37

 なにやら真剣な表情で考えこみはじめた心のようすを、龍鬼はあいかわらずじっと見つめている。
 本当に、いくら見ても「見飽きるわけがない」といった感じだ。
「――昨日は、とっても甘えん坊だったね。あんなに甘えん坊な心は、初めてだった」
 ふいに口をひらく。心に話かけている、というわけでもなく、一人ごとのような調子だ。
「ずっと、ずうっと一緒だったのに、本当にはじめてだったね」
「?……」
(ずっと、いっしょ? 環と……おなじ?)
 考えこんでいた心が、顔をあげて龍鬼の言葉を聴きはじめる。
「嬉しかったよ。甘えてくれて、とても嬉しかった。甘えん坊な君は、すごく可愛かった」
 心の頬が、真っ赤に染まっていく。
「本当に可愛かった。心はいつでも可愛いけれど、でも、甘えん坊な心は、その……魅力的だったよ」
 ふたたび心はうつむいてしまう。かすかに、肩がふるえている。
「また、甘えてほしい。心、僕に甘えておくれ――愛しているよ。これからも、ずっといっしょに……」
 うつむいたままの心に触れようと、龍鬼の腕がのばされてゆく。
「……だまれ」
「心?」
「だまれ、バカにするな!」
 立ち上がりざま、綿毛布を龍鬼に投げかけて目くらましにすると、心は右コブシを叩きこむ。
 ビシリッという手応え。スピードもタイミングも、申し分のない一撃。
 ――だが、
「…………」
 心の表情が怪訝なものへと変わる。
「元気になったね。いつもの心だ。安心したよ」
 綿毛布がしずかにのけられると、コブシを受けるまえと何も変わらぬ笑顔があらわれた。
 すっぽり綿毛布につつまれ、完全に目隠しされた状態にもかかわらず、龍鬼は心のコブシを造作もなく受け止めていたのだ。
 彼は掴んだままの右手を引き寄せて、心を抱きしめる。
「はなせ! はなせ、はなせ、はなして――はなして、ください」
 抵抗できない。どうしてなのか、心は龍鬼を跳ね除けることができない。
 抱かれることを嫌がるわがままな猫でも、扱いのうまい人間に首や顎の下などをなでられると、簡単におとなしくさせられてしまう。いまの心は、まさにそんな状態にみえる。
「心は、こうやって抱っこしてもらうの、好きなんだよね?」
 そうなのだ。
 女の子になってからの、いままでの二週間ほどで分かったことなのだが、心は誰かに『抱いて』もらうと、安心するとでもいえば良いのだろうか、何故だか、とても気持ち良いのだ。
 これまではもっぱら、恋や愛や玲那など年上の女性に『抱っこ』されていたから、そのせいで気持ち良いのではないかと、そんな風に心は考えていたのだが、まさか男――龍鬼に抱かれても同じだったとは……
 なにはともあれ、このことを知っている龍鬼は、心の扱いに『慣れている』人間だといえそうだ。
「元気になったのは良かったけれど、もう少しだけ、安静にしていてくれるかな――せめて精密検査を受けて、その結果がでるまでは、ね?」
「せいみつ、けんさ?」
「いや、心配しなくても大丈夫だよ。昨日あれからすぐに、田崎先生に往診していただいたから」
「田崎せんせいが? わざわざ、ここに? ボクのために?」
「うん。当たり前だよ。あの人以外の誰に、心の治療をまかせられるっていうんだい? できるわけ、ないじゃないか」
{本当は、誰にも触れさせたくない。だけど、心のためには――心のため、なんだ}
 龍鬼が心を抱く腕に少しだけ力をこめると、二人の頬がひたりと触れあった。
「せんせいは? せんせいは、どうしたの?」
 玲那のことを耳にした瞬間から、まるでスイッチが入ってしまったかのように、甘えん坊な心が顔をだす。
「たつき…さん、ねえ、せんせいはどこ? どこですか?」
 鼻先が触れ合いそうになるのも構わず、心は龍鬼を真正面からみつめる。
 玲那のことが気になってしようがないのだろう、瞳を潤ませながら、龍鬼の頬に手をそえて取りついていく。
 心によってゆらゆらと揺さぶられながら、龍鬼は少しだけ、悔しそうな表情をする。
「――もちろん、昨日のうちに帰られたよ。会いたかった? 会いたい?」
 龍鬼の顔から手をはなして、心はこくりとうなずく。
「会いたいです、せんせいに。あ――環、環、あの…環にも、会いたい! あっちゃんも、千鶴さんも」
 次から次へと会いたい人が思いつくらしい。つい先ほどの、あの跳ねっかえりぶりはどこへいったのやら、心の態度はすっかり『やわらかく』なってしまった。
「大丈夫。すぐに会わせてあげられるから、ね? それから心配しなくても、お家には連絡をさしあげたから、お姉さん方は、心が僕といっしょにいることをご存知だよ」
「あの、あの、姉たちは、なんて?」
「うん? くれぐれもよろしくお願いしますって、そうおっしゃっていたよ」
 じっさいに龍鬼はみずから、電話で連絡をしていた。
 電話にでたのは恋だったが、彼女は努めて事務的な態度で応対してきた。
 恋はいった、「ご迷惑でしょうが、どうかよろしくお願いいたしますわ。龍鬼さん」と。
 それが言葉どおりの意味ではないことなど、龍鬼は当然に承知している。
 恋の言葉を意訳すれば「心に指一本でも触れてみなさい。覚悟してもらいますよ?」と、いったところだろうか。
 もちろん、
{我慢なんて、するものか、できるものか。もう嫌だ、嫌なんだ。……心は、僕のものだ}
 心を自分のものにする。
 そのつもりで、『お姫様』をさらってきたのだ。
 すでに昨夜から人をやって黒姫家の屋敷周辺を監視させ、その動向は逐一、報告させている。
 その報告を受けるため、少し目をはなした隙に、心は龍鬼の自室からこのゲストルームに連れ出されてしまったというわけだ。龍鬼にとっては肉親のなかにまで『敵』がいるのだから、まったくもって黒姫家の
『支配』は根深いものなのだと、いまさらのように思い知らされた。
{こちらの屋敷に、心を『招待』したのは失敗だったかな? まだ、本邸のほうが良かったか?}
 自分を抱きしめたまま考えこんでしまった龍鬼を、心は不思議そうに見つめている。
「あのう、たつきさん。精密検査って、どうして、そんなことをするのですか?」
「――ああ、田崎先生がね、心を診察なさったときに、念のために精密検査もしておくべきだって、そうおっしゃったからだよ。予定では、明日うかがうことになってるんだけど、平気かな?」
「はい、もう平気です」
「そう、それじゃ明日には、田崎先生に会えるね。嬉しい?」
「嬉しいです――けれど、あの」
 心はもじもじと、言葉につまってしまう。
「どうしたの?」
「ですから、その、もう平気なので――ですからもう、おいとまさせていただきたいのです。病院へは、家からうかがいますから、家に……家に帰らせてください」
 たどたどしく言葉を紡ぐ。丁寧語を用いるのは、なんの抵抗もできない心にとって、最後の防壁だから。
「ごめん。それはできない。せめて検査の結果がでるまでは、いっしょにいさせて欲しい――心配なんだ。とても心配でたまらないんだ」
 桜色をした艶やかな心の唇に、龍鬼の唇が近づいてゆく。軽く触れあった瞬間、心は顔を逸らす。
「いやです。やめてください。ボクは……男、です。男なんです。だから、やめてください」
「分かっているよ。心のこころは、男の子なんだって、僕は昔から知っている」
 唇が触れるほど耳元に近づけて、龍鬼はささやいた。
「それなら! それなら、どうして!! どうして、こんな……昨日だって、あんなこと」
「覚えていてくれたんだね。昨日のことを、忘れずにいてくれたんだ。ありがとう」
 心の額に口付けると、胸板におしつけるようにきつく抱きしめる。
「どうして――って、いうんだよね? それはね、心を愛しているからだよ」
「だから、ボクは男だってば!! 男なんだもん!!」
「かまわない。僕はかまわないよ。君が男の子で、僕も男で――男同士だって、僕は全然かまわない」
「そんなの、イヤだ!! ボクはいやだもん!! だってそれじゃ、ホモじゃないか!!」
 興奮しはじめたせいで、心の言葉づかいは乱雑なものになっている。
「僕はいいんだ。気にしない。僕が好きなのは、心なんだから――君そのものを愛してるんだ。男だろうが、女だろうが、関係ないんだ。もし君が、身体も完全に男だったとしても、僕は君が、心が好きだ」
 このままでは、まったく話はかみ合いそうもない。どこまでいっても平行線で終りそうだ。
 心はそう考えて、
「そんなこと言ったって、どうせ君は、ボクのことなんかホントは知らないくせに!!」
(本当は、ボクは本当に男なんだからね!!)
 決め付けると、龍鬼の腕から逃れようともがき出す。
「ボクは男だから、君を好きにならないし、それに環が好きなんだから!! 恋人なんだから!!」
 自信満々に言い放つ。しかし、
「うん。知ってるよ」
 涼しい表情で、龍鬼はうけながす。
「心が環ちゃんを好きなことも、ずっと一緒にいたことも、二人が付き合いはじめたことも――」
 龍鬼の手が、心の髪に触れて、かるく撫でるように手櫛ですきはじめる。
 言葉のつづきが気になるのだろう、心は抵抗することなく、龍鬼をみつめている。
「僕ら――心と環ちゃん、それに僕は、ずっと一緒にいたんだ。小さな頃から、ずっとね」
「そんなの、知らない……。うそ、うそだ……ボク、君のこと、知らない……」
「嘘じゃないよ。心が、忘れてしまっただけなんだ」
「忘れ…た…?」
(違う。忘れたんじゃない。ボクは知らない。でも、『心』は? たつきは『心』の…なに?)
 時おり思い出す、女の子の『心』としての記憶。本来ならば『知らない』はずの『思い出』たち――
 龍鬼の言葉を待ちながら、心は女の子になって以来ふえ続けている、それらに思いを巡らす。
 自分は確かに、黒姫 心という23歳の男から、同じ名をもつ15歳の少女に『なった』のだ。
 清十郎や、男だったときの友人・知人たちの存在が、そのことの正しさを証明してくれている、と思う。
 しかし同時に、少女の『心』にも過してきた時間があり、友人や周りの人々との『思い出』が確実に存在している。
 男の世界と女の世界――心の世界と『心』の世界。
 それらは両方とも存在して、さらに時間という『軸』の上では、かなりの部分が同時に『在った』ことになってしまうのだ。少なくとも、女の子の『心』が生まれてからの15年間は、『重なって』いる。
 いまの心の周囲は、女の子の世界で囲まれており、男だったときの世界は、清十郎たちとの接点にのみ、確認できるかたちで存在している、そんな感じだ。
 もともと別々に存在していた男の世界と女の世界、それら二つの世界そのものの何処かに断面が生じて、心を取り巻く周囲のみ『入れ替わって』しまい、同時に心という名をもつ、二つの魂も入れ替わった。
 ただ単純に女の子に『なった』というよりも、こちらの方がより正確なのではないか?
 そして、女の子の『心』の身体――脳に残っている記憶が、ときおり『思い出す』知らない『思い出』の正体なのではないか?
 心は突然、そんなことを思いついた。
「――そうだよ。心は、忘れてしまっただけなんだ」
 思考のなかに沈みかけていた心の意識を、龍鬼の声が現実に呼び戻した。
「……忘れて、しまった? ボクが忘れている、だけなのですか?」
(本当は、違う。でも、もしかしたら――)
 先ほどの思いつきに絡んで、心の脳内に、さらにいくつかの思いつきが連鎖しはじめる。
「うん。そうだよ」
「なぜ? なぜですか? どうして、忘れているのですか?」
 頭を働かせ始めたせいだろうか、心の口調は、ふたたび落ち着いてきている。
 思いつきを悟られまいとして――龍鬼に知られると、せっかく思いついたことを確かめるのが困難になってしまうかもしれない――心は丁寧語を使い、冷静にふるまおうとしている。
 しかし、それがかえって不自然に映る可能性にまでは、気が及んでいない。
 この辺りが『お子様』状態にある、いまの心の限界なのだろう。
「……つらいことがあったから、かな」
「つらいこと?」
「とてもとても、つらいことがあったんだ。深くふかく、君は傷ついてしまった……そのせいで――」
「忘れてしまった? あなたを――たつきのことを?」
「僕のことなんて、どうでもいい。それよりも、もっと大切なものを、君はたくさん失くしてしまった。環ちゃんやお友だちとの、大事な思い出も、長い綺麗な髪も……ごめんね」
「どうして、たつきが謝るのですか?」
「守れなかったから。君を守ることが、僕の役目なのに……守れなかった。ごめんね。許しておくれ」
 龍鬼は哀しそうに目を伏せると、心を抱く腕にかるく力をこめた。
「……ボクを、守る?」
(やっぱり……なのかな? たつきは、知っているかもしれない)
 心の思いつきはこうだ。
 龍鬼は、『心』に関して色々と知っているらしい。
 ゆえに上手くすれば、自分の知らない『心』の情報を、彼から引き出せるのではないか? 
 そこにはひょっとすると、自分とまわりが『入れ替わった』ことに関する重要な手掛りが含まれているかもしれない。
 むろん心は、龍鬼が直接に『入れ替えた』犯人を知っているなどとは考えていない。
 それに『思いつき』は、言葉にできる部分がこのようであるというだけで、まだまだ未整理のものが幾つもある。
 とりあえずは龍鬼と接することで、家族や環と接して『知らない記憶』を思い出したのと同じように、彼との『知らない記憶』を、より思い出しやすくなるかもしれない。

「苦しいです。もう、放してください」
「――ごめん」
 龍鬼は心をいったん強く抱きしめると、ベッドの縁に腰掛させて、放してくれた。
 なんだか哀しそうな龍鬼の視線に、心は居心地の悪さを覚える。
「なにか?」
「お願いがあるんだ。もう二度と、『龍鬼さん』なんて他人行儀な呼び方はしないでおくれ。それに、いつも通りの心でいてくれれば、いいんだからね?」
 小さな子供に言い聞かせるように、やさしく頭を撫でてくる。
「……はい」
 子供扱いされるのは悔しいが、撫でられることそれ自体はべつに嫌ではない。
 嫌でないどころかむしろ、
(気持ちいい……? イヤだ……そんなわけ、ないよ。でも)
 恋と愛、それから玲那や千鶴たちに撫でられたときも気持ち良かったのだから、
(同じ? ……なのかも)
 仔猫のように目を細めて、心は大人しく撫でられている。
 心がすっかり落ち着いたのを見計らうと、龍鬼は一歩ひいて、その場に跪いた。
「たつき?」
 ベッドの縁に腰かけた心に対し、下から見上げるように視線を合わせる彼の表情は、とても真剣だ。
「心――いいえ、心様。これまでの無礼、どうかお許しください」
「どうしたの…ですか?」
 急に畏まられても、心にはわけが分からない。
「穢れと禍を従え、守られし、この世でもっとも清き闇の魂を、御身に宿す――黒姫の『御子』……」
 龍鬼は恭しく頭をさげると、心の小さな白い足に両手をそえて、その甲にキスをした。
「――んっ」
 背筋が、ぞくりとする。
(…………なあんだ、『身内』だったのか)
 耳によく馴染んだ『文句』を、龍鬼が口にしたことで、心にはそれがはっきりと分かった。
 『身内』とはつまり、この町にいくつかある旧家の、その内のどれかの家の人間である、ということ。
 たったいま龍鬼が口にした『文句』と、それを知っている人間だという事実が、旧家の者である証明だ。
 さきの『文句』はあの他にも、「外のもの、はるか遠く旧き神……」云々とながなが続いていくのだが、龍鬼が口にしたのはほんのさわりの部分であって、『御子』を示す決まり文句のようなものといえた。
 ――そう、心は『御子』と呼ばれる者。『お役目』に選ばれた人間。
 男であったときから、心は『お役目』についた『御子』であり、今もそれは変わらない。
 『お役目』だの『御子』だのと、ご大層な呼ばれ方をしているが、何のことはない。ようするに、《カミサン》を祭る土着信仰のようなものの、祭司であるというだけのことだ――と、心は考えている。
 なにしろ『祭る』といったところで、何か大々的に行事をおこなうわけでもなく、せいぜい旧家のうちで、結婚や葬儀があったときに《カミサン》に報告したり、月一で《オツトメ》をする程度のものなのだから、がそう考えるのも無理はない。
 他にも、町で公共・民間を問わず大きな開発・建設事業が行われるときなどにも、《カミサン》へ報告をするという出番はあるのだが、心の代になってからはそれもなかったため、よけいに縁遠くなっていた。
 だいたい、『御子』であるはずの心自身、《カミサン》が何なのか、ろくに知らないときている。
 『儀式』のための『作法』の類は、先代の『御子』であった父母から、一応ひと通り教えてもらったが、《カミサン》に関しては、肝心なことは何も教えてもらっていない。
 だから心は、高校を退学したときの暇を利用して、それらをわざわざ調べてみたことがあった。
 結果は――調べただけ無駄。
 まあ、それは当然といえるのかもしれない。
 《カミサン》を祭っている黒姫家の人間より、それについて詳しい人間がいるとは考え難い。
 わざわざ『こんなもの』を研究する物好きでもいない限りは、という条件がつくのだろうが――
 そもそもこの『御子』というやつにしてからが、けっこういい加減な代物だ。
 まず、『お役目』について『御子』とよばれる人間は、男でも女でも、どちらでも良い。
 それに一代に一人と決まっているわけではない。多いときには一代で三人のときもあったというし、途中で増えたりすることまである。
 ほとんどは一人か二人、そのうち一人は必ず黒姫家の『御子』の血の繋がった者でなくてはいけないという、『絶対条件』がある。
 『御子』の子が『御子』となる。
 ゆえに『御子』は結婚し、子供をもうけることを、なかば義務づけられてきた。
 子供さえつくれば良いから、かつて先祖のうちには、たくさんの妾を囲った男が何人もいたという。
 この手の土着信仰につきものの、「血を穢してはならない」とか、一生独身を守らねばならないとか、そういった堅苦しさや潔癖さとはまるで無縁だ。だからこそ、『巫女』でなく『御子』なのだろう。
 一〜三人のうち、最低一人が黒姫家の人間であればよく、途中で増えることもある――という点から、ピンとくる人もおられようが、夫婦で『御子』になる場合もある。
 心の先代、つまり父母にしてからがそうだった。
 だからといって、必ず夫婦で『御子』になるわけではないのが、さらにいい加減なところだ。
 ちなみに『御子』の代替わりには、これといって明確な決まりなどない。儀式の類もとくにしない。
 たとえば先代だった父母は、先々代であった祖父が存命中に『お役目』をついで『御子』となったが、心の場合は父が死んだ瞬間から『お役目』についている、といった具合なのだ。
 『絶対条件』さえ守れば、あとはかなりいい加減な『御子』だが、次に『お役目』につく者を選ぶのは誰かといえば、それは当代の『御子』ではない。
 黒姫家の当主でもないし、ましてや周りの、旧家の人間たちが後押しして選ぶのでもない。
 『御子』を選ぶのは、《カミサン》なのだ――と、心は母から教えられた。
 心はそれを信じていない。なぜなら母に、
「《カミサン》が選んだ、次の『御子』が誰なのか、どうやって分かるの?」
 と訊ねたことあり、それに対する母の答えが、
「それは《カミサン》が、いまの『御子』に教えてくださるのですよ」
 だったからだ。
(なんだ……『御子』を決めるのは、結局『御子』なんじゃないか……)
 少しだけ、がっかりさせられたことを覚えている。
 もっとも心は、はじめから《カミサン》の存在など、ろくに信じてはいなかったのだが。
 それでも、もしも本当に『それ』がいるとしたら、父や母との絆になってくれるかもしれないと、こころのどこかでそんな風に想っていたことも、まぎれもない事実。
 母は生前、《カミサン》の声が聞こえると明言していたが、そんなものを、心は一度たりとも、
(聞いたことなんか、ない……)
 きちんとした『作法』に則って、『儀式』で呼びかけたこともあるが、こたえてくれた例がない。
 よって、
(《カミサン》なんて、いないよ。いるわけないじゃないか)
 これが心の結論だ。
 だからこそ心は、男だったとき、いずれは黒姫家を出て――悪くいえばしがらみをすべてを捨てて、自分の実力と腕のみで生きていくことに、さしたる抵抗を持たなかったのだ。
 かような、その存在すら怪しい《カミサン》であり、それを祭る『御子』もいい加減なものなのだが、どういうわけかこの町においては、ことに旧家の連中にとっては重要なものらしい。
 伝承によれば《カミサン》は気まぐれなうえ、無闇矢鱈と『祟る』または『障る』ものであるらしく、いざとなれば失うものの大きい、いわゆる資産家だとか地主がほとんどである旧家連中にとってみれば、その影響を恐れたり、気にかけてきたのは、『縁起かつぎ』として無理からぬことにも思われる。
 庭先やビルの屋上にいらっしゃる、お稲荷様のような存在を、もっと大袈裟にしたものなのかもしれない。
――と、《カミサン》にたいする心の解釈は、いまのところそんな感じに落ち着いている。

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