■FirstKiss■
 目が覚めてみると、事務所の中は深閑としていて誰一人居なかったので、勝手に風呂を頂戴することにして、風呂場に向かった。
 この家は、何時でも風呂に入れるのが有り難い。夜勤明けで下宿に帰っても、こんな昼日中ではまだ風呂屋も開いていない。主からして小原庄助なのだから、何時入っても非常識の誹りも受けずに済む。
 もう自分で支度をするのにも随分慣れた。湯を張って湯船に身を浸し、手拭いを頭に乗せて川中島などを呻っていると、奥の方から騒々しい跫音が近づいてくるのが聞こえた。

「修ちゃん!」
 顔を真っ赤にした礼二郎が、大声で俺を呼ばわりながら、破壊しそうな勢いで乱暴に風呂場の戸を開け放った。
 頭は寝癖がついて滅茶苦茶だし、寝間着も寝相の所為で大仰に寝乱れている。何を興奮したのか、長い距離を走って来た訳でもあるまいに、肩で大きく息をしていた。
「起きたんなら、どうして僕を起こさないんだよ!」
 熟睡してやがったくせに、何を云い出すやら。
「だって手前、わざわざ着替えて寝てたってことは……」
「別に本格的に寝るつもりで、寝間着を着たんじゃないよ!」
 一体何を怒っているのか……。解らんねえ奴だな。
 白河夜船の時はそうでもないが、熟睡したあとの礼二郎の寝起きは大概悪い。起き抜けでご機嫌斜めの赤ん坊のようだ。寝ている時は温順しくて可愛いので、折角だから極力起こさないようにしているのだ。

 俺が何も答えないでいると、礼二郎は意味不明の唸り声を上げ、その場で地団駄を踏み始めた。
 あんな大柄の男が力任せに床を踏みならすものだから、とてつもない音がする。下の会計事務所が、何事が起こったかと驚くことだろう。近所迷惑も甚だしい。
「おいおいおい!」
 何だか善く解らないが、とりあえず謝っておいた方が善さそうだ。
「解った解った、俺が悪かった。止めろって。お前も入るか?」
「え……」
 ピタリと狼藉が止み、礼二郎は目を丸くして俺を見た。
 そんなに大したことを云ったつもりはなかったが、礼二郎は一瞬困ったようなそうでもないような、複雑な顔をした。そして、その場で硬直した姿勢のまま、回れ右をする。
「じゃあ、サック取って来る」
「あ、違う、そっちじゃなくて……」
 額に置いた手拭いが落ちかけて、俺は慌てて片手で押さえた。
「頭、洗ってやるから」
「……うん!」
 ぱっと顔が明るくなって、礼二郎は踊るようにその場で寝間着を脱ぎ始めた。脱衣篭も置いてあるのに、案の定足下に投げっ放しで、浴室に飛び込んで来る。
 嘆息し乍ら衣類を拾って歩く、和寅の様子が目に浮かんだ。


 俺などは石鹸ひとつあれば用が足りるが、この家には輸入物の綺麗な瓶が何本も並んでいて、どれをどう使うのか未だに善く判らない。
 説明を聞いて薔薇色の瓶から薬液を取ると、思った通り上品な薔薇の香りがした。
 細かな泡を立て、礼二郎の頭に指を入れると、薄茶色の髪は玉蜀黍の絹糸のように柔らかで、緩やかに指に絡みついてくる。針鼠のような俺の髪とは大違いだ。
 指の腹で丁寧に地肌を擦ってやると、あれはさも心地善さげに、うっとりと目を閉じた。
 随分と人に洗われるのも慣れた様子だが、常時(いつも)風呂はどうしているのだろう。独りでちゃんと洗えているのか。
 ふと思って聞いてみると、礼二郎は目を瞑ったまま、心外なことを尋かれたと云わんばかりに憤慨した。
「寮にも居たし軍隊にも居たし、風呂ぐらい独りで入れるぞ。軍艦の風呂はそりゃあ酷かった。最後の方になると湯が残っていなかったりすることがあって、常時下士官から不満が出ていた。一度思いついて一番最初に入ってやったことがあったが、宮さんのとこの坊主が豪く怒って、危うく軍艦を下ろされそうな大騒ぎになったぞ」
 それもそうか。こいつも俺と同じくらいの歳で、戦争も経験して命からがら帰って来たのは変わらないのに、どうして未だに、あの子爵邸で大切に育てられていた、子供の頃の印象が抜けないのか。
 まるで自分独りだけが歳を取ってしまったような、何処か儚い気持ちがする。
「でも和寅は未だに、僕が風呂に入ろうとすると、ちゃんと耳の後ろも洗えとか、肩まで浸かれとか、煩瑣いことを云うんだ」
 訂正だ。儚く思うのは、俺ばかりじゃないらしい。
 洗い終わって頭から湯をかけると、礼二郎は犬のように頭を振って、水滴を払い落とした。子供の頃近所の犬を洗って小遣いを貰っていたことを思い出していると、礼二郎は目を開いて俺を見て、
「あ、それは並びの家に居た、旭天号だな」
 と云った。
 人懐っこい元気な赤犬だったが、復員してみると死んだのかどうか、居なくなっていた。あの犬のことを、礼二郎も覚えていたのか。


 礼二郎も俺の頭を洗いたがったが、生憎全部済んでいたので断って湯船に戻ると、無理無理一緒に入ってきた。
 湯船も給湯器も全部輸入品で、庶民には手の出ない高級な物だったが、流石に家庭用なので小振りで、大の大人が二人で入るには狭すぎる。
 盛大に湯を溢れさせて何とか向かい合わせに収まると、あれは妙にご機嫌で、俺の知らない外国の歌を歌い始めた。
 善い声だった。窮屈だが、まあいいかと俺も可能なだけ身を伸ばした。
「そうだ!」
 急に歌を止めて飛び起きると、礼二郎は目を輝かせて額を寄せてきた。
「この近くに、喜久ちゃんのお気に入りのカフェがあるんだ。上がったら行ってみないか? 合流して、一緒に飲みに行こう!」
「ああ? 喜久って手前……」
 俺が来たのと入れ違いに帰ったんじゃないのか?
「何時の話をしてるんだよ。もう居ねえだろ」
 第一、そのカフェとやらに、本当に行ったかどうかも明瞭(はっきり)しないんじゃないのか。
「居ねえか?」
「居ねえよ」
「そうか、居ねえか!」
 何が嬉しいのか、満面の笑顔だ。
 最近礼二郎は、時々俺の口調を真似ることがあって、それが何とも云えず可愛らしい。
 笑顔に見とれて油断をしていると、唇を啄まれた。
「…………」
 長い腕が首に絡みついてきて、にじり寄るように身が近づく。邪魔な脚は折り畳んで、上手い具合に俺の脇腹に納めた。
「おい……」
「ん……」
 引き剥がそうとしたが、力を抜くとすぐ寄り添ってきて、きりがない。
 諦めて抱き返すと、俺の口を開けさせて、舌を入れてくる。濡れた柔らかな肉を何度か嘗め上げてから、甘噛みして強く吸った。
 抱いている背中が踊り、礼二郎の息がふと熱くなった。甘い喉声が囁きかけてくるようで、俺の腹の奥にも、ふわりと熱の塊が生まれた。

 何度も唇を合わせながら、こんなつもりではなかったのに、と考えた。
 殆ど湯の落ちてしまった浴槽の中で、礼二郎の脚を抱え直すと、更に結びつきが深くなった。
 腹から上はもう身体を温める湯もなく、湯冷めしそうな冷気が忍び込んで来ている中で、お互いの身体は逆上せたように熱く、薄く汗までかいている。
 常時と違う、直に皮膚に触れる感触が強烈で、理性を失いそうになる。こんなことになるのなら、矢っ張り取って来て貰えば善かったのかと、埒も無いことを考えた。
「最初の……時、みたいだね」
 俺の考えが伝わったのかどうか、礼二郎はそんなことを云った。意味するところは解ったが、答えに窮する。
 そんなつもりではなかったのに。俺はこんなに、場当たりな人間だったろうか。
「何、考えてる?」
「否……」
 困ってしまって、緩く身体を揺すり乍ら、俺は溜息のような声を出した。
「こんなことばっかり、してていいもんかと思ってよ……」
 思ってもいなかった返事だったらしく、礼二郎は、軽く驚いたような顔をした。
「楽しく、ない?」
「そうじゃねえけど……」
「僕は楽しいぞ?」
 つき合ってみて、したがりなのは判ったが、それでもここまでとは想像していなかった。学生時代の武勇伝はいくらも聞いたが、復員後はめっきり耳にしなくなり、興味も薄れているのだろうと思っていたのだ。
「手前は、こんなことは十代の頃に、もう倦んだんじゃねえかと思っていたから……」
「ううん……」
 肯定とも否定ともつかぬ声で、礼二郎は云った。
「遊びは倦んだよ。でも、実を云うと好きな人とこれをするのは、この歳になって初めての経験だ」
 やんわりと、また唇が吸い付いてくる。
「こんなに、嬉しいことだと思わなかった……」
 それを云えば、俺だってこれまで好いた相手を抱いたことなどない。
 そう返事をしてやろうと思ったが、強く抱きつかれて唇を塞がれて、何も云えなくなった。
 それどころか、接吻も礼二郎が初めてだと云ったら、これはどんな顔をするだろうか。
 きっと喜ぶだろうから云ってやりたかったが、生憎すぐにお互いに気が乱れてきて、話す機会を逸してしまった。



(了)

いっぺん風呂場でや(中略)と思(後略)。でも思っていたほど色っぽくはなりませんでした。残念。

今回から、こっそり「手前」と「お前」を混ぜて使う実験開始。徐々に、さりげなく「お前」率のUPを計ろうと画策しています。
木場さんの司くんの呼び方も変えてみましたが、これはのちのちどちらかに統一するかもしれません。いろいろ暫定版ですがよろしくご理解ください。


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