九州地区:過去の写真

特急列車編



485系国鉄色ボンネットの有明

92年7月改正前に車両転配の関係で走ったボンネット編成です。 クハ481-603〜クロ481-2
92年7月鹿児島総合車両所


485系RED EXPRESS有明

92〜93年ごろまではRED EXPRESS+従来のヘッドマーク、というパターンも 存在しました。RED EXPRESS自体はKAMOME、MIDORIに遅れて91年3月 改正から登場した車両で、以降廃車予定の車両を除いて急速に”赤化”が 進められました。鹿児島では92年7月に、はやくも有明号が撤退しているので この組み合わせが見られたのはわずか1年4ヶ月ということになります。 なお、この撮影場所は西鹿児島付近の指宿枕崎線との合流地点そば、 武小学校前の第一乾燥場前踏切ですが、2005年になってフェンスが立てられてしまい、 現在では撮影がしにくくなっています。道路と分岐の間の三角地帯に 無断駐車が絶えなかったようです。
92年5月西鹿児島付近


783系原色車

783系の原色車です。88年暮れから95年ごろまで見られた塗装です。
93年2月上熊本付近


787系つばめ1次車

92年7月に鹿児島本線系統に9両編成を基本に登場した787系電車です。 幾多もの変遷を経て現在は鹿児島を離れ、新八代から北でリレーつばめと して活躍中です。
92年11月西鹿児島付近


リニューアル後の787系

つばめ号誕生10年を経た2002年から登場したリニューアル車両です。 従来下半分に塗られていたゴシックグレーを上半分に上げ、さらに黒に近い塗料で 下半分を塗ったもので、重厚感を増しています。 現在はリレーつばめのロゴをつけて活躍中。さらに北九州に転属してから 一色塗装に変更されているので、これまた期間としては短かった姿となりました。
02年秋西鹿児島付近


485系ハウステンボス

92年3月改正でオランダ村特急の後任として臨時特急として登場した列車。 当初は赤一色でしたが、すぐにパッチワーク塗りに変更されています。 2000年春まで見られた姿です。783系の増備で日豊本線系統に移っていた クモハ485にも余裕が出来て5編成が塗り替えられて投入されました。 当初は3両編成。のちにサハを挟み込んで4連となっています。
94年4月博多


485系きりしま

2本だけあった4連のきりしま塗装です。三角形を構成するように 上手く作られたロゴなど色々と特徴的な姿でした。
2000年3月鹿児島総合車両所


KIRISHIMAロゴをつぶされた3連の485系

00年3月改正で日豊本線のうち、流動の少ない佐伯−延岡を分断して 宮崎県内の特急として登場したひゅうがにも485系が充当されることに なりました。このためロゴをカラーフィルムで隠して 走らせることになりました。00年8月下旬になって Dk-3が初めてパッチワークカラーの専用色をまとって 出場しました。
00年10月 鹿児島総合車両所


ロゴを消された元ハウステンボスの485系

こちらもロゴを消された上で投入された485系です。前日まで ハウステンボスとして活躍していた485系を一夜にして転属、 翌朝より充当を行ったため、塗替えが間に合わずにこのような事態となった ようです。
01年春 西鹿児島付近


出区するにちりん485系

現在でもやろうと思えばやれるようですが、滅多に出番がない、 在来ヘッドマーク付きのにちりんです。当時は鹿児島から日豊本線経由で 博多へ向かっていました。
92年11月 鹿児島総合車両所


キハ185 特急ゆふ

登場時のカラーリングで、細部変更がのちに行われた後、 01年ごろからリニューアル工事で前面が赤一色になりました。
94年4月二日市


485系 赤いみどり

何かと物議をかもし出して”議論されるくらい鉄道に目を向けてもらわないと ダメだ”というデザイナーの目論見どおりになってしまった赤いカラーの MIDORI EXPRESSです。90年の登場で、KAMOMEとほぼ同時でした。 画像の列車、2両目に車内販売準備室がありますが、モハユニットだけは RED EXPRESSです。地上ホームの佐世保駅もすでに記憶の一ページに なってしまいました。
00年2月 佐世保


Dm-17あらためDk-13

2000年を記念して国鉄色に塗り替えられた485系は 2本あり、1本が鹿児島所属のDk-2、もう1本が写真のDm-17でした。 どちらも前面の飾り帯が取り付けられず、”眉がない人の顔みたいだ”との 評価もありました。(200番台で貫通扉がついた際の名残で、非貫通の300番台 以降も引き継がれたもの。200番台本来の用途は貫通扉がスライドする際のガイドレール。) 01年にはソニック増発で、福北間も20分ヘッド化するために885系2次車が投入された 関係で485系が南福岡を後にし、鹿児島へ転入してきました(Dk-13と改称)。しばらくはこの塗装で 活躍していましたが、次の入場時に赤く塗り戻されてしまいました。 本来は5連ですが、GW中のために波動用のREDを挟んで7連で運用されています。 当時、にちりんの受け持ちが鹿児島になったために宮崎への出し入れのために きりしま7・14号がクモハ485-0組み込みの5両編成となっていました。 ですので、きりしまに乗客が多かったわけではなく、あくまで運用の都合でこんなに 長い編成が走ったわけです。
01年5月西鹿児島


シーボルトとキハ65シーサイドライナー

シーボルトは99年春から2003年春まで運転された大村線の特急列車。車両はキハ183系1000番台です。 この車両は、国鉄末期に各地で実践が行われた”いかに乗り換えずに直接目的地まで行くか” という命題の 一つの答えであると言えます。というのは動力協調装置を搭載し電車の加速力を 損なうことなくかつ非電化の目的地へ行くこと、が達成されたわけで、この思想は JR北海道のキハ201+731系電車が引き継いでいます。JR西日本の雷鳥+ゆぅトピア和倉の場合、 気動車側は無動力で2両編成がぶら下がっていましたが、わざわざ協調装置を搭載したのは 九州ならではの事情があります。すなわち雷鳥編成は当時でも10両編成が基本で 6M4Tで〜和倉の2両がぶら下がってもMT1:1.一方、九州の有明号は4M1Tでオランダ村特急3連で ギリギリ、4連となるとMT比率が逆転してしまいます。このために某誌ではわざわざ ゆぅトピア和倉を引き合いに出してまで、関係者が動力協調装置の重要性を強調していました。 しかし、機構として熟すにはあまりにも時間が短かったようで、”オランダ村号と併結する場合は、 ドア開閉スイッチを完全に停止するまで操作しないでください。車両故障の原因となります。”というような 注意書きが485系側の運転席にに張られるなど現場でなだめながら使用する側面もあったようです。 また、L特急の増発に次ぐ増発ですでに鹿児島本線の線路容量に余裕がなく、新たな スジの設定がやりにくい、といった側面もあったようです。というわけで、昭和63年以降、 幾多の変遷を経て、現在はゆふDXとして活躍しています。シーサイドライナーは 2001年秋の福北ゆたか線電化に伴ってキハ66が長崎に大挙移動してきたことに伴って 姿を消しました。キハ65は現在、九州にはTORO−Q用1両が残存しています。


西鹿児島−大分ににちりん70/71号運転

2001年7月4日に大分のビッグアイで開催されたサッカー:キリンカップ(日本対ユーゴスラビア) への輸送列車として西鹿児島−大分に787系7連による臨時列車が運転されました。 列車の幕は”臨時|大分”となっており、にちりん幕がなかったのかどうなのか分かりませんが、 貴重なシーンを展開しました。列車は2〜7号車が全席自由席となっており、 ダイヤは西鹿児島1030−大分1637、71号が大分2319−西鹿児島翌443となっていました。同様の 列車はワールドカップ絡みでも運転されたため、予行演習ともいえました。 なお、当日の試合は日本が1−0で勝ちました。写真は西鹿児島駅での発車案内表示。 列車はガラガラでしたが、宮崎あたりからはそこそこの乗車があったそうです。
2001年7月4日西鹿児島


787系の5両編成?!

2001年6月10日に鹿児島県内に鉄道が開業してから100年を迎えたことから さわやかライナーが485系となって以来、久しぶりに鹿児島−隼人で 787系6連の特急”寿百歳”号(全席指定=229名が乗車)が運転されました。 この際、寿百歳とは別に、787系を公開するために、とりもなおさず検査上がりの車両を持ってきたのが この車両で電動車ユニットにサハシを入れただけの5連でした。 編成はクハ786-2 モハ787-15 サハシ787-8 モハ786-302 クロハ787-8で構成。 やはり787系は人気が高く、運転室まで公開されるとあって、多くの人が訪れました。
2001年6月10日隼人

自社線連絡

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