何かが頬を伝わる感触に、彼は目を覚ます。
目に映ったのはいつもの天井、少し歪んで見える。ゆっくり身体を起こし、掌で頬を拭う。
生暖かい感触、泪だ、髪も濡れている。振り返り枕に触れてみる、こちらもびしょ濡れだ。
こんなに泪を流したのはいつ以来だろうと思いつつ、辺りを見回す。時計を見ると十時を少し過ぎている。
いつもと変わり無い自分の部屋。しかし、何かが・・・・・・・・・解らない。
頭の奥がぼんやりして考えが纏まらない。溜息を一つ。
とりあえず顔を洗うためにベッドから降り、洗面台に向かう。
意識はすっきりしないのに、何故か身体は軽やかに動く。
(「今日はキレが良いなぁ。」)日頃の体調管理を怠らない彼は、これが違和感の原因かもしれないと考える。
彼の部屋は母屋とは別棟の、以前は物置だった離れの二階だ。
ここは元々、母屋の建て替えの際に一時的に住む為に建てられたもので、一応水道が引かれている。
洗面所は手狭な上に薄暗く鏡すらないが、彼にはこれで十分だった。
いつもの様に蛇口を捻る、流れる水を手に受け、モヤモヤした気分ごと洗い流す様な心算で少し乱暴に顔を洗う。
髭の感触がない・・・・・なんだか滑々している。昨日は髭を剃っていないはずなのに。
確認のため今度は注意深く触れてみる、やはり髭がない。心なしか頬骨や額の凹凸も少ない、のっぺりしている。
手を見た、掌が小さく薄く昨日までの半分程だ、指も細いが長さは昨日までとさほど変わらない。
シャツの袖を捲くり腕を確かめる。細い。何より、白い。ハーフパンツから伸びる脚も昨日までの半分以下といった細さだ。
今度こそはっきりと目が覚めた。だが、何も解らない事に変わりはない。寧ろ、混乱は深まった。
気を落ち着けようともう一度顔を洗い、タオルで拭う。深呼吸、ゆっくり吸いゆっくり吐く。
少し落ち着いたところで、短く吸って腹の底から吐く。父に仕込まれた息吹の真似事。これで少し気合を入れる。
(「よし、大丈夫だ。」)自分に言い聞かせ、この部屋に在る唯一の鏡の前へ向かう。
ほぼ全身が写る大きな姿見。かつて母が使っていた物だ。普段は壁に向けてあり、使う時だけ此方にむける。
視線を逸らし、鏡面を見ないように此方へ向けた。目を閉じて鏡の前に立つ。
再び深呼吸してから、ゆっくりと目を開けた。
「小さい。」呟いて、声の高さに驚く。まるで声変わり前に戻ったような澄んだ声。
思わず喉を押さえた。当然、鏡の中の人物も喉を押さえる。
「これ・・・僕・・・・・・? どうして、なんで、なに?なに?なに?なに?・・・・・・・」
それ以上は言葉にならず、その場に凍りつく。しばらくして、自分の動悸で現実に呼び戻された。
荒い息を吐きながら鏡に向き合い、そこに映る人物を睨み付ける。
「そうだ、『まずは冷静に注意深く観察』だ。」
呟きつつ顔を近づけて覗き込む。大きな瞳、気の強そうな目元に見慣れた自分の面影が看て取れる。
骨格の角がとれて丸みを帯び、顎は細く、全体に一回り小さくなった様に見える。やはり髭は一本もない。
「この顔・・・・・何所かで見たような?」
髪が少し伸びているようだ。髪質もまるで幼児のように柔らかで頼りない。
少し離れ、全身を映してみる。彼の身長は168cmと元々高い方では無かったが、それと比較しても大分低く感じる。多分150?あるかないかだろう。
それより何より、細い。寝間着替わりの大き目の長袖Tシャツとハーフパンツの上からはっきりと解る程、華奢な骨格をしている。
彼は大きな落胆を、そして深い絶望を覚える。
「こんな・・・・・一体どうして?!! 丸太のような腕は?脚は?分厚い胸板は?広い背中は・・・」
中学卒業からこれまでの8年間、彼の人生は唯ひたすら己を鍛え、強固な肉体と精神を造り上げる為にのみ費やされて来た。
それは男ならば誰でも一度は想うであろう『強くなりたい』という純粋な欲求と、それに付随するある現実的目標を実現する為。
彼はまさにすべてを捧げて来た。 いま・・・・・そのすべては失われた。
深い絶望の中にあっても、彼は諦め切れない。諦められる訳が無い。
彼、黒姫 心(しん)にとって紛れも無く、それは生きる上での全てだったのだから。
厳しい鍛錬に耐えてきたという自負が、冷静に現状を分析しようと腹を決めさせた。
やはり、腕も脚も細い。記憶の中の鍛え始めた頃よりも細いと思われた。身長の割りに妙に長い気もするが、細いための錯覚だろう。
しかし、触って弾力を確かめると非常に柔らかな筋肉がバランス良く付いている。
胸も尻も腹・腰周りもパッとみた限りではまるで筋肉など存在しないかのように細く薄い。
尻にも触れてみる。と、やはり非常に柔らかな筋肉の存在が感じ取れる。
それにTシャツを手繰って密着させると、胸は鳩胸気味だ。
「胸郭は適度に開いてるな。これなら鍛え直せば何とかできるかもしれない。」
全体にボリュウムは心許無いが、鍛え直せば何とかなるだろう。寧ろ、筋肉が非常に柔らかくなったことは好ましいとも思えた。
落ち着いてきたところで彼は考えた、どうしてこうなったのか。
昨日はいつも通りに日課をこなし、特に変わった事など無かった。いつもと違う事が在ったとすれば、今日10時過ぎまで寝ていた事くらいだ。
普段ならば4時半には起きて、日課のランニングをしている。だが、あまり関係無いだろう。これは『結果』の方だ。
これは簡単に答えなぞ出まい。そう考え、彼は今の自分がどういう状態なのか?の判断に集中することにした。
改めて鏡を見る、見た目はなんだか若返ったような気もする。
「そうかっ! 僕は何かで身体だけが若返ってしまったんだ。」
精神だけがタイムスリップして過去の自分に乗り移ったとか、自分の精神以外の時間が全て巻き戻ったとかも考えたが、
携帯の日付を確かめたり、昨日まで現在の自分が暮らしていたままの部屋にいる事からもそれはないだろうと思えた。
しかし、身体のみが若返ったのだとしても、記憶の中にある過去の自分とはかなり違う。話はそう単純ではなさそうだ。
何かをしていないと落ち着かない、思考が巧く進まない気がしてきたので、普段はランニングの後に行うストレッチをやりつつ考える。
この身体は思いの外柔らかいようだ。身体が温まっているとは言い難い状態であるにも関わらず、いつもとは比べ物にならない柔軟性だ。
(「イケル!!いけるぞこれは。」)開脚一つとっても非常にスムースだ。だが・・・・・・・・
「アレッ???」
ここでとんでもない違和感を感じた。『無い』のだ。そこに確かに在るはずモノが。それが圧迫される感触が。
「ひょっとして若返ったから・・・・・・」
小さくなってしまったのか?と思う。それなら無理もないと確認のためそこに手を伸ばす。
ハーフパンツの上から股間に触れる。何もない。そこにあるべき柔らかいモノに触っている感触も、触れられているという感触も。
「へっ?!! 嘘・・・・だろ。んなまさか!!!!」
叫んで飛び起きた。今度はハーフパンツに手を突っ込み、下着の上から触れる。無い・・・・やはり無い。
概ね平らでムチッとした感じの柔らかな肉。その真ん中にピッチリ閉じた深い筋と小さな豆粒のようなモノの感触。
それらを手触りの良い、恐らく綿であろう薄い布地が張り付くように包んでいる。
彼とて女性経験が無いわけではない。それが何なのか、なんとなく解った。想像は付いた。だが信じられない、信じたくない。
喉に乾きを覚える。洗面所に行き、震える手で蛇口を捻り、水を飲んだ。
戻って、サンドバッグを思いきり蹴った、蹴りまくった。息が上がり、その場にへたり込むまで蹴り続けた。
寝転がり、息が落ち着くのを待った。
しばらく後。立ち上がって鏡の前に移動し、ハーフパンツに手を掛け、一気に引き下ろす。
黒い綿素材、いわゆるスポーツタイプの女物の下着。その股間にはやはり、アノ膨らみはない。
細い両太腿の付け根と膨らみの無い股間との間に出来た空間から、向こう側が見えた。
「ははっ・・・・はははははっ。あははははぁははははっあはははぁ。はははははぁははは。ははははははははっ。あはぁはは・・・・・・・。」
何故か、笑いが込み上げた。息苦しくなり、泪が溢れても笑い続けた。座り込み、笑い転げた。
馬鹿馬鹿しい、信じられるか。信じてたまるか。
「女? 女になっただって?? 莫迦な!こんなの夢に決まってる。信じられるもんか。信じられるもんか。信じられるもんか。こんなの本当にもうお終いじゃないかッ!!。」
未だ両脛に残るひりつく痛みが、これが夢で無い事を主張する。
「お終いなのか・・・・・・・もう、本当に。」
例えどれ程の鍛錬を課そうと、女の身体では彼の夢は果たせまい。
「クソッ!!」
左足に脱ぎ掛けのまま引っ掛っていたハーフパンツを、鏡に叩き付けた。
鏡の向うに、下着姿の下半身を晒し、泪で濡れた頬を朱に染めてへたり込む少女が見える。
潤んだ瞳で上目遣いに此方を見詰る、その痩せた小柄な少女は、奇妙な色気を醸し出していた。
引き寄せられるままヨタヨタと鏡に近づき、ぺたりと鏡の前に座る。
初めて見る不思議な生物でも観察するかのように、じっとその姿を見詰る。
触れようと手を出すと向うも手を上げる、お互いの掌が触れ合うような錯覚に囚われる。
鏡なのだから当然だ。けれどこの時、彼はそのことを忘れていた。
「・・・・・なんか・・・変だ。」
触れてみたい。彼の中に在る男の本能が頭を擡げる。
既に女を知っている彼は、鏡の中の少女に対して微かな性的興奮を感じていた。
同時に少女の頬はますます紅く色付き、目は潤み、唇の色は冴えていく。
そこで彼は、この少女が自分自身であることを思い出す。
そっと、頬に触れてみる。温かくぷにぷにとした弾力が指を押し戻す。
唇にも触れる、柔らかい。こんなに柔らかい唇に触るのは初めてだ。
「そういえば・・・・この下は・・・・」
Tシャツの下はまだ確かめていない事に気付く。
裾をそっと捲くり上げると、白く細い腰となめらかに引き締まった腹部が見えた。
少し腹に力を込めてみる。腹筋の存在を精一杯主張するかのように、うっすら立てすじが現れる。
「ふーっ・・・・貧相だねぇ。・・・・?」
鏡像に語り掛ける。投遣りな気持が身体中の力を奪っていく。猛烈にダルく、馬鹿馬鹿しくなってきた。
シャツの下は何も身に着けていないことは既に解っている。何の感慨もなく、シャツを脱ぎ捨てた。
本当にささやかな、申し訳程度にしか膨らんでいない乳房が露になる。
女性の下着のサイズなど心には良く分らないが、コレではAカップにも満たないのではないかと思われた。
小さな乳首がちょこんと頂についている。唇と同じ綺麗なピンク色だ。
白い上半身の中で、鮮やかなピンクが強烈に自己主張している。
「まったく。女になっちまうなら、もっと出るトコのでた身体になってくれりゃいいのに・・・・・」
悪態を吐く。ここまできて、心は戸惑っていた。下も脱いで直に確かめるべきか否か。
(「まだイヤだ。まだだ。」)正直いって怖い。取り敢えず、この状態で全身をチェックしてみる事にする。
腕にも脚にもムダ毛らしいものはまるで無い。脇にも毛が無い。剃ってあるかとも思ったが、それらしい様子は見られない。
体毛自体が極度に薄いようだ。ガキっぽいのは体型だけは無いらしい。
幼児の様なふわふわした髪質、色素も薄い。オールドパンクっぽい、かなり短いショートカット。
ボーイッシュなスタイルだがあまりそのイメージは強くない。
肌はやたらと白い、その所為で先程サンドバッグを蹴りまくった脛の赤みが余計に痛々しい。
筋肉・関節共に非常に柔軟なのは、もう確かめてある。
トンッ!!とその場で跳ねてみる。思った通り、軽い。バネもかなりある。これではキレが良いのも当たり前だろう。
着地。小さな乳房がほんの少しふるえたのはご愛嬌か。
「そろそろ・・・・・いいか。」
いよいよ心は最後の下着に手を掛ける。生唾をゴクリと飲み込む。目を閉じて一気に引き下ろす。
スルスルと簡単に脱げる。クシャクシャに丸まってしまう。
鏡を見るのは今日何度目だろうか。目を開く。やはり、股間に男性器の姿はない。
そこに在るのは全く知らない訳でもないが、心にとって馴染み深いとは言い難いものだ。