■彼の呼び名■
 久しぶりに、昼日中のまだ明るい時間に木場が神保町へ顔を出すと、探偵は例の如く厭味な程長い足を机に乗せて、爆睡している最中だった。
 神保町でも中野でも、行き会った時に起きていた例しが殆どない。そんなものだと思っていたが、流石に最近は何か悪い病気ではないかと、木場も疑い始めている。

「おや、旦那、お珍しいですね。こんな時間に」
 探偵事務所で書生のような仕事をしている青年が、明るく木場に話しかけた。
 此処で唯一看板通りの仕事をしていると思われる益田と云う青年も、暇なのか客のような態(なり)で応接のソファに端座っていた。
「仕事でこっちの方に用があったんでな。一寸、顔を見に寄ったんだ」
 柏水堂で買ってきた菓子の箱を、和寅に掲げて見せる。
 カステラを洋酒に浸したようなよく知らない菓子だが、こう云う水気の多い物は探偵が好きだろうと思ったから、近くに来た時不意に思いついて店に寄った。

 木場は机の側まで行き、眠っている榎木津の顔を覗き込んだ。
 横にすると目を閉じる、外国の人形のようだ。陶磁器のような肌は、乱暴な性格だと云うのに、この歳になっても瑕ひとつない。
 こうしていると、子供の頃と変わらないと思う。昔も戦争ごっこの最中に、作戦参謀などと云う重要な役だったにも拘わらず、榎木津は度度眠り込んでいた。
 高い処が好きでよくそこから指示を出していたが、暫く静かだと思って見に行くと、必ず寝入っていた。あの頃の平和な顔と、今の寝顔は然程変わらない。
 額に落ちている前髪を退けてやろうと手を伸ばした時に、不意に榎木津が目を開いた。
 元元薄い鳶色の瞳が、今日はまた格別薄く見えた。
 何故か不穏な気持ちがして、木場が何事か問おうとすると、榎木津はまるで先手を打つように微笑んだ。
「ああ、修ちゃんだ」
 そして、うっとりと目を細める。薄い鳶色は隠れて見えなくなった。
「善い匂いがするぞ?」
 それが菓子のことだと気づいて、木場は目の前に箱を置いてやった。
「柏水堂だな。どうした、洒落たことをするな」
 そう云い乍ら、嬉しそうに紐を解こうとするが、長い指は存外不器用なのか、巧く解くことが出来ない。木場が手伝って、箱を開けてやった。
 箱に鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、榎木津は突如(いきなり)手で食べ始めた。育ちはいい筈なのに、時時こう云う邪気のないことをする。
「おいおい、匙みたいなのがついてなかったか?」
 呆れて止めようとしたが、一心に食べる様子が子供のようで可愛らしく、木場は苦笑して伸ばしかけた手を引いた。
「美味いか?」
「勿論だ!」
「そうか。なら、好きなだけ喰え」
 そう云って木場は机を離れると、ソファに上着を置き、益田の向かいに腰を下ろした。

「旦那は召し上がらないんですか?」
 木場に茶を運び乍ら、和寅は云った。
「俺はいいよ。甘い物は苦手なんだ」
「ご自分の食べない物を与えて、喜んでいるなんて人が悪いですよ。うちの先生は犬っころじゃないんですから」
「そう云うつもりじゃ……」
 意外なことを云われて、木場は鼻白んだ。
 そんなつもりはなかったが、慥かにそんな風にも見える気がする。食べるところを見たら、可愛いだろうと思ったのだ。それで珍しく、菓子などを買って来た。
 苦い顔をする木場を、益田は正面から覗き込んで、物云いたげに首を傾げた。何だ、と促すと、いえね、と思わせぶりに云い淀む。
「木場さんも、現金だなあと思いまして……」
 長髪の青年は、けけけけと鳥のような笑い声を上げた。
「現金?」
「だって、今までは此方に酒を飲みに来るのだって、手土産ひとつ持って来たことがないじゃないですか。それが、自分の女になった途端、喜びそうな物を買い与えるってのはねえ……。いや、釣った魚に餌をやらないような輩よりは、いくらもマシですがね」
「そんなんじゃない。それに、女とか云うな」
 木場は、凶暴な顔になって益田を睨みつけた。
 厭なことを云う男だと思った。木場は益田があまり得意ではない。矮小な人間だと思うし、矮小だからこそ、木場の下司な部分にも目敏いのだ。
 慥かに自分が下らない人間だと云うことは知っているが、不意に現実を突きつけられると、迚も凶悪な気持ちになる。理想と折り合いをつけて生きているのに、その努力も端から挫くような気がする。
 女と云う云い方も気に入らない。迚も下卑ている。そんな俗な関係ではないと思いたい。
 しかし、ではどう云えば善いのかは木場にも解らない。恋人と云うような甘い雰囲気でもないし、愛人やイロでは一方的過ぎる。結婚する訳でもないから、配偶者でもない。もっと対等な云い方があるような気がしたが、今は思いつかなかった。
「和寅、お茶!」
 当の榎木津は木場や益田の話など聞いていなかったのか、自分について話されていることになど気づいた様子もなく、常時(いつも)の調子で下僕に用を云いつけた。

「はいはい。少し冷ましましたけど、気をつけて下さいましよ」
 和寅が、榎木津の手を取って直接湯飲みを握らせるのを見て、木場は突然思い当たってソファを立った。
「おい! 見えてないのか!?」
 机に飛びつくと、色素の薄い目が凝乎と木場を注視(みつめ)た。
「いえ、大したことはないんですよ」
 榎木津の代わりに、和寅が答えた。
「先日一寸お熱をお出しになってね。すぐ治るとお医者様も仰ってますんで。ええ、白樺湖の時程酷くないみたいですし、ご心配には及びませんよ」
 木場は榎木津の目の前に手を翳してみたが、鳶色の瞳は瞬きもしない。
「でも、起きた時俺だと判ったよな……?」
「可愛い僕が見えたからな」
 榎木津は、柔らかい笑みを見せて云った。
「ニッカボッカと云うことは、十になる前だな。十の時にあれは厭だとおたあさまに云ったから、それ以降は着ていないのだ」
 見えていたのは、木場の記憶だったらしい。
 そう云えば、何時頃からか突然榎木津は木場たちと同じような、普通の国民服になったのだ。上の学校に上がって小石川に来なくなるまでは、そうして暫くみんなが一緒の格好で遊んだ。

「……大丈夫なのか?」
 何故か切ない気持ちになって、木場は玉蜀黍のような榎木津の頭に手を置いた。
 昔から目は悪かった上に、戦争で片方は完全に見えなくなった。残った目も、こうして何度も視力を失うようなことを繰り返していれば、いずれどうにかなってしまうかもしれない。
「大丈夫だ」
 榎木津は、木場の手を押しのけて云った。
「目なんか見えなくたって、何の不自由もない。何も困らない。ギターは弾けるし、愛し合える。充分だ」
「な……、何云ってるんだ馬鹿!」
 木場は驚いて、反射的に榎木津の頭を殴った。
 大丈夫かと尋いたのは、そう云う意味ではない。はぐらかされたような気もする。
「そんな軽口叩けるぐらいなら、本当に大丈夫だな! 俺は帰るぞ!」
 何だか腹が立って、木場は照れ隠しで怒ったようなふりをした。何に対して腹が立つのかは、能く解らなかった。
 自分が偶にしか此処に来られないのがいけないのかと思った。熱を出したことも、見えなくなったことも知らなかった。云ってこなかったことを責められない。矢張り、自分が悪いのだ。

「もうお帰りで?」
 木場を止めたのは、和寅だった。
「今、お酒の支度をしますのに」
「ああ、一寸寄っただけだからな。署に戻らなくちゃならねえんだ」
 それは本当だった。木場は仕事中に、ほんの少しのつもりで寄っただけなのだ。聞こし召して仕事場に戻る訳にもいかない。
「また来るよ」
 ソファに置いた上着を取り、そう云って玄関へ向かおうとした時、不意に腕を引かれて木場は驚いて振り返った。
 榎木津が見えない目でソファまで歩いて来て、木場の腕を掴んだのだ。
 しかしその途端ソファの縁に躓き、榎木津は豪快に転んだ。周章(あわて)て支えようとした木場も、一緒になってソファに倒れ込んだ。
「いててて……」
 榎木津の肘が肋骨に当たり、木場は呻き声を上げた。
 のしかかる躰を押し上げて、何とか並んで端座る形になった。溜息をついて席を立とうとすると、榎木津が強くその腕を掴んだまま離さない。
「どうした、おい」
 声をかけたが、何も答えず、ただ頭を木場の肩に押しつけるようにして、背を丸めている。

「あの……」
 和寅が、怖ず怖ずと木場に云った。
「今すぐ、署の方に戻らないといけないんですかねえ?」
「え? いや、すぐってことはねえけどよ……」
 そう云うと、和寅はほっと安心したような顔になった。
「それじゃ、ほんの小一時間で結構ですから、留守番を頼めませんかね? 私、一寸そこまで用足しに行って参りますんで。ね、益田君も」
「僕もですか!」
 突如云われて、益田は素っ頓狂な声を上げた。
「そうですよ。人手が必要なんですよ。さ、行きますよ」
 和寅は、益田の耳を引っ張るようにして、玄関を出て行った。どんな用事だか知らないが、こんな暇な探偵事務所に、人手の要るような用事がある訳がない。

 取り残されて、木場は大きく息を吐いた。
 榎木津が確乎り片手を握っていて、自由になる腕は一本しかない。何とか上着から煙草を取り出したが、火は点けられない。
 仕方なく、木場は煙草を口に咥えたまま、ソファの背に躰を預けた。
 さっきから、榎木津は一言も発しなかった。菓子を口にしている時は、迚も機嫌が善さそうだったのに、今は俯いてしまって、顔も見えない。
 こんな傲岸不遜な男でも、心細いことがあるのだろうか。そう思うとまた、切なくなった。
「大丈夫だ、大丈夫だよ……」
 何か云ってやりたくて、そんな気の利かない台詞を口にしたが、木場の耳に聞こえてきたのは深い寝息だった。
「……寝てんのかよ!」
 ほとほと呆れて、木場は煙草の端を噛みしめた。
 火を点けたくて苛苛したが、どうやっても片手で燐寸を擦るのは無理そうだった。

 ふと、思いついたことがあって、木場は天井を見上げた。
「そうか……」
 肩に榎木津の頭が乗っている。規則正しい呼吸が、肩口に触れた。微かに甘いヴァニラクリームの香りと、ラム酒の匂いがする。
「連れ合いって云い方もあったなあ……」
 そう云い乍ら榎木津の顔を覗き込んだが、探偵は目を覚まさなかった。


(了)

どうしても自分、榎さんを病気にしたいらしいですよ…。
ナルコレプシーの最初の症例が報告されたのが、1967年(調べました)。でもナルコレプシーだったらいいけど、睡眠時無呼吸症候群だったらイヤン…。

柏水堂は、本当に神保町にある洋菓子店です。学校が神保町だったので、学生時代よく行きました。創業昭和4年(調べました)。
榎木津ビルヂングがあった頃も神保町にあったと思いますが、サバランがあったかどうかは調べられませんでした。てゆーか、柏水堂でサバラン扱ってるんですかね?<私が聞いてどうする!


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