物語と文化

まずはじめに断らなければならないことがある。
こういった事を論ずるときは原文をここに掲載し、そこから抜粋をして論ずべきことなのだが、それをしていると、あまりにも膨大な量となってしまうので、原文、内容はそのときに多少の説明を加えることにした。メインで語られることは『竹取物語』を中心とし、『万葉集 巻第十六 三七九一-三八〇二(以下、万葉集)』と『今昔物語集 巻第三十一 竹取ノ翁、見付ケシ女ノ児ヲ養ヘル語 第三十三(以下今昔物語)』の二作品、計三作品を比較しながら『竹取物語』の文学性に触れていきたいと考えている。
なぜ私が『竹取物語』に注目をしたかも合わせて説明しておく必要があるだろう。
『竹取物語』とは皆さんご存じのかぐや姫の登場する話であり、絵本の世界では「かぐや姫」という題で出版されている。なので、私たちが子供の頃から慣れ親しんできた物語であり、まず知らない人はいないだろうという所から、そして、『竹取物語』に類似する物語、説話はそれこそ星の数ほどもあるのだが、なぜ現代まで語り継がれているのは『竹取物語』であり、かぐや姫なのかと言うことに疑問を持ったからである。



○万葉集の竹取の翁○

万葉集にはかぐや姫という人物は出てこないのだが、そのかわりに九人の天女が出てくる。ある時、竹取の翁(おそらく竹を取り、何かに加工することによって生業としている老人でそれなりの身分がある人間と思われる)が、いつものように竹林に入ったとき、九人の天女に遭遇し、歌を詠む。そして天女はそれに対して歌を返すというものになっている。
その歌は『竹取物語』の内容とは直接的な関係はないと考えられるが、形式上『竹取物語』に大いに関係しているのは、竹林の中で摩訶不思議な光景に遭遇すると言うことである。そして、遭遇するのは九人の天女なわけだが、ここで「なぜ九人なのか」ということに疑問をもってもらいたいのである。
これら、天女が登場する羽衣説話とよばれる種類のもので、最も代表的な作品は『奈具社』ではないだろうか。しかし、ここに登場する天女は九人ではなく八人となっている。
『奈具社』は古事記裏書、元々集巻七、塵袋第一福神などに採録された丹後國風土記の逸文で、風土記は和銅六(七一三)年に元明天皇の詔によって諸国で作られた地誌である。
そこで思い出してもらいたいのは和銅五(七一二)年に完成した古事記の中にに登場する日本武尊(ヤマトタケルノミコトである。)そして彼に退治された怪物、ヤマタノオロチは、その名の通り、八つの頭を持つ蛇という意味であるが、この「八」は個数ではない。ということを知っておいてもらいたい。この場合の「八」という数字はあくまでも頭の数がとても多いということをいいたいのである。つまりヤマタノオロチについて、私は「八つの頭を持つ蛇」といったが、そうではなくて、「頭がたくさんある蛇」という意味になるのである。
それを念頭に置きながら成立期が非常に近いものに収められている『奈具社』の八人の天女というのも、実際に八人いるわけではなく、たくさん天女がいるという意味で使われている可能性もあるのではないだろうか。また、後に「ただ、衣裳なき女娘一人留まりて」とあるのも、たくさんいた天女の中の一人だけがそこに残ったと考えることができるのである。しかしそれから十年ほど経った帝王編年記の養老七(七二三)年に記載された『伊香小江』では、天女が八人出てくるのには変わりないが、本文を読み進めていくと「その兄七人は天上に飛び昇るに」とあり、ここでは8-7=1という引き算が成立しているのである。すなわち、「八」は数字の八として使われているのである。そして万葉集にもちゃんと九首の歌が返歌としてあるので、天女は「たくさん」といったアバウトなものでなく、きちんと九人いたことは容易に想像できる。
それではなぜ十数年の間に数字の使われ方が変化したのだろうか。古事記は日本国がどのようにしてできあがったか、天皇の歴史はどういったものであったか、という日本の創世神話的なものであり、伝説としての要素が非常に高い。しかし、和歌というものは神ではなく人が造り出したもので、人の心情、情景をより細かく表現していくことに視点を置かれたのであろう。そしてそのためには数字はアバウトなものではなく、より具体的にということになった結果、数字の使用法を変えていった要素の一つとなっているのだろう。



○求婚者の違い及びその物語性○

数字について明らかにしなければならないことは尽きない。竹取物語と今昔物語集ではかぐや姫に求婚する人数が違い、さらには難題として出す品々にも違いがある。この段ではそれについて少し詳しく述べたい。
竹取物語が物語として高く評価を得ているのにはそれなりの理由がある。物語は、伝説とはまた異なった、実際はありもしない話をあたかもどこかで見てきたかのように書かれているのは当然であり、いわゆる創作である。その物語の世界は作者のものであり、どんな世界を作り、どのように展開させていくかは全て作者次第であるから、まるでルールがないように思われる。しかし、作者がルール無用で物語を進めていけば、どうにもならないことになってしまうのだ。そこで、作者は自らを抑制するためにルールを作るのである。このルール設定の善し悪しが物語の善し悪しを左右するのである。この竹取物語においては、その設定が絶妙なのである。
求婚者に関して言えば、皇子が二人、それに左大臣、大納言、中納言と続き、最後には帝がそれに加わる。帝を除いて言っても、他の五人は当時の貴族社会の身分の上位五名であることには違いない。そして、読者の心理としては、この身分の高い五人、さらには地上の最高権力者である帝まで出てくるのだから、動かないものはないだろうと考えるのである。しかし作者はその読者の心理を見事に裏切り何事にも動じない女性、かぐや姫をつくりだしているのである。読者を裏切るということは、この物語を書いている時点で、「読者はここでこう思うはずだ」という予想をあらかじめ作者は見ていないといけない。ここに作者の読みの深さを感じるのである。また、難題どして出される品々は天竺、蓬莱、唐土、日本、宮中にあるもので、舞台がそれぞれ違い、文字だけの物語の中で巧みに場所を使い分けていくことにより、映像として空間的なイマジネーションが読者の頭の中に広がるのである。すなわち読者に想像させ、個々の映像を思い浮かべさせることによってそれぞれの竹取物語を造り出すことに成功しているのである。
色々な資料に目を通していると「竹取物語に出てくる数字は三日、三ヶ月、三年など三にこだわっているようだが、求婚者の人数はなぜ五人なのだろうか」といったものにであう。私はその理由としてさきにも書いたように身分の高い人間が五人もでて来れば動かないものはなく、その威力は半端ではない。ということを表現し、それでも動かない女性の心情を書き表すためだと思うのだ。それに作者はそれほど数字にこだわっているとは私は思わない。それは場面によって翁の年齢が変わっているということである。人の同情をひくときには「翁年七十に余りぬ。今日とも明日とも知らず」と言い、あるときには「翁、今年は五十ばかりなれども」と書かれた部分があるのだ。これをもとに考えれば、作者は数字にこだわり、数を統一させることに意識を置いて書いたのではなく、この場面にはこういう数字を使えば効果があるだろうということを考えて計画的ではあるが、実に自然に物語を展開させていったのは作者の最大のテクニックといえないだろうか。
一方、今昔物語のでは全てが「三」に統一されている。おそらく、今昔物語は「物語」とはなっているがジャンル分けすると『宇治拾遺物語』などに代表される説話集である。つまり今昔物語集に記載されている話は伝説として人から人へと伝わったもので、こうして書き留められる以前は口承であったはずである。そのときに求婚者は五人いて、何を取りに行って、どんな嘘をついて、ということはもちろん必要をなくしてしまう。物語を進めていくうえで、必要最低限の情報さえあればいいわけだから、求婚者が三人に減らされたのも『竹取物語』の世界観を保ちながらより伝えやすくするための結果ではないだろうか。それは今日における絵本の「桃太郎」や「浦島太郎」につながるものがあると思われる。また、それ以外にも「三」という数字には何か仏教的な意味があり何かのシンボリズムを表しているのかもしれないが、宗教的なものを語り始めると私が止まらなくなってしまうかもしれないので、今回は、あえてそれに触れないでおく。



○月の扱いについて○

さて、私が一番関心を持つのは、物語中での月の扱われ方である。月というものは人間にとって一番身近で親しみやすい天体であるために取り扱いやすい材料であると思う。しかし、日(太陽)の神である「天照大神」の存在は文献を読むといくらでも確認できるのに対し、月の神、「月読命」は、古事記の記紀神話ではほとんど活躍せず、存在すらも容易に確認しがたいものである。では人間は(日本人は)夜空を眺め、月を見上げるようになったのだろうか。
日本の物の名前の特徴としてあげられるのは、一つのものでも二つ以上の呼び名を持つ物が多いということである。例えば、英語でライスと言えば、調理後のいわゆる白ご飯のことを指すと同時に、調理前の米、稲の状態をも指すのである。しかし、日本は調理する前と後で呼び方が違うのである。それと同様に、一口に「月」と言っても、新月、満月、三日月など数多くの呼び名が存在する。そこで月の名について調べてみた。そこで明確に説明してくれている文献を見付けたので、『日本史小百科5暦』 昭和五十三年三月二十日発行 広瀬秀雄・著 近藤出版社をそれぞれで参照してもらいたい。この本の中には誰もが知らないような月の名前が紹介されていたり「満月のことを望月といい、三五月と表記される」と言ったようなほとんどの人が知っていることまである。そしてその月の呼び名は数多くあることが知らされるのである。ここmでの抜群なネーミングセンスでもって名付けられているということは、古くから日本人は夜空を見上げて月を注意深く観察していたとしか言いようがない。それではなぜ、『竹取物語』の中で「月の顔見るは、忌むこと」とあるのだろうか?
英語のルーナティック(Lunatic)は、ラテン語の月というのルーナから派生した語で、「精神異常者」という意味らしい。そもそもの意味は「月に影響された」というものであり、古代西洋では、月が発する霊気を受ければ発狂するという信仰があり、その代表的な物が「狼男」である。日本においても「月」の語源は「尽き」であるという説が存在する。太陽とは違い、輝きが尽きる時期があり、それをみて時間の単位としている。その「尽き」が「命が尽きる」などに使われているのでイメージがマイナス方向へと行くのである。それにより「月の顔見るは、忌むこと」と言うのも分かる。それではなぜかぐや姫の故郷を不吉とされる月にしたのであろうか。
満月の輝きは生を、新月の闇は死を象徴するため、月の満ち欠けは人間の生死に等しい。そのため人々は月を仰ぐたびに、人の世のあわれを思ったのである。かぐや姫は人の世のあわれ、愛、悲しみ、喜びをさとるためにやってきたのではないだろうか?すなわり、それをさとることがかぐや姫にとって償いになると考えることができるのである。



○月と望郷○

今まで月についてのべてきたのだが、残念なことに月がでてくるのは『竹取物語』だけである。万葉集には月はもちろん、かぐや姫の影も形もなく、今昔物語集には「空」とあるだけで「月」とは表記されていない。やはりこれには仏教的な意味があるとしか考えられないのだが、文学的に考察してみると、説話形態であるため、余計な情報は削られ物語としての楽しみはなくなり、羽衣説話や天人女房譚の特色が色濃く出ているのである。では、『竹取物語』にのみ「月」が使われているのはなぜだろうか。
『竹取物語』の成立は未だに不明であるが、数々の説がある。その中でも最も確率の高い推定を研究史に刻んでいるのは貞観後半(八六九)から延喜前半(九〇五)の間である。仮にこの時期竹取物語が成立したと考えると、九世紀末ということになる。
平安時代の日本は、中国の長安をモデルに國と文化を形成していった。もちろんその中には文学も含まれる。その方法としてあげられるのは遣唐使で、その結果、中国の文学が日本に輸入されてきたと考えられる。私はそのとき、漢文の授業を受けていたので、頭に浮かんだのは杜甫であった。杜甫の漢詩には月を見上げ故郷を思うといったものがある。次に紹介するのは、七五六年秋、安禄山の反乱軍に捕らえられ、長安で軟禁状態に合ったときの作で、疎開させた妻子を思って作られた五言律詩がある。遠くにある身内のことを思うと言う点では一致するが、「故郷を思う」といった感覚とはやはり違う。杜甫の漢詩を調べていくうちに「あの明るい月の光は故郷で照らしていたあの明るさと一緒だ」という内容の詩にいきついた。もし、この詩が遣唐使によって平安期の日本に持ち込まれたとするなら、月を見て故郷にを思うという表現や心境は竹取物語に関係してくる内容も同時に持ち込まれているはずである。そこで、私は杜甫が日本文学に与えた影響という視点から考察してみたところ、少々の問題があった。彼が世に認めはじめられたのは八一〇年頃の唐中期であり、詩壇の確立は北宋の時代である。となると、竹取物語の仮の成立期からややずれているのである。さらに日本で杜甫の漢詩が鑑賞されるようになったのは鎌倉時代からであったらしいので、竹取物語に杜甫の漢詩が与えた影響は無いと考えるほか無い。
それでは、中国文化を取り入れる事が盛んであった時代で、最も人気があり、最も多くの人に読まれた詩人を考えると白居易(白楽天)であろう。彼の作品である『長恨歌』は、日本古典文学として千年もの間愛され、読まれ続けてきた『源氏物語』の参考にもなったほどである。そんな彼の漢詩を集めた物が『白氏文集』であるが、これみついては、仁徳天皇の承和五(八三八)年に、太宰少弐藤原武守が唐船を検査していて、白楽天の文集を手に入れ、朝廷に献上したと藤原基経の「文徳実録」に記されている。朝廷に献上されてから、朝廷貴族達が読むまで普及するのに数年から十数年かかったと考えても、竹取物語の仮の成立期とさほどかわりはないのである。その白氏文集の中に月を見上げ、故郷を思うものがあったのだ。

八月十五夜禁中
獨直對月憶元九
銀臺金闕夕沈沈
獨宿相思在翰林
三五夜中新月色
二千里外故人心
渚宮東面煙波冷
浴殿西頭鐘漏深
猶恐清光不同見
江陸卑濕足秋陰

まさしくこれである。月を見上げると故郷を思うという感覚は当時の日本人にとって新鮮な感情だったのではないだろうか。これが人々の間で親しまれ、読まれていたとするなら、おそらく竹取物語の作者もそれなりの身分があっただろうから、知っていたはずである。そして、月を見て故郷を思わせるかぐや姫を描くのと同時に、月そのものをかぐや姫の故郷にしてしまうところに作者のユーモアを感じないわけにはいかないのである。
つまり、竹取物語は羽衣説話や天人女房譚、その他諸説を寄せ集め、総合しただけのものではなく、物語性に視点を定め、読者のことを第一に考え、計算しつくされた計画でもって見事に表現され、人々の生活や思想をも取り込み、さらには当時の流行であった白楽天の発想に独自のアイデアを盛り込んだ作品なのである。


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