「トトリー! 遊ぼうぜ!」
毎日のようにトトリを呼ぶ元気な少年の声。
物心がついた頃から、ジーノはいつもそう言ってトトリを外に連れ出した。
年が近い子供がお互いしかいなかったこともあり、臆病で鈍臭い女の子が相手でも、一人で遊ぶよりはマシだと思ったのか、彼は毎日のようにトトリの家がある高台へと続く坂道を駆け上ってくる。
ジーノは活発な男の子で、部屋の中でじっとしているのは好きではない。
大抵は外に出て、憧れの冒険者をマネて棒切れを振ったり、ついには有り余る好奇心を発揮して村の外まで飛び出していった。
魔物役をさせられる冒険者ごっこは嫌だったけれど、未知の探検に挑む時はトトリもちょっとワクワクして、おっかなびっくり後ろをついて歩く。
必然的に、トトリはジーノの背中を追いかけることになる。
無茶をする彼を止めるため、または魔物に遭遇しては背に庇われてと、気がつけばトトリの定位置は彼の後ろだった。
「トトリは弱いから、俺が守ってやるからな」
子供の頃、口癖のように言われていたその言葉は、大人になるにつれて言われなくなった。
ジーノも二十才を越えると、視野を広く持ち、分別がついてきた。
トトリが錬金術によって身を守る術も戦う術も持っていることを、今の彼は知っているし、認めてもいる。
認められていることに誇らしさを感じつつも寂しく思う。
何がどうとは上手く言えない。
ただ無性に冒険者に成り立てのあの頃が懐かしくなった。
主に錬金術士として働くトトリは、滅多に冒険に出かけなくなった。
アイテムを使えば、別の街まで一瞬で移動できることもあり、長期間アトリエのある実家から離れることはない。
彼女とは逆に、ジーノは修行と称して強敵と戦うために、魔物の退治依頼ばかりを受けて、世界各地を飛び回っている。
アトリエに閉じこもって調合をしていると、ふとした時に彼の声が聴きたくなった。
今はもういない、小さな男の子の姿を外へと続く扉を見つめて思い出す。
幼馴染のやんちゃな暴君は、散々トトリを振り回してくれたけど、外に出る勇気をくれた。母を探すために冒険者になろうとした時だって、前を歩く彼の背中があればこそ、一人ではないからと頑張れた。
長い旅と冒険を共にして、ただの幼馴染を超えた深い繋がりが、二人の間にはある。
信頼と友情と……それからもう一つ、特別な想い。
「ジーノくん、今頃どこにいるのかな?」
会えない時間が増えるにつれて、トトリの気持ちに少しずつ変化が生じた。
彼がいつ来ても困らないように、冒険に必要なアイテムや料理を作り置きして待っている。
さすがトトリ、なんて褒め言葉をもらえれば嬉しくなるし、世話を焼くことも当たり前みたいになってきた。
『トトリちゃんたら、お嫁さんみたいね』
ジーノの荷物を調えて、ご飯を食べさせて送り出していると、たまたま見ていた姉のツェツィにからかわれた。
思ってもみなかった言葉に、必要以上にうろたえて真っ赤になった。
『ち、違うよ、そんなのじゃないよ!』
いつものことだからとか、お金はきちんともらってるしとか、しなくてもいいのに言い訳をしていた。
ツェツィはクスクス笑って頷いていて、一人で動揺している自分が余計に恥ずかしくなった。
「…お嫁さんかぁ」
訳知り顔で微笑む姉の顔を頭の中から追い払ったものの、結婚の文字だけはしつこく居座っている。
師匠のロロナが未だに結婚していないので、なんとなく自分も縁遠いものだと感じていた。
今の生活に不満はないし、アトリエにはちむ達がいて賑やかで、たまにやってくるジーノの存在があれば、特に夫や恋人が欲しいとも思わない。
むしろ、今日と同じ穏やかな日々が続けばいいと思った。
下手に変化を求めて壊したくない。
トトリの中の臆病な部分が囁いてきて、目覚めようとする想いに蓋をした。
アーランド共和国の片隅にあるアランヤ村は、漁師を生業とする者達が多く住む小さな村だ。
もっとも、最近では錬金術士のアトリエがあることでも名が広まっている。
村の高台に建つ、ヘルモルト家の一角に、そのアトリエはあった。
錬金術士トトゥーリア・ヘルモルト、通称トトリのアトリエ。
依頼は基本的にギルドを通して受けているため、直接アトリエを訪ねてくるのは面識のある友人や知人ぐらいなもので、彼女の名声が高まっても、村を訪れる人は増えず、昔と変わらずのどかなものだ。
それなりに活気のある港とは対照的に、人もまばらな村の出入り口では、村の外から乗り合い馬車が一台やってきて停車場に止まった。
客車から降りてきた乗客は、長剣を携えた冒険者の青年だった。
ジーノ・クナープは乗り合い馬車から降り立つと、実家には寄らずに真っすぐ高台を目指した。
近頃はそれが当たり前で、考えるのが苦手で思いつきと感覚で生きている彼は、己の行動に深い理由を求めたりはしなかった。
そこにトトリがいるから。
アトリエを訪ねる理由などそれで良く、ただ会いたいと思うから足を向ける。
会えばどの話からしようか。
冒険の土産話を語る時を楽しみにして、ふとそこに彼女がいなかったことを残念に思ったりもする。
「トトリのヤツ、またどっかに素材取りにいかねぇかな。今ならドラゴンに遭遇したって余裕で倒せるのに」
駆け出しの頃と比べれば、体は大きくなり、戦闘技術も磨かれて、多くの魔物を剣で切り伏せてきた。
慢心してはいけないと常に己を戒めてはいるが、積み重ねてきた経験と実績は彼の自信にもなっている。
今なら、トトリがどれほど危険な未知の領域に行きたいと言い出しても、確実に守ることができる。
トトリの周りには武勇に優れた冒険者が、彼女の母を含めて何人もいるというのに、ジーノはその役目を当然のごとく自分のものとして認識していた。
錬金術で作ったアイテムを投げれば無敵の強さを誇るのだと知っていても、子供の頃とあまり変わらない小さくて華奢な彼女の体を見れば、やはり自分が盾になって守ってやらねばと思うのだ。
トトリが冒険者より錬金術士の仕事を優先し始めた時から、共に旅に出る機会が減った。
ギルドの紹介で他の者と組むことも増えたが、誰もトトリほどには息が合わない。
単純に付き合いが長いだけではなく、トトリはジーノの短所も長所も知り尽くした上で、適切なフォローをしてくれる。
彼女は最高の相棒で、大切な幼馴染だ。
大人になって、そこにもう一つ彼女へと向ける特別な想いが増えても、ジーノにとっては自然なことで、さほど抵抗もなく受け入れることができた。
照れくさくて、あえて言葉にしたことはないが、このまま時が過ぎれば、いずれ夫婦になるのだろうなと思えるほどの親密な空気は感じていた。トトリの方も同じ気持ちなのだと確信しているのは、アトリエを訪ねる度に、家庭的な雰囲気が増しているからだ。
お腹が空いたと訴えれば、仕方ないなぁと言いながらも出してくれるお菓子や料理は、仕事で作った品ではなく、ジーノのために作り置かれたものだ。
行ってらっしゃいと送り出されて、お帰りなさいと出迎えられる。
強さを求める旅路の合間に、ほっと息のつける時間。
この先も失いたくはないし、誰にも譲る気はなかった。
坂を上りきると、目指す家が見えてくる。
ようやく会えるのだと思えば、頬が緩んで笑みが浮かぶ。
見慣れたアトリエの前に立つと、彼はいつものように元気良く扉を開けた。
どうしているのかと気になり始めると、間を置くことなく当人がやってくる。
それがどんな意味を持つのか、トトリは考えたことがなかった。
営業中の札はかけてあるが、滅多に開くことのない扉が珍しく開けられた。
「ただいま、トトリ! 元気にしてたか!」
張りのある大きな声を上げて、ジーノが入ってくる。
旅に適した軽装と長剣を装備したままで、村に着いてまっすぐにここへ来たことがわかる。
「お帰りなさい、ジーノくん」
トトリは彼を笑顔で出迎えた。
「腹減った、なんか食わせてくれよー」
久しぶりにアトリエに顔を出したかと思えば、挨拶もそこそこに食事を要求されて、トトリは苦笑した。
「はいはい、ちょっと待っててね。作り置きがあるから…」
部屋に置いてあるテーブルの上を片付けて、食事ができるスペースを作る。
慣れたもので、支度に時間はかからない。
「何がいい? 食事には中途半端な時間だし、お魚のパイでいいかな?」
「それでいいや。なんかさぁ、急にトトリの作ったもんが食いたくなって帰ってきたんだよ」
コンテナから作り置きのパイを一切れ取り出そうとしていたトトリは動きを止めた。
深呼吸をして、取り出したパイをお皿に載せてテーブルに運ぶ。
作りたての状態のまま保存されていたパイは温かくて、食欲をそそる匂いが部屋を包み込んだ。
パイにフォークを添えて置き、さらにコンテナから黒の紅茶を二杯取り出した。紅茶のカップをジーノの前とその対面に置く。
「そうなんだ、依頼先はあんまりお店とかない所だったの?」
「そこそこ美味い店はあったんだけどさ。ほら、食い慣れた味が恋しくなるっていうか、そういう感じ? それじゃ遠慮なく、いっただきまーす!」
」
パイにフォークを突き刺して豪快に食らいついたジーノは、実に美味しそうに頬張っている。
そんな彼を、近くで調合をしていたちむ達が羨ましそうに見ていて、やがて自分達もパイを取り出して食べ始めた。
トトリは向かいに座って、彼の食べっぷりを眺めつつ質問した。
「ジーノくん、おうちには帰ったの?」
「いいや、真っ先にこっちに来た。だってよ、急に帰っても、食事時じゃねーと食うもんねぇじゃん。トトリんとこなら、何か食わせてくれるだろうと思ってさ」
「いつも用意してるから、いいけどね」
「だろ?」
にぱっと屈託なく笑う彼につられて、トトリも笑う。
「なんだか、こっちがジーノくんの家みたい」
何気なく口にして、トトリの頬が朱に染まる。
ちらっとジーノの様子を窺うと、特に変化もなく満面の笑みで口を動かしていた。
聞こえていなかったのかと胸を撫で下ろすと、咀嚼していたパイを飲み込んだジーノの視線がトトリへと向けられた。
「トトリの顔見ないと、帰ってきたって気がしねぇんだ。言われてみれば、ここも俺の家みたいなもんなのかな」
平然とそう言って、ジーノはアトリエ内を見回した。
ロロナに師事して錬金術を始めた頃から変わらない内装と設備。
時々、ジーノは我が物顔でアトリエに居座り、トトリが作業をしていようがお構いなしでソファやベッドで寛いでいた。
もっとずっと小さな頃、アトリエもなかった頃は、一緒に遊んだついでに泊まって帰ったこともある。
思春期に入った辺りから、ジーノの方が嫌がって泊まっていくことはなくなったが、彼が気安く出入りする家だったことには違いはない。
「それなら、一緒に住んでみる?」
どうしてそんなことを口にしたのか、トトリにもわからない。
直後に冗談で流してしまおうと、再度口を開きかけたが、ジーノの声で遮られた。
「そうしてもいいけど、一緒に暮らすならもっと部屋がいるだろ。増築するか、別に家を用意した方がいいかもな」
「え…、あ、そうだね……」
普通に提案を受け入れられて、トトリは困惑した。
ジーノの気持ちがわからない。
ただの同居だと思っているのだろうか?
そこに深い意味はない?
幼馴染、友人、仲間。
彼と自分を結ぶ様々な関係性が頭を過ぎるが、異性であるがゆえに、同居に踏み切るには躊躇いがあると思っていた。
もしかして、女性として見られていない?
まだ十代の少女だった頃、豊漁祭で言われた言葉が蘇った。
水着コンテストで思いがけず優勝してしまい、高揚した気分の最中、舞台を見ていなかったというジーノと話した時のことだ。
『まあ、どうでもいいか。別にトトリの水着なんか見たくねーし』
本当に悪気なく、ジーノは笑顔でそう言い放った。
その瞬間、トトリは無性に腹が立った。
当時は自分でもどうして怒りの感情が湧いたのかわからなかったが、大人になった今では理解できた。
少しぐらい気にして欲しかったのだ。
見られなくて残念そうにするか、優勝したことを喜んでくれるなりしてくれていれば、幼いあの頃の自分も多分納得していた。
今もそうで、動揺するなり、気持ちを問うなりしてくれればいいのに、あまりにも普通に同居を受け入れるものだから、トトリは酷くがっかりして落ち込んだ。
「わざわざ家を用意したら、後で困るよ」
暗い気持ちで、ぽつりと呟く。
彼女の呟きを聞いたジーノは怪訝そうに眉を寄せた。
「ん? どうしたんだよ、トトリの方から言い出したんだろ」
「…それは、だって…。いつか結婚する事になったら、どっちかは出ていかなくちゃいけないでしょう。アトリエの引っ越しって、そう簡単じゃないし…」
「は? どうして出ていくんだよ」
「ど、どうしてって…、当たり前でしょう。お嫁さんが来るのに、一緒に住めないじゃない」
「誰の嫁が来るってんだ? 別に結婚したって何も変わらねぇだろ、俺とお前とちむ達と…。あー、子供が増えたら困るか。あとは客だな。家族とか師匠達やミミが来た時、泊まれる部屋があった方がいい。こりゃかなり大きい家を探さないとな」
頭を掻いて、彼にしては珍しく頭を働かせている。
トトリはジーノの言葉を噛み砕いて、真意を探ろうとしていた。
話の中にジーノの嫁は出てこない。
では、彼は誰と結婚するというのか。
「あ、あのね…、ジーノくん誰と結婚する気なの?」
「トトリに決まってんじゃねぇか、他に誰がいるんだよ。え? まさか、お前、誰か他のヤツと結婚すんのか?」
ジーノが驚いて立ち上がる。
その表情から、そんなことは思ってもみなかったことが窺い知れた。
トトリは急に気が抜けて、笑いが込み上げてきた。
先ほどから不安に駆られて、ちくちくと胸の痛い思いをしていたのは何だったのか。
「ううん、そんな人いないよ。そっか、ジーノくん、わたしと結婚する気だったんだ」
「そのつもりで話してたんじゃないのかよ。一緒に暮らすって言われりゃ、てっきりそうだと思うじゃねーか」
「う、うーん。だって、プロポーズもされてないのに?」
「じゃあ、どういうつもりなんだよ。結婚する気もないのに、男と同居するって意味わかんねぇぞ」
「する気がないなんて言ってないでしょう。そうなってもいいとは思ってたよ」
「なら、問題ないな。よし、トトリ、結婚するぞ」
「え、ええー」
昔と変わらぬ強引さで迫られ、トトリは話の流れについていけなくて戸惑うばかりだ。
狼狽えるトトリの前で、ジーノは冷静に後の予定を考えている。
「よく考えたら、家から連れ出すんなら、ケジメをつけろって言われそうだしな。よし、さっそくお前の家族に報告に行くぞ。その後は俺の家だ」
「ちょっと待って、急過ぎて、心の準備が……」
「そんなもんいらねーだろ。さっきも言ったけど、結婚したって何も変わらないっての。俺が帰る家が、お前の家になるだけだ」
「す、少しは変わらないと困るよ。だって、夫婦になるって、ただ一緒に暮らすだけじゃないんだよ。今までと違って、その……」
愛し合ってなんて、恥ずかしくて言えない。
口ごもって俯いたトトリの顔を、ジーノの両手が包み込んだ。
手の平から伝わってくる温もりが、余計に彼女の頬を熱くする。
「そういうこともわかってるって。心配すんなよ、俺だっていつまでも考えなしの子供じゃない。ただの思い付きで結婚なんて言い出さねーよ」
見つめあって、ジーノの瞳に真摯な思いを感じ取り、トトリは小さく頷いた。
「よろしくお願いします」
「おう、任せとけ」
頼もしく笑う、彼女の幼馴染兼未来の旦那様。
彼に全て任せたら、大変なことに巻き込まれたり、何がしかの騒動に発展しそうな予感がするが、それらも含めてトトリはジーノを受け入れる。
どれほど危険な目や困難に遭遇しようとも、幼い頃からそうしてきたように、二人でいれば必ず何とかなるのだから。
END