27

 朝の光がカーテンの隙間から差し込んでくる。少し気だるい、静かな朝。
 少しずつ覚醒する意識の中、令は目をこすって視線を時計に移す。
 −7時……か。起きなきゃ……学校、遅刻しちゃうもんな……−
 寝ぼけた意識で静かに身体を起こすと、かけてあったタオルケットがはらりと落ちた。
 見ると自分は寝ていたのにパジャマを着ていない。それどころか下も履いていなかった。
 −あ、あれ? 僕……何? なんで?−
 いつもの朝とは違う奇妙な自身の状況に戸惑いつつ、なんとか平静を保つ。
 寝ぼけた頭でなんとか記憶を整理し、どうして自分がこんな状況にあるのかを考える。
 −えっと、昨夜は……その……学校から帰って…………帰って? あれ?−
 なにか大切な事を忘れているような気がして、大げさに頭をかかえてみた。
 そして唸るように首を傾げた途端、視界の端に見慣れぬ何かが一瞬姿をかすめる。
 静かに、そしてゆっくりとそちらの方に首を向け……ようやく令は、全て思い出した。
「おはよう、お寝坊さんなお嬢様」
 セネアが妙に嬉しそうな顔で令をからかうように挨拶する。どういう原理かわからないが、セネアはベット脇の明らかに何もない空間に足を組んで”座って”いた。
「起こそうかなって思ったけど、寝顔があまりに可愛いだもの。時間を忘れて見入ってしまったわ」
 どこまで本気かわからない口調でセネアはくすくすと笑う。
 最初は昨日の艶事を思いだして顔を赤くしていた令だったが、結局寝坊の原因を作ったのがセネアである事までを思いだし、そのままふくれる。
「まったく……誰のせいなんだか……」
「もう、怒らない怒らない」
 ふてくされた令の唇に、セネアがつい立てをするように人差し指で触れる。
 そのまま二人は無言で見詰め合っていたが……結局令が根負けした。
 諦めをアピールするように溜息をつき、しょうがないなという感じで苦笑する。
 そんな令にセネアは満足そうに頷いた。
「ま、起き掛けで不機嫌はしょうがないわね。コーヒーでも持ってきてあげるわ」
「あ……う、うん、お願い……」
 軽くとんっ! と宙から足を下ろすと、セネアは軽い足取りで部屋を出ていく。
 扉がぱたんと閉まってから、令はその違和感にようやく気が付いた。
 −ここ……僕の家だよね?−
 令はまるで自分の家であるかのようなセネアの振るまいにちょっと呆れる。
 らしいと言えばらしいのだが、納得していいやらどうなのやら……。
 まあ好意の行動には違いないのだからと納得し、令はベットを降りた。
 そのまま脇の着替えが入っているタンスの前に立ち、引き出しを開ける。
 さすがに裸のままではちょっと恥かしいから、セネアが来る前に着替えておこうと思ったからだ。
 しかし……開けた途端、令はそのまま絶句し、間を置いて深い溜息をつく。
「姉さん……以外いないよな。こんな事するの……」
 着替えを取り出そうと、いつもの引き出しを開けた令の視界に飛び込んできたのは、綺麗に並ぶブラとショーツだった。
 一瞬見なかった事にして引き出しを戻そうとしたが……少し思案した後、結局その中から一番手前のブラとショーツを取り出した。
 −姉さんに、手抜かりがあるはずないしな……はぁ……−
 多分もう静奈は、この部屋にあった男モノの下着なんかはみんな隠すか処分してしまっているだろう。
 もう令がこの部屋から出るには、裸か女モノの服を着るしかないという状況ではなかろうか。
 やるからには徹底的にやる、そういう姉の性格は令が一番良く知っている。
 それにもう……悲しいかな、こういう女モノの下着を着るのにも慣れてしまった。
 恥かしさや葛藤は相変わらずあったが……。
 観念して令はショーツに足を通した。このピタリとしたフィット感は相変わらずだ。
 そのまま次はブラのストラップに手を通し、背中に手をまわす。
「後はこれを……あ、あれ? えっと……」
 ところがうまくホックがかからない。困った令は部屋を見まわし、あの大きな鏡の存在を思い出した。
 そのまま鏡の前に立ち、反対に写る自分の姿に悪戦苦闘しながら何とかホックを止める。
「ふぅ……」
 ようやく一息ついたという感じで令は肩を落とす。その時、ふと視線が鏡に向いた。
 そこに写っているのは、まぎれもなく一人の女の子。
「これが……僕、なんだよ……ね……」
 鏡に映る自分の姿に、何か言い難い複雑な感情が交錯する。
 ほんの数日前に狂ってしまった人生のベクトル、その結果がこの姿だ。
 だけど今はその事を恨めしく思っている訳でもない。昔の自分に未練がないと言えば嘘になるが、今ではこれも悪くないと思い始めている。昨晩の気持ちに嘘はない。
 もう十何年も男として生きてきたから、この心を完全に女にするっていうのは難しいし、多分これからも当分はこの身体の感覚に翻弄され続けるだろう。
 それでも令の心にはあまり不安はなかった。
「あまりに突飛な人生だっていうのは確かだけど、まあ悪くもないのかな?」
 鏡の中の自分に語りかけるように何気なく自分に問い掛けてみる。
 令はそんな常識ではありえない事態にも冷静にいられるようになった自分が少し可笑しかった。
 何かを納得するように軽く頷いた後、令は壁にかけてある制服のインナーシャツを手に取る。
 そしてそれに袖を通そうとした時……唐突に食器が割れるような音が下から聞えた。
「あれ……セネアさん?」
 一瞬令は不慣れな台所でセネアが粗相をしたのかと考えたが、それにしては音が派手すぎる。
 それにセネアはそういうドジをするようなタイプにも思えない。
 何かイヤな予感がした。そう、何か大切な事を忘れていたような気がする。
 令は急いでインナーシャツだけを羽織ると、そのまま慌てて部屋を出た。
 昨夜の疲れでもつれる足をなだめるように階段を下り、居間への扉を開ける。
 そのまま現場である台所に駆け込んだ時、令はようやく自身が失念していた事を思い出した。
「あ……」
 目の前でセネアと静奈がテーブルを挟んで対峙している。当然仲良く世話話などという雰囲気ではない。
 セネアは多少嘲笑じみた笑みで静奈を見やり、対して静奈は露骨な怒りの顔でセネアを睨んでいた。
 そして静奈の手には、日本人にはテレビや映画の中でしか縁のない道具……拳銃が握られている。
 静奈がどこでそんな物を手に入れたのかはわからないが、少なくとも玩具ではないだろう。
 何よりセネアの左後ろにある食器棚の皿が爆発したように砕けているのがそれを証明していた。
「ね、姉さん! いったい何を……!」
「令……こいつがセネアなんでしょう? あなたを変えた張本人の」
 銃口が静かにセネアの方に向けられる。静奈の目は本気だった。
「あなたが何者かは私は知らない。令は悪魔だと言っていたけれど、そんな事はどうでもいいわ。
 ただ……あなたは危険すぎるのよ!」
 爆音が部屋に響く。刹那、今度はセネアの右側の食器棚のガラスが砕け散った。
 一瞬間を置いて、令はようやく静奈が発砲したのだと理解する。
「姉さんやめて! そんな物騒なもの降ろしてよ!!」
 令は叫ぶが、静奈は動じない。彼女は令の方に向き直る事なくセネアを睨みつけていた。
「令、この女は危険すぎるわ。あなた自分の身体に起こった事がどういう事なのか理解している!?
 こんな事ができる存在など、人が関わってはいけないのよ!!」
 今度は明らかにセネア自身に照準を合わせ、静奈は叫ぶ。
 間違いなく静奈はセネアを殺す気だ。その目がそれを雄弁に語っていた。
 だが、目の前の人物に生殺与奪の権利を握られているはずのセネアは、相変わらず余裕を持った笑みで静奈を見据えているだけだった。
 そんなわずかな膠着時間の後、セネアが口を開く。
「……だとすれば、どうだと言うのかしら? それに貴方が私に殺意を向ける理由は、それだけでは無いのではなくて?」
「理由……ですって!? 身内を奪われかねない状況以上の理由なんてないはずよ!!」
「あら、そうかしら? 貴方の令への態度は、それ以上のものが感じられるのだけれど」
「ふざけないで!!」
 余裕あるセネアの態度にいらつくように静奈が怒鳴る。令はここまで怒った静奈を今まで見た事はない。
 逆に言えばこの修羅場は、もう令の予測できないぐらい危険な領域まできているという事だ。
 こういう事態を令自身予測しなかった訳でもない。しかし現実問題として起こってしまったら、もう令自身が止められるような雰囲気ではなかった。
 出来る事は……制止を呼びかける事だけだ。
「お願いだから、二人ともやめてよ! 姉さん、手を下ろして!!」
「令のお願いだから、私は止めてもいいんだけどね。貴方のお姉さんは、止める気はなさそうよ?」
 セネアの指摘通り、静奈は今まさに引きがねを引かんかという状況だった。
 なんとか静奈を説得しようと令が声をかけようとした瞬間、今度はセネアの髪が揺れた。
「それに私も……私に殺意を向けた者を見逃す程愚かではないわ!」
 突然吹き上がるような殺気を放ったかと思うと、今度は静奈の後ろにあった棚のコップが爆発する。
 それはセネアの”お前如きいつでも殺せる”という力の警告だった。
 だが静奈は微動だにしない。とてつもない殺気と殺気の交錯で、令は部屋が凍り付くような錯覚を覚える。
 もう止められない……あまりに圧倒的な闘気のぶつかり合いに、令は言葉を発することすらできない。
 ほんのわずかの、しかし令には永遠にも思える凍りついた時間の中で、これから始まる絶望的な宴の結果を想像し、令は感じた事のない恐怖を覚える。
 しかしその恐怖の膠着は、突然の闖入により中断された。

 ピンポ――ン!!

 あまり場にそぐわない唐突な呼び鈴。突然の事だったので、セネアは思わず魔力を行使しかけ、そして静奈は引きがねを引きかけ、互いに寸でのところで思い止まった。
 怪訝な顔で3人は顔を見合わせる。
 僅かな沈黙の後、再び鳴らされた呼び鈴の音に令はようやく我に返った。
「ふ、二人とも動かないで待っててよ! すぐ戻るから、早まっちゃダメだからね!!」
 取りあえず制止の言葉を残して令は玄関に駆け出す。とはいえ令はこの事に少しだけ感謝していた。
 とてもじゃないが、あの状況を令一人では打破できなかっただろう。
 何であれ事態を引き伸ばせただけでも幸運と言えた。
「はーい! 今開けますから!」
 玄関まで来た令はそのまま鍵を回してドアノブを捻る。普段ならドア越しに相手の確認なりなんなりをするのだが、今回は慌てていた事もあってそのままドアを開けてしまう。
 そこに立っていたのは、制服姿の杉島瑞稀だった。
「おはよう令くん。」
「み、瑞稀さん!? こ、こんな朝から……何?」
 あまり予想できなかった人物が居たので、令はちょっと面食らう。
「一緒に学校行こうかなって思って……って、令君、私だからいいけど、その格好で人前に出るのはちょっとどうかなーって思うんだけど……」
「え? ……っ! ああっ! いや、その!」
 指摘されてはじめて気がついたが、令は今、下着の上に制服のインナーシャツを羽織っただけの状態だった。
 確かにこれで宅急便や新聞配達のお兄さんの前に出た日には、へたすりゃ襲われかねない。
 令は思わず顔を赤くして、そのまま身体を隠すように手を交差させてうつむいてしまう。
「ふふっ、まあ”女の子同士”だからいいでしょ? 着替えるの待っててあげるから、一緒に行こ」
 いつもながらの屈託のない笑みで瑞稀は笑う。
「あ……う、うん」
 状況はさておき、とりあえず頷いて令はそれに同意する。そして当面の問題はさておき、何はともあれ着替えなくてはと踵を反そうとした途端……瑞稀の顔が突然凍り付いた。
 理由は聞かなくても大体想像が付く。なにしろ突然刺さるような視線が背中に浴びせられているのを令も感じたからだ。
 案の定、予想した通りの人物……静奈の声が後ろから聞えた。
「ふぅん……朝から随分と熱心ね。杉島さん、どういうつもりか説明してもらえる?」
「あ、あの……その……お、お姉様、こここれは…………その……」
 瑞稀がじりじりと後ずさるにつれ、背中からの視線がさらに強くなる。
 その狼狽っぷりは見ている方が気の毒なぐらいで、きっと当人は静奈の事を”お姉様”と呼んでいる事すら意識していないだろう。もっとも令だってそんな状態の静奈に逆らえる訳がない。
 結局瑞稀は絶えられなくなり、振り向いて逃走しようとした途端……何故か玄関の扉が勢いよくばたんと閉じてしまった。瑞稀は必死にドアノブを回すが、ドアはびくともしない。
 令には誰の仕業なのかすぐに察しがついた。何しろ背中の視線が二倍に痛くなったから。
「無駄よ、そのドアはもう決して内側からは開かないわ。しかし令ったら人をほうっておいて、ずいぶんじゃなくて?」
 また予想通りの人からの声。しかも今度は令を指名だ。
 もう瑞稀は涙を浮かべてふるえている。そりゃそうだろう、相手はあの静奈とセネアなのだ。
 覚悟を決めて令はおそるおそる振り向くと……案の定、般若のような形相をした二人がいた。
「ね、姉さん、セネアさん、そそその、ここ、これは……」
 口がうまく回らない。令は先程瑞稀の呼び鈴に感謝したが、それは実はさらなる地獄への音だったのだと今更ながら後悔した。二人がじりじりと距離をつめるにつれ、冗談ぬきに死が頭をよぎる。
 と、そこへ再びあの音が響いた。
 ピンポーン!!
「先輩いぃ! 一緒に学校へ行きませんかぁ!!」
 ”内側から開かなくなったはずのドア”が突然”外から”開けられたかと思うと、呼び鈴の音とともにさわやかな笑顔にちょっと顔を赤くした比良坂和真が勢いよく入ってきた。
「ちょっと早いですが、少しぐらいなら…………って、あれ?」
 入ってきてしばらくしてから、和真はようやくその場の異様な状況に気が付くものの、状況が飲み込めないのか不思議そうな顔できょろきょろと玄関にいる一人一人を見渡す。
 なんて間が悪いんだと、令はこれ以上ないぐらい和真の運の悪さに同情した。
 そしてようやく事態を把握しかけたか否かという所で、再び背後の扉がばたんと閉まる。
「あ、あの先輩? こ、これって何……なんでしょうか?」
 ようやく場のヤバさに気がついて、慌てて令に声をかけてくるがもう遅い。
「比良坂君、運がなかったね……」
「え? ええぇぇぇ!!?」
 露骨に”あきらめろ”的な返事をする令に和真はようやく事態の深刻さを理解する。
 まあ、あの殺意放出魔人二人を前にしては説明する必要もないだろうが……。
「一匹見たら10匹いるって言うけど……ねえセネア、増長がすぎるお馬鹿さんには
 一度身をもって理解してもらう必要があると思わない?」
「あら、気が会うこと。私も同じ事を考えていてよ」
 何か10年来の友人のような口調で二人は声を交わし、ゆっくりと3人に近寄る。
「もう!なんであんたドア開けたままにしとかないよの!! ああもう! バカ! ドジ!」
「ななな、そ、そんな事言われても!!」
 瑞稀がやけくそで和真を締め上げるも、もう後の祭り。考えて見れば今のが最後の逃亡チャンスだったのかもしれない。最後の奇跡を彼らはみすみす逃してしまったのだ。
 だったらもう一度ぐらい誰かきてよ……−半ば投げやりに令は心の中で思う。
 が……どういう運命の悪戯か、その”奇跡”は再び訪れた。
 ピンポーン!ピンポーン!!
「ちわーっす!! 新聞ですけど、今日は配達と一緒に集金もいいっすかぁ!?」
 ありがとう、普段はうっとおしいとすら思う不幸な新聞配達の人。
 さすがに今度は見逃さない。3人は開いた扉の隙間から脱兎のごとく逃げ出した。
「あ、あれ? あれ? お、おい……なんだまったく……って、う、うわあああぁぁ!!」
 背後で銃声と爆発音と新聞配達の兄ちゃんの哀れな悲鳴が聞えるが、振り向く余裕はない。
「こら令! 待ちなさいってば!!」
「令! 逃げたら容赦しないわよ!」
 背後に静奈とセネアの制止の声を聞きながら、令達は一目散に朝の町を駆け出す。
 いつにないほど、騒がしい朝だった。

 ちなみに三人とも、結局この日登校する事はかなわなかったそうである。

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