ぱっと見の外見が殆ど変わっていないことは不幸中の幸いと言えた。かと言って、百パーセント安全、というわけでもない。しかし、彼は特に視力低下していない。
従って、今彼が掛けている眼鏡は伊達である。だが厄介な事に、その眼鏡が大きめな丸レンズで、酷く内気に――言い方を変えれば普段の彼より女々しく――見せてしまっていることに、本人は全く気付いていない。
因みに、これは昨晩ラモンからいただいたものだ。
「……はぁ」
本日、二十四回目の溜息。正貴は机に肘をつけて頬杖をつき、窓の外に視線を遣った。丁度窓際だったのは、それこそ幸か不幸か。
(胸がきつい……)
少し脇の位置を気にして触れて、何かずらすような仕草。そして元の体勢に戻ると、もう一つ溜息。酷くアンニュイな光景である。
女性が胸を隠す定番と言えばサラシである。しかし、そんなもの何処に売ってるのかわからないし、第一買いに行く時間がない。何かで代行するのであれば、きつめのシャツを着るか? 包帯を巻くか? それともタオルか?
正貴は最初と最後の選択肢を取った。即ち、普通のタオルでは後ろまで届かなかったため、普段着のシャツをきつきつに巻いての御登校となり申した。
勿論、突然眼鏡になった正貴に友人は噛み付いた。やれ心境の変化だの、やれモノの壊れ易い部分を見えなくするためだの、本来の意味がない辺り、正貴がからかわれキャラとして定着しているのがよく伺える。
「……はぁ」
そんな絡みを思い出し、二十六発目の溜息が漏れた。
「よーう、校売行こうぜ、正貴ー」
四時間目も無事終わり、今度は安息の溜息を漏らした正貴の元に、一人の男子生徒がやってきた。黒くて短い髪は割と跳ね気味で、その飄々とした態度は、誰が見てもお調子者だと感じさせる。
そいつ――谷崎守(たにざきまもる)は正貴の一年生以来の親友である。
「あ、今行く」
極力声を低くして喋る。それでも、男の時の普段と同じ高さになるのだから、何か納得がいかない。
授業の準備を終え、正貴は守の後を追うように教室を後にする。まだ親友に自分の体の変化がばれていないことを確信しつつ。
この高校には学食というものが存在しない。その代わりに校売と呼ばれる学校内にある売店が設置されている。登校途中に昼食を買い忘れた生徒達は、ここに糧を求めて集うのだ。
大きさ的には駅の売店程度。なので、生徒が殺到するのは至極当然と言えよう。
当然の筈なのに、何故かこの二人は余裕で廊下を歩いている。守等を見ては鼻歌が聞こえてきそうな程だ。
昇降口を抜け、丁度売店が見えたところで、
キーンコーンカーンコーン……
お約束とも言える鐘の音が、学校に終業の合図を知らせる。
そう、まだ授業時間は終わっていなかった。たまたまキリのよい所で授業が終わり、教師が早めに切り上げたのである。二人の余裕な態度の根拠はこれだった。
当然人が集まる前だった売店で、昼食を購入した二人は余裕の表情で来た道を返っていた。誰かが急いで通り過ぎる度、
「へへ、ざまあみやがれ」
と守が呟きながら。
(……気付かないよなあ、皆)
だが、正貴は内心ヒヤヒヤしていた。
部活をやっていないため、他の学年の知り合いや友人というのはいない。だが、同じ学年で他のクラスの友人に会うかもしれない。もしくは、何故か「可愛い〜」と言ってやたら近寄ってくる先輩方――当然、女だ――が来るかもわからない。そうなった時、眼鏡を差し置いて、自分の変化に気付くだろうか。
少なくとも、現時点ではまだ知り合いにはすれ違っていない。このままなら大丈夫そうだ――
だが、平和は時として簡単に崩れるものである。それも、意外な場面で。
「……あ、ごめん。僕トイレ」
「あ、じゃあ俺も」
高校二年にもなって連れションがどうとか言うこともない。二人は近くにあったトイレに入った。当然、男専用だ。
この時も、正貴は自分の体が女になっていることを失念しているわけではなかった。ただ、十幾年慣れ親しんだ体の癖は、そうそう取れるものではない。
正貴は、尿をたすための便器に立ってしまった≠フだ。そして、隣には守。
殆ど無意識にチャックを下ろし、モノを――
「……あ」
……そうだ、思い出した。妙に股座がスースーすると思ったら。
そこには、当然何もなかった。女の体にペニスが付いているとすれば、それは道具かふたなりか、だ。
「ん?どうした?」
正貴の呟きにいつもと違う感じを聞き取り、守は隣、正貴の様子を見た。その正貴は視線を下にしている。男のモノを見る趣味は無いが、何となく気になって視線を下ろす。
そして、見た。いや、見えなかった。
「……あ、あれ?」
「ご、ごめん、僕大きい方だった!」
少しの間呆けていた正貴が、慌てて振り向きすぐ後ろにあった大用の個室に駆け込む。扉を閉じて、鍵を閉めた。
「あ、じゃ、じゃあ俺先に外で待ってるから」
素早く用をたしたのか、守は足早にその場を後にする。
一人残された正貴は、個室の隅で固まっていた。
(見られた……? 守に?)
胸が高鳴る。それは、自分の隠し事がばれてしまったという絶望感からだと、何故か冷静に判断できた。
しかし、体はそうではなかった。胸の高鳴りと比例して、体が熱く火照ってくる。興奮してる、或いは昂揚していると言い換えてもいい。
下半身が疼く。息が荒くなる。胸を押さえても、その高鳴りが収まることは無い。
(落ち着け、落ち着け……大丈夫だ。気付かれてない、ばれてない、たまたま見えなかっただけ、そうだ、大丈夫だ)
気持ちを落ち着かせるために何度も深呼吸をする正貴。次第に昂揚は薄れ、元に戻っていく。
ここが個室だったのは幸いした。何故ならば、眼鏡がずれ、紅潮した頬、それらを含め正貴の表情は酷く扇情的で、そのテの趣味が無くとも、男なら襲い掛かってしまいそうな程だったから。
正貴が外に出ると、そこには妙にい辛そうな守の姿があった。
「お、お待たせ」
「お、おう」
妙にぎこちない挨拶を交わした後、二人は教室に向かって歩き出した。
………………
会話が無い、やたら騒がしい廊下だが、ここだけが妙に静かである。妙なことばかりである。
(やっぱり……ばれた……のかな?)
冷や汗が流れたような気がした。いつもなら何ということはないのに、何故か隣を歩くのが辛い。足が重い。
だが同時に、今のをきっかけに自分の今≠させられた。自分は間違いなく女である、という今、この事実を。
『リアリティと世界は密接に関わりあっているが、たった一つの存在のために世界は動いちゃくれねえ。それは、どの社会でも同じことだろ?』
と言ったのは、昨晩のラモンだ。
そんなことを思い出していると、
「……なあ」
ビクッと体が震えたのは、勿論正貴だ。守が言葉を掛けてきたのだ。
「な、何?」
「お前、もしかして、本当は女だったのか?」
直球。
「な、な?」
あまりにもストレート過ぎる質問に、正貴の思考と歩行が止まった。同じ様に守も歩を止める。割と真剣な表情で正貴の顔を覗き込んでいる。
「や、やだなあ。そんなことあるわけないじゃないか」
咄嗟に嘘をついて誤魔化す正貴。視線を泳がせて戸惑う素振りは、『嘘をついてます』と自分で言っているようなものだ。
「じゃあ、証拠を見せてくれ」
「へ?」
「お前が女じゃない証拠。ほら、早く」
廊下のど真ん中で、この男は何を馬鹿なことを……
正貴はしかし動揺した。この男、谷崎守は気軽そうな一見とは違い根はしつこく、獲物に喰らいつくと離さない。要は頑固である、ということだ。
そんな守を前にして、しかし正貴は返す言葉を見つけられなかった。兎に角、今の自分で男である証明を……
体……女。
声……女。
顔……元から女っぽい。
物……物的証拠? そんなもん何がある? 免許とか保険証ならいいんだろうけど、今はないし……
「……馬っ鹿だなあ、何本気になってるの? そんなことあるわけ無いじゃん」
結果、具体的な打開策は思いつかず、適当にはぐらかす選択をした。緩んだ笑顔を見せて、先に進もうと歩を進める。
すれ違った瞬間、守が小さく口を開いた。
「あくまで白を切るつもりか」
その響きに、正貴は三度目の動揺を感じた。守の言葉に、何か今までと別のものを感じる。簡単に言えば、嫌な予感。
「ならば……実力行使だ!!」
「は? あ、ちょっ!」
突然守は正貴を後ろから抱きついたかと思うと、左手を胸、右手を股間に当てる。言葉通り、自分で確かめようとしたのだ。
「ちょ、ちょっ、ちょっと!?」
ここまで直球な行動だと本当になす術が無い。慌てて振り払おうとするが、一歩遅かった。
「お、股間に感触が無い」
今の時間は昼休み。すれ違う生徒もいるというのに、そういう事をさらっと言ってしまう辺り、デリカシーが無いように感じる。守のそういうところがくっつき易い理由ではあるのだが。
「あ……ちょっとぉ……」
わきわきと蠢く手が、押さえつけられた胸とズボンの下の股間を愛撫する。何だかもどかしい感覚に囚われて、体の奥底からじわり、と何かが滲み出るような感覚。段々と肌が紅潮してくる。
男子生徒二人が、廊下でこんなことをしていると、酷く滑稽に――というか、ぶっちゃけ気持ち悪く――見える。
と、ここで守が離れた。
「正貴の正体見極めリ、だな?」
殆ど無意識に距離を取り、守を睨みつける正貴。まだ燻ったような感覚は残るが、頭を振ってそれを吹き飛ばす。煩悩退散。
「な、何すんだよっ!」
「ん〜面倒くさいから自分で確かめたんだよ。文句あるか?」
「あ、あるに決まって……」
正貴の言葉を遮って、守は飄々とした態度で歩き出す。慌てて後をついて行く。
「つまり、あれか」
「何?」
少し棘を含んだ言葉を放つ。効果は無い。
「とある事情により男として入学せざるを得なかった、みたいな?」
「……は?」
突然の自論展開に、呆れを通り越した声を上げる正貴。そんなのは全く無視して、守は言葉を続ける。
「いやほら、小説とか漫画とかでよく聞くじゃん? ああいうのだろ?」
「……えっと」
「前からこいつ女々しい奴だなー、とか思ってたけど、まさか本当に男だとはなぁ」
「…………」
何だか発言する気力を失った。どちらかというと変な思考の持ち主だとは思っていたが、そういう解釈をするとは思わなかった。せめてもっと驚くとか、慌てるとかさぁ……
「……兎に角、他の人には黙っててね」
かなり間違った見解ではあるが、それならそれで説明する手間が省ける。自分の不可解な事実よりも、本人の妄想に任したほうがよっぽど楽だ。
「うーん、ただ黙ってるってのもなー」
手に顎を当てて何やら考えている守。何か奢らせるつもりだろうか? それともパシリ、アッシーか。
くるりと振り向いた守の目は、子供のような純粋さを持っていた。
「一発、ヤらせてくれ」
「……へぁ?」
本日何度目の放心だろうか。自分の想像とはあまりにもかけはなれた言葉を掛けられ、正貴は再び立ち止まった。
「いやほら、俺、あんまり女の子と接点が無いからよ。ずっと付き合ってたお前となら、出来そうな気がするんだよな、セックス」
「ばっ……」
赤面。随分と軽く言ってくれる、その、せ……って。
「馬鹿っ! そんなことさせられるわけないでしょ!?」
「じゃあばらす」
「ぐっ……」
歯を食いしばって引き下がる正貴。ばらされると何が起こるかわからない。それに、守というフィルターを通しているため、真実ではない状況で流れる。そうなると、そういうシチュエーションが好きな男子に襲い掛かられそうだ。
その光景を想像した途端、背筋を寒いものが走った。
「ほ、ほかの事じゃ駄目? ほら、パシリと奢りとか……」
「じゃあ、向こう一年駅前のラーメン奢り権」
また無茶な事を言う。そんな事できる筈がない。よくよく考えれば、資金面では大幅な支援は望めないのだ。
だが、しかし。
セックスとは、また馬鹿げた事を。自分は男なのだ。出来うることならば女性との交友を持ちたいと思うものだ。それなのに、男に抱かれるというのは全く持って想像できない。
「……〜〜〜〜」
どうしろと言うのだ。どちら飲み難い条件だ。だが、自分の正体はなるべくならばばらされたくない。
「ま、答えは急がんでいいよ。兎に角昼飯食っちまおうぜ」
気軽な態度はそのままに、守は教室に向かって歩き出した。その後ろを、深刻な表情のまま追う正貴。
その手に握られていた焼きそばパンは、握りつぶされて原型を留めていなかった。
ヒュウゥゥゥ……
風が流れている。空は茜色に染まり、沈み往く太陽を見送るように、月と少しの星が空に瞬いている。
放課後、正貴は一人屋上にいた。九月という事もあり、まだそう簡単に日は沈まない。ただ、六時を回ればそれ相応に暗くはなってくる。
校庭では、練習を終えてグラウンドを均している野球部員やサッカー部員の姿がちらほら。これからミーティングとか何かをやってから帰宅するのだろうか。
「…………」
フェンスに手を掛けて、ただ外を見続けている。その瞳は虚ろで、何も考えていないように見える。
実際には、色々考えていた。何でこんな事になったのか。自分の変化と、自分を取り巻く環境の変化。こんな非現実的なことが、あっていいのか? これは、本当は夢では無いのか?
そっと、自分の胸に触れた。静かだが、確かに鼓動が動いている。その前には、押さえつけても隠し切れなかった、確かな膨らみがある。
そして、守に気付かれて、それの口止めとしての代償。
何もかもが憂鬱だった。意識した途端、急激に疲れて、フェンスに頭から寄りかかる。
「はぁ……」
もう何度目か知れない溜息。どれだけ吐いても、心に溜まる澱んだ何かはなくならない。
「……仕方ない、のかな……」
残された道は、徹底的に拒否し続けるか、この今をすんなりと受け入れるか。だが、正貴の心は前者を選ぶほど強くなく、また後者に甘んじる程流されやすいものでもなかった。単純に、優柔不断とも言える。
(……兎に角、レイさんの所に行こう。ここでこうしてたって、何も始まらない)
何とか気を持ち直し、フェンスから顔を上げた、
正にその瞬間だった。
「貴方、覚醒者≠ヒ」
「!」
正貴の表情が驚愕に染まる。
その声は確かに後ろから聞こえて来た。確かに、ここここ屋上は一般生徒に解放されていて、誰でも出入りは自由だ。部外者以外なら誰がいてもおかしくない。
だが、ここの扉は酷く古く、開く度に軋む音が鳴る。それに、人の歩く音もしなかった。
――何故、僕の後ろに人がいる?
――そして、僕を、覚醒者≠知っている!?
慌てて振り向いた、つもりだった。
真横を向いた時点で、頭に強い衝撃。次いで、体ごと大きくフェンスにブチ当たる。その威力が強すぎて、元々古かったフェンスはあっけなく破壊され、吹き飛んだ。
そして、その衝撃をもろに受けた正貴もまた、宙へと舞う。その体は、地球の物理法則・重力に逆らうことは出来ず、
そのまま地面へと落下した。