LOVER 〜 Can't Stop Love
[後編]
「おはようございまーす! あれ? 音尾は?」
音尾の名前につい反応してしまい、声の方を見た。
いつもと同じ朝。遅刻ぎりぎりで息を弾ませながら飛び込んできた佐藤が、大泉に聞いていた。
「あれ? そういやまだ来てないなあ。休むって連絡も来てないけど……遅刻かな。」
辺りをきょろっと見回し、大泉が答える。
「そっか。遅刻ならいいんだけどさー。」
「? 何よ。何かあった?」
「うん。午後から使う書類、あいつ家に持ってってんのよ。休まれたらまずいからさ。」
聞かれた佐藤は小声になったが、俺の向かいの席で話しているから丸聞こえだ。
「ありゃー…。最近定時ばっかで上がってるかと思ったら…。何、あいつ持って帰ってたの? 仕事…。」
「そうなんだよ。会社じゃ集中できねえとか何とか言って。……それにさ。」
更に声が小さくなった佐藤と大泉に、思わず聞き耳を立ててしまう。
「あいつ最近何か変なんだよ。躁鬱激しいっていうか…外回りの車でもぼーっとしてて、俺の話聞いてねえし。」
「…そうかあ? 全然気ぃつかんかった…」
俺も、全く気が付かなかった。もっとも、必要以上に音尾と話もしなかったし、以前のように目で追うこともなかったから、当然かもしれない。ひょっとして……奥さんとうまくいってないんだろうか。
「ま、休みなら外回りついでにとってくりゃいいだけの話なんだけどね。後で電話してみるわ。」
そう言って佐藤は出掛けていき、大泉も仕事に取りかかった。
音尾のことはもう自分に関係ないと言い聞かせても……胸の中は、もやもやしていた。
音尾から連絡はないまま、昼休みになった。無断欠勤なんか出来るような人間じゃないだけに、流石に心配になる。
……が、電話をかけてみたところで、俺からだと分かればきっと出ないだろう。かといって会社の電話を使うのも姑息な気がするし……。
暫く悩んで、ふと佐藤のことを思いだした。もしかしたら音尾のところへ寄ったかもしれない。
そう思い、佐藤の携帯に電話した。
『はいもしもし。主任?』
何度目かのコールの後、少し慌てた声で佐藤が出た。
「悪いね、昼休みに。音尾君のことなんだけど…」
『丁度良かった〜。今、連絡しようと思っていたところなんです! 今音尾んちにいるんですけど、あいつ凄い熱なんすよ。それで電話も出来なかったみたいで。さっき医者呼んで診て貰って、今は眠ってますけど。』
「えっ……奥さんは? 音尾君一人だったのかい?」
『ええ、用事があって出掛けてるとかで、今日は帰らないらしいんです。一人じゃ飯も食えない状態だから、奥さんに連絡しようかと思ったんすけど、やめてくれって言うもんだから…』
困り果てた様子で佐藤が言った。
…………何かが変だと感じた。
「…分かった。今からすぐそっちに行くから、佐藤君は午後から仕事に戻ってくれ。」
音尾には迷惑がられるかもしれないが、心配だという気持ちが勝り、早退届を提出して音尾の家に向かった。
音尾の家へ着くと、佐藤が待ちかねたように顔を出した。
「すいません主任…わざわざ。」
「いや…書類の方は?」
「ああ、それはばっちり出てきました。」
書類の入った封筒をぴらぴらと振って見せた。
「それ、午後一で取引先に持ってくやつだろ? ここは引き受けるから、もう行ったほうがいい。昼飯も食ってないだろう?」
「はい…それじゃ、後頼みます。」
「あ、佐藤君。」
ぺこりと頭を下げて部屋を出ていこうとする佐藤を、呼び止めた。
「はい?」
「俺がここに来たことは、会社の連中には黙っててくれ。」
「……? はい……。じゃ、行きますね。」
「ああ、ご苦労さん。」
不思議そうな佐藤の顔を見て、余計な念押しをしてしまったかと後悔したが……早退理由に嘘を書いたので仕方がない。
馬鹿正直に“部下の見舞いの為”なんて、記入する訳にはいかなかったから。
初めて入った、音尾の暮らす部屋。子供が生まれるのを機に購入したという、3LDKのマンション。
『頑張ったなあ』って皆に言われて、『中古で安かったんだよ』と、照れ笑いしていたのを思い出す。
寝室へ行き、そっと寝顔を覗き込んだ。少しは息苦しそうだが、ぐっすり眠っている。
そっとドアを閉めリビングへ行くと、荒れ放題で驚いた。洗濯前なのか洗濯した後のものなのか分からない衣類に、ペットボトルやビールの缶、雑誌なんかが散乱している。
テーブルの上には食べかけのカップ麺やコンビニ弁当の器。
―――――――― 一日二日では、こうはならない。奥さんは、きっと出ていったままなんだ………。
あのとき音尾は、もうすぐ戻ってくると言っていたのに。
この惨状を放っては置けず、余計なことと責められるのを覚悟で、部屋の片付けを始めた。家で洗える衣類は洗濯機に放り込み、テーブルの上を片付けようとし、ふと何かの書類に目がとまった。
「…………………?」
手に取ってみて、目を疑った。それは、音尾だけの名前と印鑑が捺印された、………離婚届だった。
奥さんが出ていったときに、ヤケをおこして書いたものかもしれないが……それにしたって、奥さんがここに戻ってきたんなら、捨ててあってもいい筈だ。
やはり奥さんは帰ってきてはいない。
色々な考えが頭を巡ったが、そんなことは考えていても仕方がないので、片付けに専念することにした。
片付けを終わった頃には、日はとっぷりと暮れていた。飯の支度をしようと、冷蔵庫を開けみた。
…酒と、マヨネーズやケチャップなんかの調味料以外は何も入っていない。シンクの下や食器棚なんかを見ても、缶詰やインスタント食品、カップ麺の類ばかりで。
およそ病人の食事には使えないものばかりだった。辛うじて米はあったので、水を多めに入れて、炊飯ジャーをセットした。
買い出しに行こうとして、鍵のことに気付く。鍵がないと出入りできない。
音尾の眠る部屋に行き、ハンガーにかけてあるスーツのポケットを探った。思った通り、鍵はそこに入っていた。
音尾は眠っているらしいが、もう部屋は真っ暗で、表情は見えない。でも穏やかな寝息は聞こえてくるので、ほっとした。
「……シ…ゲぇ………?」
気配で目を覚ましたらしい。ドッキリしてしまったが、もう開き直るしかない。傍に行って、ベッドサイドに置いてある照明のスイッチを入れた。
俺を見て、音尾ははっと顔を強張らせた。
「…ど……して………」
「佐藤君から話を聞いてね。……文句なら元気になってから聞くから。何も食わないで寝てたんだろ? 買い出しに行ってくるから、おとなしく寝てな。」
わざと有無を言わせないきつい口調で言い、買い出しに出掛けた。
………初めて二人だけで飲みに言って、潰れた音尾を家に連れて帰ったときの事を思い出す。あのときも二日酔いの体を気遣って、胃に優しいものを作ったっけ。
適当な果物や野菜に、水分補給のためのスポーツドリンクやお茶を買って戻った。炊飯ジャーからは飯の炊けた匂いがしてる。
蓋を開けると、丁度いい具合の粥になってた。手早く野菜たっぷりの味噌汁をつくって、寝室に音尾の様子を見に行った。
音尾はまた寝入ってしまっていた。そっと頬に触れると、まだ結構熱い。
「…音尾。飯出来たぞ。」
ひと声かけて起きないようなら、そのまま寝かせておこうと思いつつ、小さく声をかけた。
音尾はうっすらと目を開けて、俺を見た。
「……食欲……ないです………」
「食欲なくても食わないと。薬飲めないだろ。起きれるか? ここに持ってきた方がいい?」
「……起きれます……」
掠れた声で小さく伝えた。起き上がろうとする音尾の背に、そっと手を廻した。………しっとりと熱が伝わる。こんな風に触れるのは久し振りだった。
音尾は多少ふらつきながらも起き上がり、ふうっと息を吐いた。
「……すみません……」
至近距離で頼り無げに微笑んだその表情に、胸の奥に押し隠していた感情が沸き上がる。
もう忘れよう、そう思って永遠に封印しようとしていた、“愛しい”と思う感情。
――――――――ダメだ。これ以上ここにいたら、取り返しのつかないことになる。
そう思い離れようとした俺の手を、音尾はきゅっと握ってきた。あまりに思いがけないことで、胸がとくん、と鳴った。
「……主任、……俺ね、あげられるものがあるんなら、何だってあなたにあげたかったんです………」
「………音尾?」
「でも、一緒にいたら奪うことしか出来なくなるって……気付いちゃったんです………だから………」
音尾が何を言っているのか、理解出来なかった。
「………式…今度の土曜、ですよね……もう………。幸せになって下さい……。主任が幸せになってくれなきゃ、俺………」
「…音尾…何が言いたいんだ……?」
問いには答えず、音尾はただ悲しそうに微笑みながら、顔を左右に振った。
「……音…」
音尾が何を言いたいのかが全く解らなくて――――――聞こうとした、その時。ポケットの携帯が、けたたましく鳴った。
…純子からだった。
寝室から出て、通話ボタンを押した。
『もしもし、顕ちゃん? 今どこ?』
「え? ……あっ………」
『まさか、忘れてるんじゃないでしょうねー?』
すっかり忘れていた。ホテル側と打ち合わせがあったんだっけ。
「ごめん、まだ会社。これからすぐそっち行くから。」
電話を切って、寝室へ戻った。
「ごめん音尾、もう行かないと……」
ほんとは、まだ話したいことがあった。でも。
「…はい、早く行ってあげて下さい……俺、大丈夫ですから。」
「…飯…ちゃんと食って、薬飲むんだぞ?」
「はい……。有り難う御座いました…。………さよなら………」
――――――――その『さよなら』は、頼り無げな笑顔と相まって……あの日屋上で聞いた別れの言葉よりも胸を締め付けた。
三十分遅刻ホテルに着き、打ち合わせを済ませた。純子と二人、ホテル近くのカフェに入って一息ついた。
「なんかね、実感ないのよねー……。不思議な感じ。幸せなのは勿論なんだけど。」
「…そうだね。準備でずっと忙しかったってのもあるし……きっとさ、式が終わって落ち着いたら、少しずつ実感湧いてくるんじゃないかな。」
「そうね。そうかも。」
二人して微笑み合って、これでいいんだと改めて納得する。三年付き合って、お互いのいいところ、悪いところもよく分かってて……喧嘩しても、その度にやっぱりこいつじゃなきゃダメだと、仲直りをして……そんなことを繰り返しながら、歩いてきた。これからも、きっと愛していける筈だ。
――――――式は明後日だ。引き返すことは出来ない。
……今はもう、純子を幸せにすることだけを考えよう………。
「…あ、ねえ、そういえば。」
アイスティーを一口飲んだ後、純子は何かを思いだした様子で顔を上げた。
「私、この前区役所で……ほら、あなたの会社の…昔、達子と付き合ってた……」
『達子』と聞いて。ドッキリする。
「………音尾?」
恐る恐る、その名を口にした。
「そうそう、音尾さん! 見かけたのよ。私、声かけようかと思ったんだけど…何だか元気なくて、ぼーっとしてて…。別に、じろじろ見た訳じゃないのよ? でも、目に付いちゃったのよね……手に持っていたの、離婚届だったんじゃないかしら。それで何となく、声かけづらくなっちゃったの。」
「………この前って…いつ? それ、窓口に出すとこ見たのか?」
「ううん。鞄にしまうところだったの。…っと…そう、月曜よ。月曜のお昼。」
「今週の?」
「ええ。」
昼間音尾の部屋で見た、離婚届けを思い出した。あれはそんな最近のものだったのか? ……奥さんとやり直す、近いうちに戻ってきてくれると言った音尾が、何で………?
「顕ちゃん? どうしたの?」
訝しげに呼ばれて、はっと我に返る。
「ああ、何でもない。いや…そんな話聞いてなかったからさ、びっくりして。」
「凄く子煩悩だって言ってたものね、顕ちゃん。」
「うん………」
………結局、話し合った結果はそういうことになっていたんだろうか。でもそれなら、奥さんの名前も、捺印もしたっていい筈だ。
………どういうことなんだろう。
翌日、金曜日。独身最後の日。早めに出勤すると、珍しく佐藤はもう来ていて、俺を見るなり寄ってきた。
「主任、昨日はどうも。助かりましたよ〜。」
「いや…どうせ近くに用があったあったしね。」
「心配だったんで、あいつに昨日の夜電話したんですよ。主任に良くしてもらったって言って、だいぶ楽そうな声してました。」
「…別に大したこともしてないけどね。今日は出て来れるかな。」
「あー…どうでしょうね…。無理すんなとは言ったんですけど。」
そんな会話をしているうちに、音尾から欠勤すると連絡が入っていた。俺は内心、ホッとしていた。
心配なのは勿論だが……………音尾の顔を見たら、間違いなく心れが乱れるから………。
昼休み、外で飯を済ませた後、缶コーヒー片手に会社の屋上に出てみた。とてもいい天気で、気持ちのいい風が吹いてる。
「主任。」
ぼんやりと遠くの景色を眺めていると、ふいに後ろから声をかけられた。…森崎部長だった。
「いい天気ですねえ。明日もこうだといいんですが。」
部長はそう言うと隣に来て、同じように遠くを眺めた。
「…そうですね……」
――――――――でも、気がかりなのは天気でも何でもない。………明日、あいつは出席出来るんだろうか。そして俺は……あいつの前で、笑うことが出来るだろうか………。
「………本当は迷ってるんでしょう、まだ。」
その言葉に驚いて、部長の顔を見た。部長は遠くを眺めたまま、言葉を続けた。
「最近、張り切ってたでしょう…仕事。吹っ切れたのかなあって思ってたんですよ。」
「……吹っ切るつもり…だったんです………」
見透かされているのは分かったから、そう言うしかなかった。
「……何かから必死に気持ちを逸らしているように感じましたよ。」
その『何か』が、何であるかは明白で。
視線を遠くの景色に戻し、またぼんやりと眺めた。穏やかな風が吹き抜けていく。
「…どの道が自分達にとって最前なのか…ずっと考え続けてきました…。それで出した答えの通りに、上手くやっていこうと努力してきたんです………」
なのに努力すればする程、虚しさばかりが増していく気がする。純子を愛しく思う気持ちだって本当の筈なのに、音尾の存在ばかりが心を占めていく。
目を逸らそうとすればする程、大きく。
「考えれば考える程、本当に好きなのかさえ分からなくなっていくんです……。ひょっとしたら、愛せないことが後ろめたくて、愛してるだと自分に自分自身に思い込ませようとしているだけなんじゃないかとか、もう引き返すことが出来ないところまで来てしまったから、これでいいんだと自分を納得させてるだけなんじゃないかって………」
正直、自分でも驚いた。ここまで素直に他人に本心を話してしまうなんて……。明日がいよいよ式だから、精神的にかなり逼迫してるって事なんだろうか。
「………重症ですねー……。私はそんな風になる前に逃げ出しちゃいましたからね。きっと、主任の方が私より真面目で優しいんですよ。」
黙って聞いていてくれた部長が、ぽつりと言った。
「…優柔不断なだけです。それに、自分の選択が間違っていた認めたくないだけなのかもしれない。」
「………好きな人、いるんですね? 違いますか。」
図星を指されて、言葉に詰まった。
「……主任。世界の終わりにはなりませんよ。」
「…は?」
「結婚やめても。…人の噂は尾ひれ背びれがついてついて大きくなるのが常ですし、暫くは会社でも親戚付き合いの中でも、色々形見の狭い思いするでしょうけどね。」
突拍子もないことを言われて、きょとんとしてしまった。
「むやみにやめろって言ってるんじゃないですよ。選択肢の一つとして、ね。」
「無茶苦茶言いますねー、部長…」
「人ごとですからね、所詮。」
悪戯っぽい笑みを浮かべた部長に、俺も自然と笑みがこぼれた。
お互い顔を見合わせて、あはは、と声を出して笑ってしまった。
「ああ、もうこんな時間だ。先に戻ってますよ。」
「はい。…有り難う御座いました。」
……きっと、悔いの残らない答えを見つけます。
去っていく部長の背中にそう誓って、俺は賭けてみることに決めた。
――――――――自分の、ときめく気持ちを信じて。
身支度を全て終え、控え室の窓から外を眺めた。昨日と同じ、良く晴れた青い空。
色々なことを昨日から思い出していた。純子との出会いや思い出。プロポーズしたときの笑顔。純子を紹介したときの、嬉しそうな親父とお袋の顔。
…………それから、音尾のこと。
『いい歳の男二人が一緒にいて、どんな未来があるっていうんです? 純子さんとなら幸せになれますよ』
『あげられるものがあるなら、何だって貴方にあげたかった。でも、一緒にいたら奪うことしか出来なくなるって、気付いちゃったんです……』
『幸せになって下さい。幸せになってくれなきゃ、俺………』
荒れ放題の部屋。音尾の名前しか記入されていなかった、離婚届。
………音尾。お前、本当は…………。
純子の仕度が終わったと声をかけられ、俺は新婦の控え室へと向かった。
「ほんとにいいご縁で……顕君は幸せねえ。」
「とても綺麗だわあ、純子さん。」
部屋の中からは親戚連中の声がしている。ノックして僕です、と告げると、皆気を遣って部屋を出ていった。窓からは溢れんばかりの光が差し込み、その光を背に、純子は立っていた。
純白のドレスに身を包んで。
「…顕ちゃん…」
幸せそうに微笑む純子は、今まで見た中で一番綺麗だった。
―――――――――――――――――――それなのに。
次の瞬間、俺は土下座していた。
「すまない、純子!!」
「えっ?! ちょっと、顕ちゃん??」
顔を上げると、純子は驚いて目を白黒させていた。
もう一度床に頭を擦り付けて、言った。
「俺、お前とは結婚出来ない! 本当にすまない!!」
「顕ちゃん?! 何言ってるの?!」
驚く純子に理由も告げず、俺は部屋を飛び出していた。自分のしていることは最低だと、よく分かっている。
―――――――でも、決めたから。自分のときめく気持ちに正直になろうと、信じようと決めたから。
廊下を走る俺を呼ぶ声が、後ろから聞こえたが…立ち止まりも振り返りもせず、ホテル前からタクシーに乗った。
タクシーを降り、マンションに駆け込む。エレベーターを使うのももどかしく、階段を駆け上がった。息が上がったままチャイムを押して、応答を待つ。
『はい?』
インターホン越しに聞こえる、音尾の声。愛しさと安堵感とがごちゃ混ぜになる。
「俺だ。頼む、開けてくれ。」
まるで祈るような気持ちで言った。…と、すぐにガチャリと鍵の開く音がして………音尾が顔を出した。
「……………」
音尾は俺を見ると、目を見開いたまま…何なら口も半開きのまま、固まってしまった。
「……音尾?」
「……あっ。」
おそるおそる声をかけると、はっとしたように声を上げた。
「あ…あんまりかっこ良かったんで……み…みとれちゃって…………」
顔も真っ赤で、吃りながら。そういやタキシードのままで来ちまったんだっけ。
「あっ、いや、そうじゃなくて! 何してんですか主任!! もうすぐ式の時間じゃ……俺も今出掛けるとこだったんですよ?」
見れば音尾も、びしっとスーツを着ていて。
「逃げてきた。」
「は?!」
「結婚出来ないって、逃げてきたんだ。」
音尾はぱっくりと口を開けたまま、俺を見てる。
「お前が奥さんとやり直すんでも、何でもいい。とにかく俺は、こんな気持ちのままで結婚出来ない。ここに来たのは……すまん、どうしても会いたかったんだ。」
玄関先でそんなやりとりをしていたら、上の住人らしき人が階段を下ってきた。大戸は俺の手を引っ張り、部屋の中に入れた。
「何? 何言ってんスか? 何なんですか、逃げてきたって! 今から戻れば間に合うでしょう? 早く行って下さい!!」
音尾の声は裏返っていた。……無理のないとは思う。俺だって、自分がここまで常識外れというか……滅茶苦茶な行動をとれる人間だとは、思ってなかったし。
「…純子の花嫁姿、凄く綺麗だったよ。でも、ときめかなかった。綺麗だと思っても、それ以上心が動かないんだよ。純子の花嫁姿見ながら、頭に浮かんだのはお前のことで……。俺、誰が大事か気付いたから……気付いた以上、純子とは結婚出来ない!!」
呆然としている音尾に、俺は続けて言った。
「……俺の思い上がりか? 音尾………。お前、俺の為にわざと………」
「………馬鹿なこと言うのはやめて下さい………」
音尾の見開かれていた瞳が細められ、唇を引き結んで下を向いた。―――――と、何かに気付いたように、音尾は俺の足の辺りをじっと見つめてる。その目線を辿っていくと、丁度俺の膝を見ているようで。
自分で全く気付いていなかったが、両膝の辺りが汚れてた。まあ汚いといっても、白い生地だから目立つって程度ではあったけど。
「あ、これ? 純子に土下座してきたからさ、多分そのとき……」
「……土下座…って………」
「結婚出来ない。すまないって。まあ、それで済む訳はないんだけど。」
音尾は眉をひそめ、切なそうに俺を見た。
「……どうして……そんな馬鹿なこと………。あんな綺麗な人と、普通に幸せになれるチャンスじゃないですか……皆にも祝福されて……」
「皆に祝福されたって、俺自身が幸せじゃないなら意味がない。……お前は俺が結婚して…本当に平気か?」
黙って俺を見つめる音尾の目が潤んでくるのが、はっきりと分かる。
「………俺………主任と過ごす週末が楽しくなっていって、このまんまじゃダメだって思いながらも、子供や妻のこと後回しにして……考えるのは主任のことばっかりになっていって…。純子さんがいるのに、それでも構わないなんて思って、ずるずる甘えるばっかで………。欲ばっか、でかくなっていって……」
ぼろぼろ零れる涙が、絨毯に綺麗な染みを作っていく。
「……妻子持ちで中途半端な俺なんかの為に、主任の将来をぶち壊すことになるなんて、絶対やだから……だから………」
ハンカチを取り出して、音尾の涙を拭った。そのまま抱き寄せてそっと髪を撫でた。
「…だから、嘘ついたのか? まだしてないんだろう? 話し合いなんて………。帰ってなんて、来てないんだろう……?」
腕の中で、こくりと頷いた。
「お前は確かに父親だからさ。これから、勿論話し合わなきゃならないだろうけど……。奥さんが本当にお前とやり直す気になってくれて、お前もそれが最善だと思うなら、そうすればいい。でも、もし駄目だったら……迷わず俺のところへおいで。」
「……そんな、都合のいいこと………」
「いいんだよ。それでいいんだ。お前、俺の幸せ考えて、身を引こうとしてくれただろう? 俺だって、お前には幸せになって欲しいと思ってる。だからさ………」
音尾を幸せにしてやりたい。………でも、その幸せが俺とは別のところにあるなら仕方ないとも思う。俺のエゴで音尾を縛り付けたり、傷付けたりしたくない。
…本当は、俺だけのものにしてしまいたかったけれど。
「……答えなんて自分の中では、もうとっくに出てます………」
涙声で小さく呟いた音尾は、俺の肩に伏せていた顔を上げ、俺を見た。
「……貴方が好きです……主任………」
音尾の口から初めて聞くその言葉を、咄嗟には理解出来なかった。今まで何度囁いても、返事なんか返ってこなかったから。
「音尾………?」
「主任が好きだって言ってくれる度、『俺も』って言いいそうになりました。でも、言っちゃいけないって我慢してました……。やっと言えます……。……好きです………」
どちらからともなく唇を重ね合った。柔らかい感触が伝わる。
―――――――好きって言葉や、軽く触れるだけのキスでこんなにドキドキするのは…………やっぱり、こいつだけだ………。
「音尾…、その……。……いいか?」
どうしようもなく音尾が欲しかった。暴走しそうになる気持ちを必死に押さえて聞いた。
音尾は恥ずかしそうに俯いた後、小さく頷いた。
寝室へ入ると、音尾はカーテンをひいた。遮光カーテンではなく、ごく普通の、光を通す優しいクリーム色のカーテンだ。
振り返った音尾の顔が赤く染まっているのが、はっきりと分かる。
真っ昼間からこんなことをするのは、初めてだった。そっと頬に触れて唇を重ね、きつく抱き締めた。
「…あ…の、主任……服………」
そのままベッドに押し倒さんばかりの勢いの俺に、音尾が怖ず怖ずと口を開いた。
「服……しわになっちゃいます………。ちゃんと脱いで、掛けとかないと………」
……俺の衣装のことをかんがえてのことなんだろうけど。ほんとはそんなこと、どうでも良かった。早く欲しくて、堪らなかったから。
でも、真っ赤にそんなことを言う音尾が可愛くて。
「……じゃあ、お前が先。」
そう言って音尾の上着を脱がせ、ネクタイを外した。Yシャツのボタンを外して、首筋に悪戯っぽく口付けながらシャツを脱がし、そのままベッドに押し倒した。
「主任…、あのっ………」
戸惑う音尾に答えず、ベルトに手を掛けた。するりとズボンを引き下ろすと、音尾は恥ずかしそうに顔を逸らした。
自分も脱いできっちりとハンガーに掛け、音尾の上に覆い被さる。
ランニングシャツの上から指先で肌を辿っていくと、それだけで音尾は息を乱していった。
「あ…あ…!」
胸に固くしこる突起を、指先で弄ぶ。過剰な程の反応が嬉しくて、そっと下肢に手をのばす。
内股を焦らすように掌で辿り、パンツの上から音尾自身に触れてみた。
「……っ………」
息を呑んだ音尾のそこは、既に湿り気を帯びていて、思わず笑みがこぼれた。
「…感じてくれてんだ……音尾………」
体を強張らせる音尾を、緊張を解くように抱き締め、口付けた。音尾は閉じていた目をゆっくりと開き、顔を赤くしたまま俺を見上げた。
「……な…んか、凄くヘンなんです………」
「? 変って?」
「…久し振りな…せいかもしれないんですけど……なんか……感じやすくて………」
戸惑って俺を見上げる顔が、可愛くて……嬉しい。
「じゃあ、感じたまんま出してみて……その方が嬉しいから………」
下着を脱がせ全裸にして、その引き締まった体を見つめた。
指先で辿り、口付けて…綺麗な肌に、どんどん朱を散らしていった。音尾はびくびくと震えながら、切なげな声を切れ切れに上げた。
「…あ…っ……主……任……………」
シーツを握っていた音尾の手を取り、きゅっと指を絡ませた。
「音尾……名前で呼んで……?」
言いながら胸の突起を口に含み、舌先で舐め上げて緩く噛んだ。
「あ、あっ…! や…すだ…さ………!」
そのまま徐々に愛撫を下の方へ移していき、先走りの蜜を零す音尾自身の先端を舐め上げ、頬張った。
「や……あっ……!!」
激しく乱れる呼吸と共に、甘い喘ぎ声が耳をくすぐる。身を捩る音尾の脚を、膝を立たせて開かせ、しっかりと抑え込んで、そこへ愛撫を繰り返した。
「んああっ…! やっ……!も………!!」
喉を反らせ髪を打ち振る姿を、上目遣いに見ながら――――――先端をきつく吸い上げた。
弓のようにしなった体が、ビクッ、と硬直する。
「あ、っ……!!――――――――っ……!!」
白濁した熱い液体が、音尾自身から吐き出された。それを全て飲み込んで、手で口許を拭って起き上がり、音尾を見下ろした。息を切らして激しく上下している胸。上気した顔と、涙をうっすらと滲ませる目尻。
愛しくて、脱力した体をぎゅっと抱き締めた。
「音尾……可愛いよ……。凄く…………」
耳元で囁くと、それにすらピクリと体を震わせる。
「少し……我慢してて………」
俺はまた体をずらし、音尾の脚をさっきよりも大きく開かせて膝裏を持ち上げ、胸に付く程深く折り曲げさせた。
「ひぁっ…! いや、あ、ああっ……!!」
音尾の奥まった部分の入り口に、唾液を絡ませた下を埋め込んだ。悲鳴じみた声を上げるのに構わず、そこを舌で掻き回し、唾液を流し込んでいく。
「あ…あっ……やだぁっ………安田…さ………」
「恥ずかしい…? 音尾………。全部、見えるよ………」
そこを充分潤ませて、指を埋め込んだ。傷付けないように、ゆっくりと……。
「んう…っ…!」
埋め込んだ指を、中を探るようにそっと動かし、抽挿を繰り返した。音尾は初め一瞬息を詰めたが、やがて甘い声を漏らし始めた。
「んあっ……やぁ…ん、…っすだ……さ………も……やあ…っ………」
涙を流してよがる姿が“もっと苛めて泣かせたい”という欲望を煽り、ヒクついて指を締め付け始めたそこから指を一旦引き抜き、もう一本指を増やして奥まで突き入れた。
「ぃ、やぁあああっ!! んぁ、あ……ああ……!!」
さっきイッたばかりの音尾自身は、また熱を持ち始めている。ぐちゅぐちゅと指を動かしながら、その先端を口に含んだ。
「!!いゃ…あ、もぉ……やあっ………!!」
音尾のシーツを握り締める両手の指先が、白くなっている。ここまで音尾が乱れたのは初めてで、俺の息も気付けば荒くなっていた。
「やばいよ…音尾……。見てるだけでイきそうだ……」
音尾自身を解放し、すっと指を引き抜いた。涙でぐしょぐしょになった顔で俺を見上げた音尾は、自分から唇を求めてきた。
「……や…すださ………してっ…………」
力の入らない腕を、俺の背中にそっと廻してねだってくる。――――――蕩けそうな表情で。
「…俺の方が……おかしくなりそうだ………」
もう一度口付けて、限界まで張り詰めた自身を、ゆっくりと音尾の中に埋め込んでいった。
「あ…あっ………」
喉を反らせ、眉を顰めながらも、音尾は艶っぽい喘ぎ声を漏らした。
脚を抱えて、ゆっくりと腰をグラインドさせていく。
「んぁっ……あ、あ………!」
「音尾………好きだ………」
――――――――誰にも渡したくない。絶対に…………。
胸に沸き上がる愛しさと欲望のままに音尾の内壁を掻き回し、突き上げていく。
ベッドのスプリングの音が、ギシギシと響いた。
「んああっ……!! あ、ああっ…! い…っ……!」
「音尾……ッ………!」
頭を振りたくる音尾に肌を密着させ、更に激しく突き上げる。音尾の内壁がじわじわとまとわりつき、締め付けてくる。
「ひ…ぁあああっ! やぁっ…!! も…ぉっ……!!」
「愛してるよ……音尾……!」
白く霞み始めた頭の中で、幸せにしたいのは音尾だけなのだと実感する。
「あ、あっ…!! や…すださ……! 俺も…っ………!!」
「っ…く……!…――――――――!!」
―――――音尾の中に欲望の全てを注ぎ込むのと、ほぼ同時に――――――――――音尾も頂点に達し、意識を手放していった。
息を整え、ぐったりと横たわる音尾を見つめた。手を伸ばし、そっとその頬に触れた。
………一緒にいたい。守りたい。幸せにしたい………。
凄く自然に、そう思える。祝福されるどころか、他人に話すことさえ出来ない関係でも………心の底から幸せだと思える。
「……………」
目を覚ました音尾が、ぼんやりと俺を見た。
「……主任…」
掠れた声で俺を呼び、少し照れたように微笑むその唇に、そっと口付けた。
「…ごめん。抑えきかなくて…」
かあっと音尾の顔が赤くなった。
「その…っ…、俺も……我慢、出来なくて……。ずっと…ほんとは、こうしたかったから……」
そう言いながら、尚も顔は赤くなっていく。
……ああもう…可愛過ぎて、またしたくなっちまう。
「俺は嬉しいよ?」
微笑んで音尾を抱き寄せた。音尾は、されるれがままに俺の胸元の辺りに顔を埋めた。
「………生きやすい道はいくらでもあるのに……。どうして…なんでしょうね……」
音尾はぽつりと呟いた。
「入社したときは…こんな風になるなんて、夢にも思わなかった……。…今は、絶対に失いたくないって……思います………」
「……俺もだよ……」
音尾の腕が、俺の背中に廻された。
「…結婚、決めたときはね……勿論、愛してましたよ…彼女のこと…。彼女ねえ、一人娘だったんです。…土下座して頼んだんですよ。『結婚させて下さい』って、彼女の両親に。俺、そん時はまだ稼ぎも少なかったし、とにかく父親に反対されましたよ……。でも、絶対幸せにしますって言って……最後には、許してくれました…」
何を話すつもりだろうと思いつつ、俺は黙って音尾の話を聞き続けた。
「そうやって結婚出来たのに、…二年後には浮気しちゃって。………人の気持ちは簡単に変わるんだなーって……。だから、主任のことも……すぐ諦められるだろうと思ってたんです……。でも、ダメでした……」
音尾の言っていることは、そのまま俺にも当てはまること。あんなに好きだった純子を、最悪の形で裏切って、音尾を選んだ。
―――――だけど音尾を思う気持ちは、いつまでも褪せないだろうと思うのだ。
「音尾……一緒にいよう? ずうっと一緒に…」
「………はい…。はい…、主任…………」
音尾の顔を覗き込んで、改めて気持ちを伝えた。
音尾の目は赤く潤んでいた。
「―――――――愛してる………」
――――――――その後。
迷惑をかけた人達のところへお詫びに廻り、勿論純子にも頭を下げた。金の問題は色々あったし、会社でもいろんな噂が飛び交い、後ろ指も指されたが………時間が経つにつれ、それもなくなっていった。
泣きまくり、怒りまくりだった純子も、新しい恋の相手を見つけたらしい。
………前向きな彼女なら、きっと今度こそ幸せになれるだろう。
音尾は話し合いに応じない奥さんに、例の離婚届を送ったと言った。子供の養育費や財産分与のことがあるし、一人で住むには広すぎるマンションはローンが残っている上、奥さんか離婚に応じるまでは売りにも出せないから、金銭的にはかなり厳しくなるかも………なんて冗談ぽく言っていたけど、俺は音尾が残りさえすれば、それでいい。
きっと、二人なら何があっても乗り越えていける。
………なんて、楽観的過ぎるかもしれないけど、本気でそう思う。
好きな人の為なら、何だって出来そうだって気持ち。もう長いこと忘れていた、そんな感情を思い出させてくれた。
………ときめいていたい。これからも、ずうっと………。
25版LOVER。ようやく後編までお目にかけることが出来ましたv
安田主任、色男ですね〜。
純子に土下座して琢ちゃんの元に駆けつける潔さがたまりませんv
だから純子も
『花婿に逃げられたわ〜!』
って叫ぶしかなかったわけですね(笑)
このシリーズ、まだ続きます。ちゃーんとワタクシの手元にはあります。
どうぞ気長にお待ち下さいませ。。。(土下座)