あなたしか見えなくて

姉姫の忠告

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 一日の中で、私が唯一安らげる時。
 それがアレックスの訪れだった。
 待ち侘びて、やっと来てくれた彼を大喜びで迎えた私に告げられたのは、心を乱す知らせだった。

「戦争に……、行くの?」
「はい、同盟国より援軍の要請があり、私にも遠征軍に加わるようにと命令が下りました」

 同盟を結んでいる国の一つが、敵対国に攻められて救援の要請をしてきた。
 我が国からは精鋭の騎士と兵士が選ばれて遠征に行くということだった。
 アレックスは私の騎士。
 だけど、騎士の称号と共に与えられるのは、名誉だけではなく、この国のために戦う責務も含まれる。
 ただ安穏と王女の傍に侍っているわけにはいかない。

「御武運を祈っています」
「ありがとうございます。ローナ様の騎士として、恥じぬ戦いをしてまいります」

 アレックスは少しの恐れも見せずに、私に笑いかけた。
 頼もしい姿が、次第にぼやけていく。
 いけないと、わかってはいたけど、涙がとめどなく流れ落ちた。

「姫! いかがなされましたか?」

 アレックスが慌てている。
 手の甲で涙を拭ってみたけど追いつかない。
 私はいつからこれほど心が弱くなったの?
 心配させるとわかっていて、泣くなんて、ますます自分が情けなくなった。

「し、死なないで……。必ず、帰ってきて……」

 自己嫌悪に苛まれながらも、私の口は身勝手な言葉を紡ぐ。

「わ、私……、あなたがいなければ、生けていけない……」

 彼が危険な戦場に赴こうとしているというのに、私がしているのは自分の心配だけだ。
 一人ぼっちになるのが怖いから、彼の無事を祈っている。
 ああ、嫌だ。
 それならいっそ、この命を身代わりにできればいいのに。
 アレックスのために死ねるのなら、私は幸せだ。

「ローナ様、私は死にません」

 アレックスが私の頬を両手で包みこんだ。
 濡れた頬を撫でながら、真摯な光が宿る瞳を私に向けた。

「あなたに捧げた我が剣にかけて誓います。このアレックスは、永遠にあなたにお仕えさせていただきます。必ずや生き残り、お傍に戻ってまいります」
「約束よ、帰ってきて。武勲など誇らなくてもいい、ただ私の傍にいて」
「光栄です、姫。貴方のそのお言葉が、何よりも私に生きる力を与えてくれる」

 アレックスは抱擁の許しを請うてきた。
 私は許しを与え、何のためらいもなく彼の体を抱きしめ返した。
 そうすれば、きっと無事に帰ってきてくれるような気がしたから。




 アレックスを含めた騎士達が、大勢の兵士を従えて王都を経ってから数ヶ月が過ぎた。
 軍を率いているのはキース兄様だけど、世継ぎであるお兄様に万が一のことがあってはならないからと、前線の指揮はアレックスに一任されたという。
 それだけ兵士達はアレックスを頼りにしている。
 英雄視されている彼の指揮下で、兵士達は実力以上の力を発揮して戦い、戦況を有利に進めているらしい。
 戦場から報告がきたならば、私にも知らせてくれるようにと侍女に頼んでいた。

 アレックスは無事だろうか。
 活躍が伝えられるたびに、彼の元気な姿に安堵して、次には良くない知らせがくるのではと怖れる。
 落ち着かない日々の中、ようやく戦いが終わり、兵達の帰還が始まったと待ち望んだ報告がやってきた。

「アレックスは無事なのね、良かった……」

 感涙にむせび泣く私の部屋に、意外な人が訪れたのはまさにその時だった。




 久しくお姿を見なかったレーナ姉様が、私の目の前に立っていた。
 いいえ、姿を見せなかったのは私の方。
 昼間は部屋に閉じこもり、運動といえば、人目を避けて夜の庭を少しばかり歩くぐらいだった。
 公務もせずに、ただ怠惰に日々を送る私を叱りにいらしたのかと、恥じ入る気持ちから俯いた。

「お久しぶりね、ローナ。きちんと食べているの? 少し元気がないようにも見えるけど」

 お姉様は以前と変わらぬお優しい微笑みを向けてくださった。
 嬉しくなって、昔に戻った気持ちになり、飛びついていった。

「お姉様! お会いできてとても嬉しいです!」
「私もよ、来るのが遅くなってごめんなさい」

 侍女に頼んでお茶の支度をしてもらい、テーブルについた。
 前にレーナ姉様とお話をしたのは、いつのことだったかしら?
 お姉様だけではなく、もう随分とアレックス以外の人と会話をした覚えがなかった。
 彼が行ってしまってからは、本当に誰とも話をしていない。

「ねえ、ローナ。戦場に出ていた兵達が帰還の途についたというのは聞いた?」

 ぼんやりとそんなことを考えていたら、お姉様に話題を振られて我に返った。

「は、はい。お兄様も御無事で、アレックスも……、本当に良かった……」

 アレックスが帰ってくる!
 お兄様のご帰還も嬉しいことだけど、アレックスが帰ってくるという知らせは、それ以上に私の心を歓喜で満たした。
 私の騎士。
 私のアレックス。
 彼は私の……。

「ローナ、アレックスのことだけど」

 気がつけば、レーナ姉様の微笑みが陰り、唇が固く引き結ばれていた。
 今まで見たこともないほどの険しい表情で、お姉様は私に告げた。

「アレックスを近衛騎士から除籍なさい」

 最初、何を言われたのかわからなかった。
 だって、私の騎士はアレックスしかいないのに。
 彼がいなくなったら、私の傍にいてくれる人は誰もいなくなってしまう。

「え……、あの……」

 戸惑って、何も言えない私に焦れてか、お姉様が身を乗り出してきた。

「あなたの騎士に志願する者は他にもいるわ、とにかくアレックスはいけない。彼はあなたに相応しくない」

 ああ、もしかしてお姉様は私に忠告してくれているのだろうか。
 アレックスほど優秀で誠実で強い騎士はいない。
 誰からも嫌われる私のような姫に彼が仕える現状を、多くの人が嘆いているはず。
 お姉様もそう思っているからこそ、アレックスのために私を説得しに来たのだ。
 心から喜んで私に仕えてくれる人なんて、彼以外、誰もいないのに……。

「わかっています、お姉様。私がアレックスが剣を捧げるに値しない主君であることぐらい……」
「ローナ? 何を言っているの?」

 お姉様に逆らうなんて、心が痛い。
 嫌われてしまうかもしれない。
 でも、彼だけは譲れない。

「お許しください、お姉様! 他のお言いつけには何でも従います! だけど、今のお言葉だけは聞けません、私には彼しかいないの! アレックスだけは取り上げないでください!」

 なりふり構ってはいられなかった。
 お姉様にすがりつき、涙ながらに懇願した。

「分不相応だと、どれほど責められてもいい! 私の我が侭で彼を縛り付けていることも分かっています! ああ、でも、私にはもう手を離すことができないの! アレックスがいないのなら、私は生きていけない!」
「ローナ、落ち着いてちょうだい! 違うのよ、そうではないの! アレックスは……!」
「お姉様、お願い! アレックスだけは失いたくないの!」

 お姉様が私に向かって必死に叫んでいるのが見えていた。
 だけど、私の耳には届かない。
 私からアレックスを引き離すための言葉など聞きたくない。
 そうやって全ての音を遮断したはずなのに、待ち望んでいたその声だけは、しっかりと拾えた。

「ローナ様」

 私に呼びかける声に、すぐさま振り向いた。
 戸口にアレックスが立っていた。
 戦場から帰還してすぐに来てくれたのか、埃と泥で汚れた鎧姿だったけど、私の目には太陽の輝きのごとく眩しく映った。

「アレックス!」

 脇目もふらず、彼に駆け寄った。
 飛びついた私を、アレックスはしっかりと受け止めてくれた。

「アレックス、アレックス、どこにもいかないで! 私を一人にしないで!」

 無我夢中で彼を抱きしめた。
 この部屋に誰がいるなんて、もう忘れてしまって、ひたすら懇願を繰り返す。

「ローナ様、ご安心ください。私は永遠にあなたの騎士であり続けます。あなたをお一人になどいたしません」

 アレックスの手が優しく頭を撫でてくれる。
 何度も甘い声音で言い聞かされて、ようやく彼の言葉を信じることができた。




 そうやってどのぐらいの時間が過ぎたのだろう。
 周囲に目を向ける余裕ができた頃にはもう日が暮れていて、室内は薄暗くなっていた。

「そ、そうだわ、お姉様は……」

 我に返ってお姉様の姿を探す。
 だけどお姿は見えず、部屋には私達しかいなかった。

「レーナ様なら先程退室なされました。ローナ様を傷つけてしまったと、大層お心を痛めておいでのご様子でした」
「そんな、どうしましょう。私、お姉様に無礼なことをしてしまって……」

 謝らないと。
 だけど、アレックスを失うのは嫌。
 私はどうすれば良いの?

「ローナ様、レーナ様は近いうちに海の向こうの国に嫁がれることが決まりました」

 思いがけない話に、驚いて彼を見上げる。
 アレックスは複雑そうに笑い、私の肩に手を置いた。

「どうやら知らぬ間に、私はレーナ様の不興を買っていたようですね。ですが、ローナ様が私をお傍にと望んでくださるのならば、今しばらくの間、レーナ様の勘気にも耐えましょう。私の主はあなたです、あなたのご意思だけが、私をこの場に留めておけるのです」
「わかったわ、アレックス。お姉様に何を言われても、私はあなたを離さない」

 ずっと慕ってきたお姉様が 海の向こうの国へ行かれる。
 そのような遠方に嫁がれてしまえば、今生でお目にかかれるのは数えるほどになってしまう。
 寂しいと、確かに思っているのに、私は胸を撫で下ろしていた。
 アレックスと引き離されることがなくなる。
 輿入れの日が来るまで、その話題を避けてやり過ごせばいいのだから。

 お姉様とのお別れの日を待ち望んでいる自分に気がついて、また自己嫌悪に陥った。
 許してください、お姉様。
 私はもう、アレックスのいない人生を歩くことはできないのです。


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