1. 駆け引き上手なアイツ
天気予報は快晴だったはずだ。
それにも関わらず、何故オレは雨の中を走っているのだろうか。
それも小雨じゃなく、土砂降りの。
「くっそぉー! 明日からは絶対違うチャンネルの天気予報を見ることにするからなーっ。見てろよ放送局めッ」
文句を垂れながらぬかるんだ地面を走る。
足を動かす度に泥が跳ねて制服のズボンが汚れていくのが気に食わなくってしょうがない。
母さんに絶対怒られる……!
そのときのことを考えて顔を青ざめさせていると、背後から声がかけられた。
振り返れば紺色の傘を差す整った顔をした男子生徒――斉藤――の姿があった。
斉藤は全身ずぶ濡れ状態のオレに対して、皮肉げに笑んで見せた。
「君に雨の中ランニングする趣味があったとは、意外だな」
「そんな趣味は生憎と持ち合わせていねぇよ! 傘忘れたんだよ悪いかコラッ!!」
「悪いだなんて一言も言っていないだろう? 相変わらず被害妄想が激しい奴だ」
んだとコラ、と言い返そうとする俺から斉藤は興味を失くしたとでも言うように視線を逸らすと、歩き出してしまう。
オレはこいつの、こういうすかした態度が昔から大っ嫌いだった。
少し……というかだいぶ頭がよくて顔がよくて運動が出来るからって人を見下したように見てくるのは如何なものか。
そんなわけで出来る限り斉藤との接触を避けようとしているオレなのだが――。
「コーヒーは飲めるか?」
「あ、ああ」
「さすがに苦いから嫌いというほど、子供でもないか」
――何故、斉藤の家に上がりこんでいるのだろう。
ときどき自分の行動が理解出来なくなる。
オレはハァッと盛大にため息をつくと、赤いソファーに腰掛けた。
斉藤の家は一人暮らしだとは思えない程に広い。
オレなんて四畳一間のアパートに住んでいるのに。
ふざけるなと言いたい。
「それはこちらの台詞だな。尾崎」
どうやら声にオレは出してしまっていたらしい。
斉藤は鋭くオレを睨みつけながら、コーヒーカップを手渡してきた。
「んだよ、何か文句あるのかよ」
「大アリだ。濡れた制服のままソファーに座るな」
「んなこと言ったってしょうがねぇだろ!? びしょびしょなんだから。それともオレに脱げとでも!?」
「そうしてもらいたいところだな。濡れた状態のままいられると迷惑だ」
オレは斉藤の台詞にふんっとそっぽを向くと、彼が淹れてくれたコーヒーを一口飲んだ。
無糖のようで苦くて不味い。
だなんて口にしようものならからかわれることが目に見えているので、意地でも飲みきってやるけれど。
「砂糖ならあるぞ。ミルクもな」
「うるせぇ。そんなの必要ねーよ。それよりさ。何でお前、オレと同じ高校なんだよ。可笑しいだろ。頭いいくせに」
オレの通っている高校にいる生徒は、お世辞にも頭がいいとは言えないレベルの奴らばかりだ。
それに比べ斉藤は全国模試でも成績上位者として名前が冊子に掲載されるほどの頭脳の持ち主。
どう考えたって、斉藤がオレと同じ高校にいるのは可笑しい。間違ってる。
「正直、驚いたんだぜ。斉藤がオレと同じ高校を志願したって聞いてさ。みんなに止められなかったか?」
「止められたな。だが振り切った」
「ふーん? 馬鹿だよなー。将来有望だったのに。……いや、今でも十分有望だけどさ」
「自分が愚かなことをしたことは、重々承知している。今更君に言われるまでもない」
斉藤は嘆息すると、ずずっと音を立ててコーヒーを啜った。
どことなく気落ちしているように見えるその様子に、オレは笑みが零れるのが分かった。
だって仕方ないだろ?
いつも自分が一番偉い、完璧、みたいな態度の人間が落ち込んでいるんだぜ?
そういう奴のへこんでいるところがたまには見てみたいのが、人間ってもんだ。
「おーおー。天下の斉藤様ともあろうお人が、たかだか高校受験のことで後悔しておられるとはね〜」
「後悔? ……まさか」
斉藤はハッと鼻で笑うと、オレに向かって手を伸ばしてきた。
先程まで雨に打たれていたオレ以上に低い体温の指先が、頬を掠める。
そのまま斉藤の指はオレの顎を掴んだ。
「後悔などするものか。する必要もない。確かに受験の件で、俺は少なからず失望されたことだろう。だが、それが何だ? 周囲の期待だとか信頼だとかは俺にとって全てどうでもいいものだ。それ以上に大切なものが、俺にはあるのだから」
「……それは?」
「これから獲るものだ」
ニヤリと口角を上げた斉藤の瞳は、いつものように無機質なものではなかった。
どこまでも熱く、欲望に塗れたもの。
こいつは、馬鹿だ。
たった一つの欲しいもののために、全てを捨てて。
そういう意味ではオレと同じ高校にいることは、可笑しくないのかもしれない。
「逃がさないからな」
耳元で囁いてきた斉藤に向かって、オレは精一杯に意地悪な笑みを浮かべて言い返す。
「捕まえてみろよ」
勝負になんて、なりっこないとは分かっていた。
だってオレは昔から一度も、斉藤に勝てたことはないのだから。