リセット



 事故に遭った琢ちゃんを病院へ搬送する救急車の中で、琢ちゃんの名前や住所、生年月日なんかを聞かれたが、ちゃんと答えたのか自分でも定かでない。まるで死人のように青白くなった琢ちゃんの顔を見つめながら、ただただ虚ろになっていく自分を感じていた。
琢ちゃんが運ばれた集中治療室の前で、壁にもたれてぼんやりと扉を見つめた。暫くして医師に呼ばれ、手術と輸血の同意書に記入したとき、初めて自分が震えていることに気付いた。情けないくらい、字がガタガタで。手術室へと運ばれていく琢ちゃんを見送った後、琢ちゃんの実家と社長に連絡をし、手術室近くの長椅子に腰を下ろした。


『顕ちゃん、俺ね…幸せだったよ』
『顕ちゃんに遇えて、好きになれて…幸せだったよ』
『顕ちゃん…ありがとう…』


今までどれだけ傷つけて、辛い思いをさせてきたか知れないのに、多分死を覚悟していたであろう琢ちゃんの、その口から発せられた言葉は優しかった。血塗れになりながら、微かに笑ってさえ見せた。―――――――それが辛かった。恨み言のひとつも言ってくれたら良かったのに。ほんの数時間前まで抱き締めた身体は、軽くて、細くて……ぽろぽろと涙を零しながら僕を受け入れ、縋りついた腕も頼り無くて、壊してしまうんじゃないかと怖くなるほどだった。食事も受け付けなくなるくらい胃を壊したきっかけは、僕の結婚。どちらを選ぶことも出来ず、ずるずると琢ちゃんと関係を持ち続けた所為だった。そこまで気付いていても尚、僕は琢ちゃんと別れられなかった。裁かれなければならないのは僕で、今回の事故だって、僕なんかといなければこんな目に遭わずに済んだかもしれない。僕だったら良かったんだ。僕が事故に遭っていれば。死ねば良かったんだ。
「安田君」
呼ばれて顔を上げると、社長が立っていた。
「…社長……」
「音尾くんは?」
「今、手術室に……。左半身、車に引っかけられて…アスファルトに叩きつけられたときに頭を強打したらしいんです…。出血も酷くて、かなり危険な状態だって…」
「そうか……」
普段感情を外に出さない社長も不安を隠せない様子で、僕の隣に腰を下ろした。
「お前、仕事は?」
聞かれて、すっかり忘れていたことに気付いた。
「あ…七時半集合です…でも…」
「じゃあもう行った方がいい。これから副社も来るし、何かあったら連絡するから。…心配だろうけど、仕事に穴あける訳にはいかないだろう?」
「……はい…分かってます…手術終わったら、連絡して下さい……お願いします…」
出来ることならずっとここにいたかった。でも仕事柄、そういう訳にもいかず……仕方無く仕事場へ向かうことにした。病院前からタクシーに乗り、はたと気付いた。裕次郎はどうしているだろう。琢ちゃんが意識を失いかけながら、餌の心配をしていた。
運転手さんに行き先の変更を告げ、琢ちゃんのアパートへと向かった。
 ドアノブを廻すと、鍵は開けっ放しだった。やはり戻って正解だった。明け方、琢ちゃんが出ていったことに気付かず寝ていたところを、裕次郎が凄い勢いで鳴いて、起こされて……普段はおとなしい猫なだけに、妙に胸騒ぎがして外へ走り出て、そのまんまだったんだ……。
部屋に入ると裕次郎が走り寄ってきた。甘えた声で何度も鳴き、僕の足元に擦り寄ってきた。抱き上げて、僕はその場にへたり込んだ。
「…ゆうじろう……ごめん……僕の所為なんだ………」
――――――僕はどうしたら償えるんだろうか。もし、もし琢ちゃんがこのまま死んでしまったら。考えて、背中にぞくりと寒気が走った。それを振り切るように、裕次郎を床に降ろして餌と水を用意した。
「後で又来るからさ。寂しいかもしれないけど、いい子にしてろな。……ごめんな…」
餌にがっつく裕次郎をそっと撫で、琢ちゃんの部屋を後にした。
 その日の仕事は身が入らず、自分的には最悪だった。仕事を終え、早々に仕事中切っておいた携帯の電源を入れると、手術が無事に終わったことを知らせるメッセージが、社長から入っていた。慌てて折り返し電話しそうになったが、病院内では携帯の電源を切っているだろうことに気付いて、真っ直ぐ病院へと向かった。
 病院に着くと、社長と副社がいた。二人とも表情が固い。思わず矢継ぎ早に質問を浴びせてしまった。
「音尾君は……?容態の方はどうなんですか?意識は……」
「意識は…まだ。手は尽くしたけど、予断を許さない状況だそうだ。…今、ご両親が来てる二人までしか面会が出来ないから、今日のところは我慢だな」
社長に肩をぽんと叩かれて、頷くのがやっとだった。
「大丈夫だよ。きっと大丈夫だから。…あんまり落ち込むなよ」
「…はい……」
「森崎君には連絡しといたから、大泉君と佐藤君にも伝わっていると思う。後で顔出すって言ってた」
 暫くして、琢ちゃんのご両親が集中治療室から出て来た。表情はやっぱり固くて、お母さんの目は赤く潤んでる。僕に気付いて、二人は深々と頭を下げた。
「安田さん…連絡して下さって有り難う御座いました…。色々、ご迷惑をおかけしてしまったようで……」
また深々と頭を下げられて、僕はうろたえた。
「そんな…僕はお礼を言って頂ける様なことは何も…。それより音尾君の様子は…?」
お母さんは弱々しく顔を横に振った。
「まだ麻酔で眠ってます…。顔色が真っ青で、…まるで、死んでいるみたいで……」
声を詰まらせたお母さんの肩に、お父さんがそっと手を置いた。あの子は昔から丈夫な子だったから、きっと大丈夫だと呟いて。
 ずっしりと重い気持ちを抱え、僕は病院を後にした。お父さん、お母さん。あなた方がお礼を言い、頭を下げた人間は、本当はとんでもない奴なんです。あなた方の大切な息子さんを傷つけて、ぼろぼろにした……僕の優柔不断さが、今回の事故を招いてしまったかもしれないんです。僕は……最低の人間です……。――――――琢ちゃん。どうか戻って来てほしい。そしたら、僕なんて無くなってもいい。なんだって君の望むようにする。死ねと言うなら、死んだっていい。どうか、償う術を僕に与えて欲しい……。




「安田、お前……飯ちゃんと食ってるか?」
仕事の切れ間、テレビ局の控え室で森崎さんが心配そうに聞いてきた。
「ん……食ってるよ、大丈夫」
事故から五日目。琢ちゃんはまだ意識を失ったままだった。ご両親の好意で、何度か集中治療室に入らせてもらえて、琢ちゃんを見舞ったが……痛々しい姿だった。左腕と左脚をギプスで固定され、頭は包帯で巻かれてて、右腕には注射や点滴の跡が幾つも残っていて。辛うじて顔色だけは赤みを取り戻し、その表情も穏やかだったのが救いだったが、琢ちゃんのそんな姿を見て、食欲なんて湧く筈も無く……せいぜい、家に帰ったときに無理矢理食べさせられるくらいで、ロケ弁なんて食べる気も起きなかった。
「…そうかぁ?ならいいけど、痩せたような気がしてな。……音尾も前に、食えてないくせに食ってる食ってるって言ってたからさあ……。心配かけたくないって気持ちは俺も分かるけど、頼むから変に気を使うのはやめてくれな?」
「うん、大丈夫だよ。有り難う」
本気で心配してくれてるのが、よく分かる。森崎さんだけじゃなく大泉も佐藤も、何かと僕を気遣ってくれていた。もちろん、社長も…。でも、優しくされればされる程、自責の念は大きくなり、胸に突き刺さった。
――――――不意に携帯が鳴り、思わず身体が強張った。社長からだった。まさか琢ちゃんに何か―――――そう思って、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもしっ…社長?!」
『たった今連絡が入って…音尾君の意識が戻ったそうだ。容態も安定してるから、一般病棟に移されることになったって。俺と副社はこれからすぐに向かうから』
良かったな、と言って社長は電話を切った。僕は実感が湧かなくて、ぼうっとしたままで……そんな僕の様子に、森崎さんは悪い知らせだと思ったらしく、恐る恐る僕の顔を覗き込んだ。
「…安田?社長、何だって?…何か…、悪い知らせか?」
…本当に実感が湧かないだけか…?何で、手放しで喜べないんだろう……?
「…いや……意識、戻ったって……。今から、一般病棟に移されるって……」
森崎さんの顔が、ぱあっと明るくなった。
「ほんとうかあぁ?!やったじゃん!!仕事終わったら俺らもすぐに行こうな!!」
「…うん」
自分で自分の感情が掴めなくて、僕は半ば呆然と返事をしたる


仕事が長引いて、病棟に駆けつけたときにはもう皆揃っていて、部屋からは笑い声まで漏れ聞こえていた。森崎さんに続いて部屋に入ると、皆が一斉にこっちを見た。
「ほら、音尾!安田来たぞ。リーダーも」
大泉がベッドの上の琢ちゃんに話しかけた。
「取ってつけたような言い方すんなよなー」
森崎さんは、わざと拗ねた口調でそう言うと、琢ちゃんの方へ促すように簿栗背中をそっと押した。
「安田、ほら!」
佐藤が焦れったそうに僕の手を引っ張った。琢ちゃんは僕の方へ頭を捻り僕を見上げた。そして笑った。とても穏やかに……。
「顕ちゃん…」
小さな声で、僕を呼んだ。切なさと愛しさと安堵と………申し訳なさとが、ごちゃ混ぜになる。言葉が出てこなかった。僕は、そっと手を伸ばして琢ちゃんの手を握った。弱々しく握り返してくる手の、確かな温もりに涙が出た。堰を切ったように流れ出した涙は、止まらなかった。立っていることも出来なくて、僕は床に跪いた。張り詰めていた糸が切れるのを感じた。
「…ごめんね、心配かけて……」
喋ろうとしても、やっぱり言葉は出てこなくて。君の意識が戻ったと聞いたとき、何故素直に喜べなかったのか、分かったよ。怖かったんだ。意識を取り戻した君が、どんな目で僕を見るのか、………怖かったんだ。
「…顕ちゃん…?!」
「安田?!」
――――――僕を呼ぶ声が、遠くから聞こえた。僕の意識は、そのまま闇の中に沈んでいった……。


ぼんやりと目を開けると見慣れない天井が視界に飛び込んできた。自分がどこにいるのか咄嗟に理解出来ず、周りを見回した。
「気ィついたか?」
社長と森崎さんが、ベッド脇の椅子に腰掛けてた。
「びっくりしたぞ?折角音尾が目ぇ醒ましたってのに、今度はお前が倒れんだもん」
森崎さんが溜息混じりに呟いた。
「ろくに眠ってなかったんだろ?音尾君も心配してたぞ?」
「……顔見た途端…気が抜けちゃって……。すいません…。皆は…?」
「面会時間過ぎたから帰したよ。音尾君の御両親も近くに宿とって休むって」
「そうですか……」
事故後に駆けつけてから今日まで、ずっと病院に泊まり込んでいたから、精神的にも肉体的にも僕なんかよりずっと疲れているだろう。
「森崎君にも帰るように言ったんだけどね、どうしても残るってきかなくてさ」
困ったように笑って言った社長の言葉に、森崎さんは口を尖らせた。
「どうせ俺は明日も仕事詰まってないし、心配だったんだからいいでしょう?」
社長は苦笑して、ごめんごめんなんて謝ってる。そんな二人のやりとりを見ていて、思わずつられて笑ってしまった。もう大丈夫だからと、迷惑をかけたことを謝って、二人には帰って貰った。家まで送ると言われたが、運転くらい出来るからと断った。裕次郎のことも気になっていたし、琢ちゃんも一般病棟に移ったから、色々必要なものも取ってきてあげたいと思った。それに……今は、何だか家に帰る気にもなれない。


裕次郎に餌をやり、洗面道具やタオル、下着なんかをまとめた。僕なんかがこんなことしなくても、もうお母さんが用意しちゃってるかもしれないけど……何かしたくて。
ふと、テーブルの上の薬の袋に気がついて、手に取った。多分胃薬だとは思うけど、一応持っていった方がいいだろうと思い、荷物の中に入れた。朝イチで持っていこうと思い、時計を見ると日付はとうに変わっていて、少しは寝ておこうとベッドに入ろうとして、止めた。琢ちゃんが事故に遭う前、二人が抱き合ったそのときのままの、乱れたシーツ。我儘どころか、寂しいとか一緒にいたいとかいう言葉さえも言わなかった琢ちゃんが、初めて『ひとりになりたくない』と言って泣いた、あの夜。身勝手で卑怯な僕を一言も責めず、今までどれだけの言葉を飲み込んできたのだろうと思い知らされた。
………初めて琢ちゃんを抱いたのもここだった。ずっと仲良しで、酒飲んでは馬鹿話して。いつものようにふざけ合って交わしたキスが、僕の理性を砕いた。将来を約束した彼女がいるのに、琢ちゃんを自分のものにしたい衝動にかられ、気が付いたら押し倒していた。本当はずっとそうしたかったのに、そんな感情を否定し続けてきた自分に気付いてしまった。琢ちゃんは少しだけ眉を顰めて僕を見上げた後、何かを諦めたように何も言わずに目を閉じた。微かに震える身体を抱き締め、愛撫を繰り返しながら、漠然と―――――『終わりだ』と思った…。
そうして僕は、どちらを選ぶことも出来ないまま、彼女との約束を果たし………琢ちゃんが拒まないのをいいことに、ずるずると関係を続けた。以前、彼女に言われたことがある。まだ、琢ちゃんへの感情を自覚していなかった頃だ。

『もし音尾君が女の子だったら、貴方はどっちを選ぶのかしらね』

言われたそのときは意味が分からなかった。大切な友人の琢ちゃんと、彼女とを同じ秤にかけるなんて、考えもしなかった。――――――でも、今は。僕は……。



 数日が過ぎた。仕事の前後や合間に、僕も皆もこまめに琢ちゃんを見舞った。琢ちゃんは左腕と脚をギプスで固定されたままで辛そうだったが、ベッドを少し起こして座れるくらいにはなってた。
「あれ?お母さんは?」
夕方のレギュラー番組の出演を終え、面会時間を気にしつつ急いで病院に駆けつけると、いつも付き添っているお母さんの姿が無い。
「あ、顕ちゃん…仕事終わったの?今日はもうホテルに帰って貰ったんだ。もともと完全看護だしさ、疲れてるだろうし。もう旭川に帰ってもいいって言ったんだけどさあ」
「…そっか」
こんな身体で気を遣うことないのにと思いつつも、優しい琢ちゃんらしいとも思う。
「利き腕が無事だったのが不幸中の幸いかなー…飯も自分で食えるし」
「…飯…ちゃんと食ってる?」
「んー…、まだお粥とか、汁物ばっかだけどね。ああ、でもちょっと胃がね…シクシク痛くなることがあるから、今度検査することになっちゃって」
事故前の琢ちゃんの状態を考えれば、ああ、やっぱり…って感じだった。今は胃に負担にならなそうな食事だから、まだいいかもしれないけど。
「そうだ、こないだ持ってきた荷物にさ、薬も入れといたんだけど見た?あれって胃薬でしょ?」
僕の言葉に、琢ちゃんははて?って感じで首を傾げた。
「…あ、あー…あれねえ。看護婦さんに見せたら胃の薬だって言われたんだけど……あれ、ほんとに俺の?覚えがないんだよね…あの病院も」
「…覚えがないって……だって胃カメラやったんでしょ?週一で血管注射もしなきゃなんないって言ってたじゃない。胃炎だって」
「…何それ……何の話?胃カメラとか血管注射とか、知らないよ?そんなの」
琢ちゃんは困惑した様子で。僕も訳が分からなくて、言葉をなくした。
「…だって…胃を壊して飯もろくに食えなくて…。だから琢ちゃんちで僕が作ったり、買って持ってったり……」
「……え……?そんなの………知らないよ……?」
冗談で言ってるんじゃないのは、琢ちゃんを見てれば分かる。―――――――何で。まだ一ヶ月経つか経たないかの筈だ。もう忘れているのか……?何かおかしい。
困惑した表情のまま、琢ちゃんは黙り込んでしまい……やがてゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
「……顕ちゃん……、俺……事故の時のこと、覚えてないんだ……。母さんから聞いたんだけど、家に連絡してくれたのも、ここに運ばれるとき付き添っててくれたのも、…顕ちゃんなんでしょ?……先生がね、……記憶障害じゃないかって……それもね、今度検査するんだって……」
淡々と、寂しそうに――――――――琢ちゃんが言った。



 それから毎日、少しずつ色々話したり、大泉や佐藤達と一緒に見舞いに行くうち、僕は気付いた。事故の直前までこなした仕事のことは覚えてる。他の人となら会話だってちゃんと噛み合ってる。けど、僕と関わった仕事やプライベートの事になると、途端に口籠もったり、忘れていたり。決定的だったのは、僕の結婚のことさえ覚えていなかったこと。僕が初めて琢ちゃんを抱いたあたりから、現在までの―――――僕との記憶だけが、琢ちゃんの中から消えていた。話には聞いたことがあるるあまりに悲しみや苦しみが大きいと、自己防衛の本能で、その記憶を消し去ってしまうって。琢ちゃんは思い出せないことに焦りを感じて、事故の前後のことや僕と過ごした日のことなんかを、しきりに僕に聞いてきたが……僕は言葉を濁して、誤魔化した。……今の琢ちゃんは、僕が汚してしまう前の、綺麗な琢ちゃんだから。僕との間にあったことを話したところで、ますます混乱を招いてしまうだけだし、自ら消してしまう程辛かった記憶なら、戻らない方がいい。琢ちゃんのことを思えば、きっとそれが一番いい。けど僕の胸には、重たいのに虚ろな、形容しがたい感情がのしかかった。

「安田さん」
面会時間も終わり、帰ろうと外来のロビーを横切ったとき、ふいに呼び止められた。振り返ると、藤尾が長椅子に座っていた。
「…藤尾…いつ来たんだ?もう顔出したのか?」
「いえ、安田さんの声がしたんで遠慮しました」
その言葉が引っ掛かって藤尾を見ると、藤尾はさして気にする風でもなく、手に持っていた缶コーヒーをぐびっと飲んだ。
「座りませんか?」
消灯時間が近付いたロビーには人影もまばらだったので、おとなしく隣に腰を下ろした。
「…なんで遠慮なんかすんだよ。折角来たんだろ」
「僕がいたら、話しづらいかと思ったんで……」
―――――そうだ。こいつは気付いているんだった。僕と琢ちゃんの関係に…。
「……いつ気付いた?俺達のこと」
下を向いたまま、藤尾は黙り込んだ。そして暫く考え込んだ後、口を開いた。
「いつって言うのは覚えてないです……ただ、二人の間の雰囲気っていうか、空気が……微妙に前と違ってきてるような気がしたんですよね。それで、ああ、そうなのかなって…。でも安田さん、いきなり結婚しちゃったから、思い違いかなって思ったんですよ?…だけどそれから音尾さんの様子が何かおかしくて…そのうち体壊しちゃったでしょう」
思っていたより勘のいい藤尾に驚きつつ、納得も出来た。テレビ局で僕に食ってかかってきたときの、こいつの言葉。琢ちゃんを好きだと言っているようなものだった。
「…気に食わないだろ、俺のこと…」
「……嫉妬はしてました。…二人には二人の事情があるんだって分かってても、…痩せてく音尾さん見てたら堪らなくなって…。この前はすいませんでした…」
藤尾がぺこりと頭を下げた。正直、そんなことされたら却って惨めになってしまう。今僕を責められるのは、藤尾しかいない。僕と琢ちゃんのことを知ってる藤尾にくらい、憎まれ口を叩いて欲しかった。
「藤尾、俺さ……血塗れになった琢ちゃん見たとき、一番大事なものが何か…分かった。だから、琢ちゃんの望むことなら何だってしよう、償おうって決めたんだ。……でも、叶いそうにないみたいなんだ」
「…安田さん?」
「覚えてないんだよ。…俺とそういう関係だったこと」
改めて口に出して、胸が苦しくなった。
「……どういう……ことですか?だって、僕がこの前音尾さんと話したときは、皆さんのことだってちゃんと覚えてて、仕事のことだって……」
「…俺とそういう関係になってからの、俺に関することだけなんだよ……忘れてるのは」
「そんな…そんなことって、あるんですか…?」
信じられないって口調……当たり前だよな…。
「…限界だったんだと思う……忘れないと、生きていけないくらいさ。…それだけ、辛い思いさせてたんだ…俺」
藤尾はまた黙ってしまった。何か言わなければって、言葉を探してるのが伝わってきた。
「済まないな、こんなこと聞いてもらって。ま、そういうことだからさ…余計な気は廻さないで、琢ちゃんのとこに顔出してやってくれ。…じゃあな」
立ち上がり、黙ったままの藤尾に背を向けて、玄関へ歩き出した。
「安田さん」
呼び止められて、振り返らず、ただ立ち止まった。
「辛いだけだと思いますか?…安田さんといて、音尾さんは……辛いだけだったって……それだけだったって、思ってるんですか?」
切なげな藤尾の問いには答えず、僕は病院を後にした。――――――そう思いたくはない。でも、そう思わざるをえない。意識を失う前の言葉は、琢ちゃんの精一杯の優しさだったんだろう……。
車のエンジンをかけ、琢ちゃんのアパートに向かった。事故のあった日以来日課になってしまった、裕次郎の世話の為に。今の僕が琢ちゃんの為に出来ることは、これくらいしかなかった。毎日通うより、自分の家に連れていこうかと考えもしたが、何だかそれも可哀相で止めた。皆には驚かれてしまったが、日課になってしまうと、さほど苦でもなく……何より裕次郎は、僕に琢ちゃんの事故のことを教えてくれた。琢ちゃんに代わって、大事にしてあげたかった。


 「あー、安田昨日と同じ服。また泊まったのか?音尾のアパート」
馴染みのテレビ局の控え室で、大泉が目敏く気が付き指摘してきた。
「ん…遅くなっちゃったからさあ、面倒臭くなっちやって…」
「…お前さあ……、自分の体のことも…ちゃんと考えろよ」
大泉らしからぬ優しい言葉に、驚いた。
「…何だよ。そのキツネにつままれたようなツラは」
余程顔に出してしまったらしく、大泉は不満そうに口を尖らせた。
「いやあ、僕も焼きが回ったなって思って…。大泉君に心配されるなんてねえ」
ちょっぴり皮肉混じりに答えた俺の頭を、大泉は持っていた台本でポコッと殴ってきた。
「何だよぉ。人が心配してやってるのにー」
俺等のやりとりを、森崎さんや佐藤が苦笑してみてる。
「でもさあ、ホント冗談抜きで、無理すんなよ安顕」
「ほんとだよ…。お前、この前なんてマジで焦ったんだから!今お前にまで倒れられたら、どうするのよ俺ら」
佐藤と森崎さんが口々に言った。
「大丈夫だよ、そんな無茶はしてないし」
お前の大丈夫はあてにならないとかなんとか、森崎さんはぶつくさ言っていたが……僕は聞こえないフリをした。皆の優しさが、有り難くもあり、……やっぱり、辛かった。
「あのー、安田さん、ちょっといいです?」
少し離れた場所で俺達のやりとりを見ていた藤尾が、僕を控え室の外に誘い出した。昨日のこともあったので、琢ちゃん絡みの話でもあるんだろうと、誰にも聞かれないよう、使われていない会議室へ入った。
「どうたんだよ?」
藤尾は深刻そうな顔で下を向いたまま黙っていたが、やがて口を開いた。
「…今朝、音尾さんのとこに行って来ました。元気そうにしてましたよ」
それだけ言って、また黙ってしまった。
「…で?話はそれだけじゃないんだろ?何かあったか?」
「…昨日、安田さんが言ってたこと……半信半疑だったんで、試しに聞いてみたんですよ。飯のこと覚えてますかって」
「飯って?」
「音尾さんが胃を壊して倒れかけたとき、偶然そこに居合わせたんで…僕が病院に付き添ったんです。で、今度飯奢るよって言われて、約束してたんですけど……」
それは初耳だった。自分勝手だと分かっているが、面白くなかった。約束に対してではない。琢ちゃんが倒れたことを知らなかった自分が悔しかった。
「それ、いつ頃だ?」
「えっと……ああ、旅コミのロケがあったって言ってました。焼肉店巡りの」
――――――ってことは。ラジオの収録に来なかった、あの日だ。皆で琢ちゃんの携帯にかけまくったのに、全然出なかったあの日。何だかとても心配で、琢ちゃんのアパートの前で帰りを待ったあの日だ。前の仕事が押してたなんて、やっぱり嘘だったんだ……。
「安田さん?」
訝しげに呼ばれて、はっと我に返った。
「ああ、ごめん……で、その約束は?」
「覚えてないみたいでした。きょとんとした顔してて…。混乱させたくなかったんで、その後適当に誤魔化して来ちゃいましたけど…僕と病院行ったことも覚えてないようで…。なのに、その日のロケのことはなんとなく覚えてるみたいなんですよね」
こんなこと本当にあるんですねと寂しそうに呟いて、藤尾は俯いた。
「…昨日、お前が言ってたこと……考えてみたんだ、あれから。でもやっぱり、…俺には分からない。何一つ与えてあげられなかったとしか…思えないんだ。…見舞いに行くとさ、凄く嬉しそうに無邪気に笑うんだよ。俺、昔っからその笑顔、大好きだったんだ。なのに付き合い始めてから、全然そんな顔しなくなってた…。だから、前みたいに明るく笑う琢ちゃん見てて、これで良かったのかなって……。リセットして、琢ちゃん自身が幸せになるんなら、これで良かったんじゃないかって……思う……」
黙って話を聞いていた藤尾が、ぱっと顔を上げて僕を見た。
「いいんですか?それで……」
「…都合良く聞こえるだろ?琢ちゃんが俺のこと忘れて、そのお陰で俺は今まで通り結婚生活を続けられる。―――――――――そんな風にとられても仕方ない」
自嘲気味に笑った僕を、藤尾はどこか寂しそうな顔で見てる。
「…そんな風には思いません…。安田さん……一番大切なものに気付いたって言ったじゃないですか……それ、なくしたままでいいんですか…?」
「…いいんだよ。俺のことはもう…。……ほら、そろそろ戻らないと」
半ば強制的に話を終わらせ、皆に怒られるぞと藤尾を促し、会議室を出た。




 事故から数週間が経ち、琢ちゃんのギプスが取れる日も近付いたある日、いつものように仕事を終えて、面会時間ギリギリに病院に駆け込んだ。
「あ、今日はもう来ないのかと思ってた」
ベッドを起こして雑誌を広げていた琢ちゃんが、僕を見て嬉しそうに笑った。が、目が赤くていつもと様子が違う気がした。
「……何かあった?」
「ううん、何も。何で?」
気にはなったけど、琢ちゃんがあまりにもあっけらかんと答えたので、それ以上聞くのは止めた。
「いや……ならいいんだけど。そうだ、プリン食べる?差し入れで貰ったんだ」
「食べる食べるv」
紙袋から取り出して手渡そうとして、片手じゃ不便なことにはたと気付く。蓋をはがして琢ちゃんを見ると、雛鳥みたいにぱかっと口を開けて待ってた。
「ほーらぁ、早く早くぅv」
思わず吹き出してしまった僕に、琢ちゃんは可愛らしくおねだりしてきた。可笑しくて、震える手でスプーンを握って、琢ちゃんの口許にプリンを運んだ。
「美味しい?」
「美味しーいv ここでもね、ゼリーとかヨーグルトなんかは出るんだけどさあ、イマイチなんだよね」
せがまれて、せっせと口に運んであげて、あっという間に平らげてしまった琢ちゃんは満足そうな顔をしてる。残りのプリンをベッド脇に備え付けてある冷蔵庫にしまい、琢ちゃんの顔を見ると口許が汚れていたので、ウェットティッシュを一枚取り出した。
「あ、ついてた?」
「うん、ちょっとね」
言いながら口許を拭いてやって、ふと……視線が合わさった。こんな至近距離で顔を見たのは、最後に抱いた……あの日以来だった。穏やかに澄んだ目は、僕が与えた痛みなんてかけらも覚えていない。堪らなくて目を逸らし、立ち上がった。
「…そろそろ時間だね。食欲は旺盛みたいで安心したよ。この分だと復帰も早いかな?」
「―――――――…………」
上着をはおり、帰り支度をしながら言った言葉に、返事は無く……振り返って琢ちゃんを見た。琢ちゃんは視線を下に向けたまま―――――――目に涙をためていた。
「………琢ちゃん?!」
体を震わせて、ぼろぼろ涙を零し始めた琢ちゃんに驚いて、傍らに戻り、琢ちゃんの肩に手をかけて顔を覗き込んだ。
「どうしたの?…やっぱり何か、あったんだね?」
最初に感じた違和感は、やはり思い違いではなかったようで……琢ちゃんは切なそうに僕を見た。小さく呟かれた言葉に、僕は耳を疑った。
「――――――駄目かも…しれないんだ……俺………」
「…駄目って……何のこと………?」
琢ちゃんの右手が、掛け布団をぎゅっと握り締めた。
「先生に言われたんだ……腕も、脚も…前みたいに動かせなくなるかもしれないって……日常生活にはさほど支障ないけど、仕事に復帰するのは無理かもしれないって……!!」
言葉が出て来なかった。“どうして ”という言葉だけが頭の中を駆け巡り、琢ちゃんをきつく抱き寄せた。
「怖いよ……顕ちゃん……俺、どうしたら……!」
「……大丈夫だよ…、きっと大丈夫。リハビリ次第できっと良くなるよ…!」
宥めるように背中をさすりながら、まるで自分に言い聞かせるように、大丈夫だと繰り返した。
 もう面会時間はとうに過ぎ、消灯時間も近付いていたが、せめて眠るまで傍にいてあげたくて、許可を貰って琢ちゃんに付き添った。
「…ごめんね……俺、誰にも言わないつもりだったのに……顕ちゃんの顔見たら我慢出来なくなっちゃって……」
落ち着きを取り戻した琢ちゃんが、申し訳なさそうに呟いた。
「こういうときは遠慮しちゃ駄目だよ。聞いてあげるしか出来ないけど、一人で抱え込むよりきっとずっといい…。眠るまでここにいるね?」
「うん……顕ちゃん、さっきのこと、頼むから皆には黙っててね」
「言わないよ。約束する」
僕の言葉に安心したかのように、微笑んで目を瞑った琢ちゃんの手を、そっと握ってもう一度言った。
「絶対治るよ…大丈夫だから……傍にいるからね……」
やがて穏やかな寝息を立て始めた琢ちゃんの寝顔を見届け、手をそうっと離して布団を掛け直した。
――――――守りたいと思った。過去をリセットし、真っ白なままの琢ちゃんに戻れたのなら……君への思いと僕達の過去は、一生僕の中に閉じ込めて……二度と君を汚すまい、傷つけまいと。



 それから数日が経ち、琢ちゃんのギプスは取れた。医師に言われていたように、やはり腕も脚も自分の思うようには動かせず……そのときの落胆ぶりは、見ているこっちが辛くなるほどだった。が、その後の琢ちゃんは決して諦めず、コツコツとリハビリに励んだ。そして少しずつではあったが、回復の兆しが見えはじめ……琢ちゃんも徐々に明るさを取り戻していった。
 「先生がね、驚いてたんだ。凄い回復力だって」
嬉しそうに話す琢ちゃんが嬉しくて、僕もつられて笑った。
「だからって、あんまり調子に乗り過ぎないようにね。焦りは禁物だよ?」
「大丈夫だよ、ちゃんと言われた通りにやってるから」
リハビリが始まったばかりのとき、琢ちゃんに内緒で、一度だけこっそりと覗いたことがある。思い通りにならない体に焦り、苛立ち……悔し涙を零しながらも賢明に頑張る姿が、そこにはあった。恐らく、誰にも見られたくなかったであろう姿を見てしまったことを、僕は後悔した。そっとその場を離れ、琢ちゃんの病室へ戻って程なく、琢ちゃんが車椅子で戻ってきて。明らかに作り笑いの顔で、空元気出してて……覗いてたところを見つからなくて良かった、とつくづく思ったものだった。
「顕ちゃん」
真剣な声で呼ばれて、琢ちゃんを見た。
「…ありがとね」
琢ちゃんは少し照れ臭そうに微笑んで言った。
「…何だよいきなり…。礼を言われるようなことなんて、してないよ?」
突然のことに驚いてそう言った僕に、琢ちゃんは顔を横に振った。
「ううん…。してもらったよ、いっぱい。……俺さ、顕ちゃんが所帯持ったってのに、図々しく甘えちゃって…。新婚さんなのに、奥さんに申し訳なくてさ。家に帰らない日もあったでしょ?俺がこんなこと言うのも変かもしれないけど、大事にしてあげてね?俺、もう大丈夫だから…」
…………琢ちゃんの言葉は、僕の胸を締め付けた。僕との記憶を消し去って尚、以前と同じように気を遣う。

『帰らなくていいの?』『遅くなるって連絡したの?』

琢ちゃんの部屋へ行ったときや抱き合った後、いつもいつも言っていた言葉。振り回していたのは僕なのに、彼女に遠慮ばかりして、恨み言の一つも言わずに…………。
「…顕ちゃん、どしたの?」
黙ってしまった僕の顔を、琢ちゃんは不思議そうに覗き込んできた。
「…いや、何でもない。何日も顔合わさないのは仕事柄ザラなんだし、琢ちゃんこそ余計な気は遣わないでよ」
笑顔で取り繕い、じゃあ今日は早めに帰るねと、病室を後にした。



 言ってしまいたかった。好きだから、傍にいたいのだと。抱き締めて、もう絶対に辛い思いはさせないと。でも、それは絶対に許されないことで。
――――――琢ちゃん。一番大切な、琢ちゃん。君を愛してるよ……。だから僕との過去なんて、絶対に思い出しちゃいけない。君は、今度こそ幸せにならなきゃいけない。その為なら僕は、何だってするよ……。



END
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