レックス×アズリア 1「おはよう」「いってきます」「おかえりなさい」。そんな当たり前の挨拶ができる二人でありたかった。 「でさ、ウィルにこの指輪見せた時どんな事言われたと思う?「そんなにやけ面晒してるとただでさえ馬鹿そうな顔が更に馬鹿に見えて手に負えなくなりますよ」だって。幾らなんでも自分の先生に向かって言う言葉じゃないよね。俺、ショックでそれ以来顔がにやけないように頑張ってたのに今度は「貴方が馬鹿そうに笑ってないと調子が狂うんで何時も通りで構いません」だよ。もうどっちかハッキリしてくれよって感じだよね」 「はは…お前なんかより生徒のほうが余程しっかりしてるな。いい生徒を持って幸せじゃないか」 楽しげな男女の声が硬い石の個室に響く。 弾むその声は今のその二人の精神的充実を表しているかのように明るい。 顔に幸せそうな笑みを浮かべたまま声を出せば低い音が表面に水滴を浮かした壁に反射してエコーのように響いた。 「何ていうか、アズリアも大分慣れてきたよねぇ」 感嘆の意を含んだような声が浴室に上がる。 その声の主はバスラムの花を搾ったような髪と白い肌を持つ男で、その手には泡の乗ったスポンジが握り締められている。 「何がだ?」 それに答えたのは背後にいる紅い髪を持った男とは対照的な夜の闇を盗んできたような漆黒の髪を持つアズリアと呼ばれた女性だ。 背中を預け、大人しくされるがままにスポンジで体を擦られている。 「いやね、昔は明るい所でやるのあんなに嫌がってたのに、今じゃ一緒にお風呂に入っても怒らなくなったからさ。慣れって偉大だなぁって」 「…今すぐ溺死でもしたいのか貴様は?」 レックスの言葉に冷静になって状況を把握してしまったアズリアは顔を朱に染めながら背後の存在を睨み付ける。 レックスのその顔は睨み付けられた途端に苦笑いに変わり、心なしか数歩後ずさったようにも見える。 「あ、はは…死ぬのは嫌かも。ってゆーか、そうやってすぐ腕力訴えるの止めようよ」 「お前もそろそろ私を怒らせるような事を言うのを止めにしたらどうだ?」 そこまで言ってお互いに顔を見合わせて笑った。どっちにしても、そう簡単には直りそうもない癖だ。 もしかしたら一生付き合っていかなければならない短所なのかもしれない。 けれど、きっとこの人なら一緒に付き合ってくれる。そう信じられるから笑っていられる。 「あのな、言っておくがここではしないぞ?」 「分かってるよ、その辺は。俺、そんなに無責任じゃないし。あ、そういえば今日は大丈夫な日なの?」 「…まあな」 その会話にアズリアは頬をますます紅く染めながら素っ気無く答えた。 主語が欠落していても成り立つ会話は暗黙の了解にも似た慣れが引き起こすものだ。 情事の最中、アズリアが大丈夫だと言わない限りレックスが中で出すことは絶対にない。 今の二人の関係は世間一般的には認められていないものだ。 そのことをお互いに痛いくらいに理解しているからこその会話。 そこにあるのは本来の目的であるはずの子を、成すことのないセックス。 先のないセックス。 けれどそこから快楽や愛しさが生まれるのは嘘ではないし、それが意味のないものだとは思いたくない。 そんな言い訳はもしかしたら逃げでしかないのかもしれないが。 そんなことを思っているとスポンジが今度は腕へと滑った。 何時からか、こうして一緒に風呂に入りお互いの体を洗い合うのも、他愛無い事を話して笑うのも呼吸をするのと同じようにごく自然な当たり前な行為となっていた。 不思議なものだと思う。 二度も別れを経験したのにも関わらずこうしてまた一緒にいられるのが。 運命…なんて言葉で片付けられるのならそれはとても都合のいいものだと思う。 もしこれが奇跡なのだとしたらきっとそれは一生大事にしていかなければならないものだとも思う。 今がとても、幸福だと思うから。 独りきりで生きてきた頃からずっと思い描いていたささやかな夢。 それが今現実となって目の前にある。 この幸せを無くしたくないと思うのは、矢張り我侭だろうか。 そんなことを思いながら相手の体に触れてみる。温かくて安心した。 自分の側で生きているんだということを実感して嬉しかった。 「えっと、続きはあがってからにしようね?」 いきなり体に触れられたレックスは焦りを隠した声でアズリアに言った。 その言葉にアズリアは顔を真っ赤にしてパッと手を引っ込める。 自分は発情した雌犬か…と思う。それでも、側にいると欲望を抑えられないのは二人とも同じで。 滅多に会えない分、会った時にその想いが爆発してしまう。 男と女は因果なものだとその度に思うのだが繋がった場所から生まれる幸せに、 愚かにも溺れてしまうのだ。 「アズリア…」 風呂からあがり、ベッドに横になると同時に低い声で名前を呼ばれてキスを落とされる。 まるで壊れ物でも扱うみたいに手が優しく髪に触れてそのまま深く舌を絡めてくる。 「……んん……んぅ…」 舌先で、口腔内を蹂躙される内にだんだんと体が熱くなっていく。 唇が触れ合っただけで女の部分が潤んでしまいそうになるのは暫くこの温もりに触れる機会がなかったからだろうか。 何だか自分だけ熱くなるのは癪なので唇が離れた同時に今度はこちらから仕掛けてみる。 驚いて目を見開いたままの所へ強引に舌を差し入れ、先程された事と同じ事をし返してみる。 「…んん!」 他人にするのは慣れていてもされるのは慣れていないのかその舌は逃げを打つ。 それを無理矢理絡めとってやればくぐもった声が漏れた。 離れようとする首筋に腕を絡めて逃げられないようにし、思うが侭に犯す。 温かく、湿った他人の口の中とは不思議な感じのするもので、それはアズリアの好奇心を刺激した。 思う存分味わった後唇を離してやれば、飲み下しきれなかった唾液がレックスの唇の端を伝っていた。 「いやらしいな」 「…いやらしいのは、君だろ」 主導権を握られたのが気に食わなかったらしく、レックスは頬を上気させたまま眉を顰める。 その表情にアズリアは満足げに微笑むと今度はレックスの耳へと舌を差し入れた。 「…っ!」 そのまま耳朶を甘く噛み、後ろ側を舐めあげれば面白いくらいに表情が変わる。 「いつまでもやられてばかりでいるほど可愛い女じゃないさ、私は」 顔を離し、不敵に微笑む。 そのアズリアの表情とは対照的にレックスは耳を抑えつけたまま頬を朱に染めており、軽くアズリアを睨むがそれはすぐに苦笑いへと変わる。 アズリアが笑顔の次に好きな表情だ。 「…アズリアってさ、ひょっとして舐めるの好き?前は手とか首筋舐めてきたよね?」 「お前の表情が変わるのを見るのは面白いからな」 「俺は全然面白くないよ」 「私が楽しいから問題ないだろ」 「―……」 ついに言い返す言葉を失ったレックスにアズリアは笑う。今日の勝負は自分の勝ちだろうか。 こんな子供みたいで高慢な態度を取れるのも相手がコイツだからだろうな、と心の中で思う。 無条件で信用できて、躊躇いなく甘えることが出来る。 アズリアにとってレックスはそんな存在だった。 二人でいる時だけは軍人である自分を捨てて一人の女として振舞うことができた。 軍人としての自分も、一人の女としての自分も受け止めて愛してくれる。 そんなことを盲目的に信じてしまえる程の長い時間を共に過ごしてきたのだ。 そこには心と体の全てを預けてしまえるような強い絆があった。 それが分かっているからこそ素のままの自分でいられた。 そんなアズリアの表情を見ながらレックスにもまた苦笑いが浮かんだ。 「何ていうか、俺たちこんなのばっかりだよね。この前はキスが途中でどっちが息長く止めてられるかの耐久に変わってたし」 「しかもそれもお前が負けたしな」 「―…次は勝つからいいよ」 ムスっとした子供みたいな表情にまた笑いそうになる。 何ていうか傍から見たら色気も何も無い二人なのかもしれない。けれど、今はこれでいいと思う。 これから色々試していけばいい話なのだから。時間はたっぷりある。 きっとこれから死という別れがくるまでずっと側で同じ時を過ごすのだから。 そう信じられることが幸せだった。 一度目を閉じて深呼吸をするとレックスの子供みたいな表情が男のそれに変わっているのに気付く。 触れてくる手は優しいのにその眼は飢えた野生動物みたいだなと思う。 闘いの時と、自分との行為に及ぶ時にしか見せないその眼がアズリアは好きだった。 「アズリア…」 低く艶っぽい声もきっと自分しか知らない。 そんな優越感にも似た感覚に胸が熱く焦げる。 絡み合うと息の熱さに眩暈を起しそうになる。 溶けるような恍惚感。 自分の体を愛でる手に、唇に、体の全てが反応する。 「んっ…あ…ああ…」 節くれ立った長い指が豊かとは言い難い乳房を丹念に愛撫する。 そこから生まれる快楽に抑えきれない声が漏れる。 「…っん…ひゃ…んあ……」 硬くなった乳首を舐め上げながら強く吸えば一段と高い声が上がった。 そのまま唇を下半身へと落とし、アズリアの女の部分へキスを落とす。 そこに沿うように何度も舐め上げればその度にアズリアの体はビクンと仰け反り、体中の切なさが声となって溢れた。 「ふぁ…あん……んんっ!」 蜜が溢れるそこから口を離すとレックスはその部分に自分の膨張した性器を押し当てる。 「そろそろ、大丈夫だよね?」 耳元で優しく囁かれたその言葉に首筋に強く抱きつくことで答える。 その言葉が終わると同時に自分の中に熱がゆっくりと押し入ってくる。 「んあ……ぁああっ…!」 ゆっくりと侵入してくるそれにアズリアの中の液は熱く絡みつき、優しく包み込む。 「動いて、大丈夫?」 根元まで咥えこんだ所でレックスが心配そうに問うてくる。 もう処女じゃないんだから多少の無茶でも耐えられるというのにこうやってすぐに相手のことを気遣ってくるのは初めて体を重ねた時と変わらないなぁと思う。 そんな所を愛しく思いながら無言で頷く。それを見届けた後レックスは前後へと腰を動かし始める。 「…あっ…あん……はぁ…ん…!」 レックスの動きに合わせて甘い声が零れる。 溢れ出した快楽に体中が痺れるような、切なさにも似た熱が全身を駆け巡る。 それが声となり、繋がった部分から立てられる音と共に卑猥な歌のように響く。 「ふぁぁっ…ぁ、はんっ…ぁ…っ!」 激しくなる腰の動きと共にアズリアは高い声を上げ身を捩り、その度にレックスの性器を包み込んだ中がヒクヒクといやらしく痙攣した。 そこから伝わる快楽と興奮に心も体も酔いしれる。 気が狂ってしまいそうなくらいに激しく、心が叫びそうなくらいに切なくお互いを求め合う。 「はぁっ、んっ、あぁうっ…ぁは…ぁっ…!」 突き上げられる度に感じるどうしようもない快感。混ざり合う吐息と熱に我を忘れて全てを委ねる。 生まれる一体感と幸福が心の隙間を優しく埋めていく。 「…っあ…レック、ス……レックスっ…!」 まるでその言葉しか知らないように何度も名前を呼んでその身を激しく痙攣させる。 「…っあ、アズリ、ア…俺も、もう…っく…っぁ!」 「んあっ!はあっ!ああっ!レッ、クス…あああぁぁっ!!」 アズリアの高い声と同時に締まる中に熱い飛沫が迸る。 注ぎ込まれる感触にアズリアは唇を引き締めて身悶える。 心も体も熱く満たされたままその体を抱きしめる。 その温もりから生まれる安心感に身を委ね、 アズリアは睡魔が襲ってくるまでずっとその体を抱きしめ続けていた。 甘い酒に酔いしれるかのように快楽に溺れた後目を覚ませばそこはいつだって力強い腕の中だ。 少し視線を上げれば目の前にあどけない寝顔があって心臓が跳ね上がる。 安らかな寝息を立てたままの相手の髪にそっと触れてみればそれは柔らかに自分の手を擽る。 白い肌に映える紅。 サラサラと自分の手の中から落ちていくそれはまるで炎が踊っているかのようでとても綺麗だと思った。 髪が落ちた先の肌を見ればそこから沢山の傷跡が目に映る。 女のような白い肌には不似合いなそれは首筋から足先まで至る所にその痛々しい爪痕を残していた。 古いものから新しいものまであるそれにそっとキスをする。 それは奪うのではなく、守ることを選んだ代償とでもいうのだろうか。 本人はそれを他人に見せたがらないし、話すのも嫌がっているようだったので深く詮索したことはない。 けれど何時かは話してくれればいいと思う。共に痛みを背負い合えれるような二人になれればいいと思う。 決して口にすることはないけれど、きっと体に負った傷以上に心にはもっと深い傷を幾つも負ってきたのだろう。 レックスがそんな他人から見たら馬鹿みたいな生き方しか選べない不器用な人間であることをアズリアは知っていた。 それは本人が選んだ生き方なのだから自分が口を出す権利はない。 だからせめてその生き方を祝福し、愛せるようになれればいいと思う。 彼が自分の、本当に自分勝手な生き方を受け入れて共に背負ってくれたように。 「こうして見ていると、本当に子供みたいなのにな…」 両の瞼を閉じているだけだというのに随分と印象が変わるものだと思う。 普段はその眸に強い意志を宿しているからこそ大人びて見えるのだろうか。 もしかしたらこちらのまだ幼さを残した表情が彼の本当の顔なのかもしれない。 彼の置かれている環境は何時だって彼が子供でいることを許さない厳しさがある。 だからせめて自分といる時だけは甘えを見せてもらいたいと思うのは矢張り自分勝手だろうか。 けれど、例えば彼が自分の前だけでは何時もより口調が幼くなるだとか。 そんなささやかな事に喜びを感じてしまうのだ。 指にはめられた同じ指輪が二人の距離を表しているようで嬉しかった。 男なのに指輪をはめるのは気恥ずかしさも伴うだろうに、ずっとそれをはめ続けていてくれることが嬉しかった。 その手の先の筋肉質な二の腕にそっと触れてみる。 剣を振って戦うには申し分ないほどの肉は付いているが本人が憧れている丸太のような太さはない。 余計な肉が全くついていないその腕は彼が背負ったものの重さに比べれば細すぎるといっても過言ではないのかもしれない。 傷つきながらも剣を振るい、皆を守るその腕に今自分は抱かれている。 そこに優越感と共に安堵を覚え、またその胸に顔を埋める。 「……んん…?」 目の前で心が目を覚ます音がした。 「…すまん。起こしてしまったか?」 「……いや、そんなことないよ」 瞼が半分落ちた状態で言われても全く説得力がない。しかもその瞼はまただんだんと下りていっている。 「何ていうか、お前は寝ている間に天変地異が起こっても起きそうにないな」 沈みかけている意識に聞こえないだろうと思いつつも独り言のように言ってみると意外にも返事が返ってきた。 「何かね、君が隣にいるってだけで不思議とぐっすりと眠れるんだよね。普段は仮眠か寝ないかのどっちかなんだけど」 「…お前、幾らなんでもその生活はおかしいぞ。普通ぶっ倒れるだろう?」 まるで世間話でもするかのように衝撃発言が飛び出してアズリアは思わず問い返す。 しかしその問題発言をした当の本人は今にもまた眠りの世界に戻りそうな勢いだ。 「いや、昔っからの習慣だから仕方ないんだよ。もう体に馴染んじゃってるんだね。人は一日六時間以上寝ないと駄目だって言われてるけど慣れれば寝なくても普通に生活できるよ」 それはお前だけだ…というツッコミは心の中だけにしまっておき、アズリアはそのまま歌の様な声を聞き流す。 「たぶんきっと、俺は眠るのが怖いんだろうね。子供の頃から寝てる間に何かが起こったらどうしよう。また独りになったらどうしようっていつも心配してたし。馬鹿みたいなんだけどやっぱりそれは今も直らなくてね。でも今は君が起してくれるって信じられるからこうしてゆっくりと眠ることができるんだと思う。だから起きた時に君が「おはよう」って言ってくれると凄く安心するんだ」 「―……」 そこまで言い終わるとレックスはまた深い眠りの中へ落ちていっていた。 アズリアはその寝顔を黙って見つめる。 眠る、という行為は生理的欲求の一つだ。誰もが持ってて当たり前の原子的欲求。 そんなものにすら無意識的にストップをかけてしまう程の深く重い傷を今も背負い続けているのだろうか。 その痛みが、たかだか挨拶一つで少しでも和らぐのなら何時でも言ってやろうと思う。 きっと笑顔で返事は返ってくるから、笑いながら言おう。 「おはよう」と。 「じゃあ、いってきます」 「…いってらっしゃい」 何時もと同じ別れる時の挨拶。 同じ時を過ごすようになって暫くした頃レックスが提案したものだ。 自分の帰る場所を見失わないように。いつでも帰ってこれるように。 「さよなら」ではなく「いってきます」を。 その言葉はまた「次」があるのだと信じることができて安心できた。 「次、会う時を楽しみにしててよ。きっと吃驚するから」 「お前の吃驚にはもう慣れた。だから多少のことじゃ動じないぞ、私は」 子供みたいに目を輝かせるレックスにアズリアは苦笑いで答える。 無茶の常習のこの男と出逢ってからは人生驚きの連続だ。 子供っぽく意地を張ってみたり、恥ずかしさを忍んで少し女らしく振舞ってみたり。 切なさに流した涙もあったし、喜びで零れた涙もあった。 一緒にいるだけで信じられないくらい新しい自分が出てくる。飾らない沢山の言葉が生まれてくる。 そのことが嬉しかった。 どうか、この幸せが永遠に続きますように。 そう願わずにはいられなかった。 船の上から笑顔で手を大きく振るレックスにアズリアも笑顔で返す。 すぐにまたあの笑顔に会えるから大丈夫。寂しくない。そう言い聞かせて。 笑顔での別れが、これで最後になるとは思いもせずに。 二人は別れた。 「…え?」 アズリアは思わず声を上げた。 「だから何度も同じ事を言わせるな」 その声に答えたのは彼女の目の前に座る彼女の父親だった。 「お前にはその写真の男と結婚してもらう。式場だってもう決めてある。これは選択ではなく決定だ。口答えするのは許さん」 目の前の父親の言葉が信じられなかった。 聖王国辺境警備に配属されてから彼女は実家からは離れ、独りで暮らしていた。 そこに唐突に呼び出しがかけられ、帰ってきて真っ先に突きつけられたのは一人の男の写真が収まった一冊の本。 そこに書かれた文字を見ればその男がレヴィノス家と並ぶ帝国屈指の軍人の家系の人間だということが分かった。 アズリアもその顔に見覚えがあった。今は陸戦隊のどこかの部隊の隊長をしていると聞いたことがある。 年回りは自分より少し上で色黒の肌に鍛え上げられた肉体を持つ、いかにも軍人といった形をした男だったように思う。 「お前のせいでレヴィノスの名は地に落ちた。イスラ亡き今こうするより他我等が生き残る道はない。失態を晒し、辺境警備に廻されたお前にもう昇進の道はない。ならばせめて女であることを活かしこの穴を埋めよ」 「そんな…でも、私は……」 嫌だ。父親の言葉にどうしようもない嫌悪感が込み上げる。 この男と結婚するということ。 それは即ち今愛する人に自ら別れを告げ、好きでもない男とセックスをして子供を産むということだ。 そんなのは耐えられない。 そんなおぞましいこと、納得できるわけがなかった。 あの男以外の男がこの体に触れると考えるだけで吐き気がする。 アズリアが否定の言葉を発しようとした瞬間、父親の手が上げられた。 バシっという痛々しい音共にアズリアの頬が紅く染まる。 「私の言うことが聞けないというのか!?最初に言っただろう、お前に選択権はないと! それとも何だ?他に男でもいるとでもいうのか? ハッ…イスラを殺し、軍人としての務めもまともに果たせぬくせに雌豚を演じる余裕があるとはいい気なものだな」 「…っ!」 父親の言葉が鋭く胸に突き刺さった。だって、その言葉は正しいのだ。 死に追い詰めるまで弟の痛みに気付けなかった自分は本来幸せになる資格などない人間だ。 それなのに彼の優しさに甘えて今もまた逃げている。 その事を突きつけられ、言葉を失くす。 そんなアズリアを一瞥すると彼女の父は部屋を後にする。 「いいか、お前の意志がどうあろうとこの決定は絶対だ。すぐにでも相手の男に会ってもらう。それまでにせめて相手に飽きられぬようせいぜい家事の腕でも上げておくんだな」 という言葉を残して。 部屋に独り取り残されたアズリアは虚ろな目で父親が消えた扉の方をずっと見続けた。 信じられなかった。父親の言葉もこの現実も。 昔から横暴な人ではあった。 イスラが軍人になれぬ体だと知るや否やその存在を切り捨て、自分に跡取りとなることを押し付け、義務付けた。 そしてその自分が軍人としての可能性がないと知った今は家名の為にその身を捧げろという。 それでも、学校や軍で成果を上げれば喜んでくれたから愛されているのだと思っていた。 けれど違った。あの人が愛しているのは優秀な軍人と家名だけで娘など愛していないのだ。 そうでなければこんな仕打ち、するはずがない。 「…やだ…嫌だっ……!」 アズリアの口から嗚咽が零れた。 だって、ようやく幸せになれると思ったんだ。 家の為に、弟の為に。そう言い聞かせて何回も何回も諦めてきたんだ。 けど、それでも幸せになりたくて。諦めたくなくて。 息が詰るような切なさや、心が砕けるような苦しみを乗り越えてようやく手に入れたんだ。 何回も涙を流してようやく辿り着いたんだ。 二人で幸せになろうって約束して。優しい腕に抱かれて。そこに初めて安らぎを感じたんだ。 軍人としてではなく、一人の女の子として幸せになれると思ったんだ。 なのに、それを全部自分の意志で手放さなければならないのか。 溢れ出す想いを捨てて、全てを思い出に変えなければならないのか。 「好き」だと。「愛してる」と言って全部抱きしめてくれた彼に拒絶の言葉を言わなければならないのか。 優しい心を更に傷を付け、あの大好きな笑顔が凍るような言葉を吐かなければならないのか。 「あああ…う、あああ……」 涙が込み上げて止まらなかった。 離れたくない。ずっと側にいたい。愛してもらいたい。 望んだのはそれだけ。それ以上はなくても良かった。 なのに、それすらも叶わないのか。 一人の女の子として恋をすることすら許されていないのか。 「…やだ…嫌だよ……離れたくない…側にいたいよ……」 独り取り残された部屋でアズリアは子供のように泣き続けた。 「わー、凄く綺麗です」 「それ、彼女にあげるの?」 「っ!?」 いきなり後ろから声をかけられレックスは思わず飛び上がりそうになった。背後に忍び寄られる気配を全く感じなかった。 まあ、一人は幽霊だから納得できるとしても、もう一人の気配に気付けなかったのは不覚だ。 「び、吃驚した…。もう、驚かせないでくれよ」 「別に驚かせるつもりはなかったんです。ただ、レックスが呼んでも気付いてくれないから…」 「そんなことよりそれ、彼女にあげるの?」 レックスの言葉を軽く流してアルディラはその手に握られている小さなケースを見つめ、問う。 そのケースの中心には小さいけれど確かな輝きを放つ指輪が嵌られていた。 そのアルディラの言葉を受け、ほんの少しだけ頬を朱に染めながらレックスは答えた。 「…前は持ち合わせがなくて、安物しか買ってあげられなかったからね。一度ちゃんとしたの贈っておきたくて。驚かせたくって内緒で注文したんだ。…彼女、喜んでくれるかな?」 「ふふ、そんなの言わなくても分かってるくせに」 「どんな反応したか、後で教えて下さいね。楽しみにしてますから」 二人の女性に笑顔で言われレックスの顔にも笑みが浮かぶ。 早く会いたいな。 願いが胸で疼く。 渡す時、似合わないけど男らしく少しカッコイイことでも言ってみようかな。 そしたら彼女、どんな顔するだろう。 似合わないって笑うかな。 それともまた泣いちゃうかな。 ああ見えて人一倍泣き虫だから、もし泣いちゃった時は黙って胸を貸してあげよう。 そんなことを思いながらレックスは小さなケースの蓋をそっと閉めた。 時間が止まればいい。 アズリアはそんなことを思った。 このまま時が止まってしまえば別れを告げなくて済む。 彼も自分も傷つかなくて済む。 とても自分勝手な願いだとは思う。 それでも、どんな顔をして別れを言えばいいのか自分は知らないんだ。 あの人を傷つけないで別れを告げる方法を知らないんだ。 このまま二人で逃げ出してしまおうか…そんなずるいことを少しだけ思ってすぐに切り捨てた。 馬鹿馬鹿しい。そんなこと、できるはずがない。 自分も彼も今まで背負ってきたものを無責任に投げ出してしまえるほど子供ではなかった。 それに、そんな弱い女を彼が愛してくれるとは思わなかった。 逃げ出すことを許さないのはどちらも同じで、だからこそどうしようもないのだ。 今自分がいる部屋は彼と同じ夜を共に過ごした場所。 眠りにつくベッドは初めて抱かれた場所。 窓から見えるテラスは愛の言葉を言って、キスをした場所。 幸せだった。けれどそれも全部幻になる。 指に嵌った同じ指輪。側にいようという約束。 それも全部なくなる。自分のもとに残るものは何もない。 先に待つのは絶望的な未来と孤独だけだ。 何も考えずに眠ってしまいたくてベッドに横になって目を瞑れば思い浮かぶのは皮肉にもあの人の笑顔だった。 その笑顔に湧くのはやっぱり愛しさだけでその想いが尚更胸を締め付けた。 心が死んでしまったかのように空っぽだ。 こんな思いでこれから生きていかなければならないのか。 そんなのは生き地獄と何ら変わりはない。 いや、極楽浄土というものが本当に存在するのならそっちの方が幾らかマシかもしれない。 あの人がいない世界など何処も地獄と同じだ。 せつなさでまた涙が浮かびそうになったが出し尽くしてしまったのか、それすらももう浮かばない。 アズリアは指輪をきつく握り締めたままベッドに身を沈める。 誰か助けて欲しい。 時間を止めて欲しい。 そんな叶い様のない願いを込めてその指輪を握り締め続けた。 早く時が進めばいい。 このまま時が止まればいい。 それぞれの想いを抱いて、夜はその色を濃くしていく。 まるでいずれくる二人の運命を揺るがすその日を呼び寄せるかのように。 つづく 前へ | 目次 | 次へ |
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