16
それから3日後。
シンシアはその日は朝からずっと床で臥せっていた。
「気分はどう?」
食事から戻って来たソロが、膝を折り彼女を覗き込み訊ねた。
「ええ‥朝と同じよ‥」
心配顔の彼に仄かに微笑んで、シンシアが小さく答えた。
「何か欲しいものはない?」
そんな彼女に笑みを作って、そっと手を伸ばす。額に落ちる髪を梳くと、シンシアが
心地良さげに瞳を閉じた。
「今は‥いいわ‥‥。それより、ソロはちゃんと食べたの?」
「うん。大丈夫‥」
「クリフトは朝顔出したきりだけど。今日もピサロの手伝いに駆り出されているのかしら?」
「うん。何か用があるなら呼ぼうか?」
「あ、いいの。‥なんだか不思議ね。」
「え‥?」
「一つ屋根の下に、勇者と魔王と神官が揃ってるって事も。なんだか正反対ぽい彼らが
仲良く仕事してるって事も‥」
「‥そうだね。変‥だよね‥」
「まあ。変かも知れないけど。それでも‥私はその方が嬉しいわ。
ソロが困難な試練を乗り越えて、築き上げた絆の形なのだもの‥」
「シンシアも当然、その絆の中に入っているんだからね。」
ソロの背後、頭上から届いた声に、ソロがビックリと振り返った。
「マーニャ‥いつから居たの?」
盆を持って立つ彼女に、全く気づかなかったソロが訊ねた。
「一つ屋根の下‥辺りからかしら? シンシアは気づいてたわよ?」
「え‥本当、シンシア?」
しれっと返すマーニャの言葉に、ソロが視線を戻して問いかける。
「ええまあ‥。普通に入って来たし‥」
「シンシア朝から何も食べてないでしょう?
食事は無理でも、こういうのならどうかなと思って‥」
ソロの隣に並んだマーニャが、盆に乗った器を見せるよう差し出した。
「氷をね、削ったものに花の蜜をかけてみたものなの。」
「あの天界から貰った蜜? シンシア食べれそう?」
彼女から器を受け取ったソロが、スプーンで一匙すくって訊ねた。
「‥うん。じゃあ‥ちょっと食べてみようかしら?」
シンシアが彼に促されるようそっと口を開いた。
細かく削られた氷は、口に含むとすぐに溶ける。
優しい甘みが口内に広がって、シンシアはほう‥と嘆息した。
「どう? 食べられそう?」
「うん。美味しいわ‥」
「よかった。じゃあ、もう一口どうぞ‥」
ソロはホッとしたよう顔を綻ばせた。
その日は結局ベッドで一日過ごしたシンシアに付き添って、ソロも食事以外は彼女の
隣に張り付いていた。
だが、夜も更けて来ると、疲れからかソロもうとうとと眠り込んでしまった。
そんな彼の肩にそっと毛布が掛けられる。
「‥まだ起きてたのね。やっぱり‥」
気配を感じて目を開いたシンシアが、小声でそう話しかけた。
「どうせなら、ベッドに移動させてあげてくれていいのよ?」
「そんな事したら、すぐに目を覚ますぞ、これは。」
肩を竦ませて、ピサロが同じく小声で返した。
「‥そうね。そうかも知れないわね‥」
「何か‥望みはあるか‥?」
そう静かに訊ねられて。シンシアが一瞬瞳を見開いた。
「クス‥今だって十分わがまま聞いて貰ってるじゃない。」
「それは‥ソロの為だろう? お前の望みを聞いている。」
「‥そうね。もしも叶うなら‥‥」
シンシアがほんの少し心残りに思う事をピサロに伝えた。
「‥そうか。幾つか心当たりを探してみよう。」
そう答えると、踵を返し戸口へと向かう。
「え‥今から?」
シンシアがベッド脇で眠るソロを不安そうにちらりと窺い、途惑う視線を寄越した。
「‥代わりに神官を来させる。」
「でも彼だってもう眠っているんじゃ‥」
「具合の良い事に、さっき寝室から出て行った所だ。」
「そうなの‥」
ピサロが出掛けてしばらくすると、本当にクリフトがやって来た。
「‥クリフト。ごめんなさいね、なんだかあなたまで振り回してしまって‥」
「いえ‥。眠れなくて夜風にあたりに出てた所でしたし‥。
今夜は私がこちらで休ませて貰いますね。何かあればすぐ呼んで下さい。」
「ありがとう‥」
「あれ‥オレ寝ちゃって‥‥」
「おはようソロ‥」
「おはようシンシア。ごめんね、オレ寝ちゃってたみたいで‥」
「そんな事で謝らないでいいのよ。本当はベッドで休んで欲しかったけど。
移動させたら起きちゃうかなって、そのままで。しっかり休めた?」
「うん。野宿に比べたら、全然ラクだし。大丈夫だよ。
それよりシンシアは? 具合はどお?」
立ち上がったソロが、シンシアの顔色を確認するよう顔を寄せた。
「うん。今日は少しいいみたい。ほら‥」
そう微笑むと、シンシアは心配顔のソロの頬に手を伸ばした。
スムーズな動作で彼の頬に触れてそっと指を滑らせる。
「本当だ‥。ね、何か欲しいものある?」
「そうね‥さっぱりした飲み物が少し欲しいかも。」
「それでしたら、オレンジがあったのでジュースにしてお持ちしましょうか?」
ソロが口を開く前に、背後から声が届いた。
「あれ‥クリフトおはよう。‥って、あれ? 昨晩はこっちに泊まってたの??」
隣のベッドから起き出して来た様子を見て、ソロが首を傾げさせた。
「ええ。ピサロさんが外出してるので、代わりに‥」
「そうなんだ。なんだか本当に忙しくしてるんだね‥」
その日の午後には、上体を起こして、先日ピサロが買い出しに行った折に箱入りのまま
買って来たバニラアイスの最後の分をしっかりと平らげた。
「美味しかったわ、ご馳走さま‥」
「熱いコーヒーもどうぞ召し上がれ。」
ベッドを囲むソロとミネアと自分の分も一緒に盆に乗せてやって来たマーニャが、
湯気の立ち上るカップを彼女に手渡した。
「ありがとう、マーニャ。」
受け取ったシンシアが、早速こくんと口に含む。
「うん‥美味しい‥。冷たいアイスの後の熱いコーヒーって、いい組み合わせよね。」
「シンシアはすっかりコーヒーにハマったよね。」
「そうね。朝の一杯は特に気に入ったかな‥」
「オレも少しは飲めるけど。シンシアは何も入れないのが好きなんだね。苦くない?」
「そんなに顔をしかめる程には苦くないわよ。」
余程表情に現れてたのか、シンシアがクスリと笑った。
「まあ。ソロは相当な甘党だものね‥」
マーニャが仕方ないと言いたげに苦笑する。
「確かにソロは甘いモノ好きだったけど。そこまで極端でもなかったのよね。」
「そうだっけ‥?」
「そうよ。まあ、そもそも村にはそこまで甘い食べ物なんてなかったから、知らなかった
だけかも知れないけれど。」
「ああ、そうだわ。一緒に旅を始めた頃、ソロを甘味処に連れて行くとよく言ってたわね。
『初めて食べた』って。」
あんまりソロがニコニコと喜ぶので。姉妹は色々な店へと誘ったのだった。
他愛のない雑談にしばらく興じて、姉妹はまた後でと席を外した。
静かさを取り戻した室内で、ソロがシンシアを気遣うよう窺う。
「大丈夫? 疲れちゃった?」
顔色を確認するよう覗き込まれて、シンシアが苦笑する。
「平気よ。今日は少し体もラクなの‥」
「そう? ならいいけど‥」
「外はいいお天気みたいね‥」
ふ‥と視線を窓に移したシンシアが、ぽつんと呟いた。
「うんそうだね。緑が日増しに濃くなって行くよね。」
「そうね。眩しい季節の始まりね‥」
そう言うと、目を細めさせて仄かに微笑む。
そしてしばらく沈黙が降りた。
「ね、ソロ。私、お花畑に行きたいわ‥連れて行ってくれる?」
シンシアがそう強求るとソロを真っ直ぐ見つめた。
「‥いいよ。」
すっと差し出された手を取って、ソロが彼女を抱き寄せる。
「このままでいいの?」
「うん‥いいわ。」
そう頷くのを確認して、ソロはそのまま彼女を抱き上げた。
「‥重くない?」
「ちっとも。」
気遣うように訊ねるシンシアに、ソロがふわりと笑う。
「あ‥先にドア開けて置くんだったな‥」
戸口まで移動したソロが、しまったと独りごちた。
「これくらいなら協力するわ‥」
シンシアがドアノブに手をかける。
部屋を出ると、ローテーブルで何やら書き物しているクリフトが顔を上げた。
「おや‥お出かけですか?」
「うん。シンシアがね、花畑に行きたいって言うから。ちょっと行って来るよ。」
「そうですか。今日は天気もいいですしね。いってらっしゃい。」
「行って来ます。」
にっこり送り出すクリフトに、シンシアも微笑む。
そんなやり取りが届いたのか、炊事場にいたマーニャが顔を出した。
「あら、二人とも出掛けるの?」
「うん、ちょっと花畑まで。」
「そう。こっちの手が空いたら、あたし達もお邪魔して良いかしら?」
「ふふ‥もちろん。」
シンシアがクスリと笑って返す。
「じゃあ、あとでね。ソロ、シンシア落っことさないでね?」
「酷いなあマーニャ。オレはマーニャ程雑じゃないもん。そんなヘマしないよ。」
「まあ。雑って何よ?」
「ルーラの着地とか?」
「それは確かに。」
側で会話を聞いていたクリフトがクスリと笑った。
「ふふ‥そう言えば、いつだったかトルネコさんが目を回してたわね‥」
ソロが魔法を使えなくなってしまったと知った時の騒動を思い出して、シンシアが
クスクスと笑う。
「よく覚えているわね、シンシアちゃん。」
う‥と言葉を詰まらせマーニャが苦笑する。
「シンシアはね、オレだって忘れてた古い話とか、本当によく覚えているんだ。
怖いんだよ〜」
「え? ソロの昔話強請られているの?」
悪戯っこの顔つきで迫られて、ソロが後退さる。
「とんでもない! えっと、じゃあ行って来ます!」
ソロはささっと戸口から離れると、そのまま早足で歩き出した。
「ちょっとお。転ばないでね〜」
「はあい〜」
そう答えたソロの背中に苦笑するマーニャ。
彼らの姿をしばらく見送って、2人はどちらからともなく嘆息した。
「‥見守るしかないって、辛いわね‥」
「そうですね‥‥」
「到着〜」
「お疲れさま〜」
シンシアお気に入りの花畑に着くと、ソロは彼女を草地に下ろした。
「ありがとう、ソロ‥」
彼女の隣に腰掛けたソロに、シンシアが労いと感謝を伝える。
「これくらい、なんて事ないさ。」
彼女を支えるよう背に腕を回して、ソロが小さく返した。
「‥本当に、頼もしくなったよね。あの甘えん坊さんが‥」
「もう。いつの話だよお、それ‥」
「クス‥さあ?」
「シンシアが真っ先に思い出すのは、いつだって泣き虫だったオレの姿なんだよなあ‥」
「あら? 私が泣き顔思い浮かべてたってよく分かったわね?」
「長い付き合いだもん。それくらい顔みれば分かるよ。」
片眉下げて微苦笑するソロにシンシアがクスクスと笑う。
「私もソロの事はなんでも分かってるつもりだったけど‥
ソロの方が先に、大人になっちゃったんだな‥って。そこはちょっぴり悔しかったかな?」
「シンシア‥」
「でもね。安心もしたの。」
そう仄かに笑うと、ふと空を仰いだ。
青い空に白い雲がもこもこと浮かぶのをぼんやり眺めながら、シンシアは続ける。
「本当はね、あの時‥あなたに「お帰り」が言いたくて。
竜の神に地上に戻してくれるよう頼んだけれど。
本当にそれで良かったのか、心配もあったの‥
だってソロ、絶対泣くもの。また泣かせちゃうもの‥」
「‥それはまあ。泣かない約束なんて無理だけど‥」
少し言葉を詰まらせたシンシアに、既に瞳を潤ませているソロが唇を噛みしめつつ
どうにか紡ぐ。
「うん。いっぱい泣いてくれていいわ。その時は‥」
そっと彼の頬に手を添えると、そのまま体を預けるよう傾がせた。
「いっぱい泣いてもいいから。きちんと泣き止んでね?
そして‥そこから先は、あなた自身の為に生きるの。
世界の為でも、村の皆の為でもない。
あなた自身の望みを叶える為に‥‥‥」
「オレの‥望み‥?」
「そう。あなたは十分役目を果たしたわ。だからね、もういいの。
これからは自分の為に生きて‥‥
倖せに‥なっ‥て‥‥‥」
「シンシア?」
ゆっくりと話していた声が途切れがちになって、ソロが彼女の頭を支えて、顔を覗き込んだ。
「‥ごめん。そろそろ‥時間みた‥い‥‥」
「シンシア! シンシア!」
ソロが声を上げるのを聞いて、近くまでやって来ていた姉妹とクリフト、そして帰った
ばかりの魔王が走り出した。
「シンシア!」
ソロの腕の中でぐったりしている彼女を認めたマーニャがたまらず声を掛けた。
その声に導かれたように、彼女の視線が駆けつけた一同を捉える。
「ああ‥良かった‥わ。皆にも‥ちゃんと‥お別れが‥言える‥」
「そんな‥お別れなんて‥シンシア‥‥」
ソロの対面に膝を着いたマーニャが、涙を浮かべて彼女の頬に触れた。
「ね‥ソロ。降ろしてくれる?」
そんな彼女に仄かに笑んで、シンシアがソロを促す。
「ここに‥?」
「ええ‥。だって、お気に入りの‥場所‥だもの‥‥」
「‥そうだったね。」
ソロはこくんと頷くと、そっと彼女を草地に横たえさせた。
「‥ありがとう‥‥」
シンシアは消え入るような声でそう微笑んで、彼女を囲むように集った面々を眺めた。
「マーニャ‥ミネア、共に過ごせて‥楽しかったわ‥
クリフト‥ソロの事、色々とありがとう‥
それから‥あっ‥‥それ‥」
ピサロがスッと差し出した枝に、淡いピンクの花が数輪咲いているのに気づいて、
シンシアがハッと目を開いた。
「え‥桜‥?」
「これが‥桜なのね‥‥そうなの‥これが‥‥」
シンシアが愛しそうに花を見つめる。ソロは彼から枝を渡されると、そっとシンシアの
手を導き、その柔らかな花片に触れさせた。
「‥儚げで‥可愛い‥‥
それに‥本当、青空に映えるわね‥」
枝の向こうに輝く澄み渡った空に融け込むようだと、シンシアが瞳を細める。
「ありがとう‥ピサロ。願いを叶えてくれて‥‥
ソロ。あなたには‥こんなに素敵な仲間が在る‥
だから‥安心して託して逝けるわ‥‥」
「シンシア‥でもオレ、もっとシンシアと居たいよ‥」
「‥ごめんね。ずっと一緒にいられなくて‥
けれど‥忘れないで。あなたは‥ひとりじゃない‥
‥ずっと‥愛しているわ‥‥ソロ‥
「愛して‥?」
「あなたの倖せを‥何より願っている‥って事よ‥‥」
どこかぼんやり言うソロに微苦笑を浮かべ、シンシアが柔らかく微笑んだ。
「オレも‥! シンシアには幸せをあげたかった‥なのに‥オレ、何も出来ないままで‥‥」
「十分貰ったわ‥本当よ‥‥?」
「シンシア、この際だもの。わがまま言っちゃえば?」
マーニャが涙を拭いながら、徒っぽく唆した。
「わがまま‥? え‥何? オレに出来る事?」
「そ。ソロにしかあげられない、シンシアの幸せ。」
「そうね‥ソロにしか出来ないわね‥」
「マーニャ‥ミネアまで‥」
シンシアがさっと目元に朱を走らせて、困ったように眉を寄せた。
羞恥む仕草に鈍いソロもやっと気づいた。
途惑うソロが周囲の仲間を見やる。
クリフトがこっくり頷くのを見て、もう一度シンシアに視線を戻した。
「ソロ‥ちゃんと‥倖せになってね‥‥
それが‥一番の‥願い‥‥愛してるわ‥‥‥」
ふわりと微笑んだシンシアが、途切れがちに想いを紡ぐ。
「シンシア‥オレも‥‥シンシアが、大好きだよ‥」
一段と弱々しさが増した声音に切なさを覚えながらも、懸命に笑顔をつくって、
額が触れ合う距離に顔を近づけた。
そっと頬へと口接けて、そのまま彼女の耳元へと唇を寄せる。
「愛してる‥‥」
彼女だけに届くよう密やかにそう囁いて、ソロはシンシアに口接けた。
「‥恋人の‥キスね‥‥」
「うん…そうだよ‥‥」
「‥嬉しい。ありが‥とう‥‥ソ‥ロ‥‥‥」
「シンシア‥? シンシア!? シンシア〜〜!!」
唇に笑みを刷いたまま、綴じられた瞼は二度と開く事はなかった。
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