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 通い慣れた道を桐島和也は早足で歩いていた。
 時刻はすでに夜の十時頃になっていた。
 剣道部に所属する和也は近づいてくる大会に備え、近くにある森を利用し、自主的なトレーニングに励んでいた。
 素振りをしているうちにいつの間にかこんな遅い時間になってしまっていた。
 誰もいない夜の森を和也はひたすら進んでいく。
 そこは月明かりも届かない、暗く、非常に不気味な雰囲気で、幽霊が出るとするならまさに絶好の場所である。
 並みの神経の持ち主なら怖くて夜中にこんな森を歩くなど考えもしないだろうが、和也はそんなことはお構い無しに平然と森を歩いている。
 彼は昔から何かが怖いなどと思ったことはなかった。
 身体的に恵まれていたためどんな奴との喧嘩にも負けたことはなかったし、学力、容姿共に優れており、精神的な強さまで兼ね備えていた彼に怖いものなどあるはずもなかった。
 しばらく森を歩いているとふいに何かがうっすらと光っているのを見つけた。
 こんな場所に照明などあるはずもなく和也は首をかしげる。
 (なんだ?あれは)
 疑問に思って近づいてみると何かを祭っているのだろうか・・
 注連縄がかかっている岩があり、それがどういう原理か知らないが怪しげに発光していた。
「へー、こんなものがあったんだ・・・。」
 和也がこの森でトレーニングを始めたのはつい最近のことである。
 いつも使っていた空き地に家が建ったため使用することができなくなってしまったため、途方にくれていたところこの森を発見した。
 だからこんな場所があることを知ったのは今日が初めてだった。
「しっかし何で光ってるんだ・・・何かのトリックかな?」
 よく見ると光は中心に貼ってある薄汚い札を中心に発光しており、その札にはごちゃごちゃと古い文字が書かれていた。
「なんだこの札」
 その札に興味を持った和也がもっと近くで見ようと顔を近づけたその時、小石につまずき、和也は前のめりに転倒してしまった。
「いってぇ・・・ったくついてないぜ・・・あれ?」
 気がつくと和也はその手にさっきの札が握られていた。
 どうやら転んだ拍子にどこかを掴もうとして札を引き剥がしてしまったらしい。
 突然、光が先ほどまでのうっすらとしたものではなく、強く激しくなり、物凄い勢いで輝いたと思うとすぐに岩は発光しなくなった。
 その瞬間、黒い靄のようなものが岩から出現した。
「な・・なんなんだ!!いったい!!」
 和也は慌ててその黒い靄から離れ、さすがに危険を感じたのかそのまま逃げようとしたが、黒い靄に「睨まれた」途端に体がまったく動かなくなった。
 靄に目などあるはずもなく、睨むことなどできるはずもないのに和也はなぜかそう感じた。
「見つけたぞ・・・。」突然・・・黒い靄がそう呟いた。
「えっ?」和也は驚いて周りを見回していたが
 彼以外の人間は存在しなかった。
「そんな馬鹿な・・。」
 信じられないと言った表情で和也は黒い靄を見た。
 無理もない・・靄が喋るなんて彼の常識に範疇を超えていた。
「見つけたぞ・・」再び同じ事を呟くと黒い靄は和也の方へと近づいてくる。
「うわあああああああ!!」逃げようとしても体はまったく動かない。
 ついに、黒い靄は和也の体を包み込んだ。
 (苦しい・・息が出来ない。)
 意識が薄れていくのを感じる。
 瞼が重たくなり、視界がどんどん狭まっていく。
 そして和也は意識を失った。

 夢を見ていた。
 夢の中では巫女服を着た少女が一人で魔物と向かい合っていた。
 長い艶やかな黒髪を持つその少女はこの世のものとは思えないほど綺麗だった。
 魔物が少女に向かって飛び掛る。
 少女につけられたのだろうか?
 全身におびただしい数の傷を負っており、もはや満身創痍といった状態だった。
 魔物の牙が彼女に届く前に少女が札のようなものを懐から取り出し魔物に突きつける。
 すると札から凄まじい衝撃波が発せられ魔物を近くにあった岩に叩きつける。
「ぐぎゃああああ!!!」
 魔物が思わず耳をふさぎたくなるような物凄い悲鳴を発する。
 少女は無言で魔物に向かって札を一枚放り投げる。
「ぐおおおお!!!」
 札が魔物の体に触れると物凄い光を発し、魔物の体は背にしている岩に吸い込まれていく。
 少女はその様子を見届け、何か呟いた後、踵をかえしその場から去っていく。
「女!! 覚えている!! 必ず蘇り、貴様に復讐してやる!! 殺すなどという生易しい事ですむと思うな!! 生き地獄を味あわせてやるからな!!」
 断末魔の叫び声をあげ、魔物は封じられた。
 それで夢は終わった。
 夜の冷たい風が和也の頬を撫でる。
 その感触で和也は目を覚ました。
 (変な夢を見ちまったな)
 起きてすぐ頭に浮かんだ事は黒い靄のことよりもさっき見た夢だった。
 どうやら気を失っていたらしく、時計を見ると時刻は十二時。
 あれから二時間ほど経過したことになる。
 夜の森は気を失う前の出来事が嘘のように静けさを取り戻していた。
 黒い靄はどこかへ消滅したのかどこかへ行ってしまったのかは分からないが和也にとってそんなことはもうどうでもいい出来事だった。
 それほど先ほどの夢は和也に強い印象を与えていた。
 (凄いリアルな夢だったな)
 夢の中では和也は少女の意識の中で魔物との戦いを見ていた。
 他人事のように少女と魔物との戦いを見ながら、まるで自分自身が魔物と戦っているような不思議な感じ。
 そのせいなのか、和也は目覚めているというのに、いまだに少女の中にいるような錯覚をしている自分に気がつく。
 先ほどから頭を動かすたびに長い髪がなびく感触がする。
 胸には男にはないはずの重みを感じるし、逆に男の下半身に無くてはならない物の存在を感じられない。
 服もさっきまで着ていたものとは違って、足元が寂しいような気がする。
 (まだ俺の頭は寝ぼけているのか・・・。)
 和也は額に手をやろうとして決定的な違和感を覚える。
 額に手をやる過程で、和也の目に映った彼の手は白く、細いしなやかな感じの手だった。
 慌てて自分の手がどんな手だったかを思い出してみる。
 (もっと大きくてごつかったよな・・・剣道のやりすぎでタコもあったし・・)
 気を取り直してもう一度手を見てみる。
 今、彼が想像したものとは対極にあるような、汚れ一つない綺麗な女性の手だった。
「どうなってるんだ!!」
 相当焦っていたのだろう・・和也は悲鳴に近い声をあげる。
「えっ?」
 自分の声を聞いてさらに和也は驚愕した。
 聞きなれた低い男性の声ではなく、女性の高い声・・
 それもとびきり綺麗な声音だった。
「な・・な・・・なっ!!」
 信じられなかった・・・確かに自分が話しているはずなのに聞こえてくるのはどこの誰とも分からない女性の声。
 さっきの手の事といい自分の体に起きている事は嫌でも想像がつく。
 しかし、そんな事が現実に起きるなんて信じられなかった・・
 信じたくなかった。
 (そうだ・・・まだこの目で自分がそうなっているとはっきり見たわけじゃない!!)
 だから自分の体がそんな風になっているとは限らないと彼は自分に言い聞かせた。
 普段、頭脳明晰な彼からは想像もつかない支離滅裂な考えだったがそれすらも分からないほど彼は動揺していたのだ。
 意を決した彼は近くの小川へと向かう。
 長い髪がさらりと流れるような感触と、明らかに男性の服装とは違う足元の寂しさを感じたが、彼はそれらに気がつかない振りをした。
 しばらく歩くうちに小川のせせらぎが聞こえてくる。
 森を少し抜けたところにあるこの小川は、ろくな魚がいないため釣り人には不人気だったが、景色がとても綺麗なので、数日前ここを見つけて以来、和也のお気に入りの場所の一つであった。
 水がとても澄んでおり、水面には木々や夜空に浮かず月などが映し出されている。
 和也は水面に自分の姿が映らないぎりぎりのところでぼんやりと小川を眺めていた。
 後、数歩踏み出すだけで真実が分かる。
 しかしそれを知るのが怖い。
 その二つのせめぎあいが和也を躊躇させていた。
 それは時間にして数分の事だったが和也には永遠にも感じられた。
 しばらくして、ようやく決意を固めた和也は先ほどまで踏み出せなかった数歩を踏み出した。
 そして水面を凝視する。
「はは・・・・こりゃ何の冗談だ・・・。」和也は力のない声で笑った。
 水面に映っていたのはさっき見た夢の中に出てきた少女そのものだった。
 黒い艶のある長い髪、透き通るような白い肌、理想を絵に描いたような可愛らしい顔立ち。
 そして着ている服はなぜかここら一帯で、デザインが可愛いと評判のお嬢様学校の制服だった。
「こんな・・・馬鹿な話があってたまるか・・・。」
 気がつくと水面に映る少女の目から涙がこぼれ落ちていた。
 強く、男らしくを目標に生きていきた和也にとっては十年ぶりの涙だった。
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