学園長室までの道のりが異常に遠い…。遠い、のではない。脚が重いのだ。とてつもなく…。
階段を上れば次第に視界の上部からゴールが見えてくる。
目的地、学園最高責任者の部屋、入り口のドアの前でこちらに手を振るユカリも同時に見える。
長い長い一本の廊下が続く本校舎の最上階は通常生徒がくることはめったにない。
職員の会議室や文書倉庫、そして学園長室。普段から頑丈な魔法施錠が施されておりセキュリティも厳重だ。
何が楽しいのか、自分がドアの前に到着するまでずっと彼女は手を振り続けていた。
よくそこまで筋肉がもつものだと思えるほどニコニコと笑みを絶やさない。
服の上からでもわかる意外なほど大きな胸がそのたびに震えていた。彼女の無邪気な顔からついついそちらに注意が向いてしまう。
「んもう、遅いですよ!」
「…すまない」
朝の早くからいったい誰のせいだと思っているのだ…。でもそんな言葉は胸にしまっておくことにする。
「今朝偶然学園長とすれ違ったら、お姉さまをすぐに呼んできて欲しい、っていわれたんです。」
お姉さまには私がつきものですものね、とテレながら付け加えてくる。
「憑き物」の間違いでは無いだろうか。これもまた心のうちにしまっておく。
「先日の異世界への研修報告についてらしいんですけど…別に急ぐこともないと思うんですけどねえ…」
ユカリもまた自分と同様、異世界への研修を言い渡されていた。恒例の行事なのだから当然である。
研修報告は文書によるレポートを提出することとなっている。今回のように呼び出し、しかも学園長からというのは耳にしたこともない。
自分が叶えた願いの内容について、であろうか。事前の説明では、願いの内容は各自学園の生徒としての自覚を忘れない範囲、ということであった。
身体を許す、というのがその「自覚」から逸脱したのだろうか。確かに気負いすぎていたかもしれないが…。
何度か深呼吸してからドアをノックする。過去に数度入室したことはあるものの、いつも緊張してしまう。
(呼ばれた以上は対面するしかあるまい…)
「マーヤ=トーレランスです…」
「…入りたまえ」
もう一度深呼吸。ドアノブに手をかける。
「それじゃあ、私は廊下でお待ちしてますね!」
さすがに気を使い、ユカリも声のボリュームを抑えている。
コクッとうなずいて、入室した。一瞬で吸い込む空気が変化する。
「こんなに朝早くに呼び出ししてすまないね」
正面奥。いかにも、といった学園長専用の大きな机。両肘をついて学園のボスが悠然とそこにいた。
ガラス窓から差し込む朝日の逆光のせいで学園長の表情はわからない。語調からは穏やかな雰囲気がつかみ取れた。
「いえ…。どんなご用件でしょうか…」
一辺倒の礼儀を交わし、さっそく本題にうつる。
ふぅ…と学園長が息をついた。なんだか…いやな予感が…。
「少々…」
いちいち溜めなくてもいいタイミングを作ることがあるのは誰もが認める学園長のクセだ。本人は気づいてはいまい。
「困ったことに…なってね」
予感的中。拍手をする気にもなれない。
一度両肘を遊ばせ、また同じスタイルに戻る。なんの意味があるというのか。
「君の異世界研修のことだよ。…『願いの成就』の処理については…君も、知っているとは思うがね」
もちろんだ。だてにエリートとはいわれていない。本来そういった処理については生徒が携わることは一切無いが、すでにマーヤには職員がするある程度の事務処理を任されていた。
将来的にはこの学園を運営する一員として成果をあげ、ゆくゆくはマーヤ=トーレランスという名を上げていきたいと考えている。
「はい。それはもちろん」
「うむ…。さすがだね…。それだから、もちろん、君が叶えた願いは…その、なんだ、まぁ…我々はすでに把握している」
内容が内容だけに…少々明言しづらいようだ。
やはりそういうことか、マーヤは今日何度目かの頭痛にみまわれる。『願いの成就』は基本的にすべて自動で行われるためしかたない。
「その…学園長、…申し訳ございません。ですがその…」
「いや、別にいいんだ。内容は…確かに私も…こういったことははじめてなのだが…それが悪いということではない…と思うよ」
「は、はぁ…」
なんだ、OKなのか。では、いったいなにがあったというのだろう。『成就』はうまくいったはずだ…。
「実はシステムに不具合が…あってね…。定められた「願い」の原則と…不具合が…あったのだよ。」
「システムの…不具合、ですか…」
『願いの成就』とは願いの「発生」から願いの「完了」までとされる。
願いの「発生」とは言葉どおり、…がしたい、というような単純な『想い』であり、それが叶うことで本人が『満足』すれば「完了」ということになる。
それら一切の情報は一定の段階でマーヤを媒体として次元を超え、学園にてすべて自動的に処理される。
送られてくる「満足」の度合いこそが「どれほど願いを叶えられたか」であり、研修の成果としてレポートとともに成績処理されるのだ。
当然のことであるが『想い』と『満足』には十分な関連性がなくてはならない。願いの最初と最後でつながりをもたなければ“叶えきった”こととはされないのである。
「もしそういった願いの前後に不具合があれば本人の記憶を消去してすべてなかったこととする、ということになっている」
「はい。それは承知しています。もしかして…。」
「そう。確かに願いの不具合はあった、といえる。」
エリートにあるまじき醜態だ。そういった不具合を生じさせないような願いを見出すことも研修の目的だというのに…!
目に余る落胆ぶりに心を痛めたのか、学園長が言葉を補足した。
「そういったことは往々にしてあるのだよ、毎年数十件は確認されているしね」
「そう…ですか」
みながやっているから、ということが過ちを正当化できるわけではない。
しかし次に学園長は意外なことを口にする。
「そういった不具合の是正はすべて自動処理というシステムになっている。その処理が今回はうまくいかなかったのだ。」
「な、なぜですか…!?」
「正直にいうとね、根本的な原因は我々もまったく理由がわからない。」
事の経緯はこうだ。
今回の願いの不具合とは、一番ありがちな「願いの重複」だ。ようするに願いが複数送られてきたのである。
ひとつめの『想い』と『満足』とに不具合が発生したとき、ただちにその是正処理が行われた。ここまではうまく処理がいっている。
だが実際にその影響力を次元を超えて及ぼそうとするとき、原因不明の理由により動作しなかった。
魔法システム全体が一時的に混乱中、それを突くようにふたつめの願いが受信されたのである。
システムはそれを緊急時の新たなる指令と判断し最優先、『願い』としてではなく『不具合是正の影響力を発生させる処理』として働いてしまったのだ。
「我々がかつて直面したことの無い事態だ。しかも運の悪いことに…」
結局“システムが”叶えることになった願いが、不運にも『願いの原則』に抵触していた。
毎年多くの学生たちがさまざまな異世界へと送り出されるのだ。その世界に多大な影響を及ぼすような結果を残してはならないことはいうまでも無い。
だから願いとは“一時的”なものである。今回マーヤが叶えたような一時の性欲の処理などがそれに当たる。
たとえば「背を1センチだけ伸ばして欲しい」というようなささい願いでも、それがその後一定の影響力を世界に与えることには違いない以上受け入れられない。
もっともそこまで厳密にしていてはなかなか研修が進まないので、ある程度は黙視されている部分もあるが。
「ささいなことであれば我々も黙認できるんだがね。さすがに今回はそうもいかない。強制的に元に戻せないこともないとは思うが、それでは根本的な解決にはならない」
「では…現状のまま、ということですか…?」
「本来そういうわけにもいかないのだが…今回はこの原因の解決こそが最優先とされたのだよ。最低解決のメドがたつまでこのままだ。今後のこともあるしね。」
「そう…ですか…」
いったい自分には何ができるのだろう。誰も予想だにしないことであったとはいえ、自分の汚した尻くらいは…。
そして学園長は新たなる任務をマーヤに告げた。
「君にはもう一度人間界へと戻ってもらい、彼の生活をサポートする役目を担って欲しい。」
「…はい!。」
当然だろう。それくらいの責任はとりたい。
そう…マーヤには夢がある。母のような偉大な魔法士になることだ。
これは新たなる試練なのだ。威厳に満ちた態度を崩すことはあってはならない。
「…そ、そういえば…。雄介は…いえ雄介さんはどういったことに…?」
学園長から発されたその答えはマーヤに人生最大の頭痛を負わせる十分な破壊力をもっていた。