さよなら。 前編予兆は確かにあったのだ。 ただ、彼はいつものように笑って「何でもない」って言ったから。 その言葉を信じていた。信じていたかった。 本当は誰もが心のどこかで気付いていて、でも口に出来なかった。 いつか来るであろうその日のことを。 誰もが恐れたその時が訪れたのは沈む夕焼けと同じくらい大地が血で真っ赤に染まった時のこと。 無色の上陸。帝国軍の全滅。そして覚醒。 彼を真の覚醒へと誘うには十分過ぎるほどの筋書きが用意され、まるで全てが初めから決まっていたかのように残酷な結末への扉は開いた。 最悪な結末を避ける方法は一つしかなかった。 どれだけの危険を伴おうとも守りたかったものがあったから。 廻りだした運命を止める他の方法を持たなかったから。 だから全てを覚悟してそれぞれの想いを胸に決戦の地へと赴いた。 それが全て裏目に出るとは思いもせずに。 「みんながどうしたか…知ってるんだね?」 集いの泉に独り取り残されたベルフラウにレックスは問うた。 澄んだ瞳に見つめられ、ベルフラウは言葉に詰る。 嘘を吐くことを許さない厳しさがそこにはあった。 吐いたところで、すぐに嘘だと見抜く力強さがあった。 だから、話してしまったのだ。話さなければ良かった。後で何回も後悔した。 だって、話してしまえば彼がどんな行動を取るかなんて最初から分かっていたのだから。 そしてやっぱり彼は予想に違わぬ行動を取ろうとした。 だから事情を聞いて仲間のもとへと向かうと言うレックスに抱きつき、ベルフラウは泣き叫んだ。 それしかできなかったから。 そうすることでしか無力な自分は彼を止める術を持たなかったから。 「やだ!やだやだっ!やだやだやだやだやだイヤあぁぁぁっ!!」 普段子供っぽい態度を取る事を嫌う彼女が初めて見せた年相応の子供の姿だった。 自分でも情けなくてみっともないと思った。 けれど彼を止めるためなら自分のちっぽけなプライドなんて簡単に捨てられた。 だって、このまま行かせてしまったっらこの人は――。 「行かせてあげなさい」 駄々をこねるベルフラウを止めるかのようにかけられた声は思いがけない人物からのものだった。 「メイメイさん…」 レックスはその場に現れた凛とした声の主の名を呼んだ。 メイメイは何時もとは全く違う厳しい表情で二人に近づく。 「みんなは遺跡の中で戦ってるわ。急がないと、本当に間に合わなくなる」 「!」 「余計なこと言わないで!」 メイメイの言葉に弾かれたようにベルフラウの荒い声が上がった。 今は本音を隠す余裕もない。 自分の中の激情が言葉となる。 「止めても無駄なことは貴方が、一番よくわかってるでしょ?」 「……」 メイメイの言葉に、納得しかけて止めた。 そんな言葉で諦めきれるほど簡単な想いなら初めからこんなにみっともなく縋りついたりしない。 彼を困らせていることは十分に分かってはいたけど、ベルフラウは諦めることなどできなかった。 「それでもっ、私は貴方を行かせたくない! やなの…貴方を、失いたくないの…失いたくないのよぉ……」 唇がわなわなと震える。涙で声が掠れるのが分かった。 どんなに自分勝手でも失いたくなかった。 彼を救う方法が他にあるならどんなことをしてでも見つけていた。 けれど、そんなものは思いつかなかったから。 ただ、こうして泣いて縋るしか彼を繋ぎとめる方法を知らなかったから。 ベルフラウは泣きながらただひたすらにその体を抱きしめた。 背中にまで廻らない短い腕が、小さな手が歯痒かった。 彼を抱きしめきれないのが寂しくて切なくて胸が締め付けられる。 「ベルフラウ…」 名前を呼ばれる。頬に手が寄せられ、白く長い指が涙を掬うのが分かった。 いつも自分を守ってくれた手に雫が落ちる。 「ごめん、俺は君を泣かせてばかりいるね…」 声が近くて、思わず俯いた顔を上げればすぐ目の前に顔があって心臓が止まるかと思った。 少し困ったように笑うその表情はいつもと変わらない。 レックスはベルフラウの顔を覗き込んだまま言葉を続ける。 「不甲斐無い先生でごめん。けど、これだけは覚えてて。俺は、君の先生をやれて良かった。幸せだった。君の教師であれたことを誇りに思うよ。これだけはどれだけ時が経っても絶対に変わらない」 涙を拭っていた手が背中へと廻される。嘘みたいに強く抱きしめられる。 その腕の力強さに息が止まりそうになる。 触れた体温から鼓動が聞こえてくる気がした。 体が少しだけ震えたけど、どちらのものか分からなかった。 抱きしめられていたから表情は分からなかったけど泣いているのかもしれなかった。 「沢山の優しい言葉をありがとう。温かい思い出を、笑顔をくれてありがとう。もし君が忘れても俺は絶対に忘れないから。だから…」 「何、言ってますの…」 だって、それはまるで永遠の別れのような。 その言葉に聡く「さよなら」の響きを感じてベルフラウは思わず顔を覗き込む。 吐息が近い。心臓と心臓がくっついたのかと思うくらいの距離。 触れ合う体温。響く鼓動。 それは、あまりに突然すぎて目を閉じるのも忘れた。 一瞬だけ、本当に一瞬だけ唇が触れて離れていく。 けれど、そんなことされたの初めてだったから。 息が詰って、抱きしめる力が抜ける。 触れた唇がそっと耳元に寄せられる。そして囁く。 「ごめん」 「な…!」 言いかけた言葉が止まる。 鈍い衝撃が体に走り、意識が遠のく。 鳩尾に拳を叩き入れられたのだとこの時は知る由もない。 支える力がなくなって、重力に遵い倒れていく体を力強い腕が支えた。 自分の意志とは関係なく薄れていく意識の中、優しい声が響く。 「さよなら」 その残酷な言葉を最後にベルフラウの意識は途絶える。 ガクリと力なく自分の腕に凭れ掛かるベルフラウの小さな体をレックスは抱き上げるとメイメイの方へと向かう。 「…行くの?」 「ええ。もう、決めましたから。…この子を、お願いします」 そう言ってベルフラウの体をメイメイに渡す。 抱き上げてみて、初めてその軽さや温かさに気付く。 ずっと、側にいて自分を支えてくれた温もり。 それが如何に大切だったかということを今更実感する。 「行けばどうなるかは自分でも分かってるんでしょう?…それでも、行くの?」 メイメイの低く真剣な声が響く。その顔はどこか泣きそうにも見える。 メイメイの言葉にレックスはゆっくり首を縦に振ると口を開く。 「…自分の体のことは自分が一番よく分かってますから。たぶん、もう一度でも剣を抜けば俺は俺でなくなる。今でも、少しずつ剣が俺の精神を蝕んでいて、体が人じゃないものに変わりつつあるのも分かってるんです」 いつもと変わらない笑みで、吐き出すその言葉は重い真実。 変えようのない残酷な現実。 それを打ち消したくて、変わらぬ声音でメイメイは言葉を続ける。 「今ならまだ、その剣を捨ててこの子を連れて逃げることもできるのよ? この島でのことを全て忘れて、生きていくことだってできるのよ?」 問うたところで答えは変わらないだろうけど。 それでも、確定された運命を変える切っ掛けを作りたかった。 そんな言葉に返ってきたのはやっぱり変わらぬ笑み。 「…たぶん、この子のことを考えるならそれが一番利口なやり方なんでしょうね。でも逃げ出すのは簡単だけど、きっとそれは最低な道だと思うから…だからやっぱり行きます。頭では分かってても感情を理性で押し殺すことができるくらい俺は大人にはなれないから…せめて自分にできる精一杯のことをしてきます」 その瞳に覚悟の色を見てメイメイは言葉を止める。 もう確定された運命は止められない。 誰がどんな言葉をかけたとしても止まらない。 だからせめて見届けようと思った。 この島の行く末と、一人の青年の運命を。 「メイメイさん。最後に、俺の我侭聞いてもらえますか?」 「いいわよ。この際だから何でも言っちゃいなさいな」 メイメイは笑って答える。もう自分は傍観者になるしかないから。 だからせめて最後まで笑っていようと決めた。 きっと、この人は泣き顔より笑顔が好きだろうから。 そんなメイメイにレックスも普段と変わらない苦笑いを返す。 「もし俺が帰って来なかったら、この子に約束を守れなくてゴメンって伝えて貰えますか? 剣の力なんかに負けたくないけど、でももしどうしようもなくなった時、きっと俺はこの子の元に戻ってはこれないと思うから。だからゴメンって。それと側にいてくれてありがとうって。そして、俺の事は忘れて欲しいって伝えて下さい」 一瞬だけ苦笑いを浮かべていた顔が歪む。 涙を堪えたのかもしれなかったがまたすぐに笑みの形を作ったからよく分からなかった。 「本当に、酷い男ですよね。俺は、誰かを失う哀しみを誰よりも深く知っているはずなのに、この子に同じ思いをさせようとしてる。だから忘れて欲しいなんて自分勝手すぎますよね。こんな勝手な言い分、きっと彼女は怒るでしょうけど最後の我侭になるだろうから許してもらおうかな」 「…貴方は怖くないの?」 笑みを崩さずに言うレックスにメイメイは問う。 自分が消えてしまうことが。全てを失ってしまうことが恐ろしくないのかと。 メイメイの言葉にレックスの俯く。 けど、落ち着いた声音は全く変わらない。何時もと変わらぬ声が新しい音を紡ぐ。 「…怖い、ですよ。守りたかったものを守れなくなるのも、大切のものに手が届かなくなってそれを忘れていくのも。自分が自分でなくなるのは本当に怖い。情けないけど、気を抜けば体の震えが止まらなくなるくらいに怖いです。けど、いいんです」 伏せられた顔が上げられる。そこには満面の笑顔があった。 「大丈夫です。俺は幸せだったから。だから平気です。みんなに出会って俺は沢山の優しさを、笑顔を貰ったから。その思い出さえあれば強くなれるから。だから今度は俺が返す番なんです。俺は、俺の大切なものを守る為に、行きます」 返ってくる強い言葉。それを信じようと思った。 この力強い笑顔が、優しい想いが運命を変えるのを。 真っ暗な夜にも月の光が差すように、その強い想いが絶望を打ち砕く光となることを。 星の巡りを観る者としてではなく一人の、この世界に生きる者として信じたいと思った。 「それじゃあ、俺、行きます。メイメイさん、最後まで俺の我侭聞いてくれてありがとうございます。俺、貴方に会えて良かった」 「私も貴方のそういう不器用な生き方しか選べない所、嫌いじゃなかったわ。帰ってきたら一杯やりましょう?とっておきの一本があるのよ」 「そうですね、期待してますよ。帰ってきたらみんなでまた鍋でも囲えるといいですよね。誰一人欠けることなくみんなで…」 叶わない夢を見るのは愚かだろうか。 遠い未来に希望を馳せるのは無意味だろうか。 不安を押し殺して、明日また会えるような挨拶を。 そうすることでしか胸の中の絶望を殺す術を持たなかったから。 去り行く背中にメイメイは掛ける言葉を持たなかった。 だからその背中を黙って見つめていた。 きっと、もう二度と見ることが出来ないであろうその背中を。 「王よ…私は一体、あとどれくらいこんな思いをしなくてはならないのですか…?」 彼が去った空間に嗚咽の様に吐き出されたメイメイの言葉は、誰の耳に入ることもなく霧のように空気へと溶け込んで消えた。 ベルフラウが目を覚ました時にはもう彼の姿はなかった。 意識が覚醒すると同時に駆け出す。 自分がどれくらい眠っていたのかだとか、何で気絶してしまったのかとか気になることは沢山あったけどそんなのに構ってる余裕はなかった。 だって、このままじゃあの人が――。 まだ微妙に痛む体を引きずるベルフラウにメイメイが言葉をかける。 「彼の所に行くの?」 メイメイの言葉にベルフラウは振り返らずに答える。 「止めないでよ。私は誰になんて言われようともあの人の所に行くんだから!」 「…例えそれが絶望を知ることになるだけだとしても?」 「そんなの、行ってみなくちゃ分からないじゃないの!」 その言葉を振り切るようにベルフラウは走る。 普段から手入れしてる髪は乱れてボサボサだし、喉はカラカラで体だって痛い。 けど、そんなのは気にならなかった。 あの人の痛みに比べればこんなのなんでもなかった。 気の遠くなるような長い距離を走り終えてベルフラウが遺跡に着く頃には全てが終わっていた。 紅。その一色だけが視界を支配した。 あの日の夕焼けよりずっと濃い紅が床を、人を、そしてあの人を染めきっていた。 まるで水遊びでもしたかのように広がる紅い血の海。 無残に転がる嘗て人であった者たちの肉塊。 そこには昔仲間として接していたイスラのものもあった。 そして、その中心に立つ彼は血に染まった床やあの日の夕焼けよりも真っ赤だった。 鮮やかな赤い服は血を含みどす黒く染まっており、真っ白な雪みたいな髪と肌には夥しい量の血が塗りたくられ、まるで紅い華が散ったかのような錯覚に襲われる。 完全に右手と一体化した剣も真っ赤で、それは血に染まることによってますます光を増しているかのように見えた。 ここで何があったかなんて聞かなくても分かった。 全てが遅かった。間に合わなかった。 胸に巣食う絶望を振り払うかのようにベルフラウは口を開き、血の海へと足を踏み入れようとする。 「せんせ…」 「来ルナアアアァッ!」 「…っ!?」 彼の口から出た無理矢理搾り出したかのような声にベルフラウは体を震わせる。 こんな声、今まで一度も聞いたことない。 レックスはそのままベルフラウと距離をおくかのように数歩後ずさる。 「近づいちゃ…っダメだ…。コロシテ、しまウから…ッ」 「あ、あああ…っ」 その言葉に涙が溢れた。 この優しい人がどんな気持ちで剣を振るったのか。 どんな気持ちで人を殺めたのか。 砕けそうな心を、優しい気持ちを殺して、涙さえ見せずに。 その痛みはどれほどか。 「ごめんよ…みんな…。もう、俺は…笑えない…」 何故かあの人の声が遠かった。 叫ぶ仲間たちの声もノイズのように聞こえる。 これは…現実?夢を、見ているんじゃないかと思う。 だとしたらこれは悪夢だ。どうしようもない悪夢だ。 「だから、お願いだ。過去の憎しみや悲しみたちは全部まとめて、このまま連れて行くから。俺の代わりに笑ってくれないか?」 「そんなの、できるわけないじゃない!」 レックスの言葉にベルフラウは涙で震える声で叫んだ。 諦めたくない、絶対に。 失いたくなんかない。どんなことをしてでも。 「私は貴方がいないと笑えないの…笑えないのよぉっ…! 貴方が側にいたから笑えるようになったの…! 貴方が笑わなかったら、私…どうすればいいのよ…。諦めないでよ…! 約束したじゃない、ずっと守ってくれるって!ちゃんと約束守りなさいよぉ!」 お願いだからいつもみたいに笑ってみせて。 その為ならどんな憎まれ口だって叩くし、最高の笑顔だって見せてあげるから。 みっともないって罵られても縋りつくから。 けれど、返ってくる言葉は残酷な一言。 「…頼むよ?」 どうして願いは叶わないんだろう。そんなことを思う。 望んだのはささやかなこと。 ずっと、側で笑っていられれば――。 それ以上のことは望まなかった。 それなのにどうして、あの人が傷つかなきゃいけなかったんだろう。 幸せを、諦めなきゃいけなかったんだろう。 守りたかった。優しい心を、笑顔を。 ずっと側にいたかった。ただそれだけなのに。どうして――。 「約束、守れなくなっちゃってごめんね」 声は優しいのにそこに笑みはない。 声音は変わらないのにどうしてこの人はいつもみたいに困ったように笑ってくれないんだろう。 ただ一度微笑んでくれれば、こんな哀しみすぐにでも忘れられるのに。 「嫌よ!嫌なの、嫌なのよぉ!お願いだからいかないで…私をおいていかないで…! 貴方の側にいたいの…そこが私の居場所なのよぉ!」 もう自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。 ただ、失いたくなくて。ひたすら叫んだ。 叫んだ所で何かは変わるわけではなかったけれど。 それでも叫ばずにはいられなかった。 「ごめんね…」 ベルフラウの叫びを聞きながらレックスは痛みに耐えるように目を閉じた。 体が自分のものじゃないように痛い。 剣の力を引き出しすぎて体がその負荷に耐え切れなかったのだろうか。 まるで意識を手放せと言うかのように体が引き裂かれるかのような痛みと鈍器で殴られたかのような断続的な頭痛がする。 耳鳴りが酷くて声を聞き取ることすら辛い。 けれど、その痛みよりベルフラウの言葉の方が何十倍も痛かった。 誰かが強く命令する。目の前の肉を引き裂けと。 その命令に逆らおうとすればするほど痛みは酷くなる。 心が壊れるような、精神が病むような痛みに耐えられのも最早時間の問題だった。 狂気は確実に自分を蝕んでいることを、知っていたから。 体はもう完全に人ではないものに変わっていたから。 ベルフラウの他にカイルやソノラ、他の仲間たちも叫んでいた。 その声すらもう遠い。 なあ、剣よ聞こえるか? 問うた所で意味などないことは初めから分かっていた。 それでも語りかける。 みんなが自分の為に泣いてくれてる。 声を、掛けてくれてる。 自分の消滅を哀しんでくれている。そこには優しい気持ちが沢山あった。 仲間を思い遣る温かい想いがあった。 それだけで十分幸せだった。 命を懸けてまで守る価値があった。 もしこの剣が憎しみや恨みしか知らないのなら、そんなのは哀しすぎるから。だから。 せめて自分の優しい思い出をあげようと思った。 自分を庇ってくれた両親の優しさ。支えてくれた村の人たちの優しさ。 側にいてくれたアズリアの優しさ。居場所をくれた島で出逢った人たちの優しさ。 そして、自分をいつも励ましてくれたベルフラウの優しさ。 その全てを忘れずに、剣の憎悪や呪詛と共に抱きしめていこうと思った。 ありがとう。 もう笑うことはできないけれど、自分の為に泣いてくれる人たちにその言葉を伝えたかった。 けど、そんなことは許されていなかったから換わりに。 「さよなら…」 永遠の別離を示す、別れの言葉を。 「せんせええぇぇっ!」 たまらずにベルフラウは駆け出す。 死んでも構わなかった。取り残されるくらいなら。 この人に殺されるなら悔いはないとすら思った。 だから少しでも側にいたくて――。 手を伸ばす。その体に触れそうになる瞬間、その手は空を切る。 「えっ…?」 確かにそこにあったはずの温もりが消える。最初から何もなかったかのように。 まるで液体が気体になって消えるかのように確かにそこにあったはずの姿は一瞬にしてなくなっていた。 「う、そ…?」 ベルフラウの声が震えた。 だって、今までここであの人は話していたじゃない。 確かにここにいたじゃない。 なのに、どうして。 「いやああぁぁ!せんせぇ…せん、せえっ…!」 ベルフラウの悲痛な叫びが遺跡に響く。 「ち、くしょおぉおお!」 「せんせ…せんせぇ!」 カイルとソノラの声が聞こえた。泣いているらしかった。 「嘘…嘘よ……だって…そんな……」 「本当に…馬鹿、よ…どうしようもない馬鹿よ…!」 ファリエルとアルディラの口からも嗚咽が零れた。 遺跡の中に慟哭が響く。 ねえ、先生聞こえてる? 貴方が大好きだった人たちがみんな泣いてるのよ? 誰も笑ってなんかいないのよ。 だから。お願いだから。 「約束したじゃない…守って、くれるって……」 今でも優しい声と、温もりが頭に蘇る。 手を握って、名前を呼んでくれたの。 屋敷にいる間ベルフラウに名前はなかった。 「お嬢様」。誰もが皆そう呼んだ。けど、それはベルフラウの名前ではなかった。 屋敷を出てもベルフラウを名前で呼ぶ者はいなかった。 「マルティーニ家のご息女」それが彼女の名前だった。 誰かに呼ばれてもそれは自分の事ではなくて、いつだって孤独だった。 構って欲しくてわざと我侭を言って困らせてみたりもした。 ただ返ってくる反応は諦め。「お嬢様だから仕方ない」その一言で全てがすまされた。 諦めなんて欲しくなかった。叱ってくれてもいいから自分を見て欲しかった。 けれど期待は裏切り続けられ、その度に心は傷ついていった。 いつか期待することも諦めて、孤独にも慣れた。 期待なんてしなければ傷つかずにすんだから。 寂しさを感じなければ泣くこともなかったから。 けど、彼は違った。 名前を呼んで、手を引いてくれた。 間違ったことをしたら叱ってくれて、よくできたら褒めて頭を撫でてくれた。 たったそれだけのことだったけれど、どうしようもなく嬉しかった。 心の隙間が優しい気持ちで埋まった気がした。 背伸びをしなくても話ができるよう屈んで話を聞いてくれるような人だった。 不安になったら手を握って「大丈夫だよ」って微笑んでくれるような人だった。 だから側にいたかった。側にいて欲しかった。 なのに――。 「ずっと、側にいられると思っていたの…。今日も明日も明後日も、これからずっと…」 本当は分かってた。「これから」なんて何一つ分からないこと。 永遠なんて存在しないってこと。 でも笑顔が近くて、温もりは常に側にあったから信じていたかった。 ずっと側にいられるって。 幾つもの季節を共に過ごして、そしていつかは釣り合う位の身長になって、 胸だって大きくなって、歌を唄うかのように自然に愛の言葉を言える二人になれるって信じてた。 キスを交わして、笑顔を向けられる。そんなことが日常になるって願ってた。 「私…まだ好きって言ってあげてないの…。こんなことになるんだったらもと好きって言ってあげれば良かった…! もっと、抱きしめてあげれば良かった…っ!」 伝えたい言葉があった。話したいことが沢山あった。 けれど、結局何一つ伝えられずにいる。 守られてばかりで、与えられるばかりで何一つ返せていないことに気付く。 その微笑みに甘えてばかりで、彼のことを何一つ分かろうとしていなかった自分に腹が立つ。 あんなに側にいたのに。 誰よりも近くにいたのに彼の痛みにも弱さにも気付いてあげられなかった。 貴方が好きでした。ずっと、ずっと前から。 涙と共に零れたベルフラウの言葉を受け取る者はもうそこにはいない。 紅く塗り潰された遺跡の中、一つの恋が終わった。 残されたのは思い出の中の触れた唇の温かさと、優しい声。 そして、「さよなら」の一言。 つづく 目次 | 次へ |
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