序章
魔界。
初めて踏み入れたその世界は、地上より圧倒的に少ない光源がそうさせるのか、酷く重い空気が垂れ込めているようで、彼の陰鬱さを一層深めさせた。
進化の秘法を完成させるべく魔界へ下った事を知ったデスピサロ腹心の部下アドンは、ロザリー護衛の際身につけていた全身鎧姿ではなく、身軽な出で立ちでこの魔界へと主の後を追いやって来た。
祖父から役目を継ぐ形で仕える事になった魔族の青年ピサロ。彼がデスピサロと名乗った時から、魔界での居城として用意されていたデスキャッスル城。地上や天界に最も近いとされる白の地にそびえ立つ居城へは、思いのほかあっさりと到着する事が出来た。
けれど――
城は外部からの侵入者を拒むよう結界が張られ、デスピサロ本人は勿論、直属の部下である四天王への謁見すらも適わず、彼は途方に暮れていた。
急ぎ報告せねばならぬ事があるのに――
元々アドンについて知る者は限られている上、馴染みのない土地である。
しかも抱える案件が重いものだけに、迂闊な接触も憚られる。
アドンは堅牢な城壁を見渡せる小高い丘に立って、潜入する策を巡らせていた。
「…ん?」
ヒョーヒョーと乾いた風の音が吹き渡る丘に、人の声が雑ざった気がして、アドンは風上へと視線を移す。
始めに目に飛び込んで来たのは、黒い樹の幹の間から覗く流れる白銀の髪。
(陛下…?)
アドンはその姿を確かめようと、ゆっくり歩き出した。
スラリと伸びた幹の上部が細かく枝分かれした葉のない黒い樹。その横に男が二人立って居た。
銀髪を風に靡かせ、黒装束に全身包んだ後ろ姿は、彼が追って来た主そのもの。
「…ピサロ様‥」
ぽつんと声に出してしまうと、二人が同時に振り返った。
銀髪の彼を護るように立つ男は、厳しい顔で睨みつけて来たが、探し人かと思った彼は、ほんの少し興味深い顔を浮かべ、静かに微笑んだ。
面差しは酷似して居るが、瞳の色が異なっている。燃えるような紅とは真逆の冷たい氷のようなアイスブルー。額のバンダナは瞳に合わせたように青みがかった紫色。
「…はっ。もしや‥貴方は蒼の地の‥‥」
そう言いかけたアドンは、主より頭一つ高い背の男が剣を抜いたのに構える為、言葉を止めた。
「良い。下がっていろ。…ふむ、貴様はいろいろ通じてそうだな。」
片手で軽く制すると、品定めでもするかのように不躾に覗き込むと、口の端で笑んだ。
まるで気配を読ませず一気に間近へとやって来た銀髪の青年に、アドンはヒヤリと肝を冷やした。
覗き込んでくるアイスブルーの瞳にゾクリと肌が粟立った次の瞬間、唐突に息苦しさを覚えた。
ブラックアウトしてゆく意識の中、主に似た声がくぐもって伝わる。
「これでいい。一先ず引き返すぞ。」
鳩尾に拳を入れられ倒れ込むアドンを荷物のように、控えて立つ男へ渡すと、銀髪の青年が満足げに笑んだ。
彼を受け取った男が軽々と肩に担ぎ上げると小さく敬礼する。
「ハッ‥!」
それを確認した銀髪の青年が呪文を永唱すると、淡い光が彼らを包んだ。
丘から飛び立った光の弧が、遥か北西の空へと向かってキラリと伸び、すぐに闇に融けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「‥殿下。何故この者を牢に放り込まぬのですか?」
山の頂にある城の屋上へ降り立った彼らは、そこから応接間へと移動した。
肩に担いでいたアドンを主の命じるままにソファへ降ろすと、不快を露に訊ねる。
「別にそう手荒く扱う必要などあるまいトーガ。
知りたい情報を手早く引き出す為に強引な手法を用いるのは趣味じゃないしな。」
一人掛けのソファにどっしりと腰を下ろした彼が、窘めるよう返した。
「有無を言わさず連れ帰っておいて、よく言いますね。すでに十分手荒なのでは?」
主よりやや年上らしい従者は、精悍なその顔を呆れを滲ませ眉を顰めた。
「仕方なかろう。白の地ではゆるりと吟味も適わぬからな。」
「本当にこの者で良かったのですか? この者も城に入れず途方に暮れてたのでは?」
「確かに‥そんな間抜け面していたな。」
くつくつと笑う銀髪の青年に、やれやれと従者が肩を竦める。
「この者が私を見てなんと呼びかけたか、聴いたろう?
ピサロ‥と言ったのだ。デスピサロでなくな。興味が沸いて当然だろう‥?」
彼が魔界へ降り立った時には既にそう名乗っていたと聞く青年がニヤリと返す。
「…殿下。」
アドンを降ろしたソファの横で警戒していた従者が、身動ぐ様子を注視しつつ声を掛けた。
二人の視線が注がれる中、眉根を寄せたアドンが小さな呻きを上げて目を覚ます。
「う…ここ‥は?」
腹を庇うように手を宛てて、ゆっくり瞳を開いて行くと、室内にある事が理解出来た。
鳶色の双眸が捕らえたのは銀の髪に蒼い眸をしたピサロによく似た人物。
彼はまだ意識がはっきりとしてない様子の自分を、一人掛けソファにゆったり身を預けたまま、興味深げに眺めていた。
「赤毛の貴様、所属と名を名乗れ。」
ゆっくり身を起こしたアドンの脇から大剣が伸びて来て、ヒタリと首筋に宛てがわれた。
「‥私はアドン。白の地に居城を構えるデスピサロ陛下に仕える者です。
こちらは蒼の大陸の皇子とお見受け致しましたが。いかがでしょう‥?」
威圧的な声にも宛てがわれた刃物にも全く動じない様子で、アドンは真っすぐな眼差しを正面に座るアイスブルーの瞳をした青年へと注ぐ。
「‥此の方は蒼の地を納める公国の第一皇子であらせられる。無礼は許さぬぞ。」
「良い。トーガ控えていろ。」
従者を下がらせると、剣が引いたと同時にソファを降りようとしたアドンを制するよう手を上げて、くつろぐように示した。
「アドンと申したな。私はアルバールだ。白の地にて奈落を開こうとする者が現れたと聞いてな。
調査の為に彼の地へ赴いたはいいが、事情に通じた者とコンタクト出来なくてな…」
「奈落…やはりピサロ様は進化の秘法にその身を‥」
進化の秘法の古称とも言える奈落という単語に、グッと拳を握り込んだアドンの顔が苦々しく歪んだ。
「…やはり奈落を開こうとしているのは奴か。面倒な事になったな…」
「どういう事です…?」
やれやれと嘆息するアルバールに、確認するようアドンが訊ねた。
「奈落が完全に開けば、三界のバランスが崩れ世界は再び騒乱の世となろう‥。
そんなもの魔界五大国の何れも望んで居らぬからな。
そのきっかけを不肖の弟が作ったとなれば、我が国の汚名にもなりかねん。由々しき事態という事だ。」
「進化の秘法‥奈落を途中で止める手立てはないのですか?」
「無い事もないが‥。奈落への扉は激しい「憎悪」「怒り」を鍵とし開かんとするそうだ。
怒りや憎しみを解く事が出来れば、最悪は免れよう…」
「怒りや憎しみを…陛下は、ピサロ様は大切にしていたエルフの少女を人間に殺されたと誤解し、復讐をと誓い魔界へ降りたのです。
彼女が蘇ってくれれば、その怒りも解ける かも知れませんが…」
「死者がそう簡単に蘇るものか。千年花の奇跡ならばともかく…」
それまで黙って控えていた従者が、ぽつんと吐き捨てた。
「千年花か‥天空の勇者がこの魔界までやって来たら、異界の扉が開く可能性はあるが‥」
「どういう事ですか?」
アドンが身を乗り出すように、アルバールへと訊ねた。
「勇者にしか装備出来ぬ剣には、三界を貫く雷が宿ると言い伝えにあるのだ。
その雷が三界を貫く時、新たな異界への道が開かれると。その扉が開いた時、千年花が咲くと聞く」
「…天空の勇者は必ず、この魔界にやって来ます。」
「地上に現れた魔王を倒す為に現れるのが勇者だからな。
アレが白の地に居るのなら、追って来るのも当然だろう。」
アルバールはそう答えると、ふふんと愉快げに口角を上げた。
「アドン‥だったな。貴様はアレに支えているそうだが。
アレが知らぬ事情も其の方聞き及んでいるな?」
「祖父‥ベトロイエンの遺した手紙を父から託されましたので…」
「成る程。確か赤子が追放された時同行をと名乗り出た騎士がそんな名だったな‥」
視線を落とし告げにくそうに語った彼に、記憶を辿るよう顎に手を宛てたアルバールが納得顔で頷く。
「なかなかに面白いではないか、トーガ。これは偶然か必然か‥縁とは奇な物だ…」
「殿下の勘の良さは認めますが。面倒事が増えただけではありませんか?」
ハハハ‥と笑い飛ばす皇子に従者が渋面を浮かべる。彼は苦々しく続けた。
「この者の口ぶりだと、弟君を救う手立てを必死に模索している様子。
我々が命じられているのは、白の地で奈落を開く者の抹殺なんですがね‥」
「抹殺…。貴方が‥ピサロ様を…?」
従者の言葉に表情を強ばらせたアドンが慎重に訊ねた。
「言ったであろう。由々しき事態だと。」
「ですが‥貴方は…ピサロ様とは双子の兄弟‥」
「生まれてすぐに魔界を追放された弟などに、情など抱くと思うか?」
ピサロと同じ顔した彼が、アイスブルーの眸を眇させた。
「…奈落を開く者の抹殺と、仰いましたね。では‥それが止められるとしたら?
それでも‥抹殺せねばならないのですか?」
ほんの少しの間を置いて。気持ちを切り替えた様子でアドンが訊ねた。
「止める方法などあるまい。あれだけ厳重に外部からの侵入を拒んでいる上、仮に接触出来たとしても、奴を駆り立てている負のエネルギーをどう中和する?
話し合いなど出来る状態ではないのだぞ?」
呆れた口調で返すと、アドンが両手を軽く組んで、思い切ったよう口を開いた。
「…千年花の奇跡が起これば。その可能性に賭けてみたいと…。
先程殿下が仰ったではありませんか。勇者が魔界へやって来れば、異界への扉が開くかも知れないと。
そうなれば、千年花が花開くと。」
「確かに、千年花は開くかも知れん。近いうちにな‥。だが‥貴様が望むような展開にはなりはすまい。」
懸命なアドンとは対照的にクールな面持ちでアルバールが告げた。
「何故ですか?」
「千年花が何故咲くか…あれはな、勇者の願いを聞き届ける為に花開くそうだ。
ただ一つだけ願いを叶える為にな…」
「勇者の為に…」
しばらく黙りこくってしまったアドンに、皇子は従者に客室を用意するよう命じ、案内させた。
「食事の時に声をかけるから、それまでおとなしくしてろ。あまり勝手にウロウロ歩き回ってくれるなよ。」
そう忠告すると案内した従者はさっさと踵を返し部屋を後にした。
一人になったアドンが、身につけている物を手早く確認し、小さく嘆息する。
(留まるのも去るのも勝手に…といった所かな‥)
扉に鍵は掛けられなかった。荷物も特に奪われた様子はない。アドンは宛てがわれた部屋の窓際へと移動し、外の様子を窺った。
魔界の地理には詳しくないが。それでも、この場所が元居た土地から随分と離れているのを理解する。魔界とは寂しいばかりの不毛の地なのかと考えていたが、広がる風景は一瞬地上かと見紛う程富んでいた。深い森・広い河‥草花が風に揺れている。唯一地上と違うのは、その光源。青白い光は昼間と思えぬ程暗く、だが月の明るい夜よりもずっと明るい。
(不思議な所だな…)
アドンは話だけでしか知らなかった場所に居る事を落ち着かなく感じながら、これからについて考え耽るのだった。
「一つ‥お伺いしてもよろしいでしょうか?」
食事の後、初めに通された部屋でくつろぐアルバールの元を訪ねたアドンが声を掛けた。
「許す。」
ソファに深く腰掛け、ワイングラスに注がれた黒に近い液体をゆっくり回しながら、続きを促す。
「昼間伺った件ですが。奈落を開く者の抹殺を…ギリギリまで待って頂く事は出来ないでしょうか?
それとも、進化の秘法を完成に近づけさせては止める事が適いませんか?」
慎重に彼の心情を探るように、アドンはその反応を逃さぬようアルバールと対した。
「待ってどうする? 千年花の奇跡にでも賭けるか?」
「賭けます…! ですから、その時間を私に下さい!」
鼻で嘲笑うアルバールを真っすぐ見つめたアドンが、真剣に訴えた。
「無理だな…」
「何故ですか?」
「千年花は咲くかも知れぬが‥勇者がその奇跡をアレの為になど用いまい。」
「…ソロさんなら。あの勇者なら‥聞き届けてくれる可能性は残っています…
ですから、今しばらく私に時間を頂けないでしょうか」
重ねて懇願すると、アルバールは心底呆れた様子で溜め息を吐いた。
「貴様も魔族の端くれだろうに。勇者の何に期待を抱く?」
期待‥? これは期待なのだろうかと、アドンは自身に問いかけた。
「のこのこ勇者の前に姿を見せれば、話し合う間もなく切り結ぶだけではないか。」
「ソロさんも、あの勇者一行も‥そこまで好戦的ではありません。」
ハッと思考状態から戻った彼が、きっぱりと言い切った。
「まるで面識でもあるかのような口ぶりだな‥」
「…ソロさんとは何度か。勇者一行と剣を交えた事もあります‥」
「ほう…」
興を誘られた様子で幾分身を乗り出す。
「詳しく話せ。面白い話ならば、先程の件考えても良いだろう‥」
そう機嫌良さそうに告げると、アドンに着席するよう勧めた。グラスも一つ追加し、自ら注いで彼の前へと差し出した。
アドンは軽く吐息をつくと、勧められるまま対面のソファへ腰掛け、自分が担っていた役目とエルフの少女について、彼女の元へ勇者一行が訪れた際の出来事についてを語り始めた。
「では‥その奈落を開く切っ掛けがその娘の死だったのだな‥?」
「はい…。そして、人間に殺されたと見せかけ、裏で手を引いてた者があり、その報告をと急ぎ駆けつけたのですが、城は既に強力な結界で閉ざされてしまった後で…」
「そこで途方に暮れてた折に遭遇したのだな、我らと。」
「はい‥」
「‥まあ、今の話に嘘はないのだろうが。だが‥足りぬな。」
ぽつりと呟き落とすと、アルバールが徐に立ち上がった。
彼は真っすぐアドンが腰掛けているソファの横にやって来ると、隣へとドサッと腰を下ろした。
ゆったりした二人掛けのソファは、男二人が腰掛けても窮屈さはなかったが、ピサロそっくりの顔をした男に間近に来られて、困惑露に身体を退いてしまう。
「私を見縊るなよ? まだ何か隠して居るだろう?」
ぐいっと顎を掴まれて、冷たいアイスブルーの瞳が酷薄に細められた。
「‥これ以上は、ピサロ様の許しがないと申せません。私が明かして良い話では…」
「主人の秘密は他言出来ぬ‥か。その心意気は買うがな。
それで口を噤んでみすみす主人を死なせてしまうが果たして忠義なのか?」
「…殿下。」
「今私の興を殺げば、弟より先に貴様を冥土に送ってやる事も出来るのだが?
その秘密と共に逝くか?」
本当に今すぐにでも実行しそうな不穏な気配を漂わせて、アルバールが嘲う。
(そういえばピサロ様も、短気な方だったな…)
そんな状況でもないのだが。つい双子というのは気質が似ているものだと、呑気に思ってしまう。
「…あの。それ頂いてもよろしいでしょうか?」
つい‥と目だけを動かして、テーブルに置かれたままのワイングラスをアドンが指した。
ムッスリとしたままだったが、とりあえず了承を得たようなので。グラスに手を伸ばし、コクリと喉を湿らせる。渋みのある液体は喉を通るとカッと熱を帯び流れていった。
地上のものよりも癖のある、アルコール度数も高い酒だったが、アドンは自身に勢いつけるつもりで一気に飲み干した。
「あの…これから話す事は、殿下の胸の内に納めて下さい‥」
そう前置きして、アドンはピサロとソロについて、自分が知る限りの話をぽつりぽつりと語り始めた。
それは、アルバール自身も予想しない話だったらしく、時に目を丸くし、最後には愉快そうに笑い出してしまった。
「ハッハッハ…! 勇者と仮にも魔王を名乗った者がな‥! 面白い‥! 面白いではないか…!」
「殿下…」
「貴様の見立て通り、恋仲だったとすれば、千年花の奇跡をアレの為に願うかも知れぬな。
貴様が賭けてみたくなった理由にやっと得心いったわ。」
「では‥待って頂けますか?」
期待するような表情で、アドンが彼を窺った。
「‥そうだな。待ってやっても良いが。見返りに何を寄越す?」
す‥と表情を消したアルバールが、当然といった様子で切り返す。
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