real intention

 

 

 薄い布地越しに湿った地面を感じてノエルは覚醒した。
 一瞬息を詰めるけれど、辺りには何の気配も無かった。少しの不安と大きな安心に息を吐きだす。
 睡魔に襲われて、このまま再び眠ってしまいたいと思うけれど、そういうわけにもいかないのはよく分かっていた。天体の傾きを見るに、あと二、三時間で夜明けを迎えるからだ。
 地面と一体になったようにさえ感じる重たい身体。無理に動かそうとすれば、体中が悲鳴を上げた。しかし少しでも身体を休めたいのなら、立ち上がるしかない。クラクラと酷い眩暈に阻まれながらも足を動かし、3ヤード先の小屋の中に倒れこむ。
 きっともう3日ぐらい、水しか飲んでいない。それでも血と体力は消費していくのだから、回復を見込めもしない。
 今の自分で出来ることといえば、せめて無駄に血を消費させないことぐらいだ。ギシギシと身体を軋ませながら服を脱ぎ(とは言っても、身体の大きさに合っていないシャツを一枚羽織っているだけだったが)、傷だらけの身体を眺めた。手当てが必要なのは腿と横腹と肩の切り傷と、両手首の痣、左目の上の打撲だろう。細かく数えれば無数にあるが、そのぐらいのこと気にしては居られない。手足が動けば、とりあえずはそれでいい。
 くるくると傷口に布を当てながら、このまま夜明けを迎えてから、体力が持つだろうかと考えた。
 主のヴァンパイアを昼間の外敵から守ることが、ウォルフェン(狼男)に与えられた使命。夜が明けてから、ノエルの仕事が始まるのだ。吸血鬼ハンターや、妖魔、魔物。吸血鬼に敵は多い。それらの館への侵入を赦せば、番犬として生かされるウォルフェンに生きる価値は無い。ヴァンパイアに逆らうことができないように、ウォルフェンは生まれたときから血の呪いを受けている。
 ノエルが守る屋敷には五人(?)のヴァンパイアが棲んでいる。ヴァンパイアの一族の始祖の血を継ぐ一家で、ノエルはその中の末の息子を主と定められていた。彼を守るために生まれたのだと教え込まれて育ち、6歳を数えたときに初めて主と出会った。
 そして――どうしてなのだか自分ではまったく分からないことだが、主はノエルに冷たかった。
 けれど選択の余地がないことだけは分かっていた。
 「絶対服従」。
 そうすることしか、ノエルは知らないのだから。
 
 脚から順に手首までの手当てを終えたところで、止血の布が足りなくなってしまった。あとは少し腫れた額だけなのだが、そこが一番酷く負傷している。面倒だと思うが、このままにしておくわけにもいかなかった。屋敷まで行き、メイドに布を分けてもらわなくてはならない。
 立ち上がるのに、酷く時間が掛かる。
 気が重いどころの話ではない。実際に身体が重くてたまらなかった。歩くたびに痛みと眩暈に襲われるのだ。気を抜けば崩れていきそうになる体を引きずって、ノエルは屋敷の裏口へと向かう。

 屋敷に入って直ぐ一人のメイドの姿を見つけ、ノエルはふわりと全身が宙に浮いたように錯覚した。全身から力が抜けていっているのだと分かったが、どうにもすることが出来ない。
 ロングスカートの侍女(メイド)が自分に気づいて、こちらを向いたのが分かった。
 けれど、その後はどうなったか、知れない。


 最初に、いつもの目覚めとは随分違うな、と思った。
 暖かい。柔らかい。そして、気持ちがいい。
 死んだのかと、一瞬だけ思ったけれど、すぐに其れは否定する。まだ、全身の痛みが消えていない。
 ゆっくりとまぶたを持ち上げると、片目分の世界しか広がらなかった。腕を持ち上げて左目に触れると、丁寧に包帯が巻かれていることが分かった。よく見れば、腕の包帯も清潔なものに取り替えられている。
「……?」
 此処は何処だと改めて周りを見――、ざっと血の気が引くのを感じた。
 ここはノエルの主、ローデリッヒの部屋である。今ノエルが横たわっているのは、間違いなく彼のベッドだ。
 全身を支配する痛みを無視して、ノエルはベッドから飛び起きた。なぜ、と理由を求めるより先に、どうしたらいいものか、怯えてしまう。
 とりあえずベッドから降りるべきだと気づいた瞬間――、部屋のドアがダァン、と音を立てて開いた。
「ひッ……!」
 びくん、と全身が強張り、ノエルの瞳には涙が滲んだ。
 現れたのは、美しい金髪の少年。クルクルと波打つ髪を肩ほどまで伸ばし、前髪の奥からエメラルドの瞳がきょろりとノエルを捉えた。
 彼が、ローデリッヒだ。
 見るからに質のよさそうな服を纏い、幼いながらも自信に満ち溢れた彼。その肩からは、何故か女性用の靴がのぞいていた。
「ごめんなさ、……っ、もうしわけ、ありません……っ!」
 ノエルは咄嗟にベッドから降りたが、膝に力がはいらず床に伏してしまう。
「っぁう、……ご、めんなさ…ぁ…」
 ノエルの頭には、体罰を与えられたくないということしかない。地に伏してまで謝罪を続けるノエルをローデリッヒは一瞥すると、肩に担いだ「荷物」をずるりと部屋の中に引き入れた。
 其れは、女の死体。生々しい血のにおいをさせているところから、死後間もないのだろう。その証拠に、屋敷の床には死体を引きずってきた血の痕がある。ローデリッヒが片足を背負っているため、女のスカートはめくれあがり、ドロワーズが丸見えになっていた。
 どさり、と靴――脚を無造作に地に落とすと、ローデリッヒはノエルの方に近づいた。主の身体からは、女の血の匂いが強く移っていて、ノエルの嗅覚を刺激する。恐怖が先立って、空腹を感じはしないが。
 ノエルは何とか身体を起こし、ローデリッヒにひざまづいた。
「ばかか、お前は」
 幼い、少年特有の愛らしい声がローデリッヒの唇からこぼれた。獣の形をした耳を片方つかまれ、ノエルは痛みに顔を上げた。
「ぃ、……っ」
「そんなざまでは我が家の番犬などつとまらん」
「っ……もうし、わけっ……ぁっ……」
 ローデリッヒは耳から手を離すと、ノエルの目線まで膝を折った。ノエルの目の前に現れたエメラルドは繊細な金糸の睫に縁取られて、豪奢なアクセサリーを思わせる。
 ノエルは一瞬の間にヴァンパイアの罠に掛かっていたのだろう。翠玉に気を取られている間に、ローデリッヒの左手がノエルの首を押さえていた。
「うぐっ……ッぁ、」
 気道を絞められ呼吸が止められる。咽こみたくとも赦されない。首筋に爪の先が食い込んで、頭の片隅で痛いと感じた。
「だがお前は我が家の番犬である前に、僕の犬だ。勝手に死なせてなどやらん」
 脳に直接囁きかけられ、ノエルは本能的に首を縦に振った。
「……っ」
 声にならないイエスを聞き取ったのか、ローデリッヒはパッとノエルを開放した。ひゅう、と急に酸素が体内に入り込み、酷くむせ込んだ。
 ローデリッヒは立ち上がると、ノエルの首を絞めていた手で女の死体を指した。
「この僕がわざわざ狩って、運んできてやったんだ。さっさと食って、寝ろ」
「……え」
「何だ? お前に拒む権利はないぞ」
 ノエルは意外すぎる主の言葉に思わず目を丸くした。窓の外はもう日が昇りかけているらしく、カーテンの隙間から一筋明かりが差し込めている。
「あの……でももう日が……。ローデリッヒ様がお休みになられるなら、僕は起きてないと…」
 控えめに進言すれば再び、ばか者、と声を投げつけられる。
「自惚れるな。お前に眠りを預ける僕の身を考えてもみろ。お前がそんな状態で、眠ってなどいられるか」
 ローデリッヒはノエルから離れ、部屋の中央にあるマホガニー製のテーブルセット腰を落ち着けた。テーブルには何冊かの本が置かれ、昼の間起きて時間を潰すためのものと思われた。ノエルはどうしたらいいのかわからず、主と横たわる女を交互に見た。しかしローデリッヒはもう本を手にして、ノエルの方を見ない。
 散々戸惑った挙句、ノエルは結局与えられた(らしい)餌を食すことにする。若い女の肉は柔らかく、一口食めば、空腹だったノエルの理性を崩した。
 餌を貪るノエルに、ローデリッヒは小さく、残すなよ、と呟いた。

 

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