■戀の実り■
「遅いぞ、馬鹿修!」
 久しぶりに薄暗いビルの階段を上って来て、扠(さて)ノックをしようと手を上げかけた瞬間、豪い勢いでドアが開いたかと思うと、背の高い男に力の限り抱きしめられた。
「あれ?」
 唇を奪われる寸前だったが、危ういところで相手は間違いに気づいたようだ。

「喜久ちゃんではないか! 久しぶり!」
 彼は屈託の無い様子で再会を喜び、乱暴に両手で僕の肩を叩くと、中に招き入れてくれた。
「随分焼けたね。真っ黒黒助だ。何処へ行っていたんだ?」
「地球の反対側。今は向こうは夏なんだ」
 部屋の中を見回すと、和寅君も益田君も居なかった。先程の彼の科白から察するに、追い出されたのだろう。
「何? 修ッ公が来る予定なの?」
「うん。夜勤明けでね。丁度退屈していたところなんだ。修ちゃんが来る迄なら、居ても善いよ」
 悪びれた様子は全く無い。彼は相変わらずだ。
 まあ、其処が彼の善いところなんだけど。首尾良く恋を得て、まだまだ夢中なところも微笑ましい。
「エヅ公も、そろそろ修ッ公の跫音ぐらい覚えたら如何だい? そんなことだから、京極堂にも駄犬なんて云われるんだよ」
「何だって!? 彼奴、そんな失敬なことを云ったのか!? 許せないな!」
「…………」
 ずっと彼が、何故京極堂のような毒舌家と仲が善いのか不思議に思っていたが、その謎がこの瞬間、一気に解けた気がした。


「喜久ちゃん、何か飲む? 珈琲で善い?」
 彼の口から思いがけない言葉が出て、僕は仰天して座っていたソファから飛び上がった。
「エヅが淹れてくれるの!?」
「うん。生憎下僕は自ら追い出してしまったのだ。ええと……茶漉しは何処だっただろう?」
「エヅ公、珈琲は茶漉しで淹れないんだよ」
 とんでもない物を飲まされそうなので、僕は断って、彼の手を引いてソファまで連れて来た。
 別段喉は乾いてないし、此処を出たら「ミロンガ」にでも寄って、プロが淹れる美味しい珈琲を飲もう。和寅君も中中のものだが、居ないのでは仕方がない。
 それより、タイムリミットは待ち人が来る迄だ。商談は早く済まさなければ。
「これなんだけどね」
 鞄から木の根を出すと、彼は不思議そうに顔を寄せて来た。鼻を近づけて、二三度臭いを嗅ぐ。薄い目よりも、鼻の方が余程利くらしい。
「お土産?」
「これはね。気に入ったら、次から買ってよ」
「変な臭い。薬草だな」
「そうだよ。子宝が授かる魔法の薬だよ。有り体に言うと、元気の出る薬。倦怠期の夫婦関係修復にも効果絶大」
「ふうん」
 気の無さそうな顔で呟くと、彼はフイとそっぽを向いた。
「興味無い?」
「あんまり……」
 まあ、これは此処に来る迄にある程度予想はしていたのだ。噂で、色色耳に入っていたこともある。
 取り敢えず品物はテーブルの上に置いて、僕は彼に向き直った。

「聞いたよ。松の内の間ずっと、修ッ公が此処に泊まってたんだって?」
「え? 何で喜久ちゃんが知ってるの?」
 彼は、余程吃驚したのか、目を見開いて僕の顔を覗き込んだ。
 綺麗な、大きな目だ。善く見えていないと云うのが信じられない。情熱的な美人や美男子の大勢居る国に行っていたが、彼の国でも、目の前の昔馴染み程造作の良い人間は居なかったな。
「修ちゃんが、手前は余計なことばっかりべらべら喋るから、口にチャックでもしとけって怒るんだ。だから、僕は何にも云ってないのに」
「その代わり、エヅんとこの若いのがべらべら喋ってるよ」
 外国に居た僕の耳にまで入ってくるくらいだから、相当だろう。彼等にとっては、驚くべき出来事だった訳だ。
「益益、お熱いことで。善かったじゃない」
「下僕が何を云っているか知らないけどさあ……」
 彼は怠そうに脚を組むと、テーブルの上にどっかりと置いた。相変わらず、育ちに似合わず行儀は悪い。
「正確には松の内の間ずっとじゃないんだよ。元旦と二日は修ちゃんは実家に居て、此処に来たのは三日になってからだ。おまけに一番忙しい元旦に休みを取ってしまった所為で、それ以降は休めなくて、昼間はずっと仕事に行ってたんだから。お熱いとかお盛んとか云われる程のことじゃないよ」
「お盛んとは云ってないよ」
 それでも、あの面倒見の善い男が、何日も下宿の老婆を独りにすると云うのだから、並大抵のことではないだろう。
「でも、普段よりは沢山したんだよね?」
「ああ、うん、まあ……」
 歯切れの悪い様子で、彼は眉を寄せると長い指で薄茶色の髪を掻いた。そのまま鼻に皺を寄せて、奇妙なことを云った。
「でもあれは、埋め合わせというか、特別サービス期間と云うか……」
「どう云う意味?」
「暮れと正月一緒に居られなかったり、元旦に実家でお見合いなんかしたから、ばつが悪かったんじゃないかな」
「え!? 修ッ公、お見合いなんかしたんだ!」
 僕は驚いて、大声を出した。
 それは初耳だ。知っていたら若い連中が黙っている訳はないから、本当に彼は云わなかったのだろう。ちゃんと云いつけを守っているとは、その方が驚きだ。
「で、如何したの?」
「如何もしない。途中で気づいて逃げたらしいよ」
 なる程、謀られたのか。
 真面目な男だから、交際している相手が居るのに見合いなどする訳はないと思ったが、断る理由も云えずに、さぞ難儀をしたことだろう。どちらかと云うと、話としてはそっちの方が面白そうだ。
「僕には云って善いの?」
「喜久ちゃんは特別。常時(いつも)相談に乗って貰っているから」
 そう云って彼は、完爾(にっこり)と可愛い笑顔を見せた。


「それよりさ、前から思ってたんだけど……」
 彼は、僕が置いた木の根を取って、しげしげとそれを眺めた。
「こう云う物って、どうやって持ち込んでるの? 税関通らないんじゃないの?」
「そりゃあまあ、蛇の道は蛇と云ってね……」
「違法なんだ」
 大きな声で、そんなことを云う。おいおい、誰も居ないから善いようなものの……。
「違法とは云ってないだろう。色色、方法があるって云ってるんだ」
「それでもさ、修ちゃんに見つかったらマズイんじゃないの?」
 そうだ、もうすぐ此処に名だたる鬼刑事が来るんだ。こんなもの出しておいて、無闇に腹を探られては困る。
 慌てて僕は、品物を鞄の中に仕舞った。
「何だよ、エヅ、そろそろ帰れってこと?」
「違うよ。それは買わないって云ってるだけだよ」
 云い合っていると、重い跫音が聞こえてきた。間違いない、例の鬼刑事だ。僕にも判る。
「修ちゃん!」
 ソファから飛び上がって出迎えに行った彼が、ドアに辿り着く前にノックも無く扉が開いた。疲れた顔の男が、のっそりと姿を見せた。
「遅いぞ! 待ち草臥れた!」
 男が何か云う前に、エヅ公が首に抱きついてキスをする。
 男の、顰めた眉の下の鋭い目と、僕の目が合った。
 余程疲れているのか、彼は照れもせずのろのろと抱きついている相手を剥がすと、胡乱な目で僕を見た。
「何しに来やがった……。また何か変な物……」
「売ってない! 売ってないよ!」
 僕は慌ててその場を立つと、そそくさと帰り支度を始めた。
「久しぶりに日本に戻って来たんで、一寸挨拶に寄っただけだよう。もう帰る」
 しょうがない、商談はまた今度だ。
「ねえ修ちゃん、何か飲む? 貰い物の洋酒があるよ。それとも何処か行く?」
 エヅの方は、もう全く僕のことが眼中に無くなったらしい。
 朝早いとは云い難いが、まだ昼前だ。こんな時間から飲むつもりなのか。
「悪い、徹夜明けで眠いんだ……。済まねえが、一寸寝せてくれや……」
 目つきは相変わらず鋭かったり悪かったりするが、声に張りが無かった。本当に眠かったらしい。
 彼は蹣蹣(よろよろ)と覚束ない足取りで、探偵の寝室に向かった。目的地が無かったら、今にもこの場に倒れて、眠り込んでしまいそうだ。
「ええ〜、つまらないよ! 僕は眠くない!」
「朝何時までも寝てるからだろうよ……。早く起きてりゃ、手前だって……」
「折角和寅達を追い出したのにー」
「いや、本当に勘弁してくれ……。起きたら酒でも何でも、つき合うから……」
「修ちゃん、せめて襯衣くらい脱ぎなよ。修ちゃんってば」
 寝室の扉の向こうにもつれ合って消えながら、彼等は暫く言い合っていたが、すぐにその声は聞こえなくなった。

「ちぇ、全然駄目だ」
 探偵が、頭を掻きながら客間に戻って来た。
「本当に寝てしまったよ。何をしても起きない」
 親の仕事で遊びの予定が流れた子供みたいに、探偵は不機嫌そうに顔を赤くして、頬を膨らませている。
「独りで起きていてもつまらない。眠くないけど、横に入って一緒に寝ようかな」
「あのさ、エヅ」
 僕は、思い出したことがあって、彼に問いかけてみた。
「修ッ公って、横に人が居ると眠れないんじゃなかった?」
「え?」
 彼は、驚いた顔で僕を見た。
「そんなこと無いよ? こないだなんか、悪戯して鼻を塞いでやったけど、起きなかったもの」
 なる程ね。
 彼は埋め合わせだの昼間仕事だの、色色理由を述べてはいたが、それは彼の期待に満たなかったと云うだけで、常よりは慥かに濃密な時間があったのだろう。
 彼の下僕達の話では、この頃の彼は随分変わったと云うことだが、僕から見れば、恋愛で一番変わったのはむしろ、他人との拘わりが苦手なあの四角い刑事の方だ。
「そのまま布団に這入っていったら駄目だよ。脱がせ易い寝間着に着替えてから、寝るんだよ?」
 僕がそう云うと、彼は笑って「勿論そのつもりだ」と答えた。


 鍵をかけなくていいのかと思っていると、階段の下から和寅君が上って来るのが見えた。
「あれ、司さんじゃないですか」
 彼は、心持ち小さな声で僕に声をかけた。
「旦那はもういらしてますか?」
「うん。ついさっき。夜勤明けらしくてね。一眠りするらしいよ」
「じゃあうちの先生も、一緒にお寝みですね」
 心得たもので、彼はそう云ってそっと事務所の扉を開けた。
「忘れ物を取りに来ただけなんで。宜しかったらご一緒に、表通りまで出ましょう」
 跫音を忍ばせ、そそくさと自分の和室に這入ると、小さな包みを持って戻って来た。他にも何か、木の板のような物を持っている。
「お待たせしました」
 鍵をかけて、彼はその板をドアノブにぶら下げた。「本日休業」と書いてある。この札も一緒に持って来たのか。
 エヅは悪口ばかり云っているけど、中中どうして彼の下僕は気が利いていると、僕はその時心からそう思った。



(了)

時期的には松の内を過ぎてますので、シリーズにカウントしませんが、話としてはつながっているカンジで。

司くんの寄る喫茶店を「さぼうる」にしたかったんですが、創業50年にはなるものの、当時まだ開業していなかったみたいなので、「ミロンガ」に。

「ミロンガ」は遠藤周作など文化人が通った喫茶店「ランボオ」が、昭和24年閉鎖になったあとに再生した店。現在は「ミロンガ・ヌオーバ」と改名して、タンゴの名曲喫茶として営業しています。
私の学生時代は、「ミロンガ」はちょっと怖くて入れなかったので(いや、タンゴ喫茶って…ねえ?)、もっぱら「さぼうる」を愛用してました。また苺ジュース飲みに行きたいです。
ところで、この話を書くので神保町の喫茶店をいろいろ調べたら、「李白」が経堂に移転になったと知ってビックリ。洋菓子の「エスワイル」も閉店とか。
工エェェ(´д`)ェェエ工…神保町に住むのが夢だったのに、だんだん住まんでもいい街になってくるじゃありませんか…。


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