ギッ、ギ、ギッ、キイイィィッ…… 軋んだ音が、重たい闇の中央を引き裂いた。小悪魔(デーモン)の鳴き声のように不気味で、不快な音。そして、不死者(ノス・フェラ・トゥ)の吐息のような湿った風が生まれる。暗闇は音と風の主を歓迎して、その存在のために道を作る。「彼」は暗黒に彩られた道を、ゆっくり、気だるげに歩んだ。 彼の足が道を進み、闇の端まで来ると、ダークネスブラックは自らの色を消し、彼の為に扉を開けた。 音もなく開いた扉の向こうは、金の蝋燭の灯る世界。 彼の足が迷わずその先へ消えて行くと、闇は再び扉を閉ざし、部屋を暗黒に満たした。 此処は夜の帝王――吸血鬼(ヴァンパイア)たちの城。 靴も、靴下さえも纏わぬ白い足が石造りの階段を上り、廊下を歩み、豪奢な彫刻の施された扉の前をいくつも通り過ぎてゆく。転々と続いてゆく灯りと扉。その中の一つの部屋の前で彼は立ち止まった。 そこで彼は初めて手を使った。足と同じくらい白い指先はまだ幼い丸みを帯びている。大人の掌ほどの大きさしか無い手を伸ばして、(その手の大きさから見たら)酷く重そうな扉を押し開ける。(けれど、扉は非常に滑りが良いため、彼がさほど力を入れなくとも、開けることが出来た。) 彼の手はそのまま顔へと移り、彼の虚ろな瞳を擦った。 「ヴィンス……、」 小さな口から発せられたのは、やはり幼さの残る甘えた声。少し眠そうな、はっきりしない発音だ。 少年は目を擦るのをやめて、部屋の中へと進む。 イノセントレッドの丸い瞳をパッチリと開けて、少年はその部屋の主を探した。部屋の中はカーテンで閉め切られて、小さなシャンデリアが灯されている。 「早いな、ランスロット。まだ陽が傾いたところだ。もう起きるのか?」 部屋の主は窓辺のソファーで読書をしていたようだ。緩いウェーブがかったライラックの髪を揺らせて、少年――ランスを仰ぐ。 「おはよう、ヴィンセント。お腹がすいて目が覚めちゃったんだ」 ランスはヴィンセントに近づいて、ソファの前でひざまづく。床には獣皮のカーペットがあるため、少年の柔らかな膝を傷つけることは無い。ランスは小さな手をペタンとヴィンセントの膝に乗せて、顔色を伺うように小首をかしげた。 「仕様がない奴だな、ランスロット。少しは食欲をコントロールできるようにしろ」 せめて、眠る時間をゆっくりとれるくらいには。 ランスのくるりと丸い目に見つめられ、ヴィンセントは息を吐いた。目を通していた本を徐に閉じて置くと、細く長い指先を伸ばし、ランスのむき出しの額を突く。 「別にいいでしょ、ヴィンスは起きてるんだし」 ランスは額に触れているヴィンセントの手を掴んで、手の甲に軽く唇を落とした。 「そういう問題ではない。いいか、ランスロット・モーガン。空腹だからといって、時も場所も考えず食事をするのははしたない事だ、覚えておきなさい」 「わかったよ、ヴィンス。次はもう少し我慢するから、ね?」 ヴィンセントの説教を利口な振りをして聞き流し、ランスは捕まえたままの右手をぷくりと丸い唇で何度も掠める。 ヴィンセントの許可が出るまで食事をするのを待っている少年が、健気に思えてきて(こういうのを絆されている、というのだ)、ヴィンセントは中指をランスの口の中に押し込んでやった。 「ん、ふ……」 ランスは嬉しそうに男の指を受け入れて、舌で淫らに唾液を絡ませる。ぴちゃ、と濡れた音をさせて指を舐め上げていると、ヴィンセントが少年の発達した犬歯に指の腹を押し付けた。 ツッ、と肌の裂ける感触がして、ランスの牙の先が傷口に刺さる。 「良いコだ、ランスロット……、そのままじっとして……」 ランスは言われるままに動かず、男の指から血がにじむのを待った。 ややしてあふれ出した血液を、ランスは恍惚とした表情で吸い上げる。 「ゆっくり味わって飲むんだ……。そう、上手だ……」 時折傷口を抉るように深く牙を突き立てる。ヴィンセントは指先を傷つけられる苦痛を感じるどころか、ランスの浅い吐息を感じる度に目を細めている。 ランスは血を飲み続け、やがて満たされた微笑を見せると、傷口を癒すかのように溢れた血を舐め取った。名残を惜しんで指先に吸い付くようなキスを何度も与えていると、ヴィンセントの左手がランスのペリレンレッドの髪に絡みつく。 「もういいのか?」 「うん、ご馳走様、ヴィニー」 ヴィンセントの手の甲に柔らかな頬を摺り寄せて、満たされる幸福感に溜息を吐く。 「ね、ヴィンス、僕お腹いっぱいになったら眠くなっちゃった。少しだけここで寝てもいい?」 こてん、と頭をヴィンセントの膝に乗せると、彼の膝にはランスの頬の温かさか伝わる。食事をして身体が火照っているのか、子供体温だからなのか。そんな誘惑のようにおねだりなどされなくとも、そもそもヴィンセントには愛しいランスロットの頼みを断るという選択肢を持ち合わせていない。 「棺桶(ベッド)に戻らずとも、せめて横になって寝なさい」 ヴィンセントはランスの両脇に手を差し込んで、軽々と少年の身体をソファまで持ち上げる。自分の膝を枕にさせて横たわらせると、ランスの両腕がヴィンセントの腰に回された。 「膝枕ダイスキ!」 嬉しそうに笑って、ランスはヴィンセントの腹部に顔を埋める。 「ラ、ンスロット!」 ヴィンセントは思わず両手を挙げて降参のポーズだ。柔らかな頬が腿や腹部を擦って、足の間にあるものが落ち着かなくなってしまう。それを知ってか知らずか、猫のように丸くなって更に擦り寄ってくるものだから、たまらない。 「本……読み終わったら起こして?」 眠そうな舌足らずの声が丸い唇がそんなことを言うものだから、ヴィンセントは気合で腰を落ち着けるしかない。 「……わかった。お休み、ランスロット」 読みかけだった本を手にとって目を通していた頁を探そうとすると、ランスに袖を引かれた。 「挨拶は?」 首を仰向けにして、自分の前髪をかきわけて、瞳を真ん丸くしてランスはヴィンセントの顔を覗き込む。唇は不満そうにとがっている。 我侭で愛らしい子供に、ヴィンセントは完全に振り回されていた。身を屈めると 「お休み、ランスロット・モーガン」 おやすみのキスを額に、 「よい夢を」 とがった唇には謝罪のキスを与えた。ランスの頬はたちまち嬉しそうに高潮して、挨拶を忘れたことを許してしまう。 「お休みヴィンセント」 ヴィンセントに見守られて瞳を閉じると、可愛い唇はこう小さく呟いたのだった。 『目を覚ましたら、鎮めてあげるね』 吸血鬼たちの一日が始まるのは、もう少し後になってからだ。 |