薔薇屋敷の虜囚

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 【8】

 グレースが窓の向こうに消えていく姿は、ミレイユにも衝撃を与えたが、うろたえている場合ではなかった。
 すぐさま気を持ち直し、子供達に駆け寄る。
 恐ろしい女に窒息寸前まで追い詰められていたカトリーヌは、母に抱きしめられて大声で泣いた。
 がたがた震える小さな体をしっかりと抱え、ぴくりとも動かない息子に手を伸ばす。
「セルジュ! セルジュ!」
 返事はなく、ミレイユは後悔の涙を流した。
 なぜ、もっと早く動かなかったのだろう。
 息子は健気にもたった一人で妹を守り、己の危険も顧みず脅威に立ち向かっていたというのに。
 泣き崩れるミレイユの横でロジェが屈みこみ、セルジュの脈と呼吸を確かめた。
 彼はミレイユを振り返ると、硬い声で励ました。
「落ち着け、諦めるな、セルジュは死んではいない。俺の大事な息子を死なせるものか」
 ロジェは召使いに傷薬を持ってくるように指示し、セルジュを寝室に運んだ。
 ミレイユもカトリーヌを抱いて後に続く。
 ロジェは自らの手で息子の服を脱がせ、用意させた薬を腫れ上がった肌や傷に塗りつけ、手当てを施した。
 幾つもの戦場を渡り歩いてきた彼にとって、傷病の手当ては慣れたものだ。
 息子の容態も冷静に見極め、最善と思われる治療を行っていく。
「傷の影響で熱が出てきた。冷やすための水を持って来い」
 井戸から汲まれた水がすぐに運び込まれ、冷水で布を絞り、セルジュの汗を拭う。
 ミレイユはそれらの様子を黙って見ていた。
 カトリーヌが母と引き離されるのを嫌がったので抱いたままだ。
 手当てが終わり一息つくと、ロジェはミレイユを振り返った。
「君はカトリーヌと一緒に寝てくるといい、寝室の場所は昔のままだ。セルジュには俺がついている」
 ミレイユは何か言うべきかと口を開きかけたが、言葉が浮かばない。
 興奮状態が過ぎ去り、冷静さを取り戻すと、先ほどの嵐のような出来事が現実のものではないような気がしてきたのだ。
 しかし、セルジュはケガを負って寝ているし、カトリーヌは怯えている。
 グレースが死んだことも夢ではない。
 どっと疲れが押し寄せてきたが、まだ倒れるわけにはいかないと足に力を入れる。
 体は休息を必要としているものの、ミレイユは頭を振った。
 ロジェは息子に危害を加えないだろうか?
 ちらりとよぎった疑念のせいで、この場を動くことが出来ない。
「任せてもいいの? セルジュを傷つけたりしないでしょうね」
「約束する。何かあれば、必ず召使いを呼びにいかせる。俺を信じてくれ」
 ロジェの瞳に真摯な輝きを見て取り、ミレイユは過去に抱いた熱い感情を思い起こした。
 疑うことを知らなかったあの頃のミレイユは、一目でこの瞳に魅せられ、心を投げ出したのだ。
 ミレイユは頷いて戸口に向かったが、思い直してもう一度振り返った。
「一つ聞いてもいい? あなたが私を閉じ込めたのはなぜなの?」
 ロジェは口を引き結び、俯いた。
 握り締めた彼の拳が震えていることにミレイユは気がついた。
「グレースが言ったんだ」
 片手で顔を覆い、ロジェは声を搾り出した。
「君が俺の生い立ちを知って軽蔑している。下賤な男に汚されてしまったのだから血を尊ぶ理由はない、これからは好きなだけ男を誘惑して楽しむつもりだと言っていた――と。グレースを信じた俺は、どうせ君に憎まれているのなら、どう思われても変わりがないと思った。他の男が君に触れるぐらいなら一生閉じ込めて俺だけのものにしようと誓ったんだ」
 ミレイユは思いもかけない話を聞いて、ロジェを凝視した。
「生い立ちですって? 何のこと? 私は何も知らないわ。あなたは侯爵様の信頼を得て、功績を認められた立派な騎士だった。結婚するには十分な理由だったわ。たとえあなたが罪人の息子でも、私は気にしなかった」
「今なら君の言葉を信じられるよ。当時の俺にとってグレースは最も信頼していた妹だったんだ。あの子が嘘をつくわけがない。その思い込みが俺に間違いを起こさせた」
 過去の非を認めたロジェを見て、ミレイユは複雑な思いを抱いた。
 グレースの嘘によって失った時間はあまりにも長すぎる。
「俺は貴族の生まれじゃない。父が亡くなって家族揃って飢えていたところを親切な騎士に拾われて剣を教わった。騎士になった後は戦で手柄を立てて侯爵様に気に入られ、褒美に領地と高貴な花嫁を与えられた。君は俺がどんな人間か知っていたら結婚はしなかったと何度も言った。その度にグレースの言葉が真実だと思い知らされた」
「グレースはあなたと愛し合っていると私に言ったわ。私と結婚したのは地位と財産と跡継ぎを得るため。用済みになったらお払い箱にする気だと。彼女の言葉通り、あなたは私を屋敷に押し込め、城の女主人に彼女を据えた。子供達も取り上げて母親の役目を与えたわ。わたしはあなたを卑劣な人間だと軽蔑した。拒絶の理由はそれだけよ」
 ロジェの表情は痛々しいほどに苦悩に満ちていた。
 妹のように愛してきたグレースの裏切りが彼に衝撃を与え、妻子を不当に虐げてきたという事実を知って罪悪感に苛まれている。
 ミレイユはロジェを抱きしめて慰めたくなった。
 彼はわざとミレイユを苦しめたわけではなかったからだ。
 しかし、思い止まる。
 ロジェはミレイユの話を聞きもせず、ありもしない罪で長年責め続けてきたのだ。
 何もかも忘れて受け入れるには、ミレイユの心は傷つき過ぎていた。
「ミレイユ、すまない。ああ、俺はどうすればいいんだ。君を苦しめ、子供達も守れなかった。償いになるなら何でもする。君が望むことを俺に命じてくれ」
 ミレイユの足下に身を投げ出し、ロジェは呻き声を上げた。
 彼を見下ろして、ミレイユは寝台で眠るセルジュに顔を向ける。
「今は何も考えられない。過去のことも、あなたとのことも、セルジュが目覚めて元気になってからの話よ」
 項垂れるロジェを置いて、ミレイユは部屋を出た。
 彼女の腕に抱かれていたカトリーヌは、閉められたドアを見つめて呟いた。
「お父様、かわいそう」
 ミレイユは黙って娘の髪を撫でた。
「お兄様が元気になったら、みんなで一緒に暮らせるね」
 カトリーヌは父のことも好きなのだ。
 ミレイユは微笑し、娘の頬にキスをした。
「ええ、そうね。これからは何もかもうまくいくわ」
 もう一度やり直そう。
 変えることのできない過去を恨むより、未来を見なければ。
 だけど、心を整理するためにもう少しだけ時間が欲しい。
 全てが新しく動き出すその時まで。




 セルジュの意識は翌日には戻った。
 彼は目を開けて、枕元に父親が座っているのを見て驚いた。
 ロジェは目覚めた息子に、申し訳なさそうな顔を向けた。
「気分はどうだ? 体は痛むか?」
「うん、痛い。だけど、僕のことはいい。カトリーヌはどうしたの? 無事でいるの?」
 痛みに顔をしかめながらも、セルジュは起き上がって父にすがりついた。
「父上、信じて! 僕にケガをさせたのはグレースだ! グレースは僕達を殺す気なんだ! カトリーヌを守ってよ!」
「セルジュ、カトリーヌは無事だ。もう全て終わったんだ、何も心配しなくていい」
 ロジェはセルジュをそっと抱きしめて、安心させようと背中を撫でた。
「グレースは死んだ。二度とお前達に酷いことはできないんだ」
 セルジュは息を呑んだ。
 すぐに理解ができなかった。
 なにがあったのかと問いかけたが、ロジェの陰りを帯びた表情を見て何も言えなくなった。
「グレースは俺の妹だった。お前がカトリーヌを守ろうとするように、小さな頃から守ってきたんだ。まさか、そのせいで愛情を間違えているなんて思いもしなかった。俺は信じるものを間違えた。愚かなことに十年も時間を無駄にして守るべき家族を苦しめ続けてきたんだ。お前が負った傷も俺のせいだ。許せとは言わない、償いにこの先も俺にお前達を守らせてくれないか?」
 セルジュは父に抱きついた。
 溢れてくる涙を拭うこともせず、強くしがみつく。
「あなたが僕らを愛してくれるなら許す。僕もカトリーヌもあなたが大好きなんだ」
「お前のように勇敢で優しい息子を持ったことを誇りに思う。ありがとう、セルジュ」
 泣きながら笑い、セルジュは頷いた。
 涙で濡れた息子の顔を布で拭き、ロジェは穏やかに言った。
「お前達を助けたのはミレイユ――もう知っているらしいが、お前達の母だ。彼女はカトリーヌと一緒にいる。今は休んでいるが、目が覚めればこちらの様子を見にくるだろう」
 セルジュは驚いて目を見開いた。
「母上がいるの? 僕のために屋敷から出てきてくれたの?」
「ああ、そうだ。俺の喉にナイフを突きつけて、城に子供達を守りに行くんだと脅してきたんだ。産んだと同時に引き離してしまったのに、それでも彼女は母親になっていたんだな」
「もちろんよ、二人とも私がお腹の中で育てたのよ。たとえ一年にも満たない繋がりでも、私達は親子だった」
 二人が声のした方を振り返ると、戸口にミレイユとカトリーヌが立っていた。
 ミレイユはセルジュに微笑みかけ、娘の手を引いて入ってきた。
「無理をしてはだめよ、おとなしく寝ていなさい、セルジュ。私はもうあなた達から離れない、この手で傷を癒し、成長を見守るの。お父様だろうと、誰にだろうと、二度と邪魔はさせないわよ」
 ミレイユが付け足した棘のある言葉を耳に入れ、ロジェはおろおろと妻の顔色を伺った。
 セルジュは父の哀れな姿に同情したが、無理もないことと思い、あえて見なかったフリをした。

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