■優しい手■ |
木場修太郎に初めて逢った時のことは、今でもよく覚えている。 僕は広場で戦争ごっこに興じている子供達に、君達庶民にも高貴で気高く頭脳明晰眉目秀麗であるこの僕と、一緒に遊ぶ栄誉を与えてやっても善い……とか何とか云ったのだ。 子供らは、僕の千鳥格子のジャケットを見上げて、ただポカンと馬鹿みたいに口を開けているだけだった。 庶民に貴人の言葉がすぐに理解出来ないのは常時(いつも)のことなので、僕は腰に手を当て、仁王立ちになったまま、暫く待った。 僕の後ろでは付き添いの安和(父親の方)が困った顔で、坊ちゃま、そのような態度ですからご近所やご学友の方方の中にお友達が出来ず、こんな下町の、小石川くんだりまで出張ってくる羽目になるので御座居ますとか何とか、常時の繰り言を云っていた。 全く安和は解っていない。僕は友達が出来ないのではなく、気取った馬鹿どもと友達になるのなんか、真っ平御免だと思っているだけなのだ。 ややあって、少し年かさの、いかにも餓鬼大将と云った風情の少年が出てきて、黙って子供達を手招きし、自分の側に呼び寄せた。 そして何やら云い聞かせていたかと思うと、僕の処に戻ってきて、笑顔を見せながら右手を差し出したのだ。 「わかった。仲良くしよう」 それが木場修……あの、木場修太郎だ。 僕はあの時握った大きな手と、やけに決然(きっぱり)とした物云いが、忘れられない。 その後随分経ってから、当時あの場に居合わせた降旗に話を聞いたが、木場修は子供達に、こう云ったらしい。 「いいか、春先になるとああ云うのが増えるが、決して邪険にしちゃならねえ。手前らも立派な地域社会の一員なんだから、差別や偏見を持って人を見ちゃならねえんだ。解るな?」 どうやら僕のことを、癲狂院からの脱走者か何かだと思ったらしい。云った本人が、一番差別的だったと云う訳だ。 兎に角、その誤解の所為かどうか、最初木場修は僕に、酷く優しかった。 職人の息子で、その無骨な指に似合わず迚も器用で、切り出し一本で上手に竹とんぼを作ったし、凧も一番高く揚げたし、独楽も誰よりも長く回すことが出来た。 喧嘩も強く、みんなのまとめ役で、世話焼きでもあった。小石川では、子供達の人気者だった。誰にでも……特に小さい子には優しかったが、僕にはまた格別に優しかったのだ。 僕はすぐ木場修に夢中になったし、毎日のように車で送らせて小石川まで遊びに行った。 結構積極的にアプローチしていたと思うのだが、同じように木場修に夢中で、修さん修さんと猛烈アプローチを繰り返す三歳児なども大勢いて、今思えば僕は、どうもそいつらと同じカテゴリーに入れられていたきらいがあった。 その後日本も戦時色が濃くなり、無邪気に遊んでばかりもいられなくなった。僕は旧制高校に進学し入寮することとなり、正義感の強かった木場修は親の跡を継がずに、職業軍人の道を選んだ。 そして開戦……。帝大法科にいた僕も徴兵され、海軍の船に乗った。彼は陸軍で、南方のジャングルにいたらしい。長い苦難の時代を経て復員した僕らは、戦後もう一度、バラックの建ち並ぶ東京で出逢った。 ただし、木場修の僕への扱いは昔とは違う、雑でぞんざいなものになったが……。 僕のことを、もう「頭のおかしい可哀想な子」だとは思わず、「恐ろしく非常識な馬鹿」とでも思っているに違いない。 「ああ、もう一度、出逢った頃のように修ちゃんに優しくして貰うには、どうすればいいんだろうか?」 思わず口に出してつぶやくと、湯飲み茶碗を抱えたまま、目を見開いている関口巽と目が合った。 これは僕の旧制高校時代の後輩で、自分の妄想癖を利用して近頃幻想文学などで文壇デビューした陰気な男だ。 こともあろうに南方で木場修と同じ部隊で、しかも彼の上官だったらしい。こんなのが指揮官だったと云うだけで結果は目に見えていると思うが、案の定関口隊は彼と木場修以外全滅の憂き目に遭い、木場修はこの情けない男を背負って、一人で本隊に合流したと云う話だ。 「何だい、何か云いたいのか、猿君」 「い、いや、別に……」 関口はその猿に似た顔を、ふるふると小さく横に振った。 「嘘だ。その目は嘘をついている目だ。何か云いたいことがあるなら、明瞭(はっきり)と云い賜え。僕は寛大な男だから、下民の戯れ言も聞いてやるに吝かではないぞ」 僕は、首をすくめる関口の襟を掴み上げ、畳の上から腰が浮く程持ち上げた。 「大体、お前は気に入らないぞ。何でお前が修ちゃんの上官などになるんだ。修ちゃんを這い蹲らせ、その背中を軍靴で踏みつけて、『貴様それでも軍人か!』とか何とか、怒鳴りつけたりしたんだろう? 狡い!」 「ぼ、僕はそんなことしてないよ! と云うか、狡いって何なんだよ、榎さん!」 関口は泣きそうな顔で、それでも健気に僕に食ってかかった。 猿のくせに、口答えとは生意気な。 「狡いと云ったら狡いのだ。僕だってしたかった。きっと修ちゃんは屈辱に唇を噛みしめ、胸のうちに復讐の炎を燃やすに違いないのだ。そうすれば、復員後僕に再会した時に忽ちその昏い情念がよみがえり、あわよくば僕を手込めに……」 「しないよ!」 即答だ。 「旦那はしないでしょうね。軍靴で踏みつけた時点で、軍法会議覚悟で榎さんをぶっ飛ばすのが関の山ですよ」 横から関口以外の合いの手が入り、僕は顰めっ面をして声の方を振り返った。 「第一、『あわよくば』の使い方が違います」 声の主は、この部屋の主でもある中禅寺秋彦と云う男で、矢張り僕の旧制高校の後輩だ。 本業は神主だがインチキな祈祷などをして法外な金を取り、その金を全部本に費やしているような呆れた書痴だ。趣味が高じて副業で古本屋を始め、その屋号を取って京極堂と呼ばれることが多い。 「お前も僕に何か文句があるのか、京極堂」 「いいえ。ただ、旦那は今でも充分、榎さんに優しいとは思いますけどね。本来なら榎さんのような人は、決して旦那の友人にはいないタイプですよ。今でも友人関係が続いていると云うこと自体、旦那が辛抱強くて優しいことの善い証明じゃありませんか」 「え? でもそれじゃ僕らも同じってことかい?」 「馬鹿を云っちゃいけないよ関口君」 猿が口を出すと、京極堂はあからさまに険悪な顔になって、彼を睨み据えた。 「君はどうだか知らないが、僕は決して君や榎さんの友人などではないよ。ただの知人だ。いや、寧ろ被害者だ。常時そう云っているだろう!」 「ひ、酷いよ京極堂!」 関君は、本気でショックを受けたらしく、涙目になっている。 そんなに友人ではないと云われたことが衝撃だったのか。僕なら、こんな陰気な本馬鹿の友人など、頼まれても願い下げだ。 「と、兎に角……」 小説家は、死にかけた小動物のように細かく震えながら、それでも必死に自分を励まして僕に向き直った。 「旦那が榎さんに優しいのは本当だと思うよ。旦那が復員した時、真っ先に目をやられていた榎さんの見舞いに行ったそうじゃないか」 「そうなんだ……。それが問題なんだ……」 僕は、肩を落として深いため息をついた。 木場修は慥かに心配はしてくれたが、左目の視力は殆ど失われたものの、日常それ程支障がないとわかると、またぱったり来なくなったのだ。薄情にも程がある。 「こうなったら、いっぺん大通りで車に突っ込んでみようかとも思うのだが」 「うわあ、死んじゃうよう!」 気鬱の小説家が、悲痛な叫び声を上げた。 「それはあまりいい手には思えませんね。榎さんは運が強いから死ぬようなことはないと思いますけど、きりがない」 落ち着いた口調で、本屋も小説家に同調した。 「だろう? こう、何か格別なことがなくても、いつでも優しくして貰う方法を考えたのだが、そんな方法は一つしかあり得ない。矢っ張り……」 「矢っ張り?」 僕がそう云うと、後輩は二人揃って、同じような顔色と同じような表情で、僕の方を見た。何か悪い予感がしているのかもしれなかった。 「矢っ張り、僕が修ちゃんの情人(イロ)になるしかないんじゃないだろうか」 バタリと、音を立てて関口が転がった。 「だって、誰だって自分の情人になら、特別なことがなくても優しくするじゃないか!」 「そ、そうですけど……」 京極堂は倒れなかったものの、もう落とした本を取り上げる気力もないようだった。 「でも、どうやってその、情人とやらになるんですか」 「そこなのだ。木場修はあれで爆弾みたいな男だから、うまくスイッチを入れれば起爆させられると思うんだ。だけど聡明かつ優秀なこの僕にも、何処にスイッチがあるか判らないのだ! 京極堂、お前得意の蘊蓄で、僕にそのスイッチの在処を教えてくれないか!」 「わかりませんよ、そんな、人のスイッチが何処にあるかなんて……。と云うか、旦那に衆道の趣味があるとも思えませんけど……。不発弾なんじゃないですか」 「うわあああん!」 到頭、床に転がっていた関口が泣き出した。 「友人同士で、そんな相談をしているなんて厭だよう!」 「僕だってこんな相談を受けるのは不本意だ! それに、友人なんかじゃないって、さっきからずっと云っているじゃないか!」 必死に抑えているものの、京極堂の口調も苛つきを隠せないようだった。僕は艶っぽい話をしているのに、どうしてこんな刺刺しい雰囲気になるのだ。 その時、からりと障子が開いて、木場修が顔を出した。 「邪魔するぜ」 「ああ、やっと来た!」 普段殆ど表情のない京極堂が、おそろしく明るい顔をした。 もう、真っ暗だった部屋に突然電灯の明かりがついたような感じだった。こいつでも、こんな顔をするんだ。初めて見た。 木場修が部屋に這入ると、京極堂はその足に縋りつかんばかりになって、文句を云った。 「旦那が早く来てくれないもんだから、榎さんが退屈して大変なことに! もう、さっさとこの人を連れて帰ってくれませんか」 「何のことだ?」 木場修は、その四角い顔を訝しげに歪めた。 「何だか知らんが、こっちは手前らのような悠悠自適な商売じゃねえんだ。忙しいんだから、礼二郎も一人で帰れないなら、暗くなるまで京極の処に居座るんじゃねえよ」 街灯もろくにない時代で、京極堂のある中野の眩暈坂は、暗くなると健常者でも足下がおぼつかない。目が薄くなってからは、誰かに送って貰うか、迎えに来て貰うのを常としていた。 忙しい木場修は呼んでも来ないことが多かったが、今日は珍しく、暇があったとみえる。 「帰る」 外套を手にして立ち上がると、古本屋も小説家も、同時に心底ほっとしたような顔をした。 眩暈坂を、木場修は黙ってポケットに手を突っ込み、少し背を丸めて僕の前を歩いた。 「木場修」 声をかけると、何か見えにくいものを見るような目をして、彼は僕を振り返った。 僕は暗闇の中に右手を突き出して、ひらひらと泳がせる。 「よく見えない」 「……しょうがねえ」 木場修は、蛾でも振り払うような乱暴な仕草で、闇に踊る僕の手を取った。 そのまま歩き始めるのかと思ったら、僕の手を握ったまま、木場修はその場に立ちすくんだ。 何? と顔を上げると、掴まれた右手に力が入る。 暗くて、僕の薄い目に彼の表情は映らなかった。 「……これ以上、どう優しくしろって云うんだ?」 何だ、聞いていたのか。 それなら話が早い……と思ったが、そう単純でもないらしい。 目には見えなかったが、木場修の苦虫を噛み潰したような顔が、気配になって空気を伝わってきた。 「……俺にどうしろって云うんだよ……」 本当に困っているらしい。一体全体、どの辺から聞いていたのか。 僕は、薄い目を眇めるようにして彼に笑いかけた。 「そんなに困ることはないじゃないか。まあ、そう結論を急ぐことはない。今日のところはこれで勘弁してやろう」 にこやかに笑って、僕は引かれた手を一度解いて、指を絡ませて握り直した。 どうせ人のいる処に来たら離れてしまうだろうが、今はまだ木場修も、乱暴に振り解いたりしない。 そのまま、先に立って坂を下り始めた。木場修がちゃんと聞いていることがわかっているので、僕は振り返らなかった。 「僕は、これでも気が長い方なのだ。それに……」 「それに?」 「僕は女じゃないから、僕にも誰かを手込めにする能力はある訳だ」 「!」 漸く、ぽつんと街灯のある下に出た。 木場修は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてる。こうして見ると、四角い顔が益益角張って見える。 「早く決断しないと、人生を後悔することになるかもしれないぞ、木場修!」 「俺を脅迫する気か。気が長えんじゃないのかよ、手前は」 「だから、今日はこれでいいと云っているではないか」 手をつないだまま、それを木場修の外套のポケットに突っ込むと、苦苦しい顔はしたものの、追い出そうとはしなかった。 それからは暫く言葉もないまま、僕らはだらだらと続く眩暈坂を、踊るように下って行った。 (了) またエノキバになってますよ……。どうにかして下さい……。 京極未読の友人に読ませようかと思いながら書いたので、人物紹介っぽい描写がありますが、あまりいらなかったような気も。 それにしても、手つなぎ歩きはやおいより照れますな! |