桜島公共交通資料館

桜島町営バスの歴史


黎明期
大正噴火後、昭和13年1月24日、西桜島村村議会でバス路線事業の提案が行われ、可決。 ”西桜島村大字松浦四七ノ二番地先より同村大字西道、藤野、武、赤生原、小池を経て同村大字横山六一の 三番地先に至る乗合自動車運輸事業を経営せむとす”(桜島町郷土誌より抜粋)。
同年2月24日鉄道大臣中島知久平に免許申請書提出
申請理由として、白浜周辺の本村海岸には防波堤等がなく、潮の干満において座礁、操船上の危険が伴う。 港の整備には莫大な資金が必要である。一方、白浜までの道路が開通し、貧弱な船舶での交通よりも バスの方が安上がりかつ安全であり、また、主要な航路となる鹿児島−袴腰に大型優秀船を投入でき、 経営資源を集中できる、といったことが挙げられています。
昭和14年6月29日には経営免許状が交付されます。そして9月6日には日産自動車にバスが 注文されます。注文書によれば、2599年式で1台2350円との記述が見られます。 10月25日に藤野1497番地に1132.16平米の車庫を作る願を提出。バスが走り始めた後の 11月10日に認可され、昭和15年2月20日に完成します。 10月27日には自動車運輸事業開始認可申請が行われ翌28日に認可されます。

袴腰から白浜までの海岸道路は昭和14年10月に完成し、 同年11月03日から村営バスが走り始めました。バスは3輌で常時2輌を使用し、予備が1輌。 定員は32人乗りが1輌と26人乗りが2輌でしたが、申請はすべて23人で出したそうです。 白浜までの免許申請をしていますが、道路が通じておらず、松浦までの運行となりました。 袴腰−長谷−藤野浜平−松浦の3区間制で1区が5銭の運賃だったそうです。

戦争と天災 波乱の10年
昭和12年に始まった日華事変によりガソリンが統制され、運行開始間もない村営バスも 木炭で走るようになりました。 袴腰から白浜までは海岸沿いに平坦な道ですので木炭燃料でもなんとか走行できたのでしょう。 戦時中なので観光は制限されており、バス、船ともに便数は半減。さらに割当の木炭も不足し、 便数が減ったために1台あたりのバスの利用者が大幅に増えました。一方、粗悪燃料である木炭に よって故障が続発し、稼働率が低下します。これを打開するために、昭和17年には2輌、 18年には1両が増強され、当初の2倍の六輌での運行となります。なお、当時、バスの修理は 現在の鹿児島中央駅近くの岩川自動車修理溶接という委託工場まで、村営船を介して 運んで行われていました。しかし民間委託では他の修理が入った際に迅速さに欠け、実際に 郵便や通学者の輸送に支障が出たため、昭和18年に工場関係者3名ともども工場を 村営バス専属として編入しています。

戦時中、鹿児島市は空襲を受けましたが、桜島地区では特に被害がありませんでした。 しかし、戦争末期には本土決戦に備えて桜島の南部は決戦場として陣地が構築されました。 バス路線は松浦−武登山口に短縮され、鹿児島からの船も袴腰ではなく、武へと航路が変わりました。 国内初のカーフェリーとして16年以来就航していた第一桜島丸も徴用され、自由に動かせなくなりました。 昭和20年8月、ようやく戦争が終わりましたが、 苦難はそれからでした。昭和20年9月17日の枕崎台風では村営船のみならず、陸上も 大被害を受け、道路は寸断。その間、昭和21年に 桜島が大噴火しています。一部区間の復旧は昭和23年ですが、全線の復旧は昭和25年まで 待たないといけませんでした。 運休中とはいえ、世の中は変動していますので運賃変更の認可申請などは行われています。 昭和21年2月には一区間40銭に改定されます。

そんななか昭和24年12月16日の村議会で松浦から白浜まで1.7キロと港から南回りの 袴腰−赤水4.6キロの路線延長が可決され、申請されます。これにより、西桜島村、現在の 桜島町の海岸沿いの道路は、ほぼ全線にわたって村営バスが走るようになります。 昭和25年1月18日にほぼ4年半ぶりにバスは運行再開されましたが、運賃は10円均一となりました。 運行再開に先立ち、車庫で眠っていた3両を廃車し、新たに2台を購入しています。 昭和26年4月27日に白浜、5月11日には赤水までの路線延長が運輸省に認可されています。 ところが、運行再開もわずか半年余りで、10月14日に襲ったルース台風により被害が発生。 袴腰から武登山口までが不通になってしまいます。不通区間、利用客は徒歩で連絡したそうです。 復旧は翌昭和27年2月で、そのときに路線が少し延長され、白浜までバスが走るようになりました。

一周道路の完成と三州自動車、国鉄バスとの暗闘
一周道路の計画が具体化し、建設へ動き出した昭和20年代末期。昭和29年、岩崎グループの傘下となった 三州自動車というバス会社により横山(袴腰)から黒神の桜島口を経て垂水市の海潟までのバス路線の免許申請が行われました。 一周道路が完成した昭和32年9月には村営バスが走っていない白浜−桜島口の路線も申請しています。 一周道路への路線をめぐらせようとしていた西桜島村においては競合路線となるばかりではなく、 岩崎グループでは桜島を基点として薩摩半島方面への航路開設を目論んでいたこともあって、 海上でもライバルとなる可能性が出てきました。 村民の足を村が保証できないなどということがあろうか、と当時の村長、議長や農協長をはじめ重鎮が こぞって陸運局に足を運び反対陳情をした結果、路線開設を阻止した、とのことです。

なお、西桜島村では一周道路が完成した翌月の 昭和32年9月18日に、三州自動車に遅れること約2週間で一周路線の認可申請をしています。 しかし、その後、一周路線を競合して申請していた国鉄バスの九州地方自動車事務所とは 昭和33年1月9日に協定が結ばれ、 海潟−黒神口と、国鉄バス桜島線となる黒神口から南回り経由の袴腰までについては国鉄が、 袴腰から赤水・北回りでの黒神口までは西桜島村がバス路線を開設することを相互に認めることに なりました。

時代は下りにくだってほぼ40年。 1999年には国鉄バスの後身であるJR九州バスが撤退したのに代わって三州自動車の後身の 鹿児島交通が桜島線を運行することになりました。まことに因縁浅からぬ3者の仲、というべきでしょうか。

さてさて、話を一周道路に戻しましょう。 北半分の現在の県道部分が一周に向けて短区間ずつとはいえ、少しずつ黒神口に向かって延びていくと バス路線も少しずつそれに従って伸ばされていきます。 昭和29年11月には東白浜まで350mの道路が完成し、27日には白浜終点(のちの東白浜)までの 路線延長を申請。 30年6月21日には免許がおり、8月1日から運行を開始しています。

昭和32年には2.1キロの道路が完成し、8月1日に高免までの免許と運賃を申請しています。 当時、全線均一10円でしたが、白浜−高免の区間は10円の特別運賃を上乗せしています。 33年12月23日にこれらは認可され、昭和34年1月15日より高免までの運転がはじまりました。 そのときに白浜終点のバス停は東白浜と改称されています。

昭和35年になりますが、一周路線の申請をしたあと一向に動きがないのにしびれを切らし、 陳情書を運輸大臣に提出しています。その翌々日1月17日には塩屋ヶ元までの臨時路線として 一時的需要の申請をしています。12月15日から翌年の2月末日までの臨時路線として 認可され、12月25日から運行を開始しました。 申請は昭和36年中に4回ほど延長のために行われ、37年には念願の黒神口までの経営免許がおりました。 そして昭和37年2月から黒神口までの路線バスが運転開始となり、一般的な乗合路線としての 路線網はこのとき完成したのです。

観光への期待と現実。財政再建団体へ
戦後の混乱も収まり人々の生活が安定してくるといよいよ観光への期待も高まってきます。 村では昭和29年4月に一般貸切旅客運送業免許を申請し、11月10日付けで許可されています。 利用客数の伸びも見込んで、西桜島村では昭和31年に5台、32年にも5台、33年には3台、 35年には3台、37年には8台、38年には5台というように短期間で29台ものバスを購入しました。

それに先立ち、昭和27年には引ノ平までの登山道路を作り始めました。昭和34年1月19日には 赤生原から引ノ平を経由し、赤水に至る定期観光バスの路線延長の免許を申請します。 しかし、噴火口から2キロ程度の引ノ平展望台は危険であるという理由で不受理となり、 その理由書に従って警察や大学をはじめとした関係機関と協議して危険のないことを確認し、 指摘部分の手直しを行って修正申請を出します。昭和34年3月18日に晴れて引ノ平までの 経営免許が出て、20日より登山バスが運転されます。また、桜島を一周する定期観光バスは、それに先立ち3月4日から 運転開始となりました。

ところが、翌昭和35年1月19日。桜島が爆発し、1m大の石、というか岩が引ノ平にも 飛んできます。即日運行を取りやめ、20日には3日間の休止申請を出しますが、一向に 活動は収まらず、8月31日まで数次におよぶ休止申請を出しました。 その一方で、引ノ平の北よりの湯ノ平台地にバスを走らせることにし、2月5日には 気象台や警察、陸運局などと現地視察し、安全を確認しました。 3月7日には路線を申請し、4月23日には一時的需要として臨時路線としての免許を申請しています。 4月29日から6月末日までの期限付き免許がおり、後日7月4日には本免許がおりて正式な路線と なりました。

当初、湯ノ平まで往復していた定期観光バスですが、同じ風景を2度見るのはいかがなものか、 ということもあり、赤水まで抜ける6.6キロの道路をつくりました。昭和37年1月12日に 免許を申請します。この道路、桜島の噴火で農地がやられて 生業を失った人たちの失業対策のため、人力で作られたので作るのに3年もかかったそうです。 そして5月1日、”湯ノ平溶岩めぐり”観光コースとして1日9便の運行が開始されました。 当時、桜島には毎日千人の観光客が入り、うち三割は観光バスを利用したそうです。 そんなフル稼働状態だったのに収入の伸び以上に支出は増え赤字状態が続きました。 船舶事業が好調のため、その利益から補助が出て食いつなぐ状態が続きまして、業務内容は バス運転手なのに船舶事業部の職員とみなして、船舶側から人件費を支出させる、といった ウルトラCも行われたそうです。その手法はやはり反発が強く、昭和46年にはきちんと分けた方法に 戻ったとのことです。

財政再建団体に指定され、昭和49年度から昭和53年度までその指定下に入っていました。 その途中、昭和51年4月1日には職員の手当をめぐって 労使間の折り合いがつかず、あとにも先にもなかったストライキが行われバスが運休しました。 当時は全国的にストライキが多発していましたが、こんな町でもやるのか、と地元の話題になったそうです。 また、人件費削減のもと、昭和48年3月31日には袴腰−赤水病院前のワンマン化申請が 行われ、10月に認められます。一方、北回りでも昭和51年1月に袴腰−白浜において 同様の申請がなされ、3月24日に認められます。しかし、人員削減への反発は強く、 昭和52年3月12日になってようやくワンマンバスの運行が開始されました。 しかし、まだまだ見通しの悪い路線が残っており、昭和57年になってもなお、白浜から黒神口にかけては 車掌が乗務していたとのことです。現在は道路の改良が進み、バスも用途にしたがって小型・中型も 販売されて事業者も買いやすくなったことから、全線でワンマン運転が行われています。


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