管理人みなみの父の闘病記
病気の起こりから7月末まで
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お父さん、お父さん、何度呼んでも空しく響く、お父さん という言葉。多忙な私が一人になる、帰宅途中の車の中、布団に入った夜、父のことを必ず思い出す。いつになったら、泣かなくなれるんだろう。 忘れたい、忌々しい出来事だった入院。弱っていく父。 だけど、思い切って、私は、ホームページに綴ります。これも、父のたどった軌跡だから。そして、この病気について、正しい認識を持ってもらいたいから。 きっと、お父さんも、わかってくれると思う。 ね、お父さん。 |
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1、ことの起こり 毎年、秋に行っている定期検診だったが、父は、「今年は早く受けてみる」と言い出した。 前回の検診から半年しか経っていないのに「具合が悪いのでは・・・・?」という家族の心配があったが、 頑固な父は、そんな問いかけに、何も言わず、検診を受けた。 その結果、直腸に出来物があることが判明。人間ドッグの先生は、触診ですぐにわかったらしい。すぐに治療をするようにとのことであった。 父は、それほど落胆していなかった。もう、およその見当はついていたのかもしれない。きっと、何かしらの症状は出ていたのだろう。 |
2、変異 入院までの短い間、血便が多かったようだ。決して口には出さなかったようだが、排便後、大量の血液が 出ていたらしい。そういえば、もともと痩せていた父が、幾分か痩せてきたような感じだったし、食欲も少ない。 人間ドッグの前に母と父と兄、私の四人で温泉に行ったが、夕方の散歩をいやがった。「疲れた」としきりに言っていた。 |
平成8年7月中旬、父は初めて入院した。なんだか意気揚々としていた。病院の先生にも、 「だめなものは、取っちゃえばいいですよね。」笑顔で言っていた。家族もみんな、「これで治るよ!」と喜んでいた。 入院してすぐに大量の水分を摂らされ、腸内を空にして、精密検査をした。病名は本人に告げられた。 人工肛門、尿管をつけている親戚がいたこともあって、親戚が元気に生活をしている様子を語りに来てくれたおかげかもしれない。直腸、肛門、s字結腸を摘出することになり、人工肛門を左下腹に形成することになった。 落胆はしていたのかもしれないが、辛い顔さえしなかった。 |
4,入院生活と不安 手術は9時間かかった。長い長い手術の後、集中治療室に運ばれた父は、目を覚ましていた。 麻酔のせいだろうか・・・ちょっとおかしなことを口走っていたが、成功という知らせに、みんな喜んだ。 そして、すぐに、近親者2,3名が手術室に呼ばれ、切除部分を見せられ、説明を受けることになった。 私と母・・・兄は仕事でいなかった。人工肛門をつけているおじもエレベーターに乗って手術室に向かった。 どきどきして、逃げ出したかった。足が震えた。 こともあろうに、手術室の前まできたとき、私は逃げ出してしまった。がまんならなかった。 父の体なんか、一部なんか、見たくない。見たくない。「おい!おい!」と呼ぶ母とおじの声を背に、元の階にかけていってしまった。 それからしばらくして、泣き顔の母が帰ってきた。洗面器いっぱいの切除部分。カルデラのような悪性腫瘍。 ああ、見なくてよかった。父の体にできた憎きできもの。母は、一生忘れられないと震える声で言った。
それから、父は見事なまでの回復力を見せた。 しかし、初めての病院での入浴の時、あらわになった自分の人工肛門を鏡に映してみた父は、「なんで、こんな目に!」「ああ、俺はこんな体なんだ!」と嘆いた。「こんな体なんだ、障害者なんだ。お前、洗え、体を洗え!と母に怒鳴りつけた。母は、ただ、泣くだけだった。不憫な父。いらいらのはけ口が見つからなかったのだろう。 そこで、言わなければいいのに、私が、逆に怒ってしまった。「お父さん、お父さんはこれと一生つきあって行かなきゃならないんだよ!」「お母さんを攻めないいで!」「そんなんだったら、私、もう病院に来ない!」 と。私は、毎日行っていた病院通いを3日休んだ。 4日目に恐る恐る行った病室で、父はご機嫌だった。几帳面な父は、病院での食事のメニューを手帳に詳しく書き記し、写真まで撮っていた。始終冗談を言い、看護婦さんとも大きな声で笑って話をしていた。母の話だと、私が怒った後、一時しゅんとしてからというもの、決して弱音を吐かなくなったと。 退院間近には、悲しそうな顔までして名残惜しんでいた父だった。 |
平成8年、8月8日、晴れて退院となった。我が家に戻った父は、元気そのものだった。好きなお酒を飲んでは、ぐうぐう寝ていた父は、また、元の父に戻った。病院の先生にやめた方がいいと言われたたばこも、がんがん吸い始めた。 家のことは何もしない父。家族と出かけるのも大嫌いな父。平成10年3月まで勤めて、後は日曜日が毎日続いているような生活になった。でも、口癖は、「5年経つまであと○○年○ヶ月」だった。5年過ぎれば再発の心配はないと言われ続けていたから、異常なほどまでに心配していた。家族は、もう大丈夫だと安心していた。 なぜならば、毎月病院で検査して、異常がないことが、確認されていたのだ. |
6,再発 平成11年12月、父が目立って痩せてきた。食事も少なくなった12年、2000年のお正月は、おせち料理もほとんど食べず、疲れているようで、寝てばっかりになった。秋に尿の出が悪くなって精密検査を受けてきて、 何も異常がなかったから、さほど気にしてはいなかったのだが・・・。 平成12年1月下旬、いつもの1ヶ月検診で、リンパに転移していることが本人に告げられた。父は、非常に落胆していた。母もおろおろするばかりだった。尿の出が悪いのは、お腹の中のリンパが腫れて、尿管を圧迫していることがわかった。とにかく一日も早く尿管にステントを入れて、尿を出さなければならにということで、2月4日、ステントを入れる手術専門のB病院に入院した。 |
父は、荒れた。怒ってばかりいた。母に、私に、八つ当たりし、怒鳴り、母をぶった。母は落胆して泣くだけだった。「やめて!」と言い返すだけで、私は父をどうすることもできなかった。 このとき、あと1年もたないぐらいだと告げられた。病院のジュースを買いに母に連れられて、そこで告げられ、大声を出して泣いた。もう、病室へは戻れなかった。 車の中で、泣きながら泣きながら走った。大泣きした。生まれて初めてこんなに泣いた。それで、もう、これ以上涙が出なくなったとき、ぜか、父が食べたいと言っていたソフトクリームを買ってあげようと思った。 でも、どうやって病室に持っていくか・・・そこで私はどんぶりに入れて持っていった。 父は、「うへえ!」と言って驚いて、それからおいしそうに食べた。 車の中で泣いた分、元気でいようと決心したからだ。これから来る闘いに、負けてはいけないと思った。 |
8,抗ガン剤 ステントを入れる手術後は、三日ほどで人工肛門をつけたA病院に転院した。一日も早く抗ガン剤治療を始める ためだ。抗ガン剤治療は、5日間を8クール、間を3日空けて行った。うわさ通り、吐き気、頭痛、口の渇きが襲ってきた。父は、弱音を吐きながらもがんばった。髪の毛は抜けなかったし血色もそれほどわるくならなかった。 しかし、3月18日、突然の容態の悪化のため、家族が集まるように言われた。私も仕事を3日休み、不安な 時間を過ごした。父は白目をむき、意識不明になってしまった。ここ3日が危ないとされた。血圧低下、体温低下病室にたくさんの機械が持ち込まれた。 病室で泊まった3日間。だが、父は奇跡的に意識を少しずつ取り戻した。 |
9,その後 抗ガン剤を終えた後、一時的には良くなったものの、父はもう立てなくなっていた。歩くことをしなかったため 足は筋肉がそぎ落とされた。そして、24時間体制になって誰かが居ないとだめな状態になった。点滴の管を引っ張り、人工肛門のパウチをまき散らした。故意かぼけか、なにかわからなかった。確かに、もう、一人では置いておけない状況になってしまった。導尿管がつけられた。車椅子に乗ることにもなった。こうして、父は、少しずつ病状が悪化してきたのである。 今は、もう、口もきけなくなってきた。起きていても、ぼんやりするばかり・・・・。返事さえしない。 たまに小さな声で返事らしきことも言っている。夜中は点滴を取ろうとし、パウチをはがしはじめる。7月29日、一泊の外出で家に帰ることができた。最後の帰宅になると病院の先生は言った。血尿、血便がでたが、なんとか点滴をしながら家に連れて帰った。父は、何もわからなかった。 でも、これで良かったと思っている。 |
7月末記載 その後の詳細は日記にあります 最終章へ