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シンシア気に入りの花の丘で、晴れぬ思いを抱えて、彼女はひっそりその身を抱きしめた。
空は雲が増えて来たが、すぐに降り出すような気配がある訳でもない。なのに…
嵐の前兆‥とでもいうのか。心が騒めき息苦しさが募る。
「シンシア‥!」
不安に揺らぐ眼差しを天に向けると、里の外れから足早にやって来た青年が呼びかけた。
「アレス。‥ち‥ちょっと、大丈夫あなた?」
ゼイゼイと息を乱す彼に、汗を拭うよう手拭を差し出しながらシンシアが気遣う。
「あ‥ああ。さんきゅ。…シンシア。お前の懸念、どうやら当たりらしいぜ?」
額から伝い落ちた汗を拭い、一呼吸ついたアレスが厳しい瞳で桃色の髪の少女を見つめた。
「‥‥そう。そういうコト。だからだったのね‥この感じは…」
ハッとした眸は一瞬で。すぐに落ち着いた表情へと変わった彼女が静かに紡ぐ。
シンシアが変身呪文―モシャス―を覚えた真実の理由。
それはアレスにだけは語られていた。
もしもの時の身代わりとして、敵を欺く為…だという事を。
その時が来たのだと、シンシアは慎重に頷いた。
「シンシア…すまないな。」
「あなたはロナを連れて倉庫へ向かって! ここはもう、見つけられてしまったのでしょ
う? 敵が到着する前に、あなた達は身を隠して!」
シンシアはふわりと微笑むと、厳しい姉の顔でてきぱき指示を出した。
「ロナ!」
ばたんっ!
扉が乱暴に開かれると、部屋で荷造りをしていた彼女の元へアレスがツカツカ歩み寄った。
「ロナ、緊急事態発生だ。来い!」
ぐい‥と彼女の細い腕を掴み、返事も待たずに踵を返したアレスがそのまま彼女を引っ張
るように歩き出す。そのドタバタした様子に台所から顔を出した母が、心配そうに2人を
窺った。
「‥とうとうこの日が来てしまったのね。」
「…ああ。今まで‥世話になったな。」
「な‥なに? アレス?」
「ローナ…私はあなた達の本当の母親ではありません。知ってるわね?
勇者として背負った宿命は、時に重く圧し掛かるでしょう。けれど‥忘れないで。
たとえ血の繋がりはなくとも、私達夫婦にとって、2人は大切な子供なの。
どこに居ても、あなた達の倖せを願っているわ‥」
そっと差し出された手がローナの、アレスの頬を滑る。暖かな温もりは微かに震えていた。
「母さん‥。私にも‥母と呼べるのは母さんだけよ。父さんだって…」
涙を堪える母とは対照的に、想いのままに頬を濡らしたローナが母に抱き着く。
カンカンカーン!
「大変だ! 魔物の群れがやって来たぞ!」
物見櫓に登って警戒していた男が、警鐘を鳴らし大声で叫んだ。
「ロナ‥もう時間がない。行くぞ!」
「アレス…でも‥!」
母は‥? と言いたげな瞳で彼と母を交互に見やるローナに、母が小さく首を振る。
「行きなさい。アレス‥ローナを頼んだわよ?」
「ああ。」
短く答えて、彼はローナを引き、長年暮らした家を離れた。
「…アレス。みんな‥大丈夫よね?」
倉庫の地下の隠し部屋。その奥の部屋に移動し、壁に背を預け並んで座るアレスとローナ。
膝を抱えたローナが、時折届く戦いの音に顔を歪めて、ぽつんと口を開いた。
「ロナ‥。」
「…もっと早く旅立っていれば、よかった‥‥」
きゅっと身を小さくして、ローナが呟く。アレスはそっと彼女の髪に手を伸ばし、緩く引
き寄せた。
「ロナ…もしも‥‥‥いや。なんでもない…」
アレスはいつになく緊張した面持ちで、何事か言いかけたが、結局口を噤んでしまった。
スッと視線も外されて、ローナが怪訝そうに彼を覗う。
だが、声をかける事を阻まれているようで、それ以上なにも訊けなかった。
『デスピサロ様! 勇者を殺しました!!』
どれ程の時間が過ぎたのか。
静寂の中、不意に届いた声は、やけにはっきり耳に残った。
アレスとローナがハッと天井を見上げる。すぐ真上に幾人かの気配が集まって来たようだ。
『…皆の者、引き上げるぞ!』
やがて、指揮官らしき男の声が届く。ローナはその声に、さっと顔を曇らせた。
聴き覚えのある声…あの旅の詩人だと言う‥
アレスもまた、苦々しい表情で天井を睨みつけて居たが。不安そうな面持ちの彼女に気づ
くと、こっそり吐息をついて、彼女を抱く腕に力を込めた。
息を潜め気配を隠し、じっと耐える事半時。外の気配が鎮まって十分時間が経ってから、
2人はその緊張を解き、ほぉ‥と吐息を漏らした。
「…アレス。」
「ロナ、まだ駄目だ。奴らがまだ近くに居る可能性があるからな。」
ローナはぎゅっと彼の腕に置いた手に力を込めた。
「‥判ってる。でも‥‥シンシア。シンシアが…っ」
「‥ああ。その彼女の想い、無駄には出来ねーだろ?」
ぼろぼろと涙を落とす彼女を胸に抱き、言い聞かせるようゆっくりとアレスは話しかける。
「私の‥私のせいで…! 私があの人に会わなかったら、シンシアは‥‥‥」
「それは違うな。シンシアは、最初からそのつもりだったんだぜ、ロナ。」
泣き崩れる彼女に、アレスはきっぱりと告げた。
「‥どういうコト…?」
「‥シンシアを始め、里の皆は、こういう日が来るかも知れないと、準備してた‥って事
だよ。」
「…魔物がやって来るかも知れないって? …勇者を殺しに‥?」
皮肉げに口元を歪めて、ローナはアレスに訊ねた。
「…そうだ。」
「‥ど‥して? どうして…アレスは、そんなに平静で居られるの? 私達のせいで…うう
ん、もしかしたら、あなたのせいで、みんなが犠牲になったかも知れないのにっ!!」
「ロナ…」
哀しみと憤りの行き場を眼前の彼にぶつけ、ローナがどんどんとその胸を叩いた。
アレスはしばらくその感情を受け止めていたが、やがてそっと彼女の頭を両手で支え、
上向かせた。
「どちらが本物の勇者か‥ノームの爺さんがよくぼやいていたな。‥結局答えのないまま
だったが。恐らくそれは…誰よりお前が、俺に[勇者]を押し付けたかったが為の混乱
だったんじゃ、ねーのか?」
「アレス‥?」
嘆息交じりに言われて、ローナの表情が強ばる。彼は更に続けた。
「俺もお前に重荷を追わせたくねーから。面倒な役目は俺が引き受けてやる‥そう思って
きた。だが‥‥‥」
「アレスは…私があなたに面倒を押し付けて、逃げてる‥って言うのね?」
「違う! そーじゃねえ! 俺が言いたいのは‥‥」
「私だって、ちゃんとお稽古に励んだわ!
一人で旅立つ事だって、ちゃんと出来るもの!」
そう言うと、彼女はアレスの腕を振り切り部屋を飛び出してしまった。
「ロナ!」
ローナは階段を駆け足で上り抜けた。倉庫を出て外へ出るつもりでいた彼女は、屋根が崩
れ壁もほとんと残っていない倉庫の現状に愕然としながらも、壁を踏み越え、広場を目指
す。そこで彼女が見たものは…
「きゃあ――っ!! いやあぁっ――!!」
そんな‥馬鹿な…とローナはその場で膝を落としてしまった。
遅れて駆けつけたアレスが、酷い恐慌状態に陥ってしまった彼女を背後から抱きしめ、彼
女が目にしただろう光景を見止め、絶句した。
幾つか飛び込んで来た、人のカタチだったろう思われる塊は、業火に焼かれたよう炭と化
し、それが人間か魔物かの区別すら困難なものばかりであった。
平和だった里の風景など微塵も残らずに。すべてが死に彩られた隠れ里…
「ロナ、ローナ! 落ち着いてくれ! とにかく場所を移動するぞ。」
泣き叫ぶばかりの彼女を伴い、アレスは先程まで過ごしていた地下の隠し部屋へと戻った。
やがてフッと意識を失った彼女を部屋に残し、アレスは単身荒らされた里の中へ向かった。
出来る限りの弔いを済ませた後、瓦礫ばかりとなった里の中央で、毒の沼のようになって
しまった花畑の中、見覚えある帽子を見つける。
――シンシアの羽根帽子。
彼女がとても大切にしていた宝物。泥まみれになっていたそれをアレスは拾い上げると、
静かに涙を伝わせた。
それまで感情を押し殺し、黙々と作業をこなし終えた彼が、この日初めて落とした涙
だった。
地下の部屋へと戻ると、ローナはまだ深く眠っていた。
アレスは小さな吐息をこぼして、その隣へ腰を下ろし、そっと彼女を覗う。
苦悶するよう寄せられた眉、夢を見ているのか、時折ピクリと肩や指が不意に動く。
「‥ロナ。結局…俺は何の役にも立てなかったな‥。」
『運命し未来は変えられぬよ…』 運命→さだめ
『うるせー! 俺がどんな想いで旅立ったか、どれだけ苦しい想いを抱えて来たか!
傍観者だったあんたになんか、理解るもんか!!
また同じ想いをするのがあの子だなんて、絶対許せねー!
俺は行く! 同じ道を歩ませたりなんか、しねー!』
押し寄せて来る、遠い日々―――
―――ある日突然奪われた…平和。
失った優しい人達。失くしてしまった故郷―――
「…俺は、無力だな。」
結局、[同じあの日]を再現してしまったと、悔いる思いで呟く。
「ずっと側で‥お前を守る‥そう誓ったけど。それもどうやら無理そうだ。
俺はお前と‥共には行けない。…ごめんな。」
眠るローナのふわんとカールした翠髪を撫ぜて、そっと髪へ口接ける。
自分の存在が、本来の彼女の力を眠らせてしまって居るとしたら…己が側に居る訳には行
かない。
古い記憶が呼び覚まされた現在、それがはっきりと理解出来て、アレスは苦悩を滲ませた。
彼女はそれを納得してくれるだろうか‥?
ローナは翌朝になっても目覚める気配を見せなかったが、ずっと側についている訳にも行
かず、彼は里の様子をもう一度丹念に見回った。特に長年育った家のあった場所を念入り
に調べていると‥ローナと自分、それぞれの荷物を詰めたバッグが床下から出て来た。
旅立ちを控えて準備していたモノだが。地下への避難に持ち出す事の適わなかった物だ。
「‥父さん、母さん…。」
2人とも実子でない自分たちを、本当に慈しみ、育ててくれた。かけがえのない‥両親。
きっと、あの後どちらかが、この荷物を頑丈なこの場所へ移動させてくれたのだろう。
無事旅立てる事を祈りながら…
「‥俺は、ロナとは行けないが。でも…絶対守るから。だから‥‥安心してくれな。」
そう苦く呟いて、アレスはスッと立ち上がった。
次の日の朝。
深く眠っていた彼女が静かに目を開いた。見守るアレスが、その様子を固唾を飲み覗う。
「…あなたは誰?」
深い眠りからやっと目を覚ました彼女が、どこかぼんやりした様子で口を開いた。
「ロナ…何‥言ってるんだ…?」
何の表情もこもらない瞳に、途惑うアレスの声が悸える。
「ロナ? …私? 私は‥‥‥っ!?」
頭を押さえ、惑う様子にアレスがさっと青ざめた。
「…俺の事が判らないのか? 自分の事も‥‥?」
「…判らない。なにも…。ただ‥‥‥」
ぼんやりと答えたローナの瞳に強い光が宿る。
「私には…やらなければいけない事があったはずなの。」
「‥そうか。それだけは憶えているんだな、ロナ。」
「ロナ…それが私の名前?」
「いや…ローナ‥それがお前の名だ。そして‥お前はこれから旅立たねばならない。
復活の兆しを見せた悪の帝王を倒す為に。それが‥お前の使命だったろう?」
「使命…私の‥。」
「そうだ。」
アレスは彼女の腕を引くと、そのまま外へ案内した。
導かれるまま崩れた建物を出ると、荒れ果てた廃村がそこに広がっていた。
ローナは息を飲み、静かに侘しい風景を見つめる。
佇む彼女を残し、アレスは一旦倉庫へ戻ると、バッグと荷物を2組手にした。
旅立つ準備は出来ていたから。すぐに出立しても問題ない。だが‥‥
「‥ロナ。…お前の荷物だ。床下に保管されてたから無事だったらしい。」
アレスはそっと呼びかけて、手にしたバッグを差し出した。
「‥私の?」
「ああ。ここにはもう、他にはなにも残ってないらしい。早々に旅立つ事だな。」
そう答えながら、アレスは食料と水の入った包みを彼女に手渡した。
「あなたは…?」
受け取る彼女の問いかけに、アレスが静かに語る。
「俺も発つよ。やるべき事があるからな。」
「‥一緒には行けないの?」
少々不安げな瞳で見つめられて、アレスは淋しげに微笑った。
頼りなさげに寄せられた眉、小首を傾げる仕草…どちらも変わらないのに。
‥‥甘える時に見せた、慕うような懐っこさがまるでない。
「ああ‥。いずれどこかで逢えるかも知れんが…お別れだ。さよなら‥ローナ。」
そんな科白を自分の口から伝える日が来るなんて―――
ほんの数日前まで、まるで考えもしなかった。
悸える心が、前言を翻したい衝動を駆り立てる。けれど‥
ふわり‥と風に追い立てられて、アレスはその想いを飲み込んだ。
「‥待って!」
踵を返した彼の腕を、少女の手が止めた。
踏み止まったアレスがゆっくりと振り返る。
「…あなたの‥名前、まだ聞いてないわ。」
彼女の方へ向き直ると、ローナは迷いながらそう口にした。
「‥‥‥‥」
…憶い出した訳ではないらしい。そう知って、ガッカリしている自分に内で嘲笑う。
「私‥あなたの事知ってるような気がするの。ね‥そうでしょう?」
「‥そうなら、いつか自分で憶い出せ。」
深い紺の瞳が寂しく細められて、すっと伸ばされた手が彼女の頬に触れた。
真っすぐ向けられる眼差しが、あまりに他人行儀なのが悔しくて。
アレスはぼんやりした彼女の唇に自分のそれを重ねさせた。
そして、もう一度別れを告げる。
「…さようなら、ロナ。」
さっと身を翻して、アレスはそのまま朽ちた村を後にした。
一刻も早く、この場を去りたかったから、一気に駆け抜けて…
だから。駆け去る後ろ姿を見送るローナが、涙を落としていた事も知らなかった。
―――どちらにせよ。共に居られないから…
忘れてしまっているなら…その方が良い。でも‥
忘れられたままなのは‥‥苦しい―――
アレスは辿り着いた老木に縋るよう膝を折って、どうぶつけていいのか解らぬ感情を拳に
込めて、地面を叩いた。
その振動が伝わったのか、はらはらと色の褪せた葉が数枚降って来る。
ふと顔を上げると、その老木が、ローナお気に入りのムクムクの木である事に気づいた。
彼女との思い出が数多く詰まった場所。
「‥そうか。お前は無事だったんだな‥ムクムク。」
里の中心部にあった樹木の多くは、戦いに巻き込まれ、酷い損傷を負っていた。
だが、幸いこの老木は無傷のまま在った。…遠い日から、変わらぬ姿のまま。
「…いつか。全部終えたら‥もう一度戻って来るから。2人一緒にさ‥
だから…それまで、達者でな。」
立ち上がったアレスが、そっと幹に触れて話しかけた。
小さく笑うと、数歩後退ってから踵を返して、すっと手を挙げた。
別れを告げるように振った後、彼も里を出て行った。
人気のまるでなくなった里に吹く風はとても穏やかで。
数日前の悪夢など、まるで覚えてないように、静かな時間を刻む。
幼子が戯れ賑やかだった時を知る老木だけが、地面に染み込んだ水滴の跡も、背を向け遠
ざかる人影も見守って。
緩やかな時の流れに身を任せていた―――
2007/8/31
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