■My Life as a Dog■
 友情と、興味本位と、商売の芸術的に釣り合ったところで、司喜久男は長い間、古い友人の恋の相談に乗っていた。
 相当手こずったようだが、結果は上上だったらしい。らしい、と云うのはつまり、一度電話で話を聞いただけで、実際のところは解らないからだ。
 折りの悪いことに大変な稼ぎ時で、友人の幸せは願わぬでもなかったが、色恋の話は暫く二の次になっていた。
 漸く仕事が一段落した時、司はふと、そう云えば自分は、祝うなり揶うなりすべきなのではないかと、天啓のように思いついた。


 日も暮れようと云う頃、司が手土産を持って神保町に顔を出すと、奥の部屋が大変な惨状を呈していた。
「何これ……?」
 この世の物とは思えない。仕事柄、生活の荒れた女の部屋は何度も見たことがあるが、とてもそんなレベルでは語れない。
 足を踏み入れるのも憚られて、司は部屋の入り口で立ち尽くしたまま、言葉を失った。
 雪崩を起こしたような衣類の山の中に、三角巾をつけてはたきを握った探偵が、不機嫌極まりない様子で端座り込んでいる。
 下僕達は何処かに出かけているのか、それとも逃げたのか、事務所の方に人気はなかった。どうやら探偵は、一人で悪戦苦闘していたらしい。
「……嘘吐き」
 彼は、司の姿を認めて、怨みがましい目でそう云った。
「何が」
「喜久ちゃんは、前に一遍やっちまえばこっちのもんだって云ったぞ。全然こっちのもんじゃないじゃないか!」
 相変わらず脈絡のない話し方をするので、何のことやら解らないが、この惨状と木場修太郎が、何か関係があるらしい。
「どう云うこと?」
「あの豆腐男は、僕の部屋に泊まるのは厭だって云うんだ。僕と寝たくないんだろうか?」
「……いや、多分それはそのまま、この部屋が厭だって云う意味だと思うよ……」
 司は、困ったような顔で苦笑いをした。
 何処をどうすれば、こんな状態になるのか解らない。木場でなくとも、此処で愛を語る気にはならないだろう。
「前に一回、ちゃんと片付けたことあったよね?」
「あれは、実は和寅がやったんだ。お陰で、何処に何を仕舞ったのか解らなくて、結局次の日には全部引っ張り出して、元の木阿弥だ」
「なる程……」
 それで自分でやろうとして、この有り様になっている訳だ。
「間接照明は何処にやったの?」
「間接照明って何だ?」
「……前にも説明したよエヅ……」
 思わず、司の肩が落ちた。
 何やら、根本的に間違っている気がする。

 探偵は、終わりのない作業にすっかり厭気がさしたらしく、はたきを放り出して衣類の中にダイビングした。
「全然こっちのもんじゃない! 前より大変だ。何でこんなに、面倒な思いをしなくちゃならないんだ!」
「修っ公は、あれで几帳面で綺麗好きだからねえ……」
 いつまでも入り口に突っ立っている訳にもいかず、司は適当に足で道を作ると、不貞腐れている探偵に近づいた。
 屈み込んで、優しい声で忠告をしてやる。女には不自由していなかった友人が、勝手の違う恋に悩んでいる姿は、大変微笑ましい。
「向こうに合わせなよ。惚れた弱みじゃないかエヅ公」
「なあ、喜久ちゃん……」
 探偵は、衣類に顔を埋めたまま、小さな声で云った。
「もしかしたら、修ちゃんは部屋のことを云い訳にして、あれを避けているんじゃないだろうか。大事にはして貰っていると思うけど、あっちの方は善くないのかも知れない」
「どうしてそう思うの?」
「だって……」
 手元の衣類を抱き込み、榎木津は子供のように口を尖らせた。
「だって、泊まりたくないなんて云うだろうか? 普通、つき合い始めはもっとこう、盛んなものなんじゃないか? 三日と空けず通うとか、明烏の声を聞いてから眠るとか。偶にしか来ない上に、泊まりたくないから終電が出る前に帰るとか云うんだよ! 酒だけ飲んで、本当に帰るんだ!」
「エヅ公が一番お盛んだったのって、十代の頃だろう? 三十にもなって、今頃何云ってるんだよ……」
 探偵が若い頃に、相当やんちゃをしたのを司は知っている。軍人だった木場も、赤線へは度度通ってはいたらしい。だがそれも、もう二十年近く前の話だ。普通なら、そろそろ落ち着いてくる年頃だろう。
「それだけじゃないんだ!」
 榎木津は急にその場で飛び起きると、やたら真剣な顔で、拳を振り上げた。
「修ちゃんは、僕が一心不乱に菓子を食べているところとか、僕が寝ていて時時ピクッとしたり、寝言云ったりするところなんかを、喜んで見ているんだよ。前は来た時に寝ていたら怒っていたくせに、今は起こしもしないんだ。そのうち顎の下とか耳の後ろを撫で始めるよ。きっと、僕がベッドに誘おうと思って横になって襯衣を捲り上げても、腹を撫でるぐらいが関の山だ」
 目に浮かぶ気がして、司はまた苦笑した。
 榎木津は慥かに、アフガンやボルゾイと云った、欧羅巴大陸の大型犬のような印象がある。余程木場は、この男が可愛いらしい。それを隠さなくなっただけの話だ。
 ふともう一人の古い友人が、育ちすぎた犬の仔を貰い受けたところを想像して、司は笑いが止まらなくなった。
「何笑ってるんだよ!」
 探偵は、それを見て益益不機嫌になった。

「何だか違う! こんなんじゃない! 僕が予定していたのとは、全然違う展開だ!」
 憤懣やるかたない様子で、榎木津はまた転がった。寝たり起きたり、忙しない。
 可愛がって貰っているならいいような気もするが、元元派手なことを好む性質だし、本人にしてみればこの平和な状態は、大いに不満なのだろう。
「どう云うのがいいのよ?」
「波瀾万丈!」
 榎木津は、決然(きっぱり)と云った。
「大反対して、生木を裂いてもらおうかと思って実家にも報告に行ったけど、あの馬鹿親は驚きもしないし。あてが外れたよ」
 わざわざ障害を作りに行くことはないと思うが、きっと燃え上がりたいのだ。子爵家の人人は、変人で知られる榎木津以上の変人なので、人選は大いに間違っている。何かしたいのなら、乗り込むのは木場の実家の方だ。
 しかし、そんな入れ知恵をしたらまた木場の怒りを買うのは間違いないので、司は確乎りと口を閉ざした。
「何かこう、情死に追い込まれるような事態にはならないだろうか?」
「そこまで波瀾万丈じゃなくたっていいじゃん!」
 呆れて、司は探偵の危険思想を窘めた。


「ところで喜久ちゃんは、今日は何をしに来たの?」
 そこで初めて気づいたように、榎木津は漸く司に用件を尋いた。それはまず、一番に尋ねられるべきことだ。
「ああ、これを届けに来たんだよ。要るんじゃないかと思って」
 司は、そう云って持参の紙袋を探偵に示して見せた。
「もう何も買わないよ」
「大丈夫。高いもんじゃない。変な物売りつけると、修っ公に怒られるからね。衛生サック。必要でしょ?」
「…………」
 探偵は、鼻の頭に皺を寄せて肩を引いた。
「……要らない」
「使った方がいいよ?」
「そう云う意味じゃない。修ちゃんは、もう僕と寝ないかもしれないから」
「考え過ぎだって、エヅ公」
 司は、そう云って無理矢理榎木津に紙袋を押しつけようとした。
「米兵から買い付けたの。品物はいいから。本当に。日本じゃ手に入らない代物だよ。1ダースが12個で、1グロス。特別に安くするよ」
「買わないって」
「エヅ」
 司は、不貞腐れる探偵を引き起こして、耳元で優しく云った。
「慥かに、修っ公は難しい。ムード作りは大切だ。逆に、ムードさえあれば大丈夫だよ。エヅは可愛いよ。エヅは悪くない。部屋が悪いんだ」
「……本当?」
 上目遣いに間近で顔を覗き込んでくるのを見て、司は頷いた。
 慥かに前より、探偵には艶気があった。男を知っていることを此方が承知しているから、最初から穿って見るのかもしれないが、それを差し引いても何処か悩ましい風情がある。
 これで触れなば落ちんと寄り添われて、それでも色事を避けるとは思えないから、矢張りこの破壊的な部屋がいけないのだ。
「……もう遅い」
 だが探偵は、気落ちしたように云った。
「間に合わない」
「今日、修っ公が来るの?」
 来るから、ずっと悪戦苦闘していたのだろう。
 窓の外はすっかり日が落ちて、天下の桜田門もとっくに終業時間を迎えたと思われた。


「おいおい、何だよこの有り様は?」
 心底呆れたような声でそう云うと、木場は部屋の入り口に立ち尽くした。来た時の司と同じ状態だ。
「何をどうしたら、こうなるんだ?」
「修ちゃん……」
 情けない顔で、榎木津は木場の顔を見上げた。
 それには答えず、木場は、司の顔を見て眉を顰(ひそ)めた。
「手前も来てたのか。また何か、ろくでもないもん売りつけに来たんじゃないだろうな?」
「違うよう」
 司は、榎木津の手を引いて、衣類の山を踏み分けて一緒に部屋を出た。何を思ったのか、榎木津ははたきを手に持ったままだ。
「旅行の話を色色聞いてただけ。おめでとさん」
 木場の肩を叩いて、サングラスの奥でウィンクをする。木場は、顰めっ面をして流しただけだった。
「照れないんだ?」
「……まあ、こいつの口に戸を立てられると思ってる訳じゃないしな……」
 そう云い乍ら、それでも多少は照れるのか、榎木津の頭を、三角巾の上からぽんぽんと叩いた。
「掃除してたのか? それにしちゃ、余計酷くなってねえか?」
 入り口から振り返ると、全体が見渡せるだけに更に大変な事態に見える。整理能力がない榎木津でなくとも、手のつけようがない感じだ。
 その絶望的な有り様を見れば、木場が此処に泊まると云う日は、永久に来ないように思われた。

「……しょうがねえなあ。じゃあ、俺んちに来るか?」
 ごく自然に、さりげなく木場が云ったものだから、榎木津ははたきを取り落としそうになった。
「……え?」
「下にばあさんがいるけどな。騒がしくしなけりゃ大丈夫だろう」
「修っ公が手加減すれば大丈夫だよう」
「瑣煩いぞ、手前」
 怒ったように、木場は司に云った。
 揶われたのを怒ったのか、照れたのかは判然としない。
 そういえば、司は此処へ二人を揶いに来たのだった。漸く目的を果たすことが出来た。
「厭か?」
「ううん! 行く!」
 固まっていた榎木津は、飛び上がって木場の腕に抱きついた。周章たように三角巾をかなぐり捨てる。
「行こう! すぐ行こう!」
「おい、この事務所、今誰もいねえんじゃねえのか?」
「和寅もすぐ帰ってくる。それまで、喜久ちゃんが留守番してくれるよ!」
「僕!?」
 吃驚している司から、榎木津は紙袋を奪った。
「その代わり、これ買うから!」
「何だそれ? 手前、また騙されて……」
「違う違う。大丈夫」
「お代はこの次でいいよ。毎度〜」
 司はにこやかに云って手を振った。
 木場の手を引っ張り、榎木津は事務所の扉を乱暴に開け閉めして出ていく。
 閉じたドアの向こうで、木場のものらしい声で大きく、144個ー!? と叫んでいるのが司の耳に聞こえた。



(了)

思わず国産のコン○ームの歴史など調べてしまいました。明治時代は「敷島サック」(ゴム製)、昭和初期は「ハート美人」(ラテックス製)だったそうな…。本格的に普及しはじめたのは1950年代後半。

ところで、木場さんの来る日だけ和寅くんに掃除してもらえばいいだけの話のような気もしてきました。

※追加。桜田門=警察、ぐらいの意味です。勤務場所じゃなくて。


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