薔薇屋敷の虜囚
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セルジュが残した言葉を、ミレイユは心の中で幾度も繰り返し呟いた。
子供達が母の助けを待っている。
ミレイユの子供達だ。
姿も、名前も、性別さえ知らない子供達だったのに、今では確かな姿を持っている。
セルジュとカトリーヌ。
夫に良く似た兄と自分に良く似た妹。
偶然にしては出来すぎている。
セルジュが最初にこの屋敷に入り込んできた時も、妹を連れて通ってきたのも、単なる好奇心ではなく意味があったはずだ。
真実を見ようとしなかったのはミレイユの弱さだ。
確かめることが怖かった。
何も知らないまま、温かい関係を保っていたかったのは彼女のエゴだ。
彼らはずっと助けを求めていたのに、見ないフリをした。
何の力もないなんて言い訳に過ぎない。
ミレイユは立ち上がった。
力強く足を踏みしめ、しっかりと前を向く。
迷いはなかった。
奪われ続けた彼女には、失うものなどとうにない。
この身から生まれ出でた愛しい我が子を守るためならば、引き換えに命を使うことになろうとも躊躇いはなかった。
「ミレイユ」
ロジェに声をかけられて、ぱっと顔をそちらに向けた。
日はすでに山の向こうに落ちていて、残光がかろうじて室内に差し込んでいるだけで薄暗い。
夫の後ろから召使い達が入ってきて、蝋燭に火を灯し始めた。
暗かった部屋が、わずかばかり明るくなる。
ミレイユは窓に目をやった。
遠くに見える城から零れた小さな明かりの数々が、薄闇の中で頼りなく揺れていた。
今にも消えそうな灯火は、そのまま助けを求める幼子の姿に変わった。
寒気がした。
日に日に激しさを増す虐待の跡が示すものは、誰かが止めるまで留まることがないということだ。
愛する男の心を手に入れて、ミレイユから全てを奪ったはずのグレースが、何ゆえ子供達を憎悪して虐げるのかミレイユにはわからない。
だが、今は理由など考えている暇はない。
大事なことは、子供達が危険な場所に居て、危害を加えられているという事実だけ。
グレースに如何なる理由があったとしても、子供達に対する仕打ちは許されるものではない。
ミレイユは、戸口に立つ夫に向かって命じた。
「そこをどいて」
ロジェは訝しそうに妻をみやったが、動こうとはしなかった。
「どこへ行くつもりだ?」
「決まっているでしょう、城よ。私の子供達を守りに行くの」
ミレイユは話しながら駆け出して、ロジェの間合いに入り込んだ。
彼の腰に巻かれたベルトには、長剣とは別に、小振りのナイフが装備されている。
虚をつかれ、ロジェが動きを止めた一瞬の隙を逃さずに、ミレイユはナイフの柄を掴んで引き抜いた。
奪ったナイフの刃を、夫の咽喉に突きつける。
彼女の目には一点の迷いも怯えもなかった。
「どきなさい、さもなくば殺すわよ。私には失うものは何もない。私を必要としてくれた子供達を守るためならどんなことでもしてみせる」
ミレイユは本気だった。
邪魔をするなら、このまま喉を掻き切る。
ロジェに対する情や憎悪など、子供達と秤にかければどちらが重いかわかりきったことだ。
ロジェは動じることなく、ミレイユを見下ろした。
彼女の瞳を見つめ、今にも首を撫で斬りそうな刃に手を添えておろすように促した。
「急にどうした? 心配しなくても子供達は無事だ。今頃はぐっすり寝ているはずだ」
「昨夜、セルジュは体中に痣を作った。それが誰の仕業か、あなたは知らないとでも言うの? 知っていてそう言うのなら最低ね、地獄に落ちて」
ミレイユの口からセルジュの名を聞いて、ロジェは初めて動揺を見せた。
「なぜ、君がセルジュの名を知っている? それにあの子がケガをしたことも」
「そんなことどうでもいいわ! あなたが子供達をあの城に置いてきたのなら、一刻も早く行かなければ! 私はグレースを許さない、あなたもよ! 子供達に万が一のことがあれば、私があなた達を殺してやる!」
ミレイユはナイフを床に落として、ロジェの横を通り抜けた。
戸口に向かう彼女の腕を、後ろからロジェが掴んだ。
「待て、俺も行こう。君の話が本当で、もしも子供達に何か危険があるのなら……」
「もしも、ではないわ。これ以上、無駄話をしている時間はないのよ!」
叫ぶミレイユに、ロジェはもう何も言わなかった。
言葉を発する代わりに、自ら先頭に立って外に出て行く。
ミレイユが後を追って出て行くと、玄関前に馬が引き出されてきた所だった。
ロジェは馬に跨ると、ミレイユに向かって手を差し出した。
「乗れ」
ミレイユは頷いて、彼の手を取る。
召使いが用意した踏み台を使い、素早く馬上に上がった。
「振り落とされないようにしがみついていろ、いいな!」
「ええ、急いでちょうだい!」
馬が高くいななき、疾走を始めた。
口を開ければ舌を噛む。
ミレイユは歯を噛み締めて、目の前にあるロジェの背中にしがみついた。
松明の炎で微かに輪郭を浮かび上がらせる城を目指して、二人を乗せた馬は夜道を駆けた。
城門を越えて広場に到着すると、二人は馬から飛び降りた。
ミレイユは夫を振り返ることなく、城内に足を踏み入れた。
胸は忙しなくざわめき、嫌な予感が絶えずしている。
いきなり飛び込んできた彼女に対し、城内の人間は不審な目を向けたが、咎めるより先に気がかりがあるらしく、おろおろと廊下の奥に視線を向けていた。
暗闇の中で女のものと思われる金切り声が響き渡り、子供の泣き声と悲鳴が後に続いた。
考えるまでもなかった。
ミレイユは恐れることなく闇に踏み込み、声がする方向を目指した。
階段を駆け上がり、長い廊下を走り抜け、明かりが漏れる室内に飛び込むと、長い黒髪を振り乱した女がカトリーヌに馬乗りになって首を絞めていた。
グレースは狂気で歪んだ笑みを浮かべ、細い首を掴む指に力を込めている。
「死ね! 死んでおしまい!」
カトリーヌの顔は恐怖と涙で覆い尽くされ、苦悶の呻き声を上げていた。
彼女達のすぐ近くにセルジュが横たわっている。
額から血を流し、衣服はあちこち破れていて、鞭で打たれた傷が生々しく覗く。
ぐったりと力の抜けた体からは生気が感じられなかった。意識があるのかどうかもわからない。
ミレイユは猛然とグレースに飛び掛った。
ふいをつかれて驚いたグレースがカトリーヌの首から手を離す。
もつれあって転がった二人だが、ミレイユが先に体を起こして、平手でグレースの顔に先制攻撃を見舞った。
生まれて初めて人の顔を殴ったが、ミレイユは躊躇しなかった。
グレースの襟首を掴み、呆然としている顔を目がけて何度も手を振り下ろした。
自らが長年受け続けた屈辱の日々も、抱いてきた恨みも憎しみも関係なかった。
子供達を傷つけた。
殺そうとした。
目にしたその事実が理性を押し流し、怒りの感情が攻撃へと向かわせた。
グレースは敵。
排除しなければ、子供達が危ない。
ミレイユはセルジュを傷つけた鞭を掴み、グレースに振り下ろした。
グレースは頭を庇って蹲り、怯えきって泣き喚き、許しを乞うたがミレイユの怒りが静まることはない。
ロジェが腕を掴まなければ、相手が動かなくなるまで打ち続けたに違いなかった。
「ミレイユ、やめろ! やめてくれ!」
室内に響いた制止の声に、ミレイユは殺気と共に腕を掴む夫を睨みつけた。
「ロジェ、助けて! この女は私を殺すつもりなのよ!」
グレースは泣きながらロジェの足にすがりついた。
怯えて震えながらも安堵したグレースは、狡猾な目を光らせてミレイユを指差した。
「子供達も殺そうとした! 私は止めようとしたの、本当よ!」
ロジェはミレイユの腕から手を離し、グレースを見下ろした。
彼の顔は血の気が引いたように白くなっていて、眉間には幾筋もの皺が寄り、瞳からは輝きが失せていた。
ミレイユを糾弾するグレースの喚き声が延々と続く。
その間、ミレイユは手にした鞭を握り締め、じっとロジェを見つめていた。
次に開かれた彼の口が、一言でもグレースを庇う言葉を発したなら、何をしてでも殺すつもりだった。
やがてロジェは肩を落として首を横に振った。
「グレース、お前を信じた俺が愚かだった。子供達を殺そうとしたのはお前だろう? 昨夜のセルジュのケガも、それに今まであの子が訴えてきたことも全て本当だったんだな」
グレースの顔が絶望で歪んだ。
「違うわ、どうして信じてくれないの! 私はあなたを愛しているの、全てあなたのためなのよ! わたし達にはこの女も子供達もいらない! 城も領地もお金もいらない、どんなに貧しい暮らしになってもいい、昔のように二人で仲良く暮らしましょうよ!」
ロジェの足を抱きしめて、グレースは喚いた。
ロジェは彼女を引き剥がし、腕を掴んで立ち上がらせた。
「俺にはミレイユも子供達も必要だ。お前のことは妹として愛している。だが、それだけだ。十年前に俺達は別れて自分の道を歩かなければいけなかったんだ。お前が様々な理由をつけて縁談を拒んだ時、望まぬことなら無理強いはすまいと思っていたが、俺のその態度が間違った希望を抱かせたようだ」
「間違いなんかじゃない! 正しかったのよ! 私達は愛し合っていた! 血の繋がりで結ばれることはできなくても、私達は運命の相手なのよ!」
「グレース、わかってくれ。俺が女として愛しているのはミレイユだ。お前には家族としての愛しかない」
ロジェが苦渋の表情で言い渡すと、グレースは叫び声を上げた。
「嫌よ、認めないわ! そんなの……認めない!」
グレースは頭を抱えて振り回し、後ずさりながら笑みを浮かべた。
「これは夢よ、悪い夢。私のロジェがこんなこと言うはずないじゃない。ふふふっ、私ったら、幸せ過ぎてこんな夢を見てしまったのね。早く現実に戻らなければ、私を愛してくれるロジェがいる、私の世界へ」
笑い出したグレースの瞳は焦点が定まっていなかった。
彼女は幸せそうに微笑みながら、踊るような足どりで窓の方へと近づいていく。
「夢はいつか覚めるはず、こんな世界が現実であるはずがない」
窓枠に背を預けた形で彼女は呟いた。
空を見て、恍惚とした表情で笑う。
「グレース!」
駆け寄ったロジェの手が、何もない場所を掴む。
救いの手が届く前に、グレースの体は窓の向こうに落ちていった。
彼女を呑み込んだ闇は深く、まるで地獄の蓋が開いたような寒々しさも感じる。
間を置かず、重い物が地面に叩きつけられる鈍い音が聞こえた。
ロジェが握った拳を床に打ち付けた。
噛み締められた唇が切れて、血が一滴ぽたりと拳の上に流れ落ちた。
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