凪馬正貴1

 そこは、どこであったか。今、自分の目の前で繰り広げられている光景は一体何か。
「おらっ!」
 土塊が高速で飛んで行く。
「遅いっ!」
 その土は触れる前に稲妻に当たり炭と化し、さらに青年が突き出した腕からは幾つもの電撃が走る。
「ちっ」
 筋肉質な男の目の前で土が膨れ上がり、その電撃を受け、大地に流す。
「…………」
 何が何やらわからない。これは何かの撮影か? しかし、カメラは無いし……。
 少年は我が目を疑った。あまりにもフィクション。あまりにも非現実的。
 でも、そこから目を離すことができない。空気を走る稲妻や、突如盛り上がる地面、そしてぶつかり合う二人の姿を見ていて、次第に鼓動が早まり、息が苦しくなってくる。
「……っ」
 呼吸が出来ない。頭がガンガンと痛む。眩暈がする。
 発せられる警告にその身を任せ、少年はプツリと気を失った――。

 それの、ほんの十分前のこと。

 街に暗闇が落ちて、人工の光が灯る。
 駅前の商店街。陽は既に落ちたにも関わらず、そこには多くの人が行き交っていた。
 彼、凪馬正貴(なぎま まさき)はその人込みの中を歩いていた。視線は下。
 栗色の髪は短く切り揃えられている。可愛らしい容貌は、どう見ても高校生には見えない。一歩間違えれば女の子のようにも窺える。
 背は割と低い方で、常日頃「あと十センチは欲しい」と無理を呟いている。肩から通学用の鞄を担ぎ、近くの高校の制服を着ているが、どうもブカブカ感は否めない。
 成績は中の上。運動はそれなり。友人もほどほど。彼女はなし。良くも悪くも平均的なこの少年が、唯一人に誇っているものがあった。今は、それをした後の帰りである。
 耳に入れているイヤホンからの音楽を聞き流しながら、正貴は人にぶつからないように歩いていた。心狭きことに自転車通学は認められておらず、自宅までの道程を三十分かけて移動しなければならない。
 腕に付けている時計で時間を確認。もう七時を少し回ったところ。陽はとうの昔に沈みきっており、世界は人の手によって彩られている。
(もう少し……やってもよかったかな)
 つい五分間の事を思い出す。今日はいつも通りの成果が出せたから、あのままもう一回やっていてもよかったかもしれない、と正貴は少し後悔していた。
 この数分後に自分の身に訪れる災厄等、今の正貴には思いもつかなかった。日常と非日常は紙一重である。

 ふと、正貴はそこ≠見た。
 普段なら気にする事もない脇道。そこが何処に繋がっているのか、生まれも育ちもこの町である正貴ははっきりとわかる。少なくとも、帰宅には必要な道ではない。五分前に行っていたあれ≠焉A必要ないと言えば無いのだが。
 だが、正貴はその道を歩き始めた。特に深い理由は無い。ただ何となく、だ。
 その時は、そうだった。
 歩いて数秒。正貴は奇妙な違和感に気がつく。この道を歩いているのが自分だけだ、という事に。車はおろか、人っ子一人いない。
 左右は、既に人のいないビルが並んでいる。普段、この時間ならまだ仕事をやっている人もいるだろうに、声も、歩く音すらも聞こえない。
(……何だ?)
 流石に不思議に思った。だが、だからと言って恐怖などは抱かなかった。そういうこともたまにはあるのだろう、と決め付けて、正貴は歩き続けていた。
 もし、この時点で戻っていれば、また普段の生活ができたかもしれないのだが。
「……!」
 ふと、イヤホンと音楽越しにも聞こえてくる、何か。咄嗟に片方を外し、その音を直接確認しようと――
 ゴゴゴゴォ!
「……は?」
 丁度差し掛かったその場所は、公園だった。公園と言ってもそれなりの広さがあり、子供達が暴れ回るには丁度良い広さだ。
 だが、今、ここで暴れ回っているのは子供ではなかった。片方は金髪の青年。もう片方は筋肉質の男。どちらもいい年齢だろう。
 そんなことは、正貴にとってはどうでもよかった。まるで男を庇うように盛り上がった地面≠謔閧ゥは、遥かに――!

 時計の針は九時を指していた。
 正貴が気付き、最初に目に入ったのは、コンクリートの壁だった。
「…………」
 どうにも思考が定まらない。低血圧なのか、自分がベッドに横になっている事に気付いていない。
 まるでここに自分がいるのが当たり前、とでも言うように布団に包まると寝返りを打つ。そして、暫しの時間を要して。
「……」
 眠そうに瞼を半分閉じていながらも、正貴は上体を起こした。
「起きましたか?」
 横から声。まだ完全に覚醒していない意識で、正貴は首を右に向けた。ちなみに左は壁である。
 そこにいたのは、椅子に座っている青年だった。美しい金髪が肩まで伸びている。きりっとした目の奥に、髪と同じ色の瞳。かなり細い体型だが、無駄な脂肪や筋肉がないそれは、青年が醸し出す美しさに繋がっている。
 中性的な容姿ではあるが、最初の声はどちらかと言えば男よりであった。だが、寝起きの正貴には判断する能力がない。また、する気もない。
「大丈夫ですか? どこか痛みますか? お嬢さん」
 青年が、自分を気遣ってくれているのは辛うじて理解した――正貴は段々と冴えてきた意識で、こくりと頷く。
 ――待て。
「……お嬢さ、ん?」
 金髪に問い掛けた筈なのに、最後には自分自身への疑問に変わってしまった。声が、高い。
「あ、あー、あー……」
 普通に、ごく自然に声を出してみる。段々と意識が浮かび上がってきたために、それははっきりと理解できた。
(いつもの……声じゃない)
 確かに、外見は酷く女の子寄りだ。だけど、自分は男だ。変声期で、声は多少なりとも低くなった。それは中学校の時に体験した。
 だが、今の声は明らかにおかしい。まるで女の子≠ンたいな声――
「……え? ええ!?」
 さらに、正貴は気付いてしまった。視線を下に向けた、そこにあるものに。無いはずのものが、自分についていることに。
「む、む、むむ胸!?」
 思わず両手で鷲掴みしてしまった。柔らかな弾力が返ってくる。よく見れば、その手も自分のものではないかのように、細く白い。
 殆ど無意識に、正貴は股間に手をやった。もしかしたら。ひょっとしてひょっとしたりするのでは?
「………………」
 顔面蒼白。
 そんな正貴の慌てふためく様子を、青年は不思議な顔で見つめていた。胸がどうのこうの、と言っているが、何かあったのだろうか。
「何か……ありました?」
 思ったそのままを、青年は口にした。だが、一点を見つめ冷や汗を流す正貴には、その声は届かなかった。
「もしかして、何か落としてきたんですか?大切な何か、とか」
 その様子に少し慌てて青年が立ち上がった。だが、正貴はゆっくりと首を横に振った。
「……お……女に、なってる……?」

 それが、凪馬正貴が非常識の世界へと足を踏み入れた、最初の日であった。

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