バスに触れる前にまず、桜島の一周道路について述べたいと思います。道路がないとバスは走れません。 現在の一周道路の内訳は桜島港と黒神口付近を境界に北半が県道26号、南半が国道224号です。
大正3年1月12日に起きた大正大噴火により、西南西方向に流れ出た溶岩は村役場のあった横村地区や 烏島を埋め、桜島港の南側に広大な溶岩原を形成します。一方、東方向に流れ出た溶岩は、北東部の 黒神地区や南東部の有村地区を飲み込み、2月1日午後2時ごろまでに幅360mの瀬戸海峡を埋め尽くし、 大隅半島と陸続きとなります。
桜島港付近から南を回る道路は折からの不況対策もあり、溶岩が流れた部分を 中心に工事が行われました。袴腰−赤水の現在の県道224号線の路線が、 ”溶岩道路”の名称で昭和11年までに完成しました。 以前から赤水−有村は2mに満たない細い道が集落伝いに出来ており、 袴腰−有村を自動車で通行できるようになりました(地図上の表記はさておき、 実際は通行可能だったようです)。また、紀元2600年記念事業の一環として霧島神宮周辺の道路整備と 並行して有村−桜島口の開削も行われ、佐多街道(のちのR220)と接続、大隅から 自動車での通行が可能になりました。(付記:有村−桜島口の建設が昭和15年に間に合うように 行われたのかは不明です。昭和12年の県の道路地図にすでに掲載されていることもあり、 いつ供用が開始されたのかは詳らかではありません。地図は主要道路として袴腰−赤水・有村−桜島口が 描かれております。赤水−有村は破線で描かれているので拡幅工事でも予定されていたんでしょうか)。
一方、北周りの現在の県道は昭和6年から横山(袴腰)から白浜にかけての9集落を結ぶ道路として 建設が決まり、昭和7年に着工。横山から白浜の手前の松浦地区まで昭和14年10月に完成しました。 しかし、白浜から先は現在より内陸の標高100m付近に獣道のような細い道が黒神地区までありましたが、 大隅半島との接続部付近はあまりにも多い溶岩の量で手付かずとなっていました。そのまま 終戦を迎えますが、昭和21年には再び大噴火があり、溶岩が北東部の黒神地区、南東部の有村地区の海に 流れ込んでおり、一部区間を不通にしています。 また、戦前まで、海岸付近の住民は漁業を営んでいた関係で集落相互の連絡といえば、 船でしたが、そろそろ陸上交通の時代に入っています。
こうした事情を踏まえ、県では各港へ通じる避難用の道路して一周道路を 作ることを考えます。 昭和25年の第7回参議院本会議で道路の復旧および一周道路建設の請願をした記録がみられます。 その後、桜島の南回りの道路は、昭和28年に2級国道(通称第1期3桁国道。全国で101〜244号を指定。) として指定されていますが、 開設当時、国道224号線は桜島口から有村付近まで昭和溶岩流のため不通区間を含んでいました。
不通区間の建設はすぐには始まらなかったようですが、昭和30年から現在まで続く噴火活動が始まったのを 機に、陸上自衛隊の当時の第8混成団第8施設大隊(昭和38年より第8師団。 司令部:北熊本。工事は国分駐屯地より出動)によって工事が始められました。 引渡式が行われたのは昭和32年8月16日です。一方、同じく桜島港から北周り道路は昭和26年度から5ヵ年計画で 延長が開始され、やはり自衛隊の力を借りて、第一期工事では昭和31年8月に 桜島口から黒神集落までわずか1ヶ月で開削し、翌32年6月からの第二期工事では2ヶ月で 高免までつなげ、8月10日には完成しました。昭和33年11月に県道26号として認定されています(県告示773号)。建設当時は幅員6mとのことでしたが、 土石流対策工事などと関連し、現在の国道224号線は全区間で2車線となっています。 また、県道26号線も部分部分で改良が加えられて走行しやすくなっていますが、白浜から黒神口にかけて 一部自動車の離合が困難な場所が残されています。
赤水−袴腰の2キロ余を一直線に駆け抜ける”溶岩直線道路(桜島避難道路)”は昭和48年に着工、 昭和51年11月8日に完成し、従来海側を通っていた 国道は県道224号線として残されました。なお、国道224号線は昭和48年にそれまで桜島島内のみだったのが、 鹿児島市内の0.7キロを追加されています。そして昭和52年にはそれまで鹿児島国道工事事務所の 管轄だったのが大隅事務所へと移管されました。 一方県道26号線は昭和57年4月1日より主要県道に昇格し、それまでの早崎−桜島港線と呼ばれていたのが 黒神−桜島港線となりました。
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