レックス×アズリア 5「うぅっ……あっ…ふぅ…ぅ…っく……」 独り取り残された部屋でアズリアは咽び泣くことしかできなかった。 汚された。何度も何度も中で汚い欲望を吐き出された。 その事実を噛み締める度に胸に絶望がせり上がり、涙という形となって外へ溢れた。 心も体もどうしようもないくらい汚されて、傷つけられた。 生きているのが嫌なくらいに。 それでも、これは正しいことなのだ。 近い内に婚姻関係を結ぶであろう相手との子を成すためのセックス。 それはきっと愛する人との先のないセックスより余程有意義で生産的なものなのだろう。 それでもこれは、男が力の無い女を一方的に嬲る暴力でしかないと思うのは、何故だろう。 意味があることなのに、どうしようもない哀しみしか浮かばないのはどうしてだろう。 ――じゃあセックスって、何? 苦痛に耐えてでも本来の意味を全うする事が正しいことなのだろうか。 今の行為を正当化しようと色々考えてはみてもそれに答えなんて出なかった。 もしも、自分が男だったのならこんな目に合わなかっただろうか。 こんな惨めな思いもせずに、 あの人と愛し合うこともなく独りでも生きていける強さを持つことができただろうか。 今までずっと自分が女であったことを呪い続けて生きてきた。 どんなに頑張ったってその努力は認められず、色眼鏡で見られる。 苦しくて仕方のない毎日だった。 無理矢理自分を納得させて努力する孤独な日々。 その中で、生まれて初めて自分を認めてくれた人。 その人に抱かれたあの日、ようやく女に生まれて良かったと思えたんだ。 彼に愛される資格を持った体に、初めて誇りと喜びを感じたんだ。 昔望んだ男の様な太く力強い腕も強靭な肉体も手に入れることはできなかったけれど、それでも彼を柔らかく包み込むことができる体を、生まれて初めて愛してやることができたんだ。 初めて抱かれた日の事は今でも忘れていない。 終始笑いが絶えなくて、そんなに色気のあったものではなかったのかもしれない。 死にそうなくらいに恥ずかしくて、どうしようもないくらいに痛かった。 それでも、近くに感じる吐息だとか、初めて見る表情だとかそんなものに体中が反応して。 ちゃんと好きな相手に初めてをあげられたのだと、ずっと好きだった人の腕の中で女になれたのだと、そう思ったら痛みだけでなく嬉しさで涙が溢れた。 結ばれたその夜にずっと欲しかった言葉をもらった。 醒めない夢の様な、幸せな現実だった。 そこに焦がれた少年の姿はなかったけれど、 逞しい男に成長したその人は欲しくて欲しくて仕方のなかったその心と愛の言葉をくれた。 ずっと大切にしてきた想いを、側にいようという約束と共に指輪に篭めた。 結局それさえも手元には残らなかったのだけれど。 それは無情に捨てられ、残ったのは冷たい現実だけだったのだから。 そう考えたら、尚更涙が止まらなくなった。 どうして好きになってしまったのだろう。どうしてこんなにも好きなんだろう。 どうして忘れられないんだろう。 苦しいだけなのに。こんな想いを引き摺れば、いずれ心が壊れてしまうだけなのに。 それでも蘇る、その姿。大好きな声。力強い腕。少し冷たい指先。優しい笑顔。 この汚れた体はもう愛される資格を持たないというのに。それでも、想ってしまう。 あの人が好きだ。好きで、好きで、もうどうしようもないくらいに好きで仕方ないのだ。 他の男に犯されて、尚更実感してしまった。 どうしてこんなにも好きなのか分らないけれど、それでも愛されたくて抱きしめて欲しくて、心が悲鳴を上げる。 今すぐに抱きしめて欲しい。大丈夫だよって。また笑って。キスをして。そしてずっと側にいて欲しい。 叶わない夢。そんなのは分かりきっている。けれど愚かに願ってしまう。 「…好、き…大好き……だ、いす…き……!」 抑えきれず震えた声で零れたそれは、涙と共にシーツへと落ち、染みを残しただけだった。 それに返ってくる声もなければ、彼女の心を癒す優しい現実もない。 薄暗い部屋の中でアズリアは声を殺して泣き続けた。 島に帰っても、目に焼きついたあの姿が頭から離れなかった。 招待状の日付を見ればもうどうにもならないくらいに式の日は近かった。 今更足掻いた所でどうしようもない。全てが手遅れだった。 阿房みたいだと笑いを浮かべながら、それでもきっと自分は大脳旧皮質で動く生き物なんだろうな、と思った。 言葉を交わすことすらできなかったのに、それでも網膜から視神経を通って大脳までをただ一色が染め上げた。 理性がどんなに警鐘を鳴らしても、溢れ出して止まらないそれは本能と言う名の愚かな感情なのだと頭で分ってはいても。 それでも止まらない。胸を焼くような愛しさが。 苦しくなるだけだと分かってはいても、思い出す。 大きめの学生服を着た少し気の強そうな少女の姿も、凛々しい軍服の下に脆さを隠した一人の女の姿も。 春の空気が暖かなあの日、二人は確かに恋に落ちていた。 同じベッドの中で同じ夢を見て、先の未来を語り合った。 今はもう何も残ってはいないけれど。 全て指輪と一緒に捨てたのだから。 「隊長」という肩書きと精一杯の強がりで隠していたあのか弱い肩を守ってあげたいと思っていたけど、それすらも叶わなかったから、せめて誰かあの脆い心を自分の代わりに守ってあげて欲しい。 ああ見えて人一倍寂しがりで泣き虫だから、今も泣いているかもしれない。 自分も人の事を言えないのだけれど。 「レックス殿、少し宜しいですか?」 控えめなノックと共にドア越しにいきなり声を掛けられてベッドから身を起す。 窓から見える空には月がポッカリと浮かんでおり、人が訪ねてくるには余りに遅い時間だ。 「どうしたんだい、キュウマ?」 ドアを開けてその声の主の様子を見れば彼にしては珍しく焦りの色が浮かんでいる。 「その…こちらに、スバル様たちはいらしてませんよね?」 「…どういうことだい?」 こんな夜更けにあの小さな子供がまだ家路についていないというのか。 疑問が不安に変わる。 「それが…まだ城の方に帰られていないのです。聞く所によればパナシェやマルルゥもまだ戻っていないようで…。最初は教室の方でみんなで居残って勉強でもなさっているのかと重く考えてはいなかったのですが、この時間まで帰ってないとなると流石におかしいと…。今、ミスミ様やヤッファ達と共に一緒に探してはいるのですが、何分この島における彼らの行動範囲は余りに広いものですから…。何か心当たりなどありますか? 今日、特に様子がおかしかったとかそんな些細なことでも構いませんから」 「―…ごめん、俺にも、分らないよ…」 そう言われて今日の授業風景を思い返してみても、特に変わった様子はなかったように思う。 ただスバルが何かを言いかけて止めた様な素振りを見せはしたのだが、その先の言葉は分からなかった。 何であの時先の言葉を聞いておかなかったと深く後悔する。 「俺も一緒に探すよ。どこを探せばいい?」 「それでは風雷の郷の外れの方を。ミスミ様は城近辺を探すと仰っていましたし、他の地区も護人が手分けをして探していますから」 「分かった。もし見つかったら連絡するから」 「それでは頼みます」 そう言うとキュウマは風と共に一瞬のうちに姿を消す。それと同時にレックスも上着を羽織り、駆け出す。 心当たりは無くとも、一つずつ潰していけば絶対に見つかるはずだ。 平和になったとはいえまだ凶暴な悪行召喚獣が島のあちこちで見かけられる。 手遅れになってしまう前になんとしてでも見つけ出さねば。 「…どうしよう…見つからないよぅ……」 「諦めんなよ、パナシェ!絶対見つかるはずだって。だってオイラ知ってるんだ。先生の指輪がなくなったの、ここでオイラ達と蓮飛びやった時だってこと。 だから…絶対ここにあるはずなんだ…。簡単に諦めんなよぉ!」 「そうですよぉ。マルルゥは…マルルゥはもうあんな先生さん見てるの嫌なんですよぉ!」 「でも…こんなに暗くちゃ…見つからないよ……」 「けど今見つけなきゃ先生はきっとずっとあのままだろ!?昼だと大人たちに叱られるし……だから、今しかないんだ…」 「うん…ごめん……」 幾らかの会話を終えると沈黙と共にまたパシャパシャという水が跳ねる音が辺りを支配する。 音のした所から波が立ち、浮かぶ蓮がその動きに併せて流れる。 夜の冷たい空気の中で、それが全てになる。 そんな時が暫く経った頃、遠くからだんだん大きくなる音が聞こえてくる。 水面から出てそれが足音であると分かった時にはもうそこに辿り着いた影が言葉を発していた。 「スバル、パナシェ、マルルゥ!こんな時間にこんな所で何やってるんだ!!」 裏に安堵を隠した怒声が響く。その声に三人の体がビクっと震えた。 「こんな時間にそんなことしてたら…風邪引くじゃないか!どうしてこんなことしたんだ!?ミスミ様やヤッファ達だって凄く心配してるんだぞ!!」 走ってきたのかその息は荒い。それでもその表情に厳しさと共に誰かを心配する優しさを感じた。 「…だって…仕方ないじゃないか……」 声を発したのはスバルだった。 「だって、先生は指輪を失くしちゃったから心が空っぽになっちゃったんだろ!?心を…一番大事なものを捨てちゃったからそんなに寂しそうなんだろ!? そんな先生見てるの嫌だったんだよぉ!オイラ達…笑ってる先生が好きだったから…。だからこうするしかなかったんだよぉ!勉強…頑張るから……。本当はあんまり好きじゃないけど、でも先生がまた笑ってくれるならもっと頑張るから…だからまた昔みたいに笑ってくれよぉ! オイラ達先生の笑顔が大好きなんだよぉ!」 「っ!?」 ――心を捨てた。 自分でも気付きたくなくてずっと目を背け続けてきた事実を突きつけられ胸が痛む。 別れを告げられたあの日、心なんてものなければと思った。 だからもう傷つかずにいいように誰にも言わずに捨てた。 けれどどんなに隠したって、それは滲み出てきてしまう。 その結果がこれだ。 「…ごめんっ!……ごめん…っ」 そう言ってその幼い体を抱きしめた。強く。強く。 冷えたその体に胸が熱くなる。 「先生…諦めないで、いてくれるよな?もう一度、笑えるように…」 「…諦めなくて、いいのかな……俺は…」 声が震えた。みっともない。顔を上げられない。 馬鹿みたいだ。それでも。選んでしまうことがある。 「先生…もう一度一緒に頑張ってみようよ。僕達も手伝うから」 「先生さん…マルルゥもまた先生さんと一緒に笑いたいですよぉ。 もう委員長さんはいなくなっちゃいましたけど、でも昔みたいにまたみんなで笑っていたいんですよぉ」 ああどうして。人はこんなにも優しいんだろう。 他人なんて怖くて怖くて仕方なかったのに。 それなのにどうしてこんなにも胸が熱いんだろう。 息が苦しい。唇が戦慄く。 「盛り上がるのは勝手だけど、私たちのことも忘れてもらっちゃ困るのよね」 「そうそう。この島の住人は子供達ばかりじゃないんですから」 少し遠くから優しい声が近づいてくる。 「みんな…どうして……」 「あんなに大きな声で話しておれば近くで探しておるわらわの耳には嫌でも入るわ。鬼姫をなめるでないぞ」 「まったく、世話が焼ける奴らだよなぁ」 「紛失物の捜索は少人数で行うより大人数で行うほうが能率がいいことは誰の目にも明らかですから」 「子供たちばかりにいい格好されては大人の面子が立ちませんからね」 「ここまでくれば皆運命共同体でしょう?今更水臭いですよ」 そう言って微笑んでくれる。 ――他人を、好きになれて良かった。 自分以外の誰かがいて良かった。 傷つけられても、それでも誰かを信じることができて良かった。 だって人はこんなにも愛しい。 弱くても、脆くても。それでもどうしようもないくらいに愛しい。 「みんな…ありがとう……」 上げた顔に宿ったそれはずっと忘れていた微笑みという名の宝物。 ありがとう。 心からの言葉が溢れ出て零れた。 「…ない……どうしよう…見つからない……」 そう言ってアズリアは地面に膝をつき、手で草を掻き分ける。 昨日の夜に指輪を投げ捨てられた後、ずっと探しているのにそれは何処にもなかった。 手や服が汚れるのも構わず、屋根の下の地面を探し回っても未だに見つけることができない。 昨日の夜無理矢理植えつけられた絶望が消えない。 「どう、して……見つからない、の…っ!」 この暗く冷たい現実の中で唯一縋れる物さえ残らなかった。 どうして運命はこんなにも残酷なんだろう。 諦めなければどうにかなるなんて前向きに考えた所で現実は変わらない。 世界は想いを否定する。 気持ちは事実に敵わない。 それでも。分かってはいても諦めきれない想いがある。 触れたあの手の温もりを、貰った沢山の言葉を、信じてはいけないのだろうか。 「…つけなくちゃ……見つからなかったら…もう……」 呪文のように呟いて泥塗れの手をまた地面へと這わせる。 幸せになれなくてもいいから、せめて思い出だけはこの手に残しておきたかった。 一つでもいいから繋がりが欲しかった。 「あの指輪を探してるんですか?」 「っ!?」 突如背後から声を掛けられ、アズリアは身を竦める。 その声に昨日の恐怖が呼び起こされて、体が震える。 流石に今日はこの家に来ないだろう思って安心していたのに、こんな姿を見られた。 罵られて当然の醜態を晒してしまった。 先に続く言葉を考えたくない。 もうこれ以上詰られるのも冷たい現実を突きつけられて絶望の淵に落とされるのも怖くて仕方ない。 「…そんなに、あの男が好きなんですか」 「そんな…ちが…」 「何も違わないでしょう?」 そのまま強く髪を引かれる。 「い、痛っ!」 「昨日あれだけの事をされたのに、まだそんなことしてるなんて余程未練があるんですね。もっと酷い事されなきゃ忘れられないですか?」 「い、いやっ…」 楽しげに吐かれる言葉に昨日の恐怖と共に拒絶を浮かべる。 相手はその怯える姿に満足気に微笑むと言葉を続ける。 最後の希望を打ち砕くかのように、冷酷に。 「安心して下さい。あの指輪はあの後すぐ拾って捨てておきましたから。これで貴女は何の未練もなく妻としての役目に専念できますね」 「…う、そ……」 漏れた声が擦れた。 完全にあの人と自分を繋ぐ物は失われてしまった。 もう希望も救いもない。先にあるのは出口のない暗闇だけだ。 体中の力が抜ける。心が壊れた。 自分を引き摺るように掴むその腕の力に抵抗する気力すらもう湧かない。 涙も出ない。 ただあるのは虚ろな心と男の欲望を受け止める女という形をした肉の塊だけ。 死にたいのに死ねない。弟も、こんな気持ちで毎日生きていたのだろうか。 こんな辛いだけの日々をずっと。 「式はもうすぐです。それまでにあの男の事は私が忘れさせてあげますよ」 声が遠い。 ああなんで自分は生まれてきてしまったんだろう。 苦しい。生きていくことが。 あの人と出逢う前の独りきりで生きていたあの頃よりずっと。 寂しくて切ない。 夜の空気が水に濡れた体を冷やす。 交代で探しているとはいえこのまま続ければ本当に風邪を引いてしまうかもしれない。 「もう…いいよ、みんな……。指輪なんてなくたって、ちゃんと笑えるようになるから。みんなのその優しさだけで十分だよ…」 これ以上自分の我侭で誰かを巻き込むのは余りにも勝手だ。 そう思うのに返ってくる言葉は優しい。 「みんな好きでやっておるのじゃ、気にしなくともよいわ」 「そうですよ。諦めるくらいなら最初から付き合ってません」 「でも……」 「そう言って貴方はまた諦めるの?」 言いかけた言葉をアルディラの声が遮る。 「簡単に諦めないでよ。たかが思い出なんて言ったって、もし自分か相手が死んでしまったらそこには何も残らないのよ!? 肉体が滅びてしまった後に残るのは思い出しかない…なのに、それを簡単に諦めたりしないで!諦めて捨ててしまえるようなものじゃないって貴方は知ってるんでしょう!?」 「―…ごめん」 安易に諦めを口にした自分が馬鹿だった。 言われた言葉を噛み締めてまた探す。 もしかしたら見つからないかもしれない。 見つかった所で何かが変わるわけじゃない。 それでも。諦めきれないこの気持ちは、恋と呼ぶには余りに稚拙で残酷だ。 月が水面に映るその中で静寂という空気が流れる。 それぞれの想いを胸に、一瞬のようでいて永遠にも似ている時が流れる。 その静かな水面のような空間に、小石を投げ込むかのように声が上がった。 「―…あった!あったよ、先生ぇっ!」 「!」 「本当に!?」 喜びに満ち溢れたスバルの声に皆が振り返り、駆け寄る。 歓喜の歌の様な声が夜の空気の中響く。 そんな中レックスはただ一人呆然と立ち尽くす。 「…良かった…先生…これでまた笑えるようになるよね…?」 みんなびしょびしょで、なかには自分の事じゃないのに泣いている人までいて。 格好悪いはずなのに、熱い何かがせり上がってくる。 抑えきれないそれが溢れ出しそうになる。 指輪を握り締めたスバルがレックスに歩み寄る。そしてそっとその手に握る物を渡す。 「先生の心を…笑顔を返すよ……」 その言葉に。指輪を受け取る指先が震える。 声まで震えて擦れる。搾り出すのがやっとだ。 「…ぁ、りがとう……っ!」 今更指輪なんて見つかった所でどうしようもない。 現実は変わらないし、離れてしまった心が戻るわけでもない。 もう取り返しがつかない所まできてしまっている。 それでもその泥に塗れて水によって冷たくなっても輝き続けるそれに、愛を誓ったあの日の情景が重なる。 ああどうしよう。もう止まらない。止められない。 諦めきれなかった想いが心を、体中を、支配する。 叶わないのに。伝わることなんてもうないのに。苦しくて切ないだけなのに。 諦めなきゃいけないのに。分かってるのに。 「―…そ、れでも……好き、なんだよ…っ!どうしようも、ないくらいにっ…!」 誰か溢れ出る罪深きその想いを止める術を教えて下さい。 愛しさを殺す術を。そうじゃなきゃきっと何時か心が潰れる。 この世界に、人なんて沢山いる。 大切な人だって沢山いる。 他の誰かを好きになるなんて簡単なことのはずなのに。 なのに頭に浮かぶのは、微笑むあの人。 触れたくて触れられなかった少女と、その面影を残すこの腕に抱かれてくれた、人。 どうしてこの腕はあの人を抱きしめたいと、強請るんだろう。 この心は、叶いようもない夢を愚かに見てしまうんだろう。 「馬鹿ね…今更気付いたの…?」 「ちょっとくらい我侭に生きても、バチは当たりませんよ」 「良かった…良かったですね、レックス……」 「ったく、本当に世話が焼けて仕方ねぇ野郎だな、お前はよ」 ヤッファがその大きな腕で頭に触れる。 クシャリと柔らかな髪が太い指に絡まる。 ここに居てもいいのだと、それが正しい事なのだというかのように。 優しい声が夜の闇に溶けて消えた。 礼服の釦を首元までキッチリしめた。 あれから驚くくらいに早く時間は流れた。 その間に何かをしたかと聞かれれば心の整理を付けたとしかいいようがない。 もう大丈夫。彼女を祝福できる。 優しく見守るという形を取る事だって愛の形には変わりはない。 二人にとって、今はそれがきっと一番いい未来に違いない。 暫くは痛みや切なさを伴っても、もう大丈夫。 今はもう思い出がこの手にあるから。 その思い出さえあれば強くなれるから。 いつか結婚して子供が出来た時に笑って話そう。 お母さんと出逢う前に、自分を救ってくれた人がいたことを。 その人が大好きだったことを。 美しい過去の思い出だと、まるで物語を読むかのように教えてやろう。 そんな風に考えられるようになったのも、きっとあの時指輪を見つけてもらえたから。 島のみんなには感謝してもしきれない。 「はぁい、セーンセ。準備できた?」 「…スカーレル?」 自分と同じようにきちんとした礼服に身を包んだスカーレルがそっと部屋へと入ってくる。 いつも中性的な服装をしているせいか、随分と印象が違う。 「なぁにボーっとしてんのよ。もしかしてアタシに惚れちゃった?もぉ、いくら正装姿のアタシが美人だからって惚れたら火傷するわよ?用意するの大変だった分この美しさが余計に際立つ感じかしら?」 「あ、はは…惚れてはいないけど吃驚したなぁ。なんか印象が全然違うから」 「まあね。カイルなんてもう本気で笑えるわよ。ソノラは随分と可愛らしくなっちゃってるし。ヤードはあんまり変わんない…ってゆーか相変わらず地味って感じ?」 「いや、スカーレル、それ禁句だから。俺も昔それ言ったら怒られたもん」 「あらやだセンセったら本人の前で言ったの?度胸あるわねぇ~。でもアタシたちみたいな育ちの悪いのが参加してもいいのかしらねぇ。招待状だって貰ってないわけだし」 「まあ向こうが友達誘って参加しろって言ったんだから大丈夫なんじゃないの?身内のみとか言ってたから席なんて結構余ってるんじゃないかな?」 「…まあセンセが独りで参加するには辛いもんがあるわよねぇ。アタシは綺麗な花嫁姿見たいから別にいいんだけど」 「―…ごめん」 「謝るんならカイルやソノラに言ってやんなさい。あの二人はまだちゃんと納得してないみたいだし。アタシも微妙に納得してなかったりするんだけどセンセが決めたんなら文句は言わないわ。今日、全てに決着をつけるんでしょう?」 「…うん」 レックスの声が少しだけ暗くなる。 「今日、彼女が幸せになるのを見届けたら、本当に全部捨てるよ。前みたいに無理矢理捨てるんじゃなくていい思い出として消化する。彼女にあげる予定だった指輪も、式の帰りに捨ててくるよ」 「―…そう」 短く返事を返したスカーレルの顔が曇る。ほんの少しだけ間を置くと彼はまたゆっくりと口を開いた。 「ねえセンセ、アタシね、文章を書いて生きようかと思ってるのよ」 「…それは作家になるってこと?」 「そうね。なれたら素敵だけど無理かもしれない。でも完成したら持ち込んでみるつもり」 初めて聞くスカーレルの夢にレックスは驚きを隠せない。スカーレルはそんなレックスの様子に構わず続ける。 「アタシのこの手はね…今まで奪うことしか知らなかったから…だから今度は何かを生み出すことができないかって考えて…そして辿り着いた結論。文章だったら海の上でも書けるでしょう?」 落ち着いたその声の先にあるのは何かを慈しむ優しい眼差しだ。 レックスはその目を見て答える。 「きっと…なれるよ。スカーレルだったら素敵な作家になれる」 「…ありがと、センセ」 力強い言葉にスカーレルは目を細めながら頷き、また言葉を続けた。 「アタシね、今一本の物語を書いてるの。出来上がったら一番にセンセに読んで貰いたい話。その主人公はヒーローみたいな格好良さはないけど、いつも必死で足掻く、弱くて脆いどこにでもいるような人。その物語の結末は、まだアタシ自身も知らないの。けどそれが幸福なものであればいいと思ってるわ」 スカーレルはそっと目を伏せ、レックスの肩に手を置く。 「ねえセンセ。アタシはね、ずっとセンセに憧れてた。センセの自分の中の正しさを信じて走れる純粋さが羨ましくって仕方なかった。でも今は違う。 アタシはセンセの強さに嫉妬し、弱さを誇りに思う。だからもう少しだけ夢を見させて欲しいと思ってしまうのは…やっぱり我侭かしらね……」 「スカーレル…」 伏せられていたスカーレルの目がそっと開かれ、目が合う。その瞬間にその顔は笑みを作る。 「フフ…ごめんなさい、今のは忘れて。センセはセンセの思う道を行けばいい。アタシはその選択を祝福するから」 そう言ってレックスから離れると部屋を出ようとする。 「それじゃまた後でね」 その言葉と共に部屋を後にする。その姿を見送りながらレックスは先ほどのスカーレルの言葉を胸で繰り返す。 馬鹿馬鹿しい。今更どう足掻こうと何も変わらないというのに。 祝福すると決めたはずなのに言葉一つで揺り動かされる自分の弱い意志が情けない。 ――だって、今の自分は彼女に愛される資格を持たない。 彼女の大切な弟の命を奪っておいて、それなのに愛して欲しいだなんて勝手すぎる。 お前のせいじゃないと言われようとも守れなかったのは事実だ。 どうにかなるなんて無責任なことを言っておきながら結局守れずに見殺しにしている。 そんなのは殺したも同然だ。 それに自分は彼女を守る社会的地位も後ろ盾もなければ夢を守ってやる術も持たない。 力無き己を恨むと同時にどうしようもない現実に歯痒さを覚える。 それでも、こんな想いもいつかは仕方ないと諦めてしまえるような大人になるのだろう。 時間はただ流れていくだけなのだから。 花嫁とその友人席。 今日二人が向かう場所は触れることさえ許されない場所だ。 まるで一度離れてしまった二人の道がもう二度と交わらないとでも言うかのように。 つづく 前へ | 目次 | 次へ |
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