不機嫌な夜に気をつけて 3


「おい、グレン!」
 そう言って宿屋の一室の扉を開けたのは、グレンの同僚である第二級魔術師、ロン・ジェンキンスだった。しかし、ロンは扉を開けた瞬間に固まり、何とも奇妙なモノを見つめるような視線をその床の上に向けたのだ。
「……何してるんだ、グレン」
 明らかに呆れている口調。
 グレンはそれまでと同じ格好のまま、ニヤリと笑って応えた。
「腕立て伏せ」

「魔術師が身体を鍛えてどうするんだ。いつ見ても魔術師らしくない男だな」
 ロンはやがて扉を閉め、一つだけあった寝台の上に腰を下ろし、ぼりぼりと頭を掻く。そう言ったロンの方は、魔術師というよりも学者っぽい雰囲気を漂わせた男だった。痩せた身体に黒い服をまとい、短い栗色の髪の毛に小さな丸眼鏡。顔立ちは優しげで、その口調も柔らかい。歳はグレンよりも若く、まだ二十代半ばといったところか。
「ま、リハビリよ、リハビリ」
 グレンは上半身裸で、ズボンだけしかはいていない。だから、傭兵と言ってもおかしくない彼の鍛えられた肉体が露わになっている。健康的な身体に浮かび上がる玉の汗。
 彼は床の上で片腕だけの腕立て伏せを朝から小一時間ほど続けていた。右腕が終わったら左腕、それが終わったら腹筋――などと考えていたところである。
「リハビリ?」
 ロンが首を傾げると、グレンは額から流れ落ちる汗を乱暴に手で拭いながら立ち上がり、軽く腕を回して見せる。
「右腕、うっかり千切れてつなぎ直してもらったばかりなんでな」
「……うっかり……千切れた?」
 ロンが驚いて声を上げる。しかし、グレンは穏やかに笑うだけだ。
「そ、試験中に、遊んでたら」
「遊んでた!?」
「おかげさまで試験には落ちるし、第一級魔術師になるのは次の試験までお預けだ」
「試験に落ちたっていう話は知ってたが……」
 ロンは眉間に皺を寄せ、まじまじとグレンの右腕を見つめた。「それにしても、つなぎ直した痕跡が解らないな」
「だろ?」
 グレンはさらに快活に笑い、右肩を押さえながら力瘤を作る。「アルバートは、いい腕を持ってるよな」
 一瞬、ロンの表情に驚いたような感情が浮かび、それはすぐに消えた。どことなく、納得したような表情へと変わる。
「またアルバート・エンジェルか。お前、育成学校にいた頃からアルバートのことは気に入ってたよな。それが不思議でたまらない」
 すると、グレンがふふん、と鼻を鳴らしてから、嬉しそうに続けた。
「あいつのことを好きなのは俺だけ、みたいな優越感があるな!」
 ロンはそれを受けて短く言った。
「お前、馬鹿だろ」

 アルバート・エンジェルの評価はよくない。魔術師としての腕は高いものの、性格の悪さ、人付き合いの悪さではダントツである。腕のいい魔術師ということもあって、彼に近づく人間は多数いるが、冷ややかに嫌みを言われて追い払われるというのが当たり前だった。それは魔術師の育成学校の時、アルバートやグレンたちが学生の時からずっと変わらない。
 アルバートは他人を受け付けず、ただ魔術の腕を磨いて卒業を目指していた。友人を作るわけでもなく、ただ淡々と学習するだけの日々。でもそれは、他の学生たちもほとんどがそうだっただろう。
 ただ、グレンはそんな学生たちの中では異質ではあったかもしれない。彼は魔術の勉強だけではなく、他にも色々興味が惹かれるものがあったようで、学校の宿舎を抜け出しては遊びにいったりしていたので、教師に何度叱られたことか。しかしそれでも、それなりに優秀な成績を残していたのだから、魔術師として真剣に学習していれば、もっと早くに第一級魔術師になれたことだろうともロンは思う。
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは!」
 グレンは眉間に皺を寄せて声を上げる。「恋は盲目というだろう! 気に入る気に入らないに理由はない。俺はあいつが好きだ!」
「うわあ」
 ロンは頭を抱え込んだ。「可哀相に」
「何だと」
「アルバートが」
「ああ、それなら納得……」
 グレンが頷きかけ、すぐに表情を険しくさせる。「できねえ! どういう意味だ!」
 馬鹿につける薬はないとはよく言ったものだ。ロンは深いため息をついてから立ち上がった。
「とにかく、そろそろ時間だから行こう。仕事が優先」
 ロンはわずかに表情に疲れを滲ませながら、先にその部屋を出た。背後に、グレンが着替えている気配を感じながら、ゆっくりと宿屋の階段を降りていく。
 ――全く、本当によく解らない男だ。
 ロンは心の中でそう呟く。
 ――アルバートもよく解らない男だ。でも、それはグレンも同じ。似たもの同士なんだろうか?
 やがて宿屋の入り口で待っていたロンに追いついて、グレンが「行こうか」と声をかける。魔術師らしい黒い服に身を包んだ彼らは、二人でいることも手伝って酷く目立つ。陽が高くなって人通りの多い大通りに出た彼らは、足早に目的地へと向かった。
 魔術師が二人で行動することは少ない。依頼人側の方で、そういう指定がなければ、皆無といってもいいだろう。
 最初、今回の仕事を引き受けたのはロンである。その時、二人できてもらいたいので、誰か他の魔術師を選んでもらいたいと話があった。そこで、ロンは相棒としてグレンを選んだわけだ。手伝って欲しいと連絡を取り、待ち合わせたのが先ほどの宿屋。
 グレンはロンに、仕事の内容などほとんど訊かなかった。
 そしてロンも、ほとんど説明しなかった。
 それでも、大丈夫。そう解っている相手が相棒だと、気楽なものだ。
「さっき、恋は盲目って言ったな」
 やがて、歩きながらロンが囁く。
「ん? 何が」
「お前、アルバートに惚れてるのか。恋なのか」
 信じたくはないが、という考えが漏れた声色。それを聞き取って、グレンは唸るように笑った。
「よく解らん」
 そう言ったグレンの声にも困惑が混じっていた。「惚れるという感情が解らん。あいつのことは気に入っているし、からかいたくなるし、たまに見せる笑顔がたまらん。しかも笑顔なんざ、他の連中には絶対見せないだろ」
 ――惚れている以外に何があるんだ。
 ロンはそうツッコミを入れたくなったが、下手に恋愛感情を自覚されても厄介かもしれない。何しろ馬鹿だから。そう結論づけ、ロンは短く言った。
「女が欲しくなったらそう言え。紹介してやる」
「んん?」
 グレンが苦笑しながら、目の前に現れた大きな屋敷を見上げた。「まさか、ここの女妖魔がそれっていうオチじゃねえだろうな」
 ロンが眉を顰め、グレンと屋敷を交互に見やる。
 それは依頼人の屋敷。ロンは行き先を知っていたからここにきたわけだが、グレンにそう教えたわけではない。仕事の内容も伝えていない。
「こういうたちの悪い女は友人には紹介しない」
 やがてロンはそう言って笑うと、屋敷の門を叩いた。

「お待ちしておりました」
 門が開くと、その屋敷の召使いだと思われる年配の男性が礼儀正しく頭を下げていた。彼はすぐに先に立って二人を屋敷の中へと案内し、二階へと上がっていく。
 二階の奥にある部屋は、その屋敷の主人の書斎であるらしい。
 重厚な扉が開いて、書棚だらけの部屋が現れ、窓際にある机の前に、顔色の悪い男性が立っているのが見えた。
「ロン・ジェンキンス、第二級魔術師です」
 ロンはそう言ってその主に向かって手を差し出したが、その男性はそれに気づいていないようで、茫洋とした視線を宙に彷徨わせていた。
「ダラス・レイトンです」
 彼は短くそう言って、すぐに召使いを書斎の外へと追いやった。力のない双眸をやっとロンに向け、彼はその表情を引き締める。そこでやっと、彼が見かけよりも若いらしいとロンは気づいた。
 書斎に入って来た時には、その男性は三十代くらいに見えた。頬はこけていたし、長めの髪の毛は乱れていた。しかし、正面から見るとまだ二十代半ばくらいであろうと思える。
 彼は礼儀正しく頭を下げ、落ち着かない様子で口早に言った。
「家族を守っていただきたくて、お呼びしました。あの女は夜に現れるのです。でも多分、昼間も屋敷のどこかにいるのだと思います。妻と子供も怯えていて、どうしたらいいのか解りません。我々を、どうか守っていただきたくて、その」
「あの、連れもいることですし、最初からお話し下さい」
 ロンは穏やかに微笑み、ダラスを落ち着かせようとした。その丸眼鏡の奥の瞳は優しく、どうやらダラスをほっとさせるだけの力はあったらしい。やがて彼は、立ちっぱなしだった彼らの状態に気がつき、恥ずかしげに笑って見せてから、書斎にあった椅子をロンとグレンに勧めた。

「しばらく前に、絵を購入しました」
 やがて、ダラスはゆっくりと口を開く。「美術商から手に入れた物なのです。いつもの私でしたらあまりこういった物を買うことはないのですが、一目惚れに近い状態で、気がついたら即金で購入しておりました。秋の湖畔というのでしょうか、水辺で戯れる女性たちの絵なのですが、それを我が屋敷のホールに飾った後から、不気味なことが起こり始めたのです」
 ロンは真面目にその話を聞いていたが、グレンは時折辺りを見回していた。何か気になることがあると言いたげではあったが、ダラスはそれに気づかず、淡々と話を続ける。
「召使いたちが最初に気づいたのは、水音だといいます。誰かが水遊びをしているような音が深夜、響くようになりました。そして、水に濡れた足跡が廊下に転々とつくようになりました。それは、ちょうど女性くらいの大きさの足跡で、召使いたちは気味悪がりながらもそれを掃除していたと言います。
 そして、女性たちの笑い声が屋敷に響くようになりました。その頃になりますと、召使いたちも怯えてしまってその声が何者なのか、見に行くこともできなかったと言います。
 最初は、私も召使いたちの気のせいだと笑っていました。幽霊という物は世の中に存在しないだろうというのが私の考えで、今回のことも、誰かのいたずらなのでは……と思ったのです。特に、私にはいたずら好きな二人の息子がいます。疑ってしまったのは仕方ないと言わせて下さい」
「ええ、年頃の子供たちの考えることは、我々には予測できませんからね」
 ロンはダラスを安心させるように相槌を打ち、さらに先を促した。
「子供たちに私は問い詰めました。でももちろん、二人とも心当たりはないと言いました。そして、こう言ったのです。『あの人は、悪い人じゃないよ』と。夜中、その女は、子供たちの部屋にやってくるのだと言います。そして、キスをして帰っていくのだと。そうして見てみると、子供たちの体中に、何かに噛まれた跡がありました。そしてそれは、妻の身体にもあったのです。やがて、子供たちや妻が衰弱していき、今は床についてしまっていて……このままでは……」
「よし、手っ取り早く片付けるか」
 どうやら話に飽きたらしいグレンが乱暴に頭を掻きながら立ち上がり、それに驚いたダラスは顔色を青ざめさせて叫んだ。
「いえ、でも、あの! いきなり行動しては危険ではないでしょうか? まだ昼間ですし!」
「しかし、退治するために我々をお呼びになったのではないのですか?」
 彼を見つめていたロンの表情にも、奇妙な感情が浮かぶ。グレンは苦笑をさらに濃くさせると、ダラスに近づいて彼のそのシャツに手をかけた。
「グレン!?」
「あの!」
 ロンとダラスの声が交差する。しかし、その直後、何かに噛まれたような跡があるダラスの胸元が露わになって、ロンが息を呑んだのがグレンにも解った。
「奥さんと子供だけじゃねえな。あんたも食われかけてる。……で、そろそろその女に骨抜きにされそうになってるっつーわけだ。でも、俺たちを呼んだのは上出来、上出来!」
 グレンはくつくつ笑ってそう言うと、乱暴にダラスを突き放して気合い充分と言いたげに首を回し、ぼきぼきと音を鳴らした。
「力業は得意だ、一発決めてくるぜ」
 そう言ってロンに視線を投げ、彼は唇を歪めるようにして続ける。「俺が女をこましてる間、お前はここの屋敷の連中を守っててくれ。そういう面倒なことは苦手だ」
「こましてる……」
 ロンは頭痛を覚えそうになったが、何とか気力を振り絞って頷き、ダラスに向き直った。そして、短く言った。
「奥様とお子さんたちの部屋に案内して下さい」

 グレンは鼻歌を歌いながら階下に降りる。
 この屋敷を見た時から、相手がどんな力を持っている存在なのかは解っていた。後は、どれだけ手早くやっつけることができるのかが問題だった。
 玄関のそばにあるホールからは、妖気の残り香のようなものが漂ってきている。その前に立って、グレンはわずかに首を傾げて見せる。
 その壁には、一枚の絵が飾られていた。意外と大きな絵だ、と彼は思う。
 秋の湖畔、なるほど。色づいた木々、穏やかな湖。その水辺で遊ぶ女性たち。
 しかし、そこにちょうど一人分くらいの隙間があった。
 本来ならば、そこにもう一人女性がいたのかもしれない。しかし、まっ白に色抜けした箇所があり、そこから奇妙な妖気が漂っているのだ。
「よし、まずは逃げ場を壊すか」
 グレンが右手を挙げてその絵にかざし、呪文を詠唱し始めるとそのホールに奇妙な気配が渦巻き出した。
 ――来たな。
 彼はそう思ったが、気にせず呪文を完成させ、そのままその絵に魔術をぶつけようとした。
 が。
「酷い人ね」
 彼の背後から、細い腕がからみついてきた。分厚い胸板に回る、白い腕。それは、とてもたおやかであった。
 グレンがそっと首だけを回して背後を見ると、そこには美しい金髪の女性が頭を彼の背中に押し当てている。伏せた目元が色っぽく、赤い唇が笑みの形を作っていた。
「まだ誰も殺していないわよ? ただ、生気を分けてもらっただけ。もちろん、このまま生気をもらっていればその人間は死ぬけど、まだ死んでないじゃない。それなのに、あなたはわたしを殺すの?」
「ああ、それが依頼なんでな」
 グレンはあっさりそう呟くと、右手を絵にかざした。
 途端、燃え上がる絵画。グレンの背後で起こる悲鳴。
 グレンの胸に巻き付いていた腕にも、火傷のようなものが広がって、その女妖魔は雄叫びのような声を上げ続けてグレンから逃げる。
「この絵の中が住み処だったんだろ? 力の源ってヤツだ」
 グレンは声を上げて笑う。「残念だったな、もう終わりだよ」
「くそっ」
 女妖魔は醜く焼けこげた顔を手で覆いながら、吐き捨てる。そして、不気味な笑い声を上げた。
「その絵がなくなったとしても、わたしの力は尽きたわけではないわ! そこで見てなさい、すぐに戻ってくるわよ!」
 そう叫んだ女妖魔が、空中に浮かび上がって二階の方へと向かおうとした。しかし、すぐに悲鳴を上げて床の上をのたうち回る。
「どこに行くつもりだ?」
 グレンは右手から魔術を女妖魔に放ち、その背中に裂傷を作っていた。そして、わざとその傷の上から大きな足で踏みつけ、低く笑う。
「お前の知ったことか!」
 妖魔が黒い血を背中から流しながら甲高い声で叫ぶ。「人間どもを食らい、力をつけてくるのよ!」
「ま、そんなこったろうなー」
 グレンは無造作に頭を掻きながら、やがてその足を妖魔からどかした。途端、女妖魔が床から立ち上がってグレンに飛びかかってきた。
 妖魔の唇の中に隠されていた長い牙が、グレンの喉笛に食らいつこうとする。しかし、それは彼の腕によって阻まれた。妖魔は差し出されたグレンの右腕に食いつき、そのまま食いちぎろうとして気づくのだ。
 グレンは笑っていた。
「そうそう、一応俺は第二級魔術師ってことになってんだから、少しくらい怪我をしておかないとなあ。それに、妖魔とはいえ抵抗もできない女を嬲り殺しに、ってのはささやかに良心が痛むんだ」
 楽しげに言うグレンを見つめ、女妖魔が初めて驚いたように目を見開いた。
「第二級魔術師? お前が?」
 まさか、と言いたかったのかもしれない。
 女妖魔は怯えていた。
 無造作に立っているように見えるグレンの中に、渦巻く巨大な力を垣間見たような気がしたからだ。
「二階に行ってみるか?」
 グレンは暗く笑う。「もう一人魔術師がいることくらい、解ってんだろ? あいつの防御の魔術はなかなか破れないと思うぜ」
「ならば街に行って……」
 後ずさる女妖魔に向かって、グレンは右手を挙げた。
「甘いねえ」
 それが、妖魔が聞いた最後の言葉だった。

「手当てさせろよ」
 報酬を手にして屋敷を出たロンは、まだ血だらけのままのグレンの右腕を見て呆れたようにそう言い続けている。
 しかし、当の怪我人は「大丈夫大丈夫」と笑いながら町中を歩き、商店街らしき路地に入って辺りを見回していた。そこは活気のある商店街で、人通りも多い。だからなのか、黒ずくめの魔術師たちの姿に目をとめる人間はほとんどなく、それぞれが忙しそうに行き交っている。
「いいジャガイモだなあ」
 たくさんの野菜が積まれた店の前で足をとめたグレンは、気のよさそうな店の主人に声をかける。「これ七つくらい袋に包んでくれ」
「どうも!」
 髪の毛に白いものを混じらせた主人は、客が魔術師であろうとなかろうと明るい笑顔を見せる人間であるらしい。気さくにグレンに言葉をかけてくる。
「アスパラガスも美味しいよ。サラダにどうだい?」
「ん、ジャガイモと一緒にグラタンにするのもいいねえ。よし、それも十本くらい包んでくれ」
「グラタンならチーズだね。この道の奥に、太った男が立ってる店があるんだけど、そこのチーズは絶品だよ」
「お、ありがとな!」
 上機嫌で応えるグレン、その背後から付き従うロン。
「……お前、魔術師だろ?」
 ロンがぶつぶつ何か言っていたが、それを気にした様子もなく、グレンはポケットから小銭を取り出してロンに押しつける。
「そこで卵を十個ほど買っておいてくれ」
「いや、だからお前」
「んー、ここの羊肉も美味そうだな」
 足取り軽くたくさんの店の商品を吟味するグレンの背中を見つめながら、ロンは深いため息をついた。
 ――悪いヤツじゃないんだが。やっぱり馬鹿なんだろうな。
 たくさんの食材の入った袋を抱えたグレンは、ロンとの別れ際に袋からリンゴを一つ取り出すと、それをロンに渡して手を振った。
「今日はどうも。また仕事があったらいつでも誘ってくれ」
「……リンゴ、どうも」
 ロンは苦笑を返してから、さらに短く言った。「ちゃんと手当てもするように」
「へいへい」
 グレンも苦笑を返しつつ、そこで別れた。

 グレンはその足でアルバートの家へと向かう。町外れの淋しい場所。人通りなど全くないところだ。
 その家に近づくと、かすかに人の気配が感じられて、そこに在宅しているらしいと思ってグレンは笑う。
「よう、生きてる?」
 ドアを叩くと、しばらく前にアルバートの弟子になった少年がぱたぱたと足音を鳴らしながら出てきて、嬉しそうに彼を迎え入れた。
「こんにちは、グレンさん」
 控えめながらも、親しみを込めて呼ぶ少年は可愛らしいと彼は思う。
「袋をちょっと持ってくれ」
 いくつかある袋のうち、軽いものを選んで少年――ブラウンに渡すと、少年は嬉しそうにその袋の中を覗き込んだ。それから、期待を込めて見上げてくる瞳。
「グラタンの作り方を教えてしんぜよう」
 わざと仰々しくそうグレンが言うと、ブラウンは素直に頷いて散らかった部屋を通り抜け、台所へと案内した。足下に転がっているのは、魔術書だけではなく、明らかにゴミだと思われるものもある。
 ――部屋の掃除もした方がよさそうなんだが。
 グレンは辺りを見回しながら台所に進むと、そこでブラウンがグレンの右腕の怪我に気がついて顔色を変えた。
「怪我、怪我してます、グレンさん!」
「おうよ、知ってる」
「し、知ってるじゃなくて! 手当て、手当て!」
 ブラウンが慌てたように台所を飛び出していくのを見送り、グレンは明るく言う。
「舐めときゃ治るってー」
「これだから筋肉馬鹿は」
 やがて、奥の自分の部屋から出てきたらしいアルバート・エンジェルが、呆れたように台所の扉のところに立った。
「誰が筋肉馬鹿だ」
 グレンは怒ったような表情を作って見せたが、すぐにそれは和らいでしまう。「羊肉は平気か? 夕飯まで時間があるから、じっくり煮こんだシチューを作ってやんぜ。これだったら多めに作っておけば二、三日、夕食に困らないだろ。それと、今夜は他にグラタンとサラダだな」
 グレンは台所の机の上に袋を置き、中から必要な食材を取りだしている。そして、右腕の乾きかけた血を軽く舐めると、「よし、大丈夫」と頷く。
「何が大丈夫だ、馬鹿が」
 アルバートがため息をついてグレンに近寄ると、その背後からブラウンが手当ての道具を持って走ってきた。
「見せろ」
 アルバートは無表情にそう言い放ち、さっさとグレンの左腕を引いて近くにあった椅子に座らせた。最初は断ろうと思ったグレンだったものの、すぐに大人しく彼に怪我をした腕を差し出した。こんなことでもなければ、アルバートに触れてもらえる機会なんてない。
「妖魔に噛まれたのか」
 アルバートはグレンの血を濡れたタオルで綺麗に拭き取り、その傷口を消毒しながら言った。鍛えられた腕。だから、このくらいの傷で済んだのだろう、と彼は考える。もしこれが女性の腕だったら、簡単に食いちぎられていたに違いない、と。
「最近、妖魔が街に出ることが多いと聞いている」
 アルバートは眉根を寄せて囁く。「街を騒がせているのは、『穴』だけじゃない。色々問題があるんだろう」
「そうだろうな」
 グレンは頷いて見せる。「今日の妖魔も、ある美術商から手に入れた絵に入っていたという話だ。絵に棲みつく原因は何なんだろうな。もともとあった絵に、妖魔が取り憑くなんてのは、あまり聞かない話だ」
「確かにな」
 ――それとも、妖魔が棲みつくように絵が描かれたのか?
 グレンは一瞬、そんなことも考えたが、自分でその絵を焼き払ってしまっただけに確認することはできない。確かにあの絵は新しそうだったのだが――。
「しかし、なぜ妖魔に噛まれるなんてことが」
「いやあ、うっかり油断して」
 グレンは笑いながらそう言ったが、そんな彼を奇妙な目つきで見つめたアルバートは、かすかに首を振った。
「……お前が真剣にやれば、こんな怪我などしないだろうに。いつもどうしてそうなんだ」
「心配してくれてんのか」
 一瞬、言葉に詰まりそうになったグレンは、すぐに冗談めかしてそう言った。
「不思議に思っているだけだ」
 それに返ってきたアルバートの言葉は素っ気ない。そして、手早く包帯をその腕に巻いて、手当てを終了させた。その右手を握ったり開いたりして、グレンは痛みを確認する。包帯も緩みそうにない。完璧だ。そう思ってニヤリと笑う。
 そして、椅子から立ち上がった彼は自分より背の低いアルバートを見下ろした。
 いつになく、近い位置に立っているなあ、とグレンは思う。そして、わずかに伏せ目がちのその睫毛の長さや、整っている薄い唇が醸し出す色気に気がついて唸りそうになった。
 ――こいつって、本当に美人だよなあ。
 そんなことを考える。
 こいつの唇に無理矢理キスしたら、どういう顔をするんだろうなあ、なんてことも考えて、グレンは内心戸惑った。
 こいつに惚れてんのかね、やっぱり。
「それに、お前がわざわざ料理を作りに来ていることも不思議だ。そんなことをして、何の得があるのだ」
 わずかに困惑しているらしいアルバートを見下ろしたまま、グレンは笑った。
「美味しいって言って食ってくれりゃあ、別に何でもいいんだけどよ」
 そう言った後、グレンはつい、自分でも意識しないままにアルバートの柔らかい髪の毛をくしゃりと掻き回して、その直後にさらに戸惑って、その戸惑いを誤魔化すために慌てて台所に立った。
「よし、少年、手伝え!」
 ずっとその場にいて手当ての様子を見守っていたブラウンに、グレンは明るく声をかける。ブラウンは元気よく「はい!」と応えると、グレンの横で頼まれた仕事を片っ端から片付け始めた。
 いつも他人に触られるのを嫌うアルバートはと言えば、急に髪の毛を触られたのに怒るタイミングを逃し、難しい表情を作りながらグレンの背中を睨んでいた。
 しかし、バターの焦げる匂いが台所に広がり始めると、何だかどうでもよくなってきて、彼は居間へと足を向けた。どうせ、自分が手伝えることは何もない。
 暗くなって明かりが必要になる頃、居間にいたアルバートのところに次々と料理が運ばれてくる。
 三人そろっての食事の場所といえば、居間くらいしかない。
 テーブルに並べられる食事の皿に視線を奪われつつ、アルバートは小さく唸る。
 ――やっぱり、この筋肉馬鹿は役に立つ。
 ジャガイモとアスパラのグラタンは、チーズにこんがりと焼け色がついている。薄く焼いたポテトのパンケーキと、羊肉のシチュー、ブロッコリーのサラダ、ハーブマヨネーズ付き。
 三人そろってその食事を食べ始めると、しばらくの間会話がなかった。アルバートとブラウンが食事の美味しさに驚いて、しばらく食べることだけに集中していたからだ。
 だから、響いていたのはグレンの声だけ。
「まだジャガイモが残ってるから、あれでベイクドポテトを作ってもいいし、コロッケもいい。コロッケなら、中にトマトやチーズを入れてもいいな。リンゴはマフィンに入れてもいいし、アップルパイにしてもいい。焼きリンゴにするならシナモンが必要だし、できれば香り付けにローズウォーターがあればもっといい」
 そんなことを楽しげに言うグレンを見つめ、アルバートは最初、自分がわずかに尊敬の眼差しを彼に向けていることに気づかないでいた。
 料理はアルバートにとって未知の領域だ。
 『食べられる』食事を作れるだけでも凄いと思うのに、グレンはプロの料理人顔負けではないか。そう思ったのだ。
 そんな視線を受けているとは露知らず、グレンはやがて料理を食べながら言った。
「そういえば、引っ越し先は決まったのか?」
「え、あ、まあ、いくつか候補はできてる」
 アルバートは我に返り、その表情を引き締める。そして、ブラウンの安全のためにも、こんな郊外ではなく街の中に引っ越しをすると決めたことを思い出した。さすがに、自分だけではなく幼い少年をこんなところに住まわせておくのは問題がある。
「部屋数は多いのか?」
 そう訊かれて、アルバートは警戒した表情をグレンに向けた。
「なぜそんなことを訊く?」
 すると、グレンは意味ありげに笑うのだ。
「俺の部屋も用意してくれれば、朝昼晩、美味いものを食わせてやってもいいぜ」
 アルバートは息を呑んで動きをとめた。
 そして、グレンとテーブルの上の料理を交互に見やる。
 やがて、無表情に言った。
「前向きに考慮する」
 それを聞いたグレンは、内心で呟いた。
 餌付け作戦は成功しているらしい、と。
 またアルバートは食事に専念し、時折満足したような笑みを浮かべて見せる。その笑みを見ながら、グレンはじりじりした感情が自分の中にわき上がってきていることを知った。
 ――やっぱり、惚れてるんだろうな。惚れるという感情はまだよく解らんが。
 彼はそっと頷いた。


   第三話 了

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