■夜明け前■
 明け方に、ふと目を覚ました。
 辺りは海の底のような深い青で、見慣れた天井も濃い藍色に染まっている。
 世界は死んだように音も無く、俺は一瞬、時間が止まっているのかと思った。

 よくよく耳を澄ますと、微かだが規則正しい寝息が耳元で聞こえた。
 起こさぬように注意を払い、静かに首の下から腕を抜く。
 身を起こしてみると、空気は鋭く生硬で、肌に痛い程冷たかった。何もかもが青ざめて、善く見知っている筈の部屋も、素知らぬ風に趣を変えている。
 煙草を探し、そっと火を点けると、胸の深くまで煙を吸い込んだ。漸く、明瞭(はっきり)と目が覚めてくる。

 昼でも夜でも、時間も構わず寝腐っている男だが、その分迚も眠りが浅い。
 普段なら隣で身じろぎしただけで起きてしまうと云うのに、まだ目を覚まさぬと云うのは、それだけしんどい思いをしたのだろうと思う。
 真逆この歳になって、こんなことになるとは思わなかった。
 自分の幸せを差し置いても、行く末を第一に心配していた大事な弟だったのに。実の妹よりも気がかりで、面倒で、でも手のかかる分、可愛い弟だった。
 今でも、本当にこれで善かったのだろうかと考える。こんな、狭間の時間には特に。

 紫煙を吐き乍ら、深い陰影を落とす顔を、しみじみと眺めた。
 叩いたらコツコツと音がしそうだと思っていた陶器のような頬も、唇も、触れてみれば存外に柔らかく温かい。
 思っていたのとは随分違った。最初に抱いた時もおっかな吃驚だったが、未だに勝手が解らず、戸惑う一方だ。
 汗腺が発達していないのか、子供の頃は、どんなに暑い日でも汗ひとつかいたことがなかった。涼しい顔をしたまま、突然ぶっ倒れてよく周りを驚かせていたものだ。
 それなのに、あれの時は流石にうっすらとだが汗をかく。頬が紅潮し、全身が桜色に染まる。冷たいとばかり思いこんでいた肌が、熱を持って驚く程熱くなる。
 汗をかくことがあるのだと、思ったこともなかった。体温が上がることも、聞いたこともない甘い声で、俺の名を呼ぶことも。こんなに綺麗だっただろうかと、訝しく思うこともある。
 そう云えば、赤線の女しか知らず、行為の間に名前を呼ばれた経験は一度もなかった。商売女の肌は、常時(いつも)冷え冷えと乾いていた。感極まるところを見たこともないし、事の終わったあとに、供寝をしたこともない。
 金を払って時間を買い、時間が過ぎればもう客でもない。襟を立てて帰る道の寒寒しさは、常時身に沁みた。
 不思議なものだ。一つ寝には今でも慣れない。これは本当に、現実のことなのだろうか? 気がつくと、何もかもが夢だったと云う、教訓にもならない話なのではないだろうか。


 何時の間にか、部屋の中の紺色は、水で薄まるように拡散していた。時が動くのが、目に見えて解る。
 薄い色の瞳が、明瞭と此方を見ていた。
「それは何処の、安い娼婦なんだ?」
 少し涸れた声で、あれはそう云った。
 馬鹿だな。どうせ見るなら、もうほんの少しだけ早く目を覚ませば善かったのに。
「何処でもねえよ」
 俺は笑い乍ら、肺の奥から煙を吐き出した。短くなった煙草を灰皿に押しつけ、寝直そうとまた蒲団に潜った。
「冷たい」
 肩が触れて、礼二郎は文句を云った。機嫌を損ねているのかもしれない。
「じゃあ、離れてろ」
「厭だ」
 犬のように腕の中に潜り込んでくる躰は、先程まで熟睡していた所為か、ふわりと熱を持って温かかった。
 鼻を鳴らし乍ら、顔を上げてくる。宥めるつもりでもなかったが、何度か唇を吸ってやると、漸く薄く笑みを見せた。
「……もう一遍、暖まるようなこと、するか?」
 肩口に頭を埋めて、甘えるように云う。鼻先を、茶色の毛先が掠めた。
「そろそろ、下のばあさんが起きる時間だぞ」
 部屋の薄水色の空気の中に、白に近いオレンジが混じり始めた。一日が始まる時間だ。
「何だ、つまらない」
 不服そうにそう云うと、礼二郎はまた鼻を鳴らした。本当はまだ、眠いのだろう。手足の隅隅まで温かいままだ。

「矢っ張り、修ちゃんちは落ち着かないな。喜久ちゃんが、いい連れ込みを知っているって云ってた。今度から、そっちにしないか」
「あいつの紹介は信用ならねえ」
 ボッタクリか、安くても何か裏があるような気がする。そっちの方が余程落ち着かない。
「それに、知っての通り警察は安月給だ。宿代も馬鹿にならねえ」
「僕が出すよ」
「そう云う訳にいくか」
「何でさ」
 怒ったように云って、礼二郎は俺の胸を押して、顔を上げた。
「男の沽券に拘わるとでも思っているのか? それこそ前時代的だぞ。どちらが出しても構うことはない。したい方が出せばいいんだ」
「だよな?」
 相槌を打つと、思っていなかった返答なのか、礼二郎はきょとんと目を見開いた。
「だったら矢っ張り、俺が出すべきだよな?」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔とでも云うのか。あんまり驚いているものだから、俺は笑い出しそうになった。

「何だ、冗談か。豆腐頭のくせに、小洒落た真似を」
「冗談でもないさ」
 髪を掻き回して撫でてやると、怒ったのか照れたのか、フイと横を向いた。
 薄い茶色の後れ毛が、伸びた項に落ちている。こんな処まで赤くなるのだと云うことを、俺はその時初めて知った。



(了)

エロを書こうと思ったら、失敗してただのバカップル話に。こうなると文学作品風のタイトルも、むしろ笑いのネタです。

てなことを言っている隙に、ナニゲに部屋問題が深刻化しています…。


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