370 :名無しさん@ピンキー:2008/06/01(日) 00:00:46 ID:p2xgJc8L

小雨の降る曇り空。どこにでもある路地裏。傘を差して歩く女。
突き当りの病院。そう大きくはない建物。薄汚れた硝子扉を押し開ける。
「こにちは」
窓のない建物の内部は人工の照明に照らされて、白く鈍く薄暗い。
受付の小窓越しに笑顔で挨拶。受付の娘はいつも通りの無愛想。
狭い階段を上がって少し進むと、見知った部屋へと辿り着く。
内側からは開けられない頑丈な外鍵を外して、彼女は部屋の中へ。
壁際にベッドが一つ置かれているだけの、限りなく殺風景な部屋。
窓さえも無い、その部屋に彼はいた。
「やー。久しぶりね」
声をかけるが、相手は全く反応しない。
「元気してるますか?」
笑んで彼女は彼の顔を覗き込んだ。
「レガーチ」
かつての相棒の名を呼んで、指先で頬のこけた彼の顔の輪郭をなぞる。
つと進んだ指が荒れた唇に触れて、彼女は彼に口付けた。

呼気が肌に触れるほどの間近に寄っても、相変わらず彼は無反応。
虚ろな眼差しは何も見てはおらず、此処ではない世界を眺めたままだ。
此処を訪れる度に、火星から人類が帰還するのはとても困難なのだと知る。

外の雨音も聞こえない部屋で、彼女の溜息が緩く零れる。
抜け殻の横たわる寝台に彼女も腰掛け、傷だらけの彼の身体を見下ろす。
蟻走感から掻き毟られた腕の傷痕は、今はただの無数の紅い線でしかない。
けれど、彼女がとうとう頭の壊れた彼を見つけた時、それはまだ傷痕ではなく。
血の流れる傷口を、ただ無心に抉るように掻き毟る姿に彼女は一瞬立ち止まった。

371 :名無しさん@ピンキー:2008/06/01(日) 00:03:05 ID:kXboSBuP

それなりに腕のいい相棒ではあった。
薬で頭が火星に飛んでても、運転だけはミスしない。
彼の価値は何かと問われれば間違いなく、その運転技術だと言える。
ではそれが失われたら?
なんの取り柄もないこの男に、何の価値が?
他人への優しさなどこの街では邪魔なものでしかない。
そんなことは彼女にも分かり切っていた。明かりも点かない暗闇の中、存在しない寄生虫を
皮膚の下から抉り出そうと躍起になる相棒を放っておくことも、確かに出来た。
けれど彼女はそうしなかった。
知り合いのツテから病院を手配し、意味不明の言葉を口走り暴れる彼を捕まえて
診察を受けさせ入院の手続きをし必要な経費を払い――
いったい自分のどこにそんなことをしてやる義理があるのだろう。
自分でも分らなかった。

恋人ではない、愛しているかと訊かれればきっと自分はNOと答える。

如何に生きようがどうやって死のうが本人の自由だ。
いつ死ぬのかは死神だけが知っている。
知ったことではないはずの他人の生死に、何故自分は関わってしまったのだろう。
何処を見ているのか、ただ茫然と天井を眺めているだけの彼の肩口に額を寄せて、
彼女は眼を閉じた。
少し速い脈拍と、いつか抱かれた汗の匂い。
ぼんやりと瞼を開けば、腕と同じ傷痕が幾重にも走る首筋が目に入る。
指先でそれを辿り、後を追うように口付けていく。ゆっくりと優しく、いつかのように。
最後にもう一度唇にキスをして、彼女は立ち上がった。

372 :名無しさん@ピンキー:2008/06/01(日) 00:07:30 ID:kXboSBuP
感傷は死を呼ぶと知っている。なのに自分はここへ来る。
「まったく、どうかしてるね」
ひとりごちて、苦笑する。こんなことを続けていたら、きっといつか破滅する。
「人の事言えないね、私も……」
やめたくてもやめられない薬漬けの相棒を、どうやら自分は笑えないらしい。
「じゃあ、ね。元気……は無理、でも次来るまで、ちゃんと生きてるますよ?」
そう言ったところで彼はただ虚空を見ているだけなのだけれども。

返事のないことが分かっていて、それでもそれを待つように。
ほんの少しだけ扉の前に立ち止まってから、彼女は部屋を後にする。
色の無い建物から、小雨の降る路地裏へ。
鮮やかな色合いの傘が、揺れる黒髪とともに路地を去ってしまった随分後――

「――――シェ、……ン、ホア……?」

虚ろな男の唇から洩れた言葉は、誰にも届くこともなく、無色の虚空に溶けていく。




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