桜島公共交通資料館

船舶の歴史


昭和5年頃の鹿児島−桜島の渡し船は客船が14隻、貨客船2〜30隻程度が運行してましたが、 いづれも民間によるものでした。生鮮品を桜島から鹿児島の市場に一刻も早く届けるため、 船主たちは海上で激しい競争を繰り広げたそうです。しかし、黒神から二俣、松浦、西道などに 立ち寄ってから鹿児島に向かうため、一番遠いところからだと鹿児島市まで2時間以上もかかっていました。 昭和4年、村では村営で鹿児島市との航路を営むことを考え、昭和5年の村議会で認められます。 当初、民間船の買収を企てましたが、船主たちの激しい抵抗を受けて失敗します。

そこで昭和5年8月に昭和丸という船を作り、村の産業組合によって運行を開始しました。 これによって客船は15隻になり、競争は激化しました。その最中にあって、産業組合は 運行時間、運賃、航海規則の遵守や奉仕精神の徹底を図ることで生き残りをかけました。 一方、民間側は結束も弱く、客引き合戦も激しく目に余るものがあり、激しい批判にさらされたようです。 そのうち2人の船主が村へ船を売却する旨申し出たのを足がかりにして村営船が始まりました。 (民間が駄目で村の船がいかに素晴らしく、まわりを動かしたか、という記述はちょっと眉唾ものだと 思いますが、町が作った郷土誌ですのでこの程度の偏りは許容範囲だと思います。) 船の運行開始は昭和9年12月1日です。

当時、島民の主たる交通手段は船で、前述のとおり集落間の往来も 船によって行われていたので、鹿児島市との間だけでなく、集落間の航路も存在しました。 現在の桜島フェリー路線以外が全廃となるのは昭和51年です。 航路開設の主たる目的は島在住の子弟に教育を受けさせるための交通手段を村が責任を持って整備する、ということで 桜島噴火時の住民の避難手段を確保するため、ということもあったようです。 現在でもその目的は維持されており、鹿児島市への通学率は73%と高い水準を示し (母集団は示されず。割合からみて高校生以上の数値か)各集落には避難港が整備され、 非常時にはフェリーで 避難する体制が整っています。

近年は幸いにして噴火時の避難目的として使われたことはありませんが、 平成5年の集中豪雨の際は鹿児島市竜ヶ水地区に孤立した住民を救出するために出動したり、 毎年1月に行われる島内避難訓練では実際に避難港へ出向くなどの活躍が見られます。

内海のため比較的波は穏やかですが、さすがに台風が接近すると欠航します。古くは昭和20年の 枕崎台風で保有船舶3隻すべてが沈没したり、昭和26年のルース台風でも沈没の被害が出ていますが、 その後はそのような被害はなく、現在は6隻の船が活躍しています。

桜島フェリーは鹿児島市と一番近い袴腰(はかまごし)地区の 桜島港を結んでいます。4.8キロを13分、輸送料金も安く、鹿児島湾を陸路で回るより 2時間以上も短縮することもあって、昭和40年代になって鹿児島港の南に位置する鴨池港から垂水までの 垂水フェリーが就航するまでは薩摩大隅間の連絡に非常に大きな役割を果たしていました。 昭和16年には国内初のカーフェリーである第一桜島丸が就航しています。また、 同年には鹿児島港・袴腰港で自動車搭載用岸壁の工事も始まり、18年9月に竣工します。 それまでは船にトラックごとクレーンで積み下ろしをしていました。昭和37年には水中翼船を 購入して観光兼高速航路用として投入したり、国鉄の宇高航路の船(第2宇高丸)を 購入したり、と色々と話題がありました。垂水フェリー開通後は 一時的に40%も落ち込みますが、昭和59年からの24時間運航や納涼船などで乗り切っています。 近年はバリアフリー船など新しい船も就航しています。

現在一日176便、年間利用者520万人、自動車160万台。地方ローカル航路ではなく、一大幹線として 国道224号線の一部とみなしたほうがよさそうです。実際に国道224号線は桜島を南半周したあと、 本土に渡り、国道58号線の本土区間(0.7キロ)と完全に重複して終わっています。

また、フェリーではなく、行政連絡船(6.5トン)という位置づけですが、桜島から 桜島北東部沖合い1.2キロに位置する新島(燃島=桜島町)に 桜島北部の浦之前港(鹿児島市)から船が出ております。これは昭和51年3月26日に桜島の集落間を結ぶ 航路が廃止になった際、赤字を覚悟で町が残した航路です。 赤字を覚悟、という理由は岩崎グループへの対策です。地元で権利を手放すときに 航路の権利が1つでも岩崎グループに渡るのを防ぐためにあえて引き継いだ、という記述が郷土誌にあります。 よほど郷土誌で嫌われていますな、いわさき。しかし、4月28日には航路も廃止となり、 桜島町役場において、通学船(スクールボート)として運行し始めた、とのことです。 新島とは江戸時代は安永8年の噴火で 海底が持ち上がって出来た周囲3キロほどの歴史の新しい島のことです。船は1日2往復、 島の人口は12人ですが、 キャンプ場などがあります。昭和40年代には80人ほどの人口があり明治以降小学校も設置されていました。

人口60万都市の秘境となりそうなのでここで触れました。 町営バスとの連絡も良いようなので自動車を使わなくてもいけそうです。


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