『もしもの未来』 〜もしものあした〜
「マーニャ!」
丘の上の一軒家。
その傍らに区分けされた小さな柵の中に広がる青々とした草達。
その緑の中に立つ女性に、カゴ一杯の林檎を持って現れた青年が手を振った。
「リュウ。いらっしゃい。‥一人なの?」
「‥うん。そうだよ、なんで?」
「‥別に。」
彼の表情を注意深く見た後、惚けるように彼女が応えた。
長年の暗雲を見事晴らし、魔界から奇跡とも思えた生還を果たした勇者一行。彼らは旅
の後、それぞれの生活へと戻って行った。
――あれから四年。少年だった元勇者の緋龍も、共に旅をし、常に姉のように慕ってい
た踊り子マーニャの背を追い越すまでになっていた。
「‥あれ? マーニャ‥マリィは?」
家の前に置かれた大きな木のテーブルにカゴを置いた緋龍が、周囲を見回しながら問い
かけた。
「あの子なら居ないわよ。ミネアんとこに行ってるわ。
最近週末になると、泊まりに行くって聞かなくてね。」
「大丈夫なの?」
「ああ‥最近はいいみたい。あんた達が張ってくれたシールドのおかげかしら。」
「そう‥なら良かった。」
「何‥? あの子の事が心配で来てくれたの?」
マーニャが椅子に腰掛けながら訊いた。
「え‥ああ。それもあるけど…」
「…また‥ケンカしたのね、彼女と。最近多いじゃない。」
いきなり図星を刺された緋龍が、膨れっ面で近くの椅子に腰を下ろした。
「‥だって。あいつ‥未だにピサロ様‥って言うんだもん。‥オレだって‥面白くない
時あったって、変(おか)しくないだろ?」
「‥ま、そうだけどね。でも‥それは今始まった事でもないんだしさ。」
「そうだけど…。」
「あんたの不機嫌の原因は、もっと別にあるんじゃないの?
シンシアも心配してたわよ、あんたの様子が変だってさ。」
「‥シンシア、来たの?」
「10日前にね。あんたにこの1年避けられてる気がするって、哀しそうだったわよ。」
「‥‥‥。」
「‥ちょっと待ってて。
今日は[遊んで魔]が居ないから、ゆっくり付き合ってあげるわ。」
そう笑顔を見せると、彼女は家の中へと消えて行った。
「おまたせ。」
作業用に付けていたエプロンを外した彼女が、瓶とグラスと食べ物を持って戻って来た。
こぽぽぽぽ‥
緋龍の隣に腰掛けた彼女は、持って来たグラスに瓶の中の飲み物を注いだ。
「はい、どうぞ。」
なみなみに注がれたグラスの片方を彼に差し出すマーニャ。
「‥マーニャ。これってお酒じゃないの?」
「そ。葡萄酒よ。しかもロザリーヒル製の幻の銘酒。手に入れるのに2年以上も待たさ
れたのよ。」
「だけど‥オレ…」
「あんただってもう17歳でしょ。いいじゃないこれくらい。これ結構軽いから、大丈
夫よ。美味しいのよ、本当に。」
「ふう‥相変わらずだなあ、マーニャは。」
緋龍が苦笑した。
「どお? 美味しいでしょ?」
グラスを口に運んだ彼にマーニャが問いかけた。
「‥うん。‥でもなんかジュースみたいだ…。」
「そう。口当たりが良いのよね、これ。」
そう応えながら、彼女もこくこくと口にした。
「でさ。さっきの話なんだけど…。」
グラスを置いた彼女が興味深そうに切り出した。
「あんた‥どうして彼女に手を出さないの?」
「ゲ‥ゲホッ。マ‥マーニャ!? いきなりなにを…?」
「だあってさ。不自然じゃない。いきなりよそよそしくなっちゃうなんて。他に好きな
子が出来たって訳でもないんでしょ?」
少し芝居がかった口調でマーニャが面白そうに言った。
「…マーニャ。解ってて、からかってない?」
「あ‥解る? 察しがいいわね、あんた。」
「長い付き合いだもん。」
「ふっふっふ。でもさ。彼女がそんな不安を抱いてるのは事実だよ。なんとかしなくちゃ
ね。あんただってそう思ってるから、来たんだろう?」
「マーニャには敵わないや、本当。」
緋龍が観念したように笑った。
「‥クリフトってさ。本当偉かったんだなあ‥って最近思うよ。
オレ‥彼みたくなれそうもないや。」
吐息混じりに彼が話し出した。
「ふふっ‥そう?」
「だってさあ。アリーナにいつも穏やかに接してたろ?」
「ま‥彼女にはね。でもその分別の所で不機嫌になってたわよ、彼だって。
あんただって心当たりあるんじゃない?」
「‥‥‥‥。」
緋龍が考え込むように腕を組んだ。
「でさ‥。最初の質問。どうして彼女を避けてるの?」
「…避けたつもりは‥。ただ…」
「あのさ。リュウにブレーキを掛けてるモノってなんなの?」
不思議そうにマーニャが訊ねた。
「あんた見てると‥ただ突っ走っちゃうのを恐れてるだけとも見えないんだけど?」
「…! …マーニャには本当、適わないや。」
「長い付き合いだからね。」
苦笑する彼に彼女が笑顔で返した。
「で‥。あんたが気にしてるのってどっちなの?」
「え‥。」
「気になってるんでしょう? 彼らの存在がさ。」
「う‥うん。…そうなるのかなあ‥やっぱり。」
「で‥どっち?」
「…あの男‥‥‥アルとかいう‥‥‥。」
緋龍が躊躇いながらポツリと零した。
「…あいつ‥変な事言ってたし‥‥‥。」
「シンシアの元・婚約者‥だもんね。」
軽い口調でからかうマーニャを緋龍が睨みつけた。
「だけどさ。その辺の事情も、あんたしっかり聞いてるんでしょう?
何をいまさら…。」
「だってあいつ…!」
「あ‥。もしかしてあんた、今頃あいつの皮肉に気づいたの?」
憶い出したように彼女が言った。
「…あんたねえ‥。」
呆れたように吐息をつくマーニャ。
「‥別に気にする必要ないわよ、それは。あんたが最初に取った通りの出来事だからさ。」
「…なんでマーニャに判るんだよ?」
「ふ‥それぐらい。伊達に女やってきてないんだしさ。」
「でも…」
まだすっきりしない様子の彼が俯いた。
「だって‥シンシア‥‥‥‥‥だもん。」
「え‥? 聞き取れないわよ、なに?」
小さな声で呟く彼にマーニャが身を乗り出した。
「‥‥キス…巧いんだもん‥‥‥。」
「は…? ははははは…! やだ‥そんな事で。バカねえあんた!」
「な‥なんだよう。気になったんだからしょうがないだろ!」
「何言ってんの。あんただって人の事言えないだろ? それに関しては。違う?」
「そ‥そうかも知れないけど…。でもさ…」
「そっか‥自信がないんだ、あんた。それがブレーキになってたのね。」
「‥それだけでもないんだけどさ‥‥。」
緋龍が、残っていたグラスの中の葡萄酒を一気に飲み干した。
「…シンシアの気持ちが‥よく解らないんだ‥オレ…。
もしかしたら‥彼女は‥‥‥」
「‥あんたはどうなのよ?」
「オレは‥オレは彼女が‥好きだよ。‥ずっと…側に居て欲しい…。」
「そう言う事をさ、きちっと伝えてリアクション起こしてごらんなさいって。
そうしたら、彼女の気持ちだってちゃんと解るはずよ?」
「‥‥‥。」
「あんまりほっとくと‥盗られちゃうわよ。彼女魅力的だしさ。」
緋龍は空のグラスに葡萄酒を注ぎ煽った。
「…マーニャのいじめっ子。」
「ふふっ。久しぶりに聞いたわね、それ。
だいたいあんた達がじれったいのよ。何を今更…って感じよね。」
マーニャもグラスに手を伸ばした。
「そういうマーニャはどうなのさ? ‥彼とはさ。」
「どうもないわよ。関係ないもん。」
「なんだ。そっちもケンカ中だったんだ。よくやるよね、マーニャ達もさ。」
緋龍が小さく笑った。
「あたし達はいいのよ。大人のケンカだもん。」
「なんだよ、それ?」
「一緒にするなって事。」
「…まだ子供扱いされてんだ、オレ。」
「そういう事。」
「オレだってもう…。‥ま‥いいや。」
言い掛けた緋龍だったが、結局黙ってしまった。
「ふふっ。ね‥緋龍。」
ほんのり色づいた頬の彼女が彼を見つめた。
「な‥なに…?」
どことなく色っぽい彼女に動揺を見せる彼。傾き始めた柔らかい陽が、更に熱っぽさを
漂わせていた。
「ふふっ‥ね、憶えてる…?」
「え…?」
「ゴッドサイドへ向かう途中さ‥あんた、大泣きしたじゃない。」
緋龍が顔を赤くした。
「あの時さ‥本当はね‥‥」
彼は言葉の続きを待つように彼女を見つめた。
「やっぱり‥やめた。」
そう言うと彼女は立ち上がった。
「な‥なんだよ‥言い掛けてやめんなよ。気になるだろ?」
「ふふ‥気になる…?」
追いかけるように立ち上がった彼に手を回すマーニャ。
「‥マーニャ、酔ってるだろ?」
「くすくす‥‥いけない…?」
「マーニャ‥オレだって男なんだからさ…」
「男だから…?」
「だから…ん‥‥‥。マーニャ…。」
思いがけず重ねられた唇に、彼は鼓動が早まるのを感じた。
「緋龍…。」
「マーニャ‥。‥ダメだよ。オレだってもうあの頃みたいな子供じゃないんだから、こ
んな風にされたら‥堪らなくなっちゃうよ…。」
寄り添う彼女に困惑するように緋龍がしゃべった。
「‥‥なって。」
「マーニャ…?」
「…あたしじゃ…嫌…?」
「マーニャ‥。」
細く言う彼女を緋龍が見つめた。
共に旅をしていた頃にはなかった感情が高まる。
冒険後。初めて交わした深い口づけは、更にお互いの感情を高めさせた。
「‥マーニャ。」
「‥‥リュウ…。」
彼女の部屋へと場所を移すと、二人はもう一度熱い口づけを交わし合った。
冒険中、幾度か交わした口づけは、それぞれの寂しさを癒していた。
だけど今は…。
「…ん‥‥焦らないで‥。ね…?」
熱情に任せる緋龍を甘く促すマーニャ。
「あ‥オレ…」
「ふふっ‥もっと優しく、ゆっくりと…ね。」
「‥こう…?」
「ん‥そ‥う…。…ふっ…。」
彼女の身体がぴくんと反応した。
そんな彼女にますます熱を帯びる緋龍。愛おしさを募らせ口づけた。
「…ふ‥‥はあ…。んっ‥は……ふぅ‥」
「‥ん‥‥はぁ‥‥‥マ…ニャ‥‥‥」
「リ‥ュ‥ウ‥‥‥んっ…」
「‥マーニャ…オレもう‥‥」
「…ん。…来て‥‥。」
「…ん‥‥」
彼の腕の中で静かな寝息を立てるマーニャ。
心地よい疲労感を感じながら、緋龍も瞳を閉ざした。
どれだけの時間が過ぎたのか…。
ふと気が付くと、彼女がじいっと彼を見つめていた。
「…マーニャ。」
「ふふっ‥目が覚めた…?」
「オレ‥寝ちゃってたんだ…。…もう朝‥?!」
「くすっ。ほんの一時間くらい寝てただけよ。
まだ宵の口。」
「そっか…。」
「ふふふっ‥まだボウっとしてるわね。大丈夫?」
「あ‥うん。」
「お腹‥空いてない? なにか作りましょうか?」
「あ‥うん…。」
まだぼんやりしている緋龍に小さく微笑うと、彼
女は服を着け部屋を後にした。
「美味しい…?」
テーブルに着き、黙々と出された食事を口に運ぶ
彼に彼女が問いかけた。
「うん…。」
応えたきり、また黙々と食べるだけの彼に彼女も
追求せず、静かな食事が進んだ。
「…マーニャはさ‥」
食事を終えた緋龍が顔を上げ彼女を見た。
「マーニャは‥どうしてオレと‥‥」
「不思議…?」
「うん…。だってマーニャはオレの事…」
「子供扱いしてたのに‥? 」
コクリと緋龍が頷いた。
「クスッ‥。これからだって変わらないわよ、きっと。」
にっこりと言う彼女を緋龍が不思議そうに見た。
「ふふ‥解らないって表情ね。あたしにとってあんたは‥いつまでも可愛い弟って事。
‥あんただって…その辺は変わらないんじゃない?」
「…オレ‥。‥オレにとってマーニャは…ちゃんと‥女性だったよ‥‥。
‥姉であり‥女性だった…。だから…!」
熱っぽく彼女を見つめる緋龍。
「そう‥ね。ね‥リュウ、ちょっと出ない?」
リーン‥リーン…。さわさわさわ…
夜風は程よい冷気を含ませ緑の丘を通り過ぎて行く。
二人は外に出ると見晴らしのいい斜面に腰を降ろした。
「はあ‥いい風。‥戦ってばかりだった頃が嘘みたいよね、この静けさ。」
「うん…。」
「旅をしていた頃はさ…あんたの不安定さがいつも心配だった…。特にあいつと対峙し
た時のあんたは…。」
マーニャが彼の頬に手を伸ばした。
「…皆‥生きて帰れて‥本当に良かった…。
あたしね‥あんたには本当に感謝してるんだ。いろんな意味でね。」
「‥だからだって‥?」
「くすっ‥そこまで物好きじゃないわよ、あたしだって。
多分…あの頃から‥本当はこうなる事を望んでたのかも知れない。だから…」
絡み合う視線が二人の距離を近づける。
「‥オレ…マーニャが好きだ…。」
ソフトなキスを交わした後、彼女を抱きしめた彼が言った。
「…あたしも‥好きよ、緋龍…。」
応える彼女が彼の背に手を回した。
「でも…」
「でも…?」
「あんたには還る場所が在る…。‥あたしにも‥‥‥」
「マーニャ‥。」
身体を離した彼女を緋龍が見つめる。
「…マーニャは彼の事‥‥」
「‥悔しいけどね。あんただって、彼女は特別でしょ?」
苦笑いの後、さっぱりした表情で彼女が笑った。
「彼女の事‥大切にね。」
「‥それがいい‥って言うんだね、マーニャは。」
「そう。それでいいのよ。また明日からはいままで通り‥ね?」
「‥うん‥‥。」
つかの間の恋人との別れのキスを済ますと、彼は静かに立ち上がった。
「‥おやすみ、マーニャ。‥今日は‥ありがとう…。」
「おやすみなさい。あ‥リュウ! ‥また来てね。マリアも喜ぶからさ。」
「うん。‥マーニャ、ちゃんと仲直りしなね。彼とさ。」
「ふふ‥。考えとくわ。あんたこそしっかりね!」
「ん‥。じゃ、またね。」
「‥本当‥しっかりね、緋龍…。」
ルーラを唱え帰って行った彼を見送った後、小さく言うと踵を返し小さく微笑った。
見上げると、満天に輝く星達が優しい光を放っていた。
「‥今度あいつが来たら‥少しは優しくしてやろうかな…。」
ぽつりと呟くと、まだ残る余韻を思いながら、彼女は一人家の中へと戻って行った。
気まぐれな風が通り過ぎた後。またいつもの日常に戻って行く。
丘を吹く風はいつもと同じに通り抜け、青い匂いを運んで来る。
丘の上の一軒家は、夜の静けさの中に融け込むようにひっそりと佇んでいた。
[了]
|