6ヶ月病院や病室で過ごしたときの人間模様。一生、このことは忘れない。


ウクレレ始めました

ウクレレって知ってる?

まきしんじ が「あ〜あ、やんなちゃった、あ〜あ、おどろいた〜♪」って歌ってたあの、小さなギターみたいな楽器です。

うちにはウクレレがずっとありました。父がたまにハワイアンを弾いてくれたっけ。どうしてうちなんかに普通にウクレレがあったのか、何の疑問もなく育って、お嫁に出ていってしまった私でしたが、最近になって知りました。

父が大学生の時に友達グループとウクレレ喫茶でアルバイトしてたんだって。(そんな喫茶店があったのね・・・・。)

だいぶ弱ってしまった父だけど、病院で、「ああ、ウクレレ弾きたいなあ。」ってボツリと言ったそうです。でも、大学の時に使っていたべこべこになったウクレレじゃダメなので、新しいものを兄が買ってきました。喜んだ父は、「バラが咲いた」を弾いてくれました。

しかし、それは短い間でした。次第に寝ている時間が増え、たまにウクレレを持っても、持ったまま寝てしまう状態になりました。悲しいことに、もう何もわかりません。

 

そこで!!私の出番!父が弾けないんだったら、私が弾こうって!!!そう、決めたんです。

毎日病院に行ったときに、父の枕元でコード表をみながらぎこちなく弾く私・・・。

毎日毎日練習練習・・・・・。そして一週間・・・。やった!一曲弾けた!

成果は、父の意識があるうちに披露できました。父は非常に喜んでくれました。

 

そうして、私はウクレレの土壺にはまっていったのでした・・・・。  

                                          

それから、なんと、私はマイウクレレを買ってしまいました。これで家で毎日練習できるわけです。

夜、11時頃は、私たち二人夫婦のマイホームから、ウクレレとギターの音色が流れています。

昼間と病院にいる間は、ピアノの上にウクレレがこっちを向いて座っています。

お気に入り曲

* いとしのエリー・・・一番のお気に入り曲。暗譜しました。

            だんなさまのギターと合わせるとgood。いや、合わせると言うより、合わせてもらってるかな。

* 知床旅情・・・・・・案外簡単な曲です。主なコードは3つだけ。それも簡単な指使いです。

          なんか、しみじみとしていていいです。

* 我が故郷・・・・・・一番始めに覚えた曲。

              「お〜我が家よ〜」なんて・・・悲しすぎる

*  なごり雪・・・・・・ちょっと難しい曲。だんなさまのギターブックで弾いてみました。     

 

病院にいる土日の昼間は、病室からこれらの曲が必ず流れています。今はもう、何にもわからない父ですが、ウクレレの音色は、なんだかわかるみたいで、目をぱちくりとさせることがあります。音楽って、不思議です。

子どもの頃ピアノを弾くと、喜んでそばで聞いていたり、口笛で合わせたりしていた父だったっけ。

ピアノは持ってこれないけど、その代わり、私が父の大好きなウクレレを弾いてあげよう。     父の生前に書きました

 

駐車場管理のおじさん

父のいる病院は、駐車場がただじゃない。たしか、4年前の手術の時はただだったのに、今は一回につき、

1時間で100円程度、一ヶ月のカードを買うと、3200円ぐらいだ。高いと思いつつも、一日に1回以上は病院に出入りするので、一ヶ月カードを2月から6ヶ月も買い続けている。母、兄、私、叔父の4枚買うんだから、駐車場管理の人も喜ぶはずだ。だけど、管理のおじさんは、非常に優しい人がいる。「また買うんだね。長いね。かわいそうだね。」って言ってくれる。

ある時、おじさんがこんなことを言った。

「おじさんはね、ここに来る患者さんや付き添いさんの気持ち、よくわかるんだよ。実は、私も患者なんだ。これ見て。」

そう言ってアームウォーマーを指さしました。この暑いのに、右手には白い靴下のようなものをしていました。

それをはずすと・・・・目を疑いたくなるようなものが飛び込んできました。

そこにあったのは、岩のようにごつごつとしたような塊がくっついたぼこぼこの腕でした。

「長い間、透析をしてるんだよ。週に三回4時間ずつ12時間かけてやってるんだ。一度に二つの針を刺すんだけど、もう、腕がかちかちになって、刺すとこないんだよ。人工の血管もついてるんだよ。こんな腕になっても、生きてるってありがたくて、こうやって仕事してるんだ。中には、透析の所に血のがんの人もいて、かわいそうだなって思うよ。自分はこんなでも60までは生きられるかなって思ってさ。」と言った。

目を伏せたくなるような光景に、なんだか涙が伝った。

「何悪いことしたわけでもないのに、どうしてこんなことになっちまうのかな?ねえ、そうだろう。

お父さんだって、そうだろう。つらいよなあ。くるしいよなあ。私なんかより、お父さん、辛いだろうね。」って。

好き嫌いがあるから、酒の飲み過ぎだから、たばこの吸いすぎだから、運動が少ないから、生活が不規則だから・・・・だから病気になったって????

とかく講釈の好きな研究者やらなにやらが言うけど、本当にそうだろうか?

おじさん、一生懸命生きてるよ。父さんだって、今までは、海外出張までして、ばりばりにがんばってたんだよ。

心ない人は、「酒よく飲んでたからねえ。」「運動少なかったでしょ。」なんて言う。父さんは、水泳やってました。30ぐらいまでは、お酒も飲めませんでした。

でも、病気になっちゃったんだよ。もう、助からないんだよ。

 

おじさん、気持ちわかってくれてありがとう。おじさんみたいに、感謝しながら毎日を過ごそうと思った。

                                 なんで病気になったかは、わかりません

 

食道がんのAさん

 父が最初、病院側のミスで4人部屋に入れられた時のこと。父と同じくらいにAさんが入院してきた。Aさんは、病気にもめげず、なんだかとっても明るかった。「おれさあ、辛いもん食べ過ぎでさあ、喉悪くしたみたいなんだよねえ。」なんて、とぼけて、言ったので、病室はかなり明るくなった。2,3日たって、父は個室に行ってしまったのでそれまでだったが、談話室でたまにあった。

ある時、「おや?元気?コーヒー一緒に飲もうよ。」なんて、おじさんは私を自分の4人部屋に呼んだ。ポットから出したのは、インスタントコーヒー。ふたのカップに注ぎ、私に渡した。「俺さあ、飲んじゃだめだけど、コーヒー好きだから、おっかあに毎朝入れてきてもらって、においだけかぐの。さあ、さあ、飲んで。俺、においかぐからさ。」と楽しげに言った。

申し訳なさそうに私が飲む横で、おじさんは、にこにこしていた。

 Aさんは、父と同じ年だった。「おじいさんの世話、たいへんだね。」っていうので、「父です。」というと、「そっか・・」と気まずそうにした。あまりにも衰弱している父を車椅子に乗せていたから、そう思われても仕方なかったのだが。「おじさんも、子どもいれば、あんたと同じくらいだったんだね。」とぽつりと言った。その一言が、さびしかった。

 Aさんは、食道癌ができたと言われたとき、「こんなぴんぴんしてるのに、そんなわけないだろう!ここの病院は、信用できない。」と言って、他の病院で検査をしに行ったそうだ。でも、結局、他の病院でも同じ結果が出て、ここに入院するわけになったという。

明るくて、はつらつと元気なAさん。生きる力に満ちたAさん、この人も弱ってしまうのかとふっと考えてしまった。

 Aさんは、手術後、麻酔が切れるまでの不思議な話をした。

 *不思議なこうもりの話*

   壁にこうもりがべったりとくっついている。1ミリよりも薄く平べったい大量のこうもりは、時折、べったっと壁からはがれて、反対側の壁にくっつくのだ。べたっ、べたっ、とこうもりが壁に貼りつく。ああ、やめてくれ・・・・きみわるいじゃないか・・。

PIONEERの話*

機械がごうごうと音を立てている。その機械は、パイオニアってやつだ。そのにくらしいパイオニアのやつは、俺までパイオニアにしようとしている。ああ、助けてくれ!俺は、パイオニアなんかにされたくないんだ!

 遠くで奥さんの声がしているのに、なんだか、この夢を長く見ていたと言います。麻酔で、幻覚を見ていたのでしょうか。でも、後で奥さんに聞いた話では、手術後に集中治療室で大暴れをしていたとか・・・。

 一ヶ月ほどで退院して、いなくなってしまったAさん。さよならも言えずじまいでした。気さくなおじさん、どうか再発しませんように。おじさん、明るいおじさんがいてくれて、なんだか、うれしかったんだよ。

 

食道がんのBさん

 Bさんの奥さんは、母の同級生だった。隣の隣(つまり、一つ置いて横)の個室に入ってきた。母とBさんの奥さんは再会を喜び、手を取り合って、慰め合っていた。同じように夫が病気で、苦しむ妻たち。談話室で立ち話したり、出かけるときに「ちょっと見ていて。」なんて相談をしながら、仲良くしていた。

 しばらくして、Bさんの奥さんは、「おたくの娘さんも息子さんも近くにいて、毎日病院に来てくれてうらやましい・・・」とぼやきはじめた。Bさんの3人の子どもたちは、近県やかなり遠くに嫁いでいた。唯一、県内にいる娘さんは、子育てで大変で、途中から病院に来なくなったという。Bさんは、辛くて泣き出すことが多くなり、病気の旦那さんと喧嘩する声も聞こえてきた。かわいそうで、かわいそうで、たまらなかった。でも、どうしてあげることもできなかった。

 毎日病院泊まりの不自由さ、窮屈さ、精神的にも疲れは絶頂にさしかかっていたのだろう。

週末に病院に泊まるのさえいやだった私。毎日となったら、やっていられるのだろうか。

 私は夫と二人暮らしだから、病院にも毎晩行けたし、週末は病院に泊まることもできた。夫もわかってくれたし。中心になって面倒をみる母の息抜きの時間を作ってあげられた。これも、神のしたことでしょうか。偶然とはいえ、ありがたいことだった。

 Bさんは、2年前に胃を切除し、再発で食道も取った。でも、手術後、元気に歩行訓練をしていた。父の病状が非常に悪化してきたときだ。そして、退院が明日に迫ったとき、「うちだけ元気になって、申し訳ないようだから、手紙残してそっと出ていこうと思ったけど、水くさいことするのもなんだかから、いいに来た。」と挨拶に来た。退院がうれしくないはずがない。「よかったね!」と喜ぶ母。

でも、「すぐさ、病院にも戻るかも・・・・なんだけどね。」と付け加えた。

 なんで、なんで、取っても取ってもどこかにできてしまうの・・・?なんで、こんなに私たちを恐怖にさらすの?

安泰を決して約束してくれない病気。こんな憎い病気、許せない!

 

 

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