傷心

 5 (side 鳩音)

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 合鍵をもらってから、大学帰りに渡さんの部屋に立ち寄ることが多くなった。
 雛と講義が同じ日は一緒に帰り、それ以外の日は先に来て、掃除に洗濯、夕ご飯の支度をしながら待っている。
 奥さん気分で、彼の世話を焼くのは楽しい。

 今日はわたしの講義が先に終わる日だったから、合鍵を使って中に入った。
 洗濯機をまわして、掃除機をかける。
 調子よく掃除機を動かしていたら、本体がゴミ箱に当たり、横倒しにしてしまった。
 ゴミ箱が転がり、中身が出てくる。

「あ、うわっ」

 幸い、中身はそれほど入ってなくて、紙切ればかりだ。
 急いでゴミ箱を立てて、飛び出した紙片を拾う。
 あれ?
 これ、名刺だ。
 ゴミ箱の中にあったってことは、いらないもののはずだけど……。

 見つけたのは、高級クラブのホステスさんの名刺。
 つばめって源氏名だよね、多分。
 それから裏に携帯番号が書いてあった。
 表に印刷されていたのはお客さんに教えるためのアドレスで、こっちのはプライベートのものだろう。
 渡さんに個人的に接触しようとしてたんだ。
 ホステスさんなら、化粧も服も華やかで綺麗な人なんだろうな。
 男性を喜ばせる会話や仕草だって心得ているはずだ。
 そんな人に迫られて、心を動かさずにいられる男性がいるだろうか?

 やめよう、疑っちゃダメだ。
 渡さんは大丈夫、そんな人じゃない。
 信じなくちゃ。
 彼は誠実な人だ。
 わたしが好きになった人は、心変わりを隠して二股をするような卑怯者じゃない。




 だけど、一度気になると、頭の中から追い出すことはできなかった。
 最近、渡さんは考え事をしていることが多くなった。
 わたしが隣にいても、上の空で話を聞いていないこともある。
 今だって「夕ご飯何がいい?」って尋ねたのに「映画でも見に行こうか」と、関係のない答えが返ってきた。

「渡さん」

 服を引っ張って呼んでみた。
 渡さんは顔をこっちに向けて、首を傾げた。

「どうかした?」
「わたしに隠し事してません?」

 我慢できずに問いかける。
 渡さんは口ごもり、目を逸らした。
 怪しい。
 疑惑は確信に変わる。

「女の人に誘われたでしょう? 正直に言ってください。何もなかったらそれでいいんです」

 自分で言ってて怖くなってきた。
 誘いに乗って浮気したって言われたらどうしよう。
 一夜の過ちなら許せる?
 渡さんはわたしを裏切ったの?

「鳩音ちゃん、オレは君が好きだよ」

 渡さんは答えをはぐらかしてキスをしてきた。
 答えになってないよ。
 不安で胸がいっぱいになった。

「抱きたいのも、一緒にいたいのも君だけだ。それだけは本当だ」

 抱き合ったまま床に倒れこむ。
 何度も唇を重ねながら、彼はわたしの服を取り払い、自分の服も脱いでいく。

「渡さん、信じていい?」

 じっと目を見つめて問いかけたけど、渡さんはまた黙ってしまった。
 どうして?
 わたしはあなたの言葉が欲しい。
 信じろって、はっきり言って欲しいのに。

 体を隔てる布が全てなくなり、互いに素肌を晒しあう。
 膨れ上がってくる不安を押さえ込むために、わたしは彼を求めた。
 渡さんの熱い欲望が、わたしの中に入ってくる。

 愛情を持って抱き合っているはずなのに、心の繋がりが見えない。
 そこに壁があるかのごとく、彼の気持ちを信じることができなくて、不安は強くなるばかり。
 やだよぉ。
 こんな気持ちで抱かれたくない。
 お願いだから、前みたいに自信に満ちた声で愛してるって囁いて。




 どうすればいいのかわからないまま日が過ぎていく。
 会えば、不安を振り払うように体を繋げた。
 こんなの逃げてるだけだってわかってる。
 でも、確かめるのが怖い。
 彼を好きな気持ちは膨らむ一方で、だからこそ、確かな言葉が欲しかった。

 休日の今日は午前中に用事があり、午後から食材を持って渡さんのマンションを訪ねた。
 二十階建てのマンションが視界に入り、足を止める。
 渡さんがいた。
 マンションの入り口で、誰かと話している。
 赤いタイトミニのスーツを自然に着こなした、ロングヘアの綺麗な女性だった。
 強調された肢体は女のわたしから見ても魅力的で、大人の色香を十分に備えている。
 ざわりと悪寒がして、全身に緊張が走った。

 女性は渡さんに近寄り、彼の胸元に顔を寄せて抱きついた。
 渡さんはふりほどかない。
 彼女に何か言葉をかけて、肩を抱くと、マンションから離れて歩き始めた。

 わたしは声をかけることも、追いかけることもできなかった。
 あれは誰?
 渡さん、わたしが来ること知ってたよね?
 それなのに、どうして他の人と一緒にいるの?

 信じたい気持ちと疑いの気持ちに挟まれて、体が震えた。
 買い物袋が手から滑り落ちて足下に落ちる。
 無意識に体を抱きしめた。
 足がすくんで動かない。
 わたしが取るべき行動。
 それがわからない。

「鳩音ちゃん、どうしたの?」

 後ろから声をかけられた。
 足音が近づいてきて、人の気配が前に来る。
 心配そうに顔を覗き込んできたのは雛だった。
 買い物帰りだったのか、コンビニの袋を提げている。
 雛の顔を見た途端、金縛りが解けたみたいに体が動き、飛びついていた。

「雛ぁ」

 突然、すがりついたわたしに驚きを見せながらも、雛は受け止めて背中を撫でてくれた。

「何があったの? とりあえず、鳶坂さんに連絡しようか? 部屋にいるんだよね?」

 渡さんを呼ぼうと、携帯を取り出しかけた雛の手を止めた。
 首を振って説明しようとしたけど、うまく言葉が出てこない。

「渡さん、いないの……。今、出て行ったの見たから、女の人と一緒に……」

 やっと、それだけが言えた。
 雛は事情を察してくれたのか、背中を撫でる手を止めて、抱きしめてくれた。

「話を聞くからうちに来て。鳶坂さんのことなら、鷹雄が相談に乗ってくれるよ」

 雛はわたしを離すと、手を引いて、エレベーターへと乗り込んだ。
 向かうのは最上階にある、雛と鷹雄さんの部屋だ。

 最上階には彼らの部屋しかない。
 エレベーターを下りてすぐに、玄関の扉がある。
 雛は鍵を開けて、わたしを中へと招いた。
 通されたリビングには鷹雄さんがいたので、お辞儀をして、勧められたソファに座った。

 キッチンに入った雛が、お茶を入れて戻ってくる。
 テーブルに三人分の湯のみを置いて、わたしの隣に座って手を握り、何があったのか話すように促した。
 わたしは二人に、渡さんに女性の影がちらつき始めたことから、先ほど見た女の人のことまで順番に話していった。

 話し終わると、鷹雄さんがイラつきを露わにして舌打ちした。
 彼はあの女性に心当たりがあるみたい。

「あの女、ここまで押しかけてきやがったのか。渡のバカ野郎が、あんな女ほっときゃいいのに」

 髪を掻き毟って唸ると、鷹雄さんはわたしの方を向いた。
 他者へ向けられたものだとしても、怒りの宿った瞳と正面から目が合ってしまい、びっくりして肩を跳ね上げる。

「あんたが見た女は須鴨ひばりだ。高一の時にできた渡の初カノだよ。最近になってよりを戻したいと渡を追い掛け回してるらしい。昔、あいつらの間に何があったのか、あんたは知っといた方がいいのかもしれねぇな」

 鷹雄さんは、渡さんの過去を話してくれた。
 始まりは、ひばりさんと付き合っていた頃の渡さんの話から。
 彼女が初恋だった渡さんは、鷹雄さんに惚気話を山ほど聞かせるぐらい夢中になっていた。
 その幸せが壊れたのは、付き合って一年後の高二の春のこと。
 お父さんが起こした事故がきっかけとなり、生活が困窮して、渡さんの家は多額の借金を背負った。
 学費が払えず、学校を辞めることになり、ひばりさんの心変わりを理由に二人は別れた。
 その後、偶然知ることになった彼女の本性と裏切り。
 渡さんは鷹雄さんの下で働き始め、借金による憂いはなくなり、生活は安定した。そして、新たな恋もしたけど、どの人とも数ヶ月で別れを切り出されて破局していた。

 渡さんが恋人と長続きしなかった一番の理由は、ひばりさんによって植え付けられたトラウマが原因だった。
 本気になって裏切られることを、彼は極端に警戒して恐れている。
 無意識に距離を置こうとするから、日が経つと恋人は自分が信頼されていないことに気づいて不安になり、我慢できずに離れて行く。
 渡さんは人を愛したいのだと思う。
 きっと、今までの恋人だった女性達のことも、大事にしたいと考えて付き合っていたはずだ。
 相手を信頼できないことを自覚するたびに、彼はどんな気持ちになっただろう。
 恋人を傷つけた罪悪感で、渡さんも苦しんだはずだ。
 その時の彼の胸中を思うと、わたしの胸まで苦しくなる。

「渡がひばりとよりを戻すとは考えられねぇ。だがな、渡は情が深い。初恋の相手が堕ちるとこまで堕ちて助けを求めてきたとしたら、無下に突き放すことができないかもしれない。あのクソ女、今頃ノコノコ何しに出てきやがったんだ」

 鷹雄さんは怒っていた。
 親友の渡さんをバカにされて、傷つけられたんだもの。
 わたしだって腹が立ってる。
 彼の心に消えない傷を負わせたくせに、どうして今頃になって、平然と顔を出すことができるの。
 幾ら現在が酷い状況にあるからって、そんなの身勝手すぎる。

「わたし、負けない! そんな人に渡さんを取られたくない!」

 怒りで興奮して、つい叫んでいた。
 それを見て、鷹雄さんがわたしに向かって笑いかけた。

「その意気だ。渡に関しちゃ押しきった方が勝ちだ。突撃していけ」
「はい!」
「鳩音ちゃん、頑張って」

 鷹雄さんと雛の声援に送られて、わたしはマンションを出た。
 携帯を取り出して、渡さんの番号を呼び出す。
 数コールの後、渡さんは出てくれた。

「渡さん、今どこ!?」

 大声で問い詰めていた。
 渡さんはわたしの剣幕に驚いたようで、声を詰まらせたのがわかった。
 数秒の沈黙の後、再び渡さんの声が聞こえてきた。

『近くにいるよ。マンションの右隣にある公園。鳩音ちゃんにも話があるから、ここに来て』

 わたしにも?
 あの人もまだいるんだ。
 須鴨ひばり。
 渡さんを裏切った元彼女。

 過去がどうであれ、渡さんの彼女はわたしなんだ。
 好きだって言ってくれた。
 合鍵だってもらった。
 一緒にいたいのはわたしだけだって言った彼の言葉を信じる。
 渡さんを裏切って切り捨てた人になんか、絶対に譲ったりしない。




 夢中で走って公園を目指す。
 一刻も早く、渡さんの傍に行きたかった。

 もどかしい思いを抑えて、公園の入り口を抜けた。
 他に人の姿はなく、向かい合って立っている渡さんとさっきの女の人をすぐに見つけることができた。

「渡さん!」

 彼の名を呼んで、飛びついていく。
 渡さんは受け止めてくれた。
 彼の体にしがみついて、息を切らせた。

「来るって言ってたのに、留守にしててごめん。でも、この話は鳩音ちゃんにも聞いてもらわなくちゃいけないんだ」

 渡さんを見上げて、それから女の人に目を向ける。

「鷹雄さんに昔の話を聞いたの。その人がひばりさん?」

 わたしの問いに彼女が微笑んだ。
 敵意を含んだぞくりとするほど冷たい微笑だ。

「わかっているなら話が早いわね。普通の人生を生きているあなたには別の出会いがあるはずよ。彼をわたしに返して、わたしには渡しかいないの」

 勝手なこと言わないで。
 渡さんはわたしの恋人なんだ。
 あなたには渡さない。

 ひばりさんを睨みつけて、渡さんと向き合う。

「渡さん。あの人のことなんかなんとも思ってないよね? わたしのこと好きって、愛してるって言ってくれたよね?」

 わたしの問いかけに、渡さんは黙っていた。
 どうして答えてくれないの?
 気持ちはあの人に戻ってしまったっていうの?

 渡さんはわたしを見つめていた。
 目を逸らすことなく、彼は真っ直ぐわたしを瞳に映していた。
 浮気をした人なら目を逸らすはず。
 彼がそうしないのは、後ろめたいものが何もない証拠なんだ。
 言葉が返ってこなくても、わたしは信じることができた。

 やがて渡さんが口を開いた。

「オレは鳩音ちゃんが好きだ、それは変わらない。ひばりにも言ったよ、どれだけオレを愛してくれても、オレが愛する人は鳩音ちゃんだけだって」

 わたしは嬉しくなって、再び抱きつこうとした。
 でも、渡さんはわたしの肩を掴んで押し止めた。

「鳩音ちゃんに話すことがある。それを聞いて、君の答えを聞かせて欲しい」

 思いつめたような渡さんの声。
 何?
 何を言おうとしているの?

「仕事で取り返しのつかないミスを犯したんだ。責任とって会社を辞めることになった。損失も補わないといけないし、早い話が無職で借金抱えたわけ。そうなると、このまま付き合っても、幸せにするどころか苦労をかけるだけだからさ。迷惑かける前に別れようと思う」

 渡さんが話してくれたことを、にわかには信じられなかった。

「鷹雄さんは何も言ってなかった。何かの間違いじゃ……」
「このことは社長と一部の重役しか知らない。鷹雄が知れば、オレを庇おうとするだろうから黙ってもらってたんだ。身内だからってもみ消してしまうと、他の社員に示しがつかないからね」

 そうか、だから上の空だったんだ。
 渡さんが悩んでいたのに浮気だなんて疑って、彼女失格だ……。

「ひばりはどうする? それでもオレと一緒にいてくれるのか?」

 渡さんに声をかけられて、呆然としていた彼女は我に返った。
 顔を引きつらせて、目を泳がせている。

「わ、わたしはだめよ、支えていけない。だって、わたしにも借金が残ってるし、それに……」

 あたふたと言い訳めいた言葉を並べて困っている。
 さっきまで彼を返して、なんて言ってたくせに。

「いいんだよ、無理はしなくていい。オレは一人で生きていくつもりだから」

 全てを諦めたように、渡さんは呟いた。
 問う前から、わたし達の答えがわかっていたみたいに、もう結論を出してしまうの?
 まだわたしは答えていないのに、勝手に返事を決め付けないで。

「待ってよ、渡さん! わたしは別れないからね!」

 大声を張り上げたわたしに、渡さんとひばりさんの目が同時に向けられた。

「わたしは渡さんが好きなの! 容姿や収入だけで好きになったんじゃない、あなたと二人で過ごした時間が楽しかったから好きになった! 確かにわたしは世間知らずで、借金を抱えた生活がどんなに大変なのかもわからない! だけど、それでもこのまま別れるなんて嫌! 今は何の援助もできないけど、傍にいてもいいでしょう? 大学卒業したら就職して自活できるぐらい稼ぐ! わたしも一緒に頑張るから、一人で生きるなんて言わないで。わたしは別れたくない!」

 渡さんの目を見て訴えた。
 自分の言っていることが、現実味のない理想であることはわかってる。
 交際を続けることができても、卒業後にうまく就職できて、彼の助けになれるかどうかもわからない。
 それでも口にする言葉は、本心から出たものだ。
 渡さんが苦難の道を歩こうとしているのを見て、逃げることなんてできない。

 ひばりさんに対する意地もあるのかな。
 逃げた彼女とは違うってことを証明したいだけ?

 ううん、違う。
 ひばりさんのことは、もうどうでもいい。
 これはわたしの気持ちの問題だ。

 わたしは渡さんが好きだ。
 やっと掴めた彼の手を離したくない。
 正直な気持ちで、自分の心と向き合って出した答え。
 彼を失いたくない。
 偽りのない気持ちが、離れていく渡さんを捕まえろと、わたしに命じた。

「どこにも行かないで! わたしの傍にいて! それが無理なら、わたしがついていく!」

 渡さんは苦しそうに顔を歪ませた後、わたしを腕の中に引っ張り寄せた。
 わたしも反射的にしがみつく。
 離れたくない。
 最初は姿形からの憧れだったけど、彼自身と触れ合って、恋は憧れから変化していった。
 愛しているって自信を持って言おう。
 この先、何が起こっても、自分で選んだ道だから後悔はしない。

 決意を固めて渡さんを見つめたその時、彼の口から出たのは意外な言葉だった。

「ありがとう、鳩音ちゃん。嘘ついて、ごめん。ずっとオレが欲しかった言葉を、君が言ってくれた」

 え?
 嘘って何が?
 状況が把握できなくて目を白黒させていると、ひばりさんの方も同じだった。
 混乱しているわたし達に、渡さんは今聞かせた話は全て嘘だと告白した。

「オレはひばりと別れてから、何度恋をしても、最後には裏切られたことを思い出して、相手を深く信頼できなかった。鳩音ちゃんのことも好きだと思っていても、信じるのが怖かった。物理的な援助ができなくてもいいんだ。オレの傍にいるとさえ言ってくれればそれで良かった。好きな人に愛されているってことだけで、どんな苦境に陥っても乗り越えていく力になる。鳩音ちゃんはオレに応えてくれた。オレが求めていた言葉をくれたんだ」

 渡さんが嘘をついたのは、わたしとひばりさんを試すためだった。
 わたし達の答えを聞いた上で、彼は全てに決着をつける気でいたんだ。
 つまり、わたしを選ぶか、わたしと別れてひばりさんを選ぶか、どちらとも違う道を行くか、三択の答えを用意して、結果はわたしが彼の隣を勝ち取った。

 状況を理解したひばりさんは蒼白になって唇を噛んだ。

「騙したのね、復讐のつもり? わたしを振って、彼女とうまくいったところを見せ付けて満足した?」

 ひばりさんは渡さんを睨みつけて、非難の声を上げた。
 髪を掻き毟り、頭を振って、彼女はヒステリックに叫び続けた。

「ええ、そうね、自分で蒔いた種だもの、これが当然の報いだわ! あなたを裏切ったわたしが選ばれるわけがない! 幸せになる資格もない! 両親が死んだ時、どうしてわたしだけ生き残ってしまったの? こんな人生、生きてたって、意味なんかないじゃない!」

 罵りの対象は、途中から理不尽な自らの運命へとすり替わっていく。
 わたしは初めて、この人に憐憫の情を抱いた。
 それほど、彼女の声は悲痛に満ちて、絶望の縁にいる人間の本音を映していたからだ。

「落ち着け、ひばり。オレは復讐なんて考えていない。お前の裏切りを知った日に、オレ達は終わっていたんだよ」

 渡さんは動じることなく、喚き続けるひばりさんに歩み寄った。
 そして、上着のポケットから一枚の名刺を取り出すと、彼女に差し出した。

「ボランティアで闇金絡みの相談に乗ってくれる弁護士さんだ。お前の話はしてある。オレも世話になったことのある人だから、腕は確かだよ」

 ひばりさんは口を閉じ、震える手を伸ばして名刺を受け取った。
 渡さんと名刺を交互に見つめ、言葉が出てこないのか、浅い呼吸を繰り返している。
 彼の意図がわからなくて、困惑しているんだと思う。

「悪いが調べさせてもらった。お前の言葉を全て信用するには、オレは臆病すぎたんだ」

 渡さんはひばりさんのこれまでの人生を調べた。
 そして彼女の言葉に含まれた、嘘と真実を見分けようとしたんだ。

「オレはひばりのことが好きだった。最初の別れの時、幸せになって欲しいと願ったよ。これはお前を好きだった過去のオレからの餞別だ。まだ希望を失いたくないなら受け取れ、この人は必ず助けてくれる」

 ひばりさんは名刺を抱いて、その場に崩れ落ちて泣き伏した。
 渡さんはわたしの肩を押して、歩くように促した。
 離れていくにつれ、次第に泣き声が小さくなっていく。

 あんな状態で置いてきて良かったんだろうか?
 気になって、渡さんに声をかけた。

「渡さん、いいの? あの人、放っておいて」

 渡さんは首を縦に振り、わたしの肩を抱いた。

「いいんだ。オレができるのはここまでだ。あいつを支えるのはオレじゃない」

 わたしもそれ以上は何も言えず、彼と一緒にマンションに戻った。
 渡さんはわたしを選んだ。
 ううん、わたしが彼を離さなかったから、応えてくれたんだ。
 あの場で、わたしも答えをためらっていたら、渡さんは一人で生きていくことを選択したはずだ。
 捕まえていないと、どこかに行ってしまいそう。
 エレベーターに乗り込むと、不安な気持ちを抑えるために、彼の背中にくっついた。




 部屋に戻ると渡さんはココアを入れてくれた。
 甘いココアを飲んで、リビングで向かい合って座っている。

「試すようなマネをして悪かった。愛想を尽かしたなら、正直に言ってくれ。別れる覚悟はできている」

 諦めきった彼の声を聞いて、わたしの中で何かが切れた。
 怒っているのかもしれない。
 ここまでやって、まだわたしを信じてくれないこの人に。

「渡さんのバカ!」

 ココアの入ったカップをテーブルに置くなり、手元にあったクッションを投げつけた。
 立ち上がり、彼に飛び掛って押し倒し、胸を叩く。

「別れないって言ったじゃない! 好きだって言った! わたしの言葉はいつでも本気なの! どうすれば信じてくれるの? 安心できるの? わたしは渡さんが好き、あなたじゃないと嫌なの!」

 愛しているなら、欲しがってよ。
 求めてくれたら、わたしは応える。
 体も心も全部あげた。
 他にどうしろって言うのよ!

 興奮したせいか涙が出てきた。
 顔を流れ落ちていく滴を、渡さんの手の平がすくい取る。

「鳩音ちゃん、愛してる。オレは別れたくない。君が許してくれるなら、このままオレの傍に繋ぎとめておきたい」

 背中に腕がまわされて、抱きしめられた。
 わたしも強く抱きしめ返す。

「悪いと思っているなら、離さないで。わたしが求めた分、渡さんも求めてよ。愛しているなら、別れるなんて口にしないで」
「うん、二度と言わない。鳩音ちゃんが嫌がるまで離さない」

 こんなにあなたが好きなのに、嫌がるなんてありえない。
 わたしの気持ちを証明するために、彼の唇に自分からキスを求めた。

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