洗面器に張った熱めの湯に、真っ白なタオルを潜らせる。 充分に湯を吸わせてから引き上げ、きつめに絞る。 ぱしゃぱしゃという小さな水音が、無音の部屋にやけに大きく響いた。【気紛れな万華鏡。】
手にしたタオルで額を拭ってやる。 くたりと四肢を投げ出して横たわる忍足が、その焦茶の虹彩を覗かせる気配はない。 汗で張り付いた髪を掻きあげ、首から肩へと拭い進めて行く。 こうして無抵抗の身体を拭いていると、まるで死体の清浄をしている様な気分になる「…たろ…?」 小さな声にぎくりとして振り返ると、未だ夢見心地な瞳の忍足がこちらを見ていた。 「気が付いたか。」 声を掛けると、子供が憤る様な声をあげてもぞもぞと蹲った。 寝起きが悪いのだ。 タオルを洗面器の縁にかけ、そっと覗き込むと。 僅か潤んだ見上げる視線、焦点が定まらないのは裸眼の所為か。 ともかく、そこに非難の色はない。 機嫌は悪くなさそうなので、榊は内心少しホッとする。 「大丈夫か?」 肌とは対照的な闇夜の髪に触れてみる。 するとそれまで眠たげだったその表情が、ムッとしたものに変わった。 どうやら思い出させてしまったらしい。 しまったと思うがもう遅い。 「…大丈夫やない。」 不機嫌にそれだけ言うと忍足は、シーツに顔を埋めてしまった。 「自分でこんなんしといてよう言うわ。ヤリ殺されるか思うたで、ホンマ。」 恨み言を吐く唇は長い髪に隠されて見えないが、苦々しげに歪められているに違いない。 「…すまなかった。」 心からの反省と共に謝罪の言葉を口にする。 少しでも機嫌を直したくて、頭を撫でてみるのだが。 「こてこて触らんとって。犬猫やないねんから。」 すげなく手を払われてしまった。 今回は相当怒っているらしい。 だが、それを少し理不尽だと榊は思ってしまうのだ。 勿論自分を正当化しての事ではない。つい我を忘れ度を越してしまうのは、自分自身でもどうにかしなくてはと思う。 行為そのものが不自然なもので。 慣れたとは言え、元々の摂理を捻じ曲げられている忍足の負担が大きいのも、解ってはいるのだ。 実際昨夜も、何度か彼からの白旗宣言を耳にしてはいたのだが。 未だ花開いたばかりの幼いとも言えるその身体は、愛撫に対し非常に敏感に反応する。 甘い声を上げるその仕草をどうしても同意と受け取ってしまい、そして結果無理をさせてしまう。 彼が意識を手放すまで抱いてしまうのだった。 ただ、それは忍足自身の所為と言える部分も少なくはなくて。 榊はもう少し自覚して欲しいと思うのだ、 自身の持つ意識的そして無意識的な、匂い立つ花の如く誘う色香に。 それを言えばきっと彼は「無意識の領域まで責められたら敵わんわ。」と、口を尖らせるのだろうけれど。 だから榊は冗談めかして、 「…仕方ないだろう?お前が余りに魅力的だから。」 と、囁きかけた。 「なんやのそれ…責任転嫁しなさんな。俺が悪いみとぉな言い方せんといてや。」 俺何も悪い事してへんもん、と嘯く忍足に苦笑する。 自覚させるに有効な手立てを、榊は知らなかったからだ。 「兎に角俺、くたくたやねん。もう寝るさかい電気消して。」 シルクのシーツを手繰り寄せ、それに包まりながら照明のスイッチを指差す。 そんな怠惰な仕草に榊は眉を顰める。 「こら、そんな格好で寝るつもりか。」 春とは言え明け方は冷え込む。 裸のまま眠るのは得策とは思えなかった。 「…起きんの面倒臭い。」 この会話の流れで素直に従う筈がないのは判っていたので、それは予想範囲内の反応だった。 頭まですっぽりとシーツを被り、髪の先をほんの少しだけ覗かせて嫌々をする忍足の頭に触れる。 「侑士。」 窘める時に使う声で名を呼ぶと。 シーツの中から心底嫌そうな顔が現れた。 「…誰かさんのお陰で、動くのめっちゃしんどいねん。」 皮肉たっぷりに吐き出される台詞。 しかしこれも予想範囲内だ。 「そうか。さぞ体力も落ちているだろうな。そんな時に身体を冷やしたらどうなるか判るか?」 「…ごっつムカつくわ、あんた…。」 悔しそうに睨みつけてくる視線を、確信犯の笑みで受け流す。 それがまた忍足の癇に障るのだったが、観念したのか身に纏うシーツをぎこちない仕草で払った。 身体が上手く動かせないのは事実らしく、榊の良心がちくりと痛む。 「起こして。」 力無く伸べられる長い腕。 それを掴んで軽く引いてやるが、どうやら自立する意志のないらしい忍足は横たわったままだ。 面白そうににやりと笑う不遜な態度に、溜め息を一つ零す。 仕方なく腋の下に手を差し入れ引き起こすと、勢いに任せて榊の腕の中へ倒れ込んだ。 「…侑士。」 そのまま動こうとしない恋人に、諭す口調で呼びかけるが。 「なに?」 上目で笑う悪戯な瞳に思わず魅入られる。 「…今度は『着させろ』とでも言い出すのか。」 「ご名答。よお解っとるやないの。」 今度は榊が観念する番だった。 片腕で忍足を抱き、放り出したままになっていた衣服に手を伸ばすと、くすくすと嬉しそうな笑い声が聞こえる。 遊ばれているな、と思いながら薄い水色のパジャマを肩にかけてやる。 が、忍足は袖を通そうとしない。 「…着させてくれへんの?」 拗ねた様な声に、漸く彼が甘えているのだと気付く。 人を悪者にしてその想像にゾッとして、榊は手を止めた。 勿論それは錯覚に過ぎない。 体温の低い肌は冷たいが現に今も、薄い胸が僅かに上下動を繰り返している。 酸素の供給を怠らない、健全な身体だ。 忍足は穏やかな…とまでは言えないものの、無防備な寝顔を晒していた。 己の思考に苦笑を漏らし、榊は事務的に作業に戻った。 敢えて事務的なのは、己の欲を抑える為。 平静を保つ様努めてはいるのだが、やはりこの色香にはどうにも抗い難いのだ。 清めたばかりの首筋に口付け、所有の証の如き痕を新たに増やす。 首に、胸に、腕にまで残る、紅い花弁。 先刻までの情事の痕が、白い肌を艶やかに彩っている。寝顔は誰でも天使、等と言うけれど。 それはまるで忍足の為にある言葉ではないかと思える程にぴったりくる。 日頃小生意気で意地っ張りで、その上頑固で…傍から見れば可愛げのない子供なのだが。 ひとたび彼の本当の貌を遮るものそれは例えば彼が普段かけている眼鏡であるとか、 または作り上げられた不敵な表情であるとかを取り払ってしまえば、そこにはごく普通の十五歳の少年がいるのだ。 榊は溜め息を吐いた。 目の前の可愛い恋人が目を覚ましたら、怒り出すのは必至。 大人顔負けの豊富な語彙と巧みな話術で詰られ、完膚なきまでにやりこめられるのだろう。 自業自得とは言え、少々頭痛のする思いだった。いや、実際悪いのだがその贖罪として甘えさせる。 そういったやり方でしか甘える事を自分に許せない、意地っ張りな所も榊は好きだった。まるで万華鏡だ。 くるくると色を変えて、一瞬先にどんな姿を見せるのか想像もつかない。 「手のかかる子だ。」 笑み含みの溜め息で応じた榊にしかし、腕の中の子猫は不服な顔。 「手ぇかかんのはどっちや思うとんねん。あんたなんか手のかかる中年やろ。」 どうやら「子」という言い回しがお気に召さなかったらしい。 人を「中年」と称するのが何よりの証拠。 ただそれは、紛う事なき事実でもあるのだが。 「不惑も過ぎといてどうかと思うわ。惑いまくりやないの。」 心地良く耳に痛い厭味を紡ぐ生意気な唇をふいに奪った。 前ボタンを留めてやりながら、柔らかなそれを啄ばむ。 押し退けられるかとも思ったが、一瞬の躊躇う動きの後、忍足は大人しく受け入れた。 「…そうだな。忍足侑士という子悪魔には惑わされ通しだ。」 唇を放して耳元で囁くと、白い面が目に見えて紅くなった。 「アホちゃうか…何恥ずかしい事言うてんねん。」 照れ隠しに榊の肩に顔を埋める。 普段は憎らしい台詞しか吐かない癖に、時折こんな初心な貌を見せる。まったくこの子悪魔には敵わない。 しがみついて離れようとしない忍足を、榊は包み込むように抱き締めた。「…ホンマはな、そない嫌でもないねん。」 照明を落とした室内。 二人は抱き合ってシーツに包まっていた。 「何がだ?」 寄り添う忍足の髪を撫でながら問い掛けてみる。 「あんたにな、…無茶苦茶に抱かれんの。」 「そういう趣味があったとは知らなかったな。」 「…言うと思うた。そんなんやないわ。」 人を勝手にアブノーマルにしなさんな。と、榊の額をぺちりと叩いた。 「なんかな、…欲しがられてる、て思うねん。いつもは人の事ガキ扱いして余裕やのに、そん時だけはちゃんと、男のカオするんやもん。」 大人気ないと笑われるかと思えば、 「…それが、なんか嬉しいねん。」 と、照れた声で告げられた。 夜の暗さに遮られて見えないが、恐らく彼は耳まで朱に染めているのだろう。 ふいに身体が密着する。 忍足が抱き付いたのだ。 「俺ばっか喋ってアホみたいやないの。何か言うてぇな。」 それでも榊は口を開かない。 正直、何と応えたものか判らなかったのだ。 「…ムカつく。また人の事、ガキやとか思うとんねやろ。」 肩に鈍い痛みが走る。 どうやら噛み付かれたらしい。 「仕返しや。さっきの分も含めてな。」 何と可愛らしい仕返しか。 してやったりと笑む気配の忍足を押し倒し、少し強引に口付けた。 「ちょっ…ちょお待ち!何ラウンド目か知らんけどこれ以上は勘弁!」 勘違いした忍足は榊の身体を引き剥がしにかかる。 苦笑し、ばたばたと藻掻くその額に口付けをもう一つ。 「安心しろ。そのつもりは無い。」 組み敷いた身体から力が抜ける。 安堵の溜め息を吐く忍足を抱き、そのまま横になった。 「ホンマ、あれじゃ強姦やで…。」 先刻までの情事を思い出したのか、忍足が愚痴モードに入る。 「俺、何回「もう無理」言うたか判らんで?それやのにあんたしつこい事しつこい事…。 絶対キスマークだらけやろ、俺…。休み明けまで残ったらどないすんねん。着替えん時困るん俺なんやで?」 先刻「そんなに嫌ではない」と言ったのはどの口だったか、文句の出てくる事出てくる事。 しかしそれを聞いてやるのも罪滅ぼしの内と、榊は黙ってそれを受け止めた。 「すまなかったな…以後気をつける。」 「あんたいっつもそればっかやん。ホンマに気ぃ付けとんの?」 「そのつもりなんだがな。…お前が可愛すぎてつい自分を見失ってしまう。」 腕の中で、忍足が身を固くするのが判った。 密着している顔が熱い。 「褒めても何も出えへんよ…。」 一変、弱々しい声で呟く。 付き合い始めてもう随分経つ。 枕を共にした事とて、数えきれる回数ではない。 それなのに今でも、こうして少し褒めただけでも盛大に照れてしまう。 今この瞬間、「愛している」とでも囁いたなら、きっと黙り込んでしまうだろう。 どうしてこんなにも初々しいのか。 若いから? 経験が少ないから? それとも、元々そうした質なのだろうか。 いずれにせよ、榊はそんな忍足が、愛しくて愛しくて堪らないのだった。 「他の人にあないな風にしたら訴えられんで?俺にしたって……俺があんたに惚れてへんかったら犯罪なんやからな。」 惚れる惚れてない以前に、既にこの年齢差と性別の関係で犯罪だと思うのだが。 が、珍しく彼が愛の告白めいた台詞を吐くものだから、つい突っ込むタイミングを逃してしまった。 「…他の、とはどういう事だ?」 「せやからそれはその、…俺と、別れて誰かと付き合う事んなったら…て事。あんた、もうええトシやん。結婚とかせなまずいんちゃうの。」 ぎゅ、と榊の寝間着を掴んだ。 考えたくないのだろう。 いつ訪れるか分からない、二人の関係の破綻を。 「そればかりは縁だからな…。それに私は、好きでもない人と結婚するつもりはない。義務的にするものでもないだろう?」 「それはそうやけど…。」 想像してしまったのか、榊の肩口に顔を埋めたまま嫌々をした。 首を振る度に顎を掠める、忍足の髪がくすぐったい。 「心配ない。」 「…なんで?」 ゆっくりと背中を撫でてやる。 忍足は涙声だ。 怯えてしまった愛しい恋人の不安を和らげてやりたくて、榊は微笑みながら言葉を紡ぐ。 「この先、お前より心惹かれる人間にもう、出会えるとは思えないからな。」 「…それって…。」 忍足ががばりと身を起こす。 驚いて涙も止まった様だ。 一瞬遠ざかった体温が、勢いよく戻ってくる。 「あんた、いきなり殺し文句言うのやめてくれへん?心臓に悪い…」 「いきなりだから殺し文句じゃないのか。予告でもしろと言うのか?」 その戯言に、忍足は溜め息を一つ。 「…あんたみとぉにアホな大人見た事ないわ…。」 「そうか。そうさせているのは誰だか、よく考えてみるんだな。」眠りに就くその直前。 気紛れな万華鏡は、 とても綺麗な笑顔を見せてくれたのだった。
太郎がそんなに絶倫な訳がない(言われる前に言ってみた) 誕生日の話題に掠りもしてませんがおめでとう。 04.03.14