Cinamon Roast・・・
小さな街の小さな商店街は
夜も10時過ぎになるとほとんどの店が閉まっている。
威勢のいい魚屋も愛想のない肉屋ものんびりした八百屋も
今は軒並みシャッターを下ろし、静かに夜明けを待っている。
当然、買い物客などいるわけもない。
街灯の他に灯りもない、ほの暗い商店街を通り抜けていくのは
駅での最終バスに乗り損ねて
とぼとぼと家路をたどる仕事帰りのサラリーマンか
逆に駅前のちょっとした飲屋街まで出かけていく
浮かれた足取りの若者たちか
あるいは
商店街のはずれを目指している俺だけだった。
小さな街の小さな商店街の、そのまた端っこにある小さな喫茶店。
そこが、俺の目指す場所だった。
店の前に立ち、看板を見上げる。
「香住」。それが、店の名前だった。
Midium Roast・・・
ドアを押し開けるとカランカランとドアベルが鳴り
カウンターの向こうから柔らかな声と共に、ひょい、と女の顔が覗く。
「いらっしゃいませ・・・義兄さん」
店内には、俺以外には客はいない。
「こんばんは・・・まだいいかな?」
店の中を見回した俺の視線に気づき、彼女は苦笑いを浮かべる。
「ついさっきまで、他のお客さんもいたのよ」
その言葉が本当かどうか確かめようもないが
このほとんど人通りのない時間まで店を開けているのは
俺がほぼ毎日この時間にここを訪れるからなのかもしれない。
「悪いね、いつも」
「いいえ、義兄さんは通ってくれる、大事なお客さんですもの」
いつものように俺はカウンターに座り
やがていつものように湯気を立てるコーヒーカップが差し出される。
「おまちどうさま」
そして、いつもの味のコーヒーを飲みながら、俺は黙ったまま時を過ごす。
High Roast・・・
「香住」は店の名前であると同時に、彼女の名前でもある。
安藤香住。2年前まで、俺の弟の妻だった女性だ。
弟の文昭は、すでにいない。
念願だったこの店を持ってすぐに、彼女と店を残して、ガンでこの世を去った。
一人でやっていくのは大変だろうからと
ずいぶん周りには手放すことを薦められたようだが
「この店が二人の夢だから」と言って
以来一人で−時折手伝いはあるようだが−経営している。
「今日ね・・・」
珍しく、彼女の方から話しかけてくる。
「うん?」
「鹿島の叔母さんが・・・お見合い話持ってきたの」
「・・・いいことじゃないか」
そう。まだ25になったばかりで、いくらでも新しいスタートを切れる。
いつまでも、終わった夢にしがみついていることはないのだ。
City Roast・・・
「・・・本当に、そう思う?」
「ああ・・・まだ若いんだし、君さえよければ・・・いいことだと思うよ」
「そう・・・ねえ、義兄さん・・・私のコーヒー、どう思う?」
「え・・・?」
正直、そう詳しいわけではないが
以前に文昭が入れていたコーヒーとは少し違う。
「うまいと思うよ。文昭のとは、ちょっと違うけど。豆変えたの?」
彼女は微笑みながら、ゆっくりと首を横に振る。
「豆やブレンドは同じ」
入れているのはサイフォンで変わっていないし・・・
「挽き方が違うのかな?」
「挽き方も同じ。変えてるのは、豆の煎り方なのよ」
「へえ・・・」
「フレンチ・ローストって煎り方なの。普通ウチはミディアム・ローストなんだけど」
「普通は、って・・・?」
「このコーヒーは、義兄さん専用」
Full City Roast・・・
そういえば、カップもいつも店で出す物とは違う。
少し小ぶりで、深めのカップだ。
「光栄だな・・・俺の好みに合わせてわざわざ?」
「ん・・・そんなとこ、かな」
なぜか・・・彼女の表情が寂しげで
その愁いを帯びた顔に年甲斐もなく胸が躍る。
・・・ダメだ。彼女は、弟の妻だった女性だ。
それに、見合い話も来てるっていうじゃないか。
秘めた想いは・・・秘めたままがいい。
「・・・ごちそうさま」
勘定もそこそこに、そそくさと店を出る。
逃げるように。禁断の想いから逃げるように。
店を出る寸前に振り返ったときにかいま見た
彼女の目元に光る物から逃げるように。
俺は一人、暗い夜道を急いだ。
急いだところで、誰も待つ者のいない我が家へ。
French Roast・・・
暗澹とした思いで家に帰る。
妻と別れてから、家はただ眠るだけの場所になっていた。
風呂に入り、少しだけ酒を飲み、後は寝るだけという段になって
ふと、さっきのコーヒーの話が気になった。
久しぶりにPCに電源をいれ、ネットに繋ぐ。
彼女が言った「フレンチ・ロースト」の意味を調べる。
答えは、すぐに出てきた。
「コーヒー豆の煎り方。深煎り」
・・・これは俺専用だ、と彼女は言った。
深い意味があるのだろうか。
深煎り。深入り。俺だけ。
俺に・・・もっと深く関わって欲しいと?
見合い話が来たと言った後、わざわざコーヒーの違いを話したのは何故?
・・・わからない。彼女の本当の気持ちは俺にはわからない。
はっきりしてるのは、この胸のときめきと
明日は店に花束を持っていこうという決心だけ。
(Seena◆Rion/soCysさん 作)