レックス&ミスミのある一日



 無意識的な服従。
 悲しいかなパブロフの犬――帝国の書店で手に入るその書物を、レックスが知っていたかは定かではない。
 けれど、まあ。
 レックスという一人の人間が吹かれた笛に従うかのように、ただ一人の声を認知していると言うのは、間違い無い事実なワケで……。
 
「――え? 何ですか?」
「いいから……のう、少しこっちに来てみやれ。ふふ、絶対に損はさせぬぞ?」
 来なければ損をするという事じゃがな、と。
 少女のように微笑む彼女には逆らえない。苦笑いで心中の嬉しさを隠して立ち上がる。
 ここに足を運ぶようになり、やがて習慣と化して――湯浴みと宿泊までも(ちなみに、泊まった時は例外なく隣でスバルが寝ていた)数度経験した身体が、着馴れなかったシルターン式の寝間着を普段着のように着こなしているのに気付いて、ふと今のような状況に至った経緯を思い出す。
 
 ――まるで、習性のように。
 
 気付けば彼女を追っている視線を自覚した。
 戦場での凛とした彼女、御殿で見せる柔和な表情。
 どれにも共通して言えるのは、視線を捉えて離さない魅力。
 一人の息子の母として、一人の女性として――自分を受け入れてくれるミスミの存在は、いつしか思考時間の何割かを奪うほどに膨れていたのだから。
『何じゃ若造。それでは勉強を見に来ているのか、鬼姫の顔を見に来ているのか解らんではないか』
 以前、彼女の客人は笑いながらこう言った――が、尤も、言われた方は笑い事ではない。
 飲んでいたお茶を噴き出し、あたふたと狼狽し、スバルにからかわれ、客人――ゲンジには「なんじゃ、図星か」と指摘されてますます顔は赤くなり、まさか数メートル先の縁側で黙想している当人には気付かれていないかと慌てふためいていた所をスバルに追及され、「なあ、先生? 先生さぁ、もしかして母上の事――」続けるスバルを「つ、次の問題、これはね」と強引に口を塞ぎ、その日の気力を物の数秒で使い果たした事もある。
 鬼の姫の顔を見たいが為、と言われれば不純な動機であるような気もするが、否定出来ないのもまた事実。
『度々顔を出してくれぬか?』との申し入れには、断る理由も見付けられなかった。
 
 
 縁側の柱に寄り掛かったミスミは、悪戯っ子のようにレックスの手を引いて顔を正面に向けろ、と促す。
「百聞は一見にしかず、という物よ」
 得意げに、無邪気に。
 少女のように笑うミスミに釣られてその視線を追って、レックスは意図せずに声を上げた。
「わ……」
「壮観であろ? この時期だけの、わらわのお気に入りじゃ」
「凄いな、本当に。俺も、一目でお気に入りになっちゃいましたよ」
 天然の赤光が、庭先を、視界一杯を覆っている。
 池も木も家々も何もかもが薄い赤に染まって、その全てが鬼の御殿からは一望できた。
「む……世辞を申すでないわ」
「え……っ? そんな、俺はだって本当に――」
「ほう。にしては、集中力が散漫じゃな? 視線が泳ぎっぱなしではないか」
 声に不満を滲ませて視線で抗議するミスミに、再度言葉を詰まらせる羽目になる。
 否定できる要素はなかった。
 何故ならそれも半分は事実で、残りの半分は柱に寄り掛かる彼女の顔を見ていたからで――上品な着物から覗く白い肢体が夕日に当てられる様は、言い様もなく魅力的で、蠱惑的だった。
「……ちょっとそこに座りやれ」
「え、え?」
「早くしやれ!」
「は、はいっ!」
 叱られた子犬のようにびくりと身をすくませると、借りられた子猫のように従う。
 慌ててミスミの隣に正座し、どんな説教が待っているのかと思いきや、
 
「――え?」
 
 
 不意打ち。
 頬にくすぐったい感触が、肩には心地好い重みが――刹那の思考停止、再起動しての状況把握。ミスミが寄り掛かってきたのだと気付いて、レックスは「な、な、な」と、声にならないうめきで返答した。
「ほれほれ、これで逃げられまい♪ いいから前を見てみやれ」
「いや、だってその、ミ、ミスミ様!?」
「ああもう! 大人しく集中せぬか! ……どうじゃ、悪くない眺めであろう?」
 集中などできるわけがない。
 じわじわと湧き上がってくる本能からの欲求は、互いの体温しか感じ取れない距離、虫の声一つしない状況と相まって、秒刻みで理性を奪っていく。
 本能が理性を駆逐しきる寸前。助け舟は、意外にも本人からやってきた。
「……偶にはゆっくりせよ。肩から力を抜いてみよ。無理しているそなたを見るのは、わらわとて辛い」
「あ……」
 寂しげに言うミスミに、返す言葉を失う。
 本心を見透かされていた気恥かしさと、罪悪感。それから、見ていてくれた事に対する嬉しさ……全部がない混ぜになって、言葉が形を成さない。
「よいか?」
「……はい」
 続けられた言葉には、短く――本心から同意した。
 うん、と満足そうに頷いて、ミスミは再び景色へと視線を移す。沈黙したままの本能に安堵して、今度こそレックスも赤い景観に見入った。ゆるやかに流れていく時間をこうやって過ごすのも悪くないな、そう考え始めて、
「おお、そうじゃ」
「はい?」
 肩に掛かった力が不意に消えて――代りに、少々強引な勢いで頭を掴まれた。
 軽い浮遊感。意図を察するべくもないレックスの視界は、赤の景観からミスミの笑顔へ――間近で、その顔を見上げる形へと変わっていた。
 体が横倒しになっているのは解る。視線が上向きなのも解る。だったら、頭の下が柔らかいのがなぜかと言えば、勿論。
 
 
「……ミスミ、様?」
「何じゃ? ああ、わらわの事なら気にするでないぞ。この程度で足は痺れたりせぬゆえな」
「そ、そうじゃなくって……っ!?」
「あ、これ。動くでないわ」
 言うと、ミスミは膝上のレックスの頭を優しく抑えた。レックスはと言えば微動だにする事もできない有様で、どうしてかと言えば耳の中に細い棒のような感触があるからで、
 ……ぶっちゃけ気持ち良かったのだ。
「ええっと……何してるんです、ミスミ様?」
「耳掃除じゃが。スバルは好きでのう……そなたは嫌いかえ?」
「そ、そんな事は……突然だったから、ちょっと驚いただけで」
「なら、よいであろ? ふふ。良人もな、最初は同じ反応で返しおった」
「……リクトさんが?」
「そうじゃとも。照れ隠しに悪態ついていた辺りはまるで違うがの……やはり、どこか似ておる」
「ミスミさ――」
「似ておるのじゃ、やはり……」
「……ミ――」
 夕日が遮られる。
 間近に迫った白い相貌。
 ――沈黙。
「……え、あ、あれ?」
「す、済まぬ……その、迷惑じゃったか?」
「え、だって、そんな事はないけど、ち、違う、そういう事じゃなくって、え、えええっ!?」
 僅か、唇に触れた感触。それは――
「み、ミスミ様? あの、これって、その」
「そ、そんなに大袈裟にせんでもよいであろうに……」
「だ、だって……」
 あの、と呼び掛けても返事はない。
 そっぽを向いた彼女の顔が仄かに紅いのは、けして夕日のせいだけではなく――
 くすりと笑うレックスに、「こ……これ、い、今なにを笑ったのじゃ!」告げるミスミの顔はますます紅い。
 レックスはそんな少女のような反応を笑って、素直に告げた。
 
 
「だって、ミスミ様が可愛かったからさ」
「な……っ、ななっ、そんな・……な、何を言うて」
「ミスミ様」
「な、なんじゃ」
「ずっと――傍に居て下さい。そうすれば俺、絶対に大丈夫だから」
「な……レックス!?」
 そこで、意識を手放した。
 柔らかな感触に身を任せたまま、レックスの意識は眠りの縁へ――
 
 ――残されたミスミはといえば、顔全部を真っ赤に染めたまま数度瞬きを繰り返し、数回深呼吸。
 ふと柔らかく笑って、レックスの髪に指を通し始める。
「まったく、大馬鹿者め……言われずとも、わらわはどこまでも着いて行くつもりじゃと言うのに」
 それは、照れ隠しに告げた言葉で……そして、本心で。
 
 
 
 この1ヵ月後、戦いは集結し――照れ隠しの言葉は本当になる。
 
 
 ――4年後。
 夕焼けも深い秋、鬼の御殿。 
 
「うう……ん、変わらないね、ここはさ」
「わらわ達が護ったのじゃ、変わらない為にな。当然じゃろう?」
 大きく伸びをしたレックスを四分の一は呆れ、残りの全部で愛しく眺めて、ミスミは寧ろ自慢気に言った。
 その自慢は、激戦を戦い抜いた中間達への尊敬であり、愛しい者を失った長い時を歩く辛苦――小さなトゲが刺さったままの胸中との決別であり、
 ――何より、落ち葉が降る木々の中を隣に歩く夫を自慢する物だった。
「あはは、そうだね。でもやっぱり、秋が来ると思い出しちゃってさ。……やっぱり、嬉しいよ。こうしてまた、ミスミ様と同じ景色を眺められるんだから」
「……これ」
「……あ」
 言ってから、はっとした顔でレックスは苦笑いする。
「……ごめん、ミスミ」
「まったく……どうしていつまで経っても……スバルの方がよほど適応力が高いぞ? 式を挙げてその日には「父上」じゃったからな」
「あ、あれは……う、うーん」
「まったく、しっかり頼むぞ? あの子の妹が出来た時、妻を「様」付けで呼んでいる等と言う事になっては笑い話にもならぬからな」
「え? 今、何て……」
「な、何度も言わすでないわ! ……い、妹じゃ、妹。スバルの――」
「ほ、本当!? それって、つまり俺の……」
「じゃ、じゃから言わすでないと言っておるに!」
 こつんと頭を小突かれて、レックスは照れたように笑い、ミスミは頬を染めたまま溜息を吐く。
 
 
 こつんと頭を小突かれて、レックスは照れたように笑い、ミスミは頬を染めたまま溜息を吐く。
「……この間、ラトリクスに行ったであろ? あの時調子が悪くなって、その……クノンに話したのじゃ。そうしたら」
「妹……、って?」
「あそこの機械なら生まれる前に男子か女子か解るからの……って、何を言わすか、馬鹿者!」
「ご、ごめんっ! ごめん……あはは、でも、うん、嬉しい」
「な、何を今更……当然であろう、そんな事」
「……そうだね。あのさ、ミスミ」
 なんじゃ、と言い掛け――不意打ち気味に口を塞がれて、
「な――」
「あの時の仕返し」
「……馬鹿」
 
「絶対に護るからね。この島のみんなも、スバルも、その、俺の子供も……ミスミも、絶対に」
 
「……うん、あなた」
 
 
 
 余談だが、この1ヵ月後に、二人は一人の少女を家庭に加える事になる。
 更に月日が流れ、大陸からの来訪者が訪れる事になるまでは数年。
 「男子一人、女子二人」を希望していたミスミの願いが叶っていたかは、また別の話……。


おわり

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