九州地区:過去の写真

普通列車編



快速錦江

桜島の噴煙をかたどった独特のデザインで知られた快速列車で、95年に にちりんの宮崎−西鹿児島を分離した特急きりしまに吸収統合される形で 姿を消しました。そもそもそのルーツを紐解くと快速”いぶすき”になってしまうのが 不思議なところで、60年に登場した際は鹿児島−山川の準急列車だったそうです。 翌年には宮崎への延長が行われ、宮崎−指宿・山川の運転となりました。 その後急行列車となり、日豊本線宮崎−鹿児島電化開業翌年の80年には 全列車西鹿児島打ち切りとなり、同時に快速格下げ、全列車電車化の道を辿りました。 このヘッドマークは国鉄最後の86年11月改正から取り付けられたもので、 国鉄色との組み合わせはごく短期間でした。それを知ってか知らずか、 九州新幹線開業の翌日2004年3月14日に運転されたリバイバル列車”急行錦江2号”では ヘッドマークは用意されませんでした。(というか、急行電車として走ったのは たった1年あるかどうかなわけで、この企画自体...というのは、な・し・よ、という方向で。 日南も走ったことですし。)。
92年11月鹿児島


快速いぶすき

急行錦江を分離して生まれた列車。キハ58−65−28の3連が基本で、ときとして キハ52などが先頭に立つこともありました。 当時は停車駅が南鹿児島・谷山・坂之上・喜入・指宿のみの 俊足列車でキハ200が快速なのはなとして投入された当時と同じく指宿まで49分で走破する 列車も存在しました。92年7月15日の改正で、鹿児島本線に787系が投入されるのと同時に キハ200となり、5年8ヶ月にわたって掲出していたヘッドマークも消えました。


赤い快速なのはな

92年7月に登場した快速なのはなは97年春のいぶすきキャンペーンまでは赤いままでした。 このとき在籍する4編成全てが黄色に塗り替えられました。 その後、福北ゆたか線電化後のキハ200の転配でトップナンバー車の割当を受け、2002年3月 改正から赤塗装が復活しました。しかし、トップナンバーはわずか1年で大分へ転出。 さらに香椎線からキハ200の再配分が行われた2003年3月改正で500番台3本が鹿児島へ転入。 これも2年近く赤いカラーリングで走行しており、運用の都合で快速に入ることもありましたが、 2005年4月を最後に全車両が黄色になり、見られなくなりました。
93年春谷山−宇宿


全部今は見られません

キハ200、キハ58らくだ、DD16の並びショットです。キハ200の左にはキハ65が見えます。
92年7月鹿児島運転所


715系

北陸、東北に続いて寝台電車の583系を改造して普通電車にした車両が九州にも登場しました。 713系の量産車、つまり財布の都合でケチな電車にはなったけど長崎・佐世保線系統の 電車化は推進します、という位置づけなのかどうか、主たる職場は長崎本線系統だったと 記憶しています。もっとも、数年で置き換え予定、というのは大幅に伸びて98年3月26日まで 活躍が続くわけです。数年で、という文句といい、安っぽい内容といい、決戦輸送電車として 登場したモハ63みたいな感じもありますが (ロクサンは”勝つまでの辛抱(=数年で勝ったらマトモなのを入れる)” というふれこみだったと...。国鉄が数年で財政的に好転する兆しがあったのかと小一時間....)。


キハ53−100

キハ45系列の両運転台車両でなおかつツインエンジンという車両はついに11両しか 世に出なかったそうですが、そのうちの2両、しかも他に類を見ない長大編成対応の キハ53-100番台が鹿児島に配置されました。2000年くらいからずぅぅぅぅぅっと、実車についての ウンチクをあちこちで垂れるだけで、”こいつはいつになったら模型にする気だ?”と 思った方もおられるかもしれませんが、晴れて2005年5月に模型化を果たしました。 いやはや長かった....。というのはさておき、山野線をはじめとした北薩地方の路線は 現在でこそことごとく消えていますが、海に近い鹿児島本線からループ線や スイッチバックに代表されるように、種々の手段を講じながら山地をのぼっていました。 この路線向けとしてキハ52に引き続いて、このキハ53が導入されたようです。 晩年は肥薩線系統に投入され、キハ52と組みながら走行していました。写真のような 全車両2エンジン車両と今のキハ47と、どちらが山岳路線で運転しやすいのだろうか、と ちょっと思ってしまいます。


475系大目玉

475系自体はまだ残っていますが、デカライトの車両は01年秋のクハ455-301を最後に 全車両シールドビーム化されているのでなくなっています。
92年10月西鹿児島付近


伊集院−西鹿児島を走るキハ40

鹿児島交通のキハ300の再来ではあるまいに、という感じですが、 朝ラッシュ輸送に電車だけでなく気動車が投入される状態が、00年ごろから起こりました。 当初はキハ58が投入されていたのですが、のちにこのようにキハ40も走ることになりました。
03年春西鹿児島付近


日南スジを引き継いだ客レ

93年春の急行日南廃止後、ドリームにちりんは列車自体南宮崎打ち切りとなり、 西鹿児島へ顔を出すことはなくなりましたが、そのスジを引き継ぐように 12系のみ連結された客車列車が運転されるようになりました。画像のように ED76牽引の2324レがそれです(西鹿児島を夜8時過ぎに出る上りも存在)。 1年ほどの暫定措置で、のちに気動車列車へ置き換えられましたが、現在はそのスジには 電車列車がのっており、気動車列車はその前後に移動しています(日南線運用の気動車を 鹿児島工場とやりとりするので日豊線に気動車列車の設定自体は必須)。


475系電車

交直流両用急行型電車として登場しました。 2007年3月改正で全編成が運用を離れ、役目を終えました。昭和60年の 改正で、ローカル電車の短編成化が行われ、これに対応するために 165系のクハやサロなどからの改造車も編入されバラエティ豊かな彩りを 見せています。2004年春の九州新幹線暫定開業に先立って筑豊篠栗鉄道事業部に 配置された817系1000番台に押し出される形で817系基本番台が鹿児島へ転入。 余った475系が廃車になりました。一部は大分に転出して457系を置き換え、 最後は813系1000番台などにおされる形で鹿児島に出戻り。2007年春には 813系1100番台、817系1100番台の増備により配置転換が完了しました。 写真は改造されたクハ455−600を先頭とした編成。


キハ58

昭和38年に登場した急行用気動車です。 従来の車両に比べ、幅を広げ、裾を絞った形で大型化し、当時としては 快適な乗り心地を提供しました。しかし、現在では、 老朽化し、コイルバネ台車を履いているせいもあり(空気バネ台車の 方が乗り心地はよい)あまり評判はよくありません。 本来の急行の任務は解かれていますので、現在は、多くの車両が 近郊輸送にまわり、従来のデッキつきオールボックスシートから 扉付近の座席をロングシートとして、乗降しやすいように改造されています。


ありがとう20世紀号ヘッドマーク

直方の汽車倶楽部という団体が 蒸気機関車59647号機の保存を記念して運転した貸切列車(直方−鳥栖・筑豊本線経由)です。 復路でこのヘッドマークが取り付けられました。50系客車列車の久しぶりの(最後の?) 冷水越えということで沿線には多くのファンが集まりました。列車は50系客車の6連、 DD51−1001、1003の重連で車内ではアトラクションもありました。お誘いがかかった私も 乗車したわけでしてとても楽しい一日だったことを今も憶えております。
2000年12月直方


自社線連絡

戻る。


PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル