっと握る。
潤んだ瞳で、新次郎を見つめながら。
「す、昴さん…」
予想もしてなかった昴の行動に、新次郎は思わず息を呑む。
昴の手は冷たかったが、その分かすかに感じるぬくもりがリアルに感じられた。
「…とでも言えば満足かい?」
一言前とはまるで別人のように冷たく言い放たれて、新次郎はぽかーんと昴を見る。
昴は新次郎の手を離し、扇子を口に当てながらくくっと笑った。
「ひ、ひどいですよ…本気にしたじゃないですか」
「さぁね。本気かもしれないよ。まぁ、僕も疲れてて早く帰りたかったしね」
昴の天邪鬼な態度は慣れているとはいえ、表情、声、仕草まで完璧に演じるのでいつも新次郎は騙されてしまう。
「さて、着いたよ。じゃあ僕は部屋に帰っているから…」
「あ、昴さん」
すぐ着替えるから中で待っててくれ、と言う暇も無く昴はすたすたと歩き出してしまった。
(…まぁ、昴さんなら襲われても撃退できるだろうけど…)
プチミント姿とはいえ男の自分だけが送ってもらうというのもなんだか心にひっかかるが。
(考えても仕方ない。えーい、とにかく早く着替えて昴さんの部屋に行くぞ!)
部屋に戻るとプチミントの衣装を脱いで軽くシャワーを浴びて普段着に着替える。
「…昴さん、喜んでくれるかな」
テーブルに置いたままのプレゼントに目をやり、手に取る。
そして昴のホテルに向かって一目散に駆け出す。
走りながら、夜空を見上げると夜空に輝く星々も自分を応援してくれるかのように瞬いていた。
「すいません、昴さんに会いに来たんですけど…」
「お待ちしておりました、九条様がお部屋でお待ちです」
ウォルターにエレベーターまで案内され、もう何度も訪れた昴の部屋まで向かう。
コンコン、とノックをすると中から足音が近づいてきてカチャリと扉が開いた。
「やぁ…早かったね」
「走ってきましたから…って、昴さん。その格好…」
扉の中から現れた昴は以前、新次郎がコートと悩んで結局両方プレゼントした薄紫のワンピース姿だった。
「せっかくだしと思って着替えたんだが…似合わないかい?とりあえず、中に入るといい」
「い、いえいえ!とっても似合ってます。…お邪魔します」
何だか妙に腰が低くなりながら新次郎は昴の部屋に入る。
昴の部屋はいつ来ても特有の香りがして、鼻の奥が痺れるような感じがする。
まるで昴に包まれているような。
「…?どうしたんだい、座りなよ」
しかし、入ったものの突っ立ったままの新次郎に首をかしげる昴に
「あ、昴さん…その、これ…ぼくからのプレゼントなんですけど、受け取ってください」
そう言って新次郎は後ろ手に持っていた花束を差し出した。
決して豪華ではないけれど、新次郎が心を込めて選んだプレゼントだった。
昴は予想もしていなかったのか、驚いたように目をぱちぱちさせている。
「……これを、僕に?」
「はい」
昴の目線がしばし新次郎と花束を交互に行き来し、やがて
「昴は言った…新次郎、とても嬉しい。ありがとう…と」
ほんのりと頬を桜色に染めておずおずと花束を受け取った。
「昴さん…」
その仕草に新次郎もほっとしたように頬を緩ませる。
こんな表情の昴が見れただけでも、必死に考えた甲斐があるというもの。
そしてふと気付いた。昴の自分を呼ぶ名が「大河」から「新次郎」に変わっている事を。
一時期、そう呼んでいてくれたときもあったのだが、「なんだか恥ずかしい」と言って
この頃は呼んでくれなかったのだ。
久しぶりにそう呼ばれると、何だかくすぐったいような気分になる。
でも、昴がそう呼んでくれるのが、とても嬉しかった。
「桔梗と薄紫のバラ…ブルームーンか。この時期によく手に入ったね」
愛おしそうに花束を見つめながら、昴は呟く。
「紐育で一番大きな花屋さんに行ったらあったんですよ。紐育は凄いですね」
「ふふ…どちらも紫色の花なのは僕をイメージして選んでくれたのかい?」
「はい、昴さんのイメージだったら紫色の花がいいかなと思って…」
それに、と新次郎は付け加える。
「桔梗の花は形が星に似ていたので…」
照れくさそうに言う新次郎に昴は穏やかに笑う。
「…新次郎。桔梗の花言葉は知っているかい?」
「え?わからないです、何なんですか?」
「それはね…」
昴は背伸びをして新次郎の耳元で囁く。
「変わらぬ愛」
「え…え…」
耳元で甘い吐息と共に囁かれて、新次郎は耳まで赤くなる。
そんな意味があるとは知らなかった。
「てっきり知っててくれたんだと思ったけど、違ったのか」
「す、すいません。そこまで考えてなくて」
「いや、いいよ。普通は知らないものだと思うし」
それに、と昴は付け加える。
「新次郎がくれるものなら、昴は何でも嬉しい」
くるり、と花束を手に昴はかろやかに回る。
まるで舞台の上のように。
「…ありがとう、大切にするよ。今、飲み物でも入れるから、座っててくれ」
そのまま足取り軽く昴は花を活けにいってしまう。
新次郎は昴の言葉に従ってソファの上に腰掛けた。
流石ロイヤルスィートのソファ。
いつ座ってもふかふかだ。
「…お待たせ、新次郎」
そう言ってやってきた昴の持つトレイの上にはシャンパンとグラスが二つ、そして見た目も麗しいチョコレートが乗っていた。
「す、昴さん…またシャンパンですか」
さきほどの事を思い出し、思わず座ったまま後ずさってしまう。
「あははは…今度はかけたりしないよ。着替えも無いしね」
「…やっぱりさっきはわざとだったんですね!」
「あ…」
カマをかけてみたのだが、昴は悪びれた様子もなくあっさりと白状する。
「まぁ、いいじゃないか。僕はプチミントとデートが出来て楽しかったよ」
「ううう…」
トレイを机の上に置くと、昴は新次郎の隣に座っててきぱきとシャンパンを開けて新次郎と自分の分を注ぐ。
「昴さん、これってチョコレートですよね。1つずつ色や形も違って綺麗ですね」
新次郎は昴からグラスを受け取りつつも、目の前に置かれたチョコレートに目が釘付けだった。
紐育に来てから何度かチョコレートは食べたことはあるが、こんなに見た目も華やかで一つずつ形も違うのは初めてだ。
形もお団子みたいのもあれば星型、ハート型などもあり、色も白いチョコやパウダーのかかったものまである。
「ああ、これかい?新次郎は食べたことが無かったか。これはトリュフチョコレートと言うんだよ」
「へえ…美味しそうですね」
「ふふ、興味を持ってくれて良かった。これが僕からのプレゼントだよ。ここのシェフが作ってくれたんだ」
興味津々の新次郎を嬉しそうに見つめながら昴は新次郎の前にグラスを手渡す。
「とりあえず乾杯しよう。…そうだね、今日のお疲れ様を兼ねて、そして恋人達の記念日に」
「あ、はい…乾杯、、昴さん」
「乾杯…新次郎」
カチン、と小気味良い音を立ててグラスがぶつかる。
そのまま一気に煽ったせいか、少しむせてしまった。
「ごほっ…げほっ…」
「大丈夫かい?そんなに一気に煽らなくてもいいだろうに…全く、君って奴は」
苦笑しながらも昴は優しく新次郎の背中をさすってくれる。
(うう…情けない)
昴の言った「恋人達の記念日」という言葉に頭に血が上りそうになったなどとは言えない。
密室に好きな人と二人きり。
…どうしても発想がそうなるのは仕方のない事とはいえ。
「…もう、大丈夫です。昴さん」
「そうかい?なら良いけれど」
「あ、チョコレート頂いてもいいですか」
必死に頭を切り替えようと話題を変える。
(平常心、平常心だ…新次郎)
「もちろんだよ。君のために用意したんだから」
そう言って昴は新次郎が手を出すより先に綺麗に並んだチョコレートの中から一つ選んでつまむと
「…さぁどうぞ、新次郎」
新次郎の口の前に差し出した。
「あ、ありがとうございます…」
まさか昴がそんなことまでしてくれるとは思ってもいなかったので
新次郎はやや上ずった台詞を返しながら躊躇いがちに口を開く。
チョコを口に入れる瞬間、舌先が昴の細く白い指を舐めるように触れた。
新次郎はぎょっとしたが昴は全く気にしていないようだ。
口の中でまるで淡雪のようにすぅっとチョコは溶けてしまう。
…後に残るのは昴の指の感触だけ。
チョコを食べさせて貰っているだけなのに何だか物凄く艶かしい気分がして
「味はどうだい?」
と昴に聞かれても
「美味しいです…」
と月並みな言葉しか浮かんでこない。
それどころか
「そうか、良かった。うん、相変わらずシェフの作るトリュフは美味しいな」
と昴がチョコつまんでいた指についたココアパウダーをぺろりと舐める姿を見てしまい、心臓が跳ね上がった。
(昴さんが…ぼくの唾液のついた指を…舐めた…)
キスは一度、二度くらいはしたことがないわけではないが
どうもそれ以上にいかがわしく感じるのはそろそろ酔ってきてるのだろうか、と新次郎は思った。
「…新次郎、顔が真っ赤だよ?酔ったかい?」
「い、いえいえ…大丈夫です」
「トリュフにはラムやキルシュなんかの洋酒も入っているからね。新次郎には…早かったかな」
足を組んで膝の上に頬杖をつきながら昴は挑発的な笑みを浮かべる。
「そんなことありません。このくらい、大丈夫です!」
「そうか。じゃあもう一つ食べるかい?」
そう言って再び昴の指がチョコをつまむ。
「い…いただきます」
恐る恐るチョコを口に含むがやっぱり昴の指を舐めてしまうことが気になって味どころではない。
そしてやっぱり昴は新次郎の唾液が気になるのかぺろりと指を舐める。
その度に新次郎は気が気ではない。
「ぼ、ぼくだけが食べるのも悪いですし、昴さんも食べませんか」
とりあえず気を逸らそうと今度は新次郎がチョコをつまんで昴の目の前に差し出す。
それも十分恥ずかしかったが、食べさせられるより食べさせる方がまだ恥ずかしくない気がした。
「…そうだね。…いや、僕はこれでいいよ…」
昴は、一瞬チョコに視線を落としたがすぐに新次郎に向き直り…その顔が近づいていたかと思うと
「……!?」
新次郎は唇を 舐 め ら れ た。
呆然とした新次郎の指からぽとりとチョコが落ちる。
「す、すすすすすすす昴さんっ!!」
「新次郎。チョコが落ちたぞ、勿体無い」
「わひゃあ!す、すいません」
慌ててしゃがんで机の下に落ちたチョコを拾う。
「すいません、せっかくぼくの為に用意してくれたチョコを…ぐわっ!」
そう言って机の下から出ようとした新次郎は、混乱のあまり机の角に頭をぶつけた。
目の前を星々が飛び交う。
「新次郎!」
「昴さ…ん…」
昴の声を遥か彼方から聞きながら、新次郎は意識を手放した…。
「……ん…」
「気がついたかい?新次郎」
眩しい光を手で遮りながら目を開けると自分を見下ろす昴の顔が見えた。
「昴さん…ぼくは…」
後頭部に鈍い痛みと柔らかい感触を感じながら自分の置かれている状況を思い起こす。
確か今日はバレンタインで、さっきまでファンサービスをシアターでやっていて。
その後、昴に誘われてホテルの部屋で二人でシャンパンを飲んだりチョコレートを食べたりして
昴にチョコの代わりにと唇を舐められたのに驚いて、落としたチョコを拾おうとしてテーブルの角に頭をぶつけたんだっけ…
「…わひゃあ!?」
そこまで思い出した所でいきなりひんやりとした昴の手が新次郎の額に触れた。
「…君は落としたトリュフを拾おうとしてテーブルの角に頭をぶつけて気を失っていたんだよ。全く…間抜けだな…」
その時の新次郎を思い出したのか、昴は苦笑を浮かべている。
「一応、ぶつけた所は確認したがそんなに大きなこぶにはなっていないようだけど…まだ痛むかい?」
「…え…ええと…ちょっとは。でも、大丈夫だと思います…って」
念のために痛む場所を自分で確認しようと手を伸ばして、自分の頭の下の柔らかい感触の正体に唖然とする。
(昴さんの太もも…じゃあぼくは…)
よくよく考えれば昴を真下から見上げる形なのだから当たり前なのだが、昴は新次郎を膝枕してくれていたらしい。
これが普段のスーツだったら生足だったんだよな…とか馬鹿な事が頭に浮かぶ。
今は自分がプレゼントした薄紫のワンピースを着ているので生足ではないが
スカート越しでも昴の足の温かさと柔らかさが十分伝わってきて、いつまでも触っていたい気分になる。
「どうした?やっぱり痛むのか?」
だが、頭に触れたまま動かない新次郎を心配して、昴が不安げに瞳を揺らす。
まさか、昴の足の感触にうっとりしていたなどとは言えない。
「…冷やした方がいいか。氷をとってくる…」
「い、いえ大丈夫です!!」
そう言って立ち上がろうとする昴を慌てて止める。
「…本当に?」
黒い瞳がじぃっと新次郎を覗き込む。
「はい、だから…もう少しこのままでもいいですか」
「……わかったよ」
懇願するかのように昴を見つめると、昴は軽くため息をつきつつも納得してくれたようだ。
細くて白い指が新次郎の髪を優しく撫でる。
(やっぱり…昴さんて母さんみたいだよなぁ)
以前、クリスマスにデートをしたときにベーグルの屑を払ってくれたときの事を思い出す。
未だに性別は教えてくれないし、どっちでもいい気持ちに変わりは無いが、こうしていると女性そのものだ。
…胸はぺったんこだけど、と心の中で思いながら。
「…新次郎。眠いなら僕のベッドを貸してあげるから、今日は泊まっていくかい?」
昴の温かい感触と髪を撫でられている安心感からか、いつの間にかうとうとしていたらしい。
囁くような昴の声で我に帰る。
「す、昴さん……」
ベッド、泊まる、という響きに動揺して声が上ずった。
「僕ならソファで眠るから平気だよ。明日は今日の振り替えで休みだし、頭の事もあるから…君が心配だしね」
…なんだ、そういうことか…と内心がっくりする。
てっきり……そういうことだと思ったのに。だが、『貸す』と言ったのだから当たり前か。
でも、昴が部屋に泊めてくれると言ってくれたのは初めてだ。
…もしかしたらもしかするかもしれない。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて…」
にやけそうな顔を必死に整えて努めて冷静に言う。
「でも、昴さんをソファに寝かせるわけにはいきませんよ。ぼくがソファでいいです」
「駄目だ。君は一応怪我人なんだから大人しくベッドで寝ろ」
昴はきっぱりと言い放つ。
「じゃあ二人で寝ましょうよ」
「な…」
冗談のつもりで言ってみる。…殴られるかもしれないが。
「……」
(あれ……?)
即座に却下されると思っていたのだが、昴は顎に手を当てて真剣に考え込んでいる。
やがて、長い思考の末にぽつりとこう呟いた。
「新次郎が…何もしないと約束してくれるなら…それでもいいよ」
「へっ!?」
「なんだ…その声は。僕は別にどっちでも構わないぞ」
新次郎の声にむっとして昴が口を尖らせる。
「す、すいません…てっきり却下されると思って」
うっかり本音を口にしてから後悔した。
「却下して欲しいなら遠慮なく却下するけど」
「昴さん!」
「ふふ…冗談だよ。じゃあもう夜も遅いし寝ようか」
「は…はい」
ゆっくりと上体を起こして立ち上がる。
「ベッドルームはこっちだよ」
昴も立ち上がり、すっと奥の扉を指差しながら歩き出す。新次郎もその後に続く。
…存在は知っていたが今まではその中に入れてもらったことはない。
心臓がドキドキする。
「……寝室を人に見られるのはあんまり好きじゃないんだけど、どうぞ…」
髪をかきあげながら昴は扉の中へ新次郎をいざなう。
薄暗い室内に一人で寝るには大きいベッドが現れる。
他にはサイドボードなどがちらちらあるくらいで昴らしいシンプルな部屋だった。
あれが、普段昴が寝ているベッドなのかと思うとやっぱり昴さんの匂いがするのだろうか、などと考えてしまう。
「服は…ウォルターに言ってホテルのを借りるか」
そう言ってベッドの横の受話器を取る昴を背後から抱きしめる。
「し、新次郎…」
「いいですよ…このままで。それよりせっかく二人きりなのに…誰にも邪魔されたくないです」
「……そうだな」
カチャリ、と受話器を置く音がして昴の手が新次郎の手に重なる。
ひんやりとしていた昴の手に、新次郎の熱が伝わってゆく。
お互いの体温を感じながら、チョコレートのように甘い時間がゆっくりと流れた。
「…新次郎。そろそろ放してくれないか」
どれくらいそうしていたのか、昴が腰に回された新次郎の手を解きながら呟く。
「……わかりました」
名残惜しいが仕方ない。
昴は新次郎から解放されるとベッドの掛け布団をめくりながらぽんぽん、とシーツを叩く。
「…どうぞ、新次郎」
昴に促されるままにベッドに腰掛ける。ソファもふわふわだったが、ベッドもふわふわだった。
「じゃあ僕は着替えてくるから先に寝ていていいよ」
「…行っちゃ嫌です」
咄嗟に昴の腕を掴んで、そのまま自分の方に抱き寄せる。
「ちょ……新次郎!!」
もつれあうようにして、ベッドに倒れこんだ。
「もう…我侭だな君は。服が皺になるだろう」
「いいですよ、それでも」
昴の髪が蝶の羽のようにひらめいて、何本かが新次郎の鼻をくすぐった。
(くすぐったい…でも、昴さんの香りがする)
思わず吸い込むように目を閉じる。
「仕方ないな…でもサンダルだけは脱がせてくれ」
そう言って昴が上体を起こす。もっと嗅いでいたかったのに、と残念な気持ちになりつつもとある好奇心が頭に浮かぶ。
「わかりました…でも、ぼくが脱がせてあげますよ」
「何を言って…」
自分も上体を起こしてサンダルのストラップに手をかけようとしていた昴の全身をひょいとベッドの上に乗せる。
体重の軽い昴なのでいとも簡単だった。
正座を崩したような座り方になってしまった昴の片足の膝を掴んでひょいと足を高く上げさせる。
「待っ…何をする!」
「何って…脱がせてあげるって言ったじゃないですか」
サンダルのストラップをパチンと外す。
わざと爪でなぞるようにして足の甲に触れると昴の身体がかすかに震え、吐息のような声が漏れた。
「…っ…新次郎、くすぐったい」
昴の抗議を無視しながら踵の部分を掴んでサンダルをぽとりとベッドの上に落とす。
白くて細い足の更に小さい足先が露になる。
普段は靴下にローファー姿なのでお目にかかることの出来ない爪先。
新次郎は躊躇うことなく、その足に舌を這わした。
「ばっ…馬鹿!何をしているんだ」
驚いた昴が新次郎の頭を押さえつけて必死に引き剥がそうとするが、新次郎に片足を上げさせられているので上手くいかない。
「や…やめ…っ…」
「昴さんもさっきぼくにやったじゃないですか」
「あれとは違うだろう…!」
舌先で足の爪先から踝に向かって舐めあげるようになぞる。
「…や……だ、だめだ…!」
尚も昴は抗議の声をあげるが、身体はびくびくと舌の動きに反応をする。
冗談でちょっとだけ舐めてみるつもりだったが、何だか楽しくなってきた。
そう思うと行動も自然と大胆になる。
足の指の間の部分を舌を丸めてちろちろと舐めてみると、昴の声がますます悩ましげになってきた。
「…んっ…やだ…しん…じろう…」
やだ、と言いながらも新次郎の頭を押さえていた手はもう力が抜けている。
「…ふぁ……ああ…っ」
爪先には神経が集まっているとは言うけれど。
(昴さん、足をこうされるの弱いのかな?それとも誰でもこんな風になるんだろうか)
目をぎゅっと閉じながら荒い息遣いの昴を見ながらそんな事を思う。
他の人にこんな事をしたこともないし、する気もないからわからないが。
一通り指の谷間を舐め終えて、今度は足の指を口に含んで、しゃぶるように舐めると高い声が上がった。
「…いや…ふぁぁぁぁ…!」
どうやらそこが一番弱いらしい。
「し…新次郎…そんな…汚い…から…だめ…だ…」
昴の泣きそうな声に指を口に含んだまま視線だけを向けると昴の目尻にはうっすら涙が浮かんでいた。
「汚くなんてないですよ。昴さんの足、とっても綺麗です」
一旦、口内から指を解放してほっとした表情の昴の爪先をぺろりと舐める。
「んっ…!!」
「気持ちいいですか?」
新次郎の行為に応えるようにぴんとはった足の裏をくすぐるように指先で弄ぶ。
「…ぅ…ち…違っ…」
「昴さん、足をこうされるの弱いんですね。知りませんでした。こんなに可愛い声で鳴いてくれるなんて」
「…単に…くすぐった…い…だけ…ん、あぁ…」
くすぐったいだけでこんな声をあげるんだ、と言いながら足の裏側も舐めあげる。
「誰の…誰のせいだ…!こんな…ん…んっ…」
やっていることだけを見たら自分が昴にかしずいているみたいなのに、立場は逆だな、と昴を見ながら思う。
でもついつい昴の可愛い声が聞けるのが嬉しくて、自分の行為がちょっと変態みたいなのも気にならなかった。
その後もたっぷりと昴の足先を舐めあげてさんざん甘い声を聞き、ふくらはぎ…太ももと行った所で
「…いい加減にしろ!!」
と昴の蹴りを食らって、行為は終了となった。
「…誰かのせいで足が唾液でべたべただ…!!」
「えへへ…すいません」
「すいませんじゃない!」
新次郎に延々と舐められてべたついた足をタオルで拭きながら昴は新次郎を睨みつけたまま呟く。
「君があんなことをする人間だとは思わなかった…君との付き合いを見直すべきかな」
「え…す、昴さん…」
くるりと背を向けられて不安になる。
「……とでも言えば少しは反省するかい」
「…へっ」
昴は新次郎の方へ向き直り、いつの間に手にしていたのか愛用の鉄扇でぺちりと新次郎の額を叩く。
「海よりも深く反省してくれ。今度、あんなことをしたらただじゃおかないからな…」
「でも、昴さん感じてましたよね。すっごい可愛い声だったなぁ」
「…新次郎。君には躾が必要みたいだな」
昴が鉄扇をパラリと開く。
「え…昴さん…じょ、冗談ですよ…」
「問答無用!九条昴…参る!」
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
昴の『躾』という名のお仕置きをたっぷり受けながら恋人達の記念日、バレンタイン・デーは過ぎていった…。
END