夏の日記・最終章

  

8月16日分は、(20日以降記載)       

 

8月14日(月)

 仕事中は、気になって2度も病院に電話をかけてしまった。酸素吸入が始まったと聞いて、

もう、いてもたってもいられなくなってしまった。5時過ぎには仕事を終わらせ、病院に急いだ。

人工呼吸器をつけて、上を向いて苦しそうにしている父。ああ、ほんとうにだめかもしれない。

泊まりになった。


8月15日(火)

 病院に泊まった。簡易ベッド(キャンプ用)は、背中が痛いので、こたつの座布団を敷いたら、

ぴったりで快適だった。狭い病室に父のぜーぜーという息が響く。12時半までは母が寝て、

それから私が2時半頃まで寝て、それから2人でうとうとした。不安な夜だった。

お父さん、苦しいでしょう。胸につけられた無線で心音がナースセンターに伝わっているのが聞こえるよ。

マラソンしているみたいな息づかいだね。休めないんだよね。少しも。もう、2日も走り続けて

いるんだよね。お父さん、お父さん、大丈夫だよ。ずっと、私とお母さんがついているから。

今晩もお風呂に入ってから行く。今夜は花火大会なのにね。5年前は大腸取って手術して、病院から

おっきな花火を見たっけ。今年は見られないね。


8月16日(水) さようなら、お父さん

  父の病状は、昨日と変わらなかった。酸素マスクをつけて、ぜーぜーとマラソンをしているようだった。

 母と二人で午前中を過ごし、3時半頃は病室で食べる私が夕飯のお弁当を買いにいきながら、家によって

シャワーを浴びてきた。

  病室に戻ったのは5時過ぎ。6時にはお寿司の折りを病室に広げ、母、兄、私の旧家族3人で食べていた。

 この後、兄はあふれるぐらいある洗濯物を片づけに家に帰るはずだった。しかし、食べている間にも、

 雷が鳴り、雨がたたきつけるように降ってきた。「これじゃ、家に行けないね。」と話していると、父の呼吸が

 妙に静かになった。時折、休んでいるような・・・。看護婦さんを呼ぶと、「大丈夫よ。無呼吸の人もいるから・・」

 といつもの吸引で痰を引き、血圧を測ったら、78だった。降圧剤の機械の目盛りを12にした。落ち着いていいのかな?

 そんな不安が残った。

 でも、あまりにも様子が違うので、「とりあえず急いで食べて様子を見よう。」と母が言った。でも、私が見る限り、

 父の顔がすこしずつ青ざめていった。

  そこに、たまたま婦長さんが来た。「まあ、こんなところでお食事ね!」といつもの笑顔であきれたように言って

 父の顔を見るなり、「先生を呼んでちょうだい!!」と血相を変えた。 

 ぐちゃぐちゃに食べかけの夕飯が廊下に出され、心音計が運ばれ、見る見る間に父の鼓動は78,65,56,42,32

 と下がっていく。たまに大きく口を開くだけで、つぶってしまう。「息しなくっちゃ、脳にダメージが!!先生!!」と

 私が叫んでも、お医者さんは何も言わず、黙って見ていた。ああああああ、、、、私はもう父の方が見られなくなった。

機械は0になり、鼓動を示す線は、一直線になった。

母の「わああああああ」という叫び声が響いた。私は病室のトイレの前でしゃがんで大きな声で泣いた。

「さあ、お父さんを見てあげて。」という婦長さんの言葉を無視した。見られなかった。悔しかった。そんなはずじゃなかった。

2,3分泣いた後、そっとお父さんのそばに行った。父の痩せた顔、体を見るなり、

「取って、取って、こんなもん、全部取ってよ!!!!」と婦長さんに言っていた。胸に刺さった中心静脈点滴の管、

酸素マスク、鼻に差し込まれた気道確保用の管、嘔吐用に鼻から入れられた管、導尿管、父がいやがっていたすべてを楽に

してあげたかった。哀れで仕方なかった。

父は、やせ細った体を残して、いなくなっていた。空のお父さんが哀れに横たわっていた。

婦長さんが、「ごめんね。」「苦しかったでしょ。」と言いながら、管をはずしていった。

それから、処置が行われていった。(20日記載)

 父の体は、しばらく温かかった。私は、父の体をさすっていた。死んでいるはずはない・・・・。そんなはずはないと。

しかし、悲しむ私をよそに、10分前に父の痰を吸引した看護婦さんが来て、そそくさと手袋をはめ、まるで物体を扱うように、

大きなテープを父の口に貼り付け、体を拭いた。鼻に綿をさっさと詰め込んだ。もう、人間として認められていないのだ。

顔色一つ変えないその看護婦さんに怒りを感じた。

 そのうちに、葬儀社が来て、父を運んでいった。私は兄と旦那と叔母で病室を片づけるために残った。

6ヶ月の病院生活の荷物はかなりたくさんあった。病室は私の実家で、父の部屋になっていた。まるでそうだった。

母の希望は、なるべくすべてを処分すること。容赦なく捨てていく。タオルケット2枚、シーツ2枚、バスタオル5枚、

タオル20枚、パジャマ、下着、靴下、10組以上・・・。病院に捨てきれなくなって、車に積み込んでいく。

父とのこの病院生活なんて、もう、何も思い出したくない。悔しくて、悲しくて、どんどんゴミの山が高くなっていった。

 紙おむつ、尿パット、人工肛門パウチや専用はさみ、掃除用具は病院に寄付した。そして、ついに病室は空になった。

 寂しい空間がぽっかり口を開けている。

 父は、ベッドに寝て、何度あの蛍光灯のしきりの数を数えていただろうか。「何度も何度も数えるんだよ。18なのは

わかってるんだけど、それでも何度も数えるんだよ。」って言ってたっけ。

電気を消して、出ていく前に、小さな声で、「さようなら。」って言った。

空虚が私の声を包んで、響きもしないで消していった。(21日記載)

 ナースセンターに声をかけ、荷物を持って外に出た。雨はもうやんでいた。

実家に帰るまでの5,6分は、車の中で涙があふれて仕方なかった。家につくと、父は1階の和室に北枕で寝かされていた。

口が開かないようにタオルを巻かれていた。トレードマークのめがねもかけられていた。

葬儀社の仰々しい派手な織物を掛けられ、静かに寝ていた。あのぜいぜいという息がなくなって、ほんとうに安らかだった。

寝ているだけなの?そんな感じで、死んだなんて、信じられなかった。

親戚が東京からやってきては、泣き崩れた。地元の親戚たちが帰ったのは夜中の2時過ぎ。

東京組は離れに泊まった。しかし、一人の東京の叔父は泣きながらどこかに行ってしまった。保護したのは夜中の2時半。

あまりにもショックだった叔父は、東京まで帰らずにいられなかったという。駅で東京行きの電車がないのを知り、朝まで

飲んで夜明かしするつもりだったのだ。兄に助けられて父のいる私の家に戻った後も酒を飲みまくり、布団に吐きまくった。

私の旦那が介抱して、朝までつきあった。

私は3時半頃、母と2階にあがったが、母のすすり泣きが耳について、悲しくて、一睡もできなかった。(24日記載)

 翌朝、父は湯管の後、棺に入れられ、葬儀社によって通夜の場所に連れて行かれた。私と母だけがその車に乗った。

「もう、父さん、家には帰れないんだね。」そう、母が言って、泣いた。父はいつも家に帰りたがっていた。

口にはしないけど、家の話をすると泣きそうな顔になっていた。家に帰った7月末には、もう、わからなくなっていたけど、

わかるときは、家に帰りたがっていた。

葬儀社につくと、もう、祭壇が作られていた。父の写真もできていた。香港に行った時の、笑った写真。むなしく笑う。

通夜が行われ、多くの人が来た。これが、父が死んだって証拠なんでしょうか。現実を見せつけられて、涙が止まらなかった。

 翌日は葬儀。焼き場で父の肉体はなくなった。小さくなった父の遺骨を抱き、家に戻ってからは、時間がどんどん経った。

今は、26日(土)。名義変更などをして、あたふたと過ぎた10日間。

忘れられない一夏になった。

さようなら、お父さん、月曜日から、私も自宅に帰るよ。母さんも、だいぶ落ち着いてきたから・・・。

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