16

 結局あの後10分ほどして、静奈の車は瑞稀の家の前にやってきた。
 あまり女性の乗るようなタイプではない真っ赤なスポーツカーだ。
「おまたせ、令。」
 静奈は車を降りて令を呼んだ。令がそれに礼を言おうとして、その視線が自分に向いてない事に気が付く。
 そのまま首を静奈の視線の方向に向けると、隣にいた瑞稀が目に入った。
「お久しぶりね、杉島さん。令のお友達ってあなたの事だったのね」
「あ……あの、お久しぶりです三木原先輩……」
 なにか脅えているような、照れているような微妙な瑞稀の顔色。
 令は漠然と、何かとてつもない不安が頭をよぎった。少なくともこの二人は初対面ではないのだ。
 同じ学校に通っていた以上、面識がある事自体は不自然ではないのだが……
「これも縁かしらね……ま、いいわ。令、乗りなさい。」
 静奈に促され、令はいさささ車高が低くて座り辛いその車の助手席のドアを開け腰を下ろした。
 そのまま静奈も運転席に収まったので、令はスイッチを押して窓を開ける。
「じゃあ瑞稀さん、また明日学校で」
「うん。じゃあ令君も先輩も気をつけて……」
 瑞稀は小さく手を振って微笑む。そのまま発進……かと思われたが、静奈がひょいと顔を出した。
「杉島さん、昔みたいに”お姉さま”って呼んでかまわないのよ?……じゃあね」
「……!!」
 顔を真っ赤にして俯く瑞稀に静奈はいたずらっぽく微笑むと、そのまま車を発進させた。
 表通りを走るその車の車内に響く音は暫くエンジンの音と周囲の雑踏だけ。
 その沈黙を最初に破ったのは令の方だった。
「姉さん、まさか瑞稀さんにも手を……」
 その声は露骨に呆れたという色をを含んでいた。そのままジト目で静奈を見る令だったが、当の本人はいたって涼しげな顔でハンドルを握っている。
 令の知る限り瑞稀が令の家に泊まりに来た事はない。そんな事があれば覚えていないはずがないからだ。
 つまり、家に来た人達は氷山の一角だという事。

 そして当の本人はそのまま黙殺するのかと思われたが、焦らすように遅らせて口を開いた。
「あの子って、見た目タチっぽく見えるけど実は完全にネコなのよね。
 苛めると可愛い声であんあん鳴くのよ。そのくせずーっとウブなままだったわ」
 静奈は清ました顔のまま、過激な答えを平然と口にした。
 まあ予想通りの答えだったので、令には露骨な溜息で返す以外の反撃手段がない。
 なんで瑞稀が双頭ディルドーなんかを持っていたのかも合点がいった。
 つまりそういう事だったのだ。知らなかったのは令だけという事……。
「でも……令にそれを言われるのは心外ね。令だってやっちゃったくせに」
「な、な!! なんでそんな事!!」
「誤魔化しても無駄よ。そんなのすぐにわかっちゃうんだから」
 明らかに確信を持った笑みに令は反論を諦めた。この手の経験で姉に勝てるわけがない。
 結局や藪蛇だったようだ。なにしろ帰り際の言葉で予想はほぼ確定だったのだから。
 と……そんな思惑を余所に静奈が言葉を続ける。
「令はようするに男の子として、瑞稀が好きだったわけ?」
 突然の指摘に令はまるで心臓にナイフでも刺さったかのようにドキリとする。
 それは確かに男の令にとっては紛れもない事実だった。
 男の令はその気持ちにすら気がついていなかったが、確かにそうだったと言える。
 しかし……今心臓を突き刺した感情の裏に、奇妙な違和感が張り付いている事に気が付いた。
 −男の子として……? 男……だったら?−
 何かえもいわれぬ表現できない感情がそこにあった。
 瑞稀が好きなのはまぎれもない事実なのだ。しかし何かがそこに引っかかる。
 先ほど令は彼女と擬似的とはいえ肌を重ねた。性的な関係として結ばれたのだ。
 本来ならば今日は興奮と喜びで寝られないほど感情が高ぶっているのではなかろうか?
 しかしどこかにそんな令を冷めた目で見る自分がいる。
 何かがわからない。しかしそれを”ちょっとした悪戯”程度にしか見ていない自分がいる。
 しかし令にはこの感情が理解できなかった。いくら記憶を探っても答えは出てこない。
 そうこう考えるうちに、令はそもそも自分がいったい何に悩んだのかもわからなくなってしまった。
 そんな思考の堂々巡りに悩む令を見て、静奈が不思議そうに声をかける。
「どうしたの? 何か悩み事?」
「いや……そういう訳じゃないんだけど。よくわからない……」
「ふぅん……」
 結局静奈の問いは令の曖昧な対応で消されてしまった。
 静奈自身もそこまで深く問い詰めようという気もなかったのだろう。
 それに令自身も答えどころか問いも頭の中でごちゃごちゃになり、答える事はできなかった。
 そのまま会話はそこで中断してしまい、再び沈黙が訪れた。
 が、しばし間を置いてから静奈があの笑みを浮かべた。
「ま、いいわ。悩みなんて忘れさせてあげるから、今晩は覚悟なさい」
 言葉とともに静奈は車を加速させる。令が何かを言ったようだったが、その声はエンジン音とともに闇の中にかき消された。

 窓から朝の日差しが差し込み、雀の鳴き声が聞える。そして目覚ましの音……
 朝だった。正直恐ろしく気だるい朝。
 その理由は至って単純……睡眠時間がほとんど取れなかったせいだ。
 結局令は昨晩帰宅後、すぐ静奈の手でベットに押し倒された。
 そしてそのまま明け方まで静奈に責められ、鳴かされ、イかされ続けたのだ。
 令はなんとか気力を振り絞って起きると、ふらつく足取りで階段を降りる。
 居間に入ると、すでに静奈が朝食の準備を済ませて待っていた。
「おはよう令、夕べはよく眠れた?」
「……姉さん本気で言ってる?」
 見たところ静奈は寝不足などまるで感じられない、すっきりとした顔をしていた。
 あの後寝たにしても、この差はいったい何なのか……令は不公平感を感じずにはいられない。
 絶倫……という単語を頭に浮かべながら令は席につき、朝食を取り始めた。
 すると静奈はそのまま椅子の横に置いてあった鞄を持って立ち上がる。
「あれ? 姉さん今日は早いんだね。学校は午後からなじゃなかった?」
「学校はね。今日はちょっと今後を考えて色々……ね」
「今後……色々?」
 何気ない問いだったのだが、何故かその言葉に静奈の顔が僅かに曇る。
 それはほんの僅かな変化だったが、ずっと顔を合わせていた姉弟(妹)故に令はそれを見逃さなかった。
「姉さん?」
「何でもないわ。令はそんな事心配しなくていいの……それより!」
 突然びしっと顔の前に指を指される。
「昨日も言ったけど、最近物騒なのよ。近所で令ぐらいの年頃の女の子ばかりが襲われてるのは知ってるでしょう? だから昨日みたいな時間になるんだったら、きちんと私に連絡しなさい。いいわね!?」
 静奈は睨むように令を見ている。単純に話をすり替えようとしているのは令にもわかったが、こういう部分でわかっていても令はそれを押し返せない。
 結局”うん”と素直に頷くしか選択肢はなかった。
「OK、じゃあ私は行ってくるから令も急ぎなさい。あ、下着はちゃんと用意しといてあげたから、それをちゃんと着て行きなさいよ? 女の子なんだから身だしなみもきちんと……」
「わかったから!……ほら、姉さんも急ぐんでしょ? いいからもう行きなよ」
 そのままだとお説教モードに入りそうだったので、令は静奈を無理やり居間から追い出した。
 元々世話好きな所があった姉だが、令が女の子になってからはさらに熱心な気がする。
 まあそれは姉の嗜好を考えれば至極当然な訳で……とはいえ男の令に冷たいわけでもなかったのだが。
 漠然とそんな事を考えながら、令はあまりいつもと変わらない朝の準備を始めた。

 結局登校自体はいつもとなんら変わる事はなかった。無論自分の姿以外だが……。
 違ったのは下駄箱の上履きを女物に取り換えてから校舎に入った事ぐらいである。
 それでも教室に入った時は、いつもの男子の話の輪に入っていくわけにもいかないという男であった頃の行動への未練のような引っ掛かりがあったが、代わりに瑞稀がすぐに令を女子の輪
 の中に紹介してしまったので転校生の孤独感のようなものはまるでなかった。
 そしてHRが始まり、そのまま1時間目の授業が始まる頃には、令の心にあったいつもと違う日常という違和感はほとんど消えていた。

 「じゃあ私部活だから、また明日ね。」
 瑞稀が手を振って教室を出て行く。クラスの人間も次々と教室を後にしてる。
 結局令の心配を余所に、拍子抜けするぐらいあっさりと一日が終了してしまった。
 帰りのホームルームまでで、いつもと違ったのは朝の他には昼食を瑞稀の親友一同と一緒に取ったぐらいのものだ。今日は体育もなく、授業の最中には身体的な違和感も気にならなかったから実質女になった影響はほとんど無かったと言ってもいい。
 令はほっと息をはくと鞄を持って席を立った。が……廊下を歩いて玄関に向う最中、
 何故自分がそんな溜息をついたのかを漠然と考え始めた。
 何かを期待していたわけではないし、極度の不安があった訳でもない。
 しかし令は心のどこかで”女になってもこんなものか?”と思っていた。
 自身の性格からしても騒がれるのはもちろん嫌だったが、多分何かが変わるんじゃないかという
 期待があったのだと思う。無論その何かというものに明確なビジョンはない。
 しかし自分のとてつもない変化に対して周りが何の反応も示さないという事に、どこか物足りなさがあったのではないだろうか。
 大きな台風が来ると言われて待っていたら、小雨が降って終わり……そんな感じかもしれない。
 と、そこまで考えて令は苦笑する。これではまるで騒ぎが起きて欲しいと言わんばかりの考えだからだ。
 何も起こらないのが一番じゃないか−と自身の中で考えをまとめる。
 今日は理想的に事が済んだのだから何も憂う事はない。家に帰ればお終いである。
 そう、お終いだったはずなのだが……運命は絶えず令の心理を裏切るように設定されていたのかもしれない。
 令が下駄箱のドアを開けた時、その望んでいたかもわからない”何か”が忽然と姿を現わした。
「……?」
 靴の他に見慣れぬものが入っているの気が付く。それは白い封筒だった。
 なんでこんなものが?−と令は何気にそれを引っ張り出そうとして、手が触れる瞬間動きを止めた。
 −こ、これって……まさか!?−
 正直令には縁がなかったもの故に、それが意味する事を理解するのに時間を要した。
 しかしこれは悪戯でなければ、それ以外の存在である事は考えられない。
 令の鼓動が突然早くなる。顔がみるみる赤くなるのが自身でもわかった。
 辺りを見まわし、周りに自分を気にしている生徒がいない事を確認すると令は素早く封筒を鞄の中に入れる。
 そしてそのまま急いで上履きを履き替え、外に出ると校門に向わず校舎横の中庭に向った。
 放課後はあまり人が寄り付かない校舎中庭まで急ぎ足で来ると、令はそのまま人があまり寄りつかない建物の影に寄りかかって足を止める。
 動悸が早いのは、決して慌てたからだけではないだろう。
 令はなるべく気持ちを落ち付けるように努めながら、ゆっくりと鞄の中のそれを取り出した。

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