■入れ知恵■
 年老いた魔法遣いの指のように、醜く萎び、拗くれた古木からは、今まで嗅いだことのない不可思議な薫りがした。
「それはねえ、人を色っぽい気分にさせてくれる香木なんだよ」
 何処に行っていたのか、真っ黒に日焼けした司喜久男は、人の悪い笑みを浮かべながら得意げに云った。
「?……ならないぞ?」
 鼻をくっつけるようにして匂いを嗅いでいた榎木津は、納得のいかぬ顔で首を傾げた。
「……いや、まあ、今は真っ昼間だし、この部屋じゃね……」
 見回せば、夥しい数の服が乱雑に部屋中に放り投げられており、足の踏み場もない。何時掃除をしたものか、埃と煙草の臭いばかりが鼻につく。
 これでは、いかに神秘の香木と雖も、その威力を発揮しようがないと云うものだ。

「兎に角エヅ公、まずは掃除だ。部屋を綺麗に片づけたら、次は間接照明」
「間接照明って何だ?」
「スタンドとか、そう云う小さな照明だよ。薄暗い部屋に、仄かな灯りだ。それからこの香木。そこはかとない善い薫りが部屋中に漂って、雰囲気抜群と云う訳だよ」
「なる程」
「そしたら少し酒を飲ませて……ああ、完璧に酔っ払うまで飲ませちゃ駄目だよ。少し酒が進んだところで、さりげなく躰をくっつけ、潤んだ目で見上げながら、『あたし、酔っちゃったみたい……』」
「『アタシ、ヨッチャッタミタイ』……」
「ああ、何メモしているんだよ、駄目だよエヅ、そんな短い台詞ぐらい覚えなよ! もしメモが見つかったら、逆効果だよう!」
 司は周章て、榎木津からメモを取り上げた。
「兎に角、うちで働いている女の子達は、男はみんなこの方法でイチコロだって云ってたよ。難しいのは、部屋に来て貰うまでだって」
「それなら大丈夫だ。修ちゃんは最近、よく酒を飲みに来てくれるようになったんだ」
「そいつは善かったねえ。でも、浮かれて飲み比べ何かしちゃ駄目だよ。常時(いつも)より控えめにね。そしたら修ッ公も『何だ、常時と様子が違うじゃねえか、どうしたんだよオイ』とか何とか云うに違いないから、『何でもない。悪酔いしたのかもしれない』って云いながら、さりげなく……」
「『ナンデモナイ。ワルヨイ……』」
「だからメモするなって云ってるんだよエヅってばー!」
 再び司は、榎木津からメモを引ったくった。

「本当に大丈夫かな……。心配になってきたよ……」
 流石に司も、この古い友人の普段の粗忽ぶりを思うと、眉も曇る。兎に角「計画的」とか「論理的」とか云う言葉とは、まるで無縁の男なのだ。
「ちゃんと脱がせ易い服を着るんだよ。変に凝った服着ちゃ駄目だよ」
「大丈夫だ。修ちゃんは器用だから」
「そう云う問題じゃないよ。相手に冷静になる時間を与えたら駄目なんだって。ああ、云っているうちにどんどん心配になってきた。いっそ僕が部屋の何処かに潜んで、こっそり指示しようかな」
 司は立ち上がると、身を隠す場所がないかうろうろと部屋の中を探し始めた。
 ベッドの下やらクローゼットの中やら、それなりの隙間はありそうだったが、何処もかしこも服で埋もれている。
「ええい、間怠っこしい。香木なんかじゃなくて、もっと手っ取り早い薬でも出してくるかな。慥か香港からこないだ仕入れた薬の中に善さそうなのが……」
「そりゃあ駄目だよ喜久ちゃん」
 友人が自分のために右往左往してくれていると云うのに、当の本人は気楽なもので、捨てられかけたメモを見ながら、鼻歌などを歌っている。
「意識を混濁させて事に及んだってさ、あの四角男は認めないよ。何かの間違いだって云い出すに決まっている。挙げ句は、手前には済まないことをしたが、どうか忘れてくれ、なかったことにしてくれって頭を下げるんだ。下手したら、そのあと一生逢ってくれないよ。それじゃ困る」
「馬鹿だなあ、エヅってば!」
 司は亜米利加人のように、大仰な仕草で肩を竦めて見せた。演技ではなく、心底驚いたらしい。
「一遍やっちまえば、こっちのもんだよ!」
「…………」
 商売柄と云うか何と云うか、司の姿勢は明確だ。
「なかったことに、なんて筋の通らない話があるもんか。修ッ公なんか変に真面目なんだから、既成事実を盾にとってごねたら、どうにでもなるって!」
 司の店で働くような女の子ならそれもいいが、流石に自分には当てはまらないだろうと、榎木津は考えた。
 同じ時期に、同じ手を女に使われたらもう勝ち目はない。仮令嘘でも向こうが子供が出来たとでも云おうものなら、どちらに対して責任を取るべきなのかは考えるまでもない。
 だから、盾に取るべきはつまらぬ事実などではなく、そこから派生する感情だ。精精可愛いと思ってもらわなければ。たっぷりと情を移してもらわなければ。少なくとも、他の女に部屋に誘われても、行こうとしない程度には。

「兎に角、親切にしてくれて有り難う。香木は貰っておくけど、変な薬はいらない。もう帰っていいよ、喜久ちゃん」
「一万円」
 司は、ごく自然な仕草で手を出した。さっきまでの賑やかしさが嘘のような、落ち着いた、冷静な所作だった。
「何が」
「香木代」
 やたら親切だと思ったら、司の方は商売だったらしい。
 渋渋と云った顔で、榎木津は財布から金を出した。
 この当時の一万円といえば大卒の初任給並だが、世俗に疎い榎木津は、南方からわざわざ輸入した貴重な香木だと云われ、簡単に騙されているようだ。
「毎度。巧くいくといいねえ」
 金を受け取った途端、司はコロリと表情を変え、機嫌善く榎木津を祝福した。
「修ッ公は強そうだから、きっと善いよ。本当に善かったら、教えてよ。そのうち僕にも回して貰うから」
「厭だ。僕の取り分が減る」
「あはは。冗談だよう。エヅは可愛いねえ」
 司は大きな声で笑って、榎木津の頭を叩いた。これは本当に、冗談らしい。
 それから暫く無駄話をしたあと、司は榎木津の私室を辞去した。



「礼二郎に変な入れ知恵をしたのは手前かー!」
 激昂して、木場が司の事務所に飛び込んで来たのを見た途端、司は凡てを悟って肩を竦めた。
 あまりに勢い善く這入って来るものだから、まだ売りに出す前で未整理のまま積み上げられていた輸入品が、あちこちにすっ飛ばされて散らばった。
「何だよう、エヅ公ってば、どうしてあんなに簡単な手順も覚えられないんだろう? 馬鹿だな。うん、馬鹿だ」
 司は一人で納得して、しきりに頷いている。
「それにしても、どの辺でしくじったんだろう?」
「最初からだ!」
 木場は、肩を怒らせて云った。
「大体、あの部屋が綺麗に片づいている時点で、どう考えても普通じゃない……」
「あちゃー。そりゃ駄目だ」
 額を叩いて、司は天を仰いだ。
「ちゃんと掃除をしたのは感心だけど、矢っ張りあの部屋は色事には向いてないや。今度エヅ公には、一見して連れ込みに見えないような連れ込みを、教えておかなくちゃな、うん」
「だから、礼二郎に変な入れ知恵すんなって云ってんだよ!」
 木場は、司の胸ぐらを掴んで吊り上げた。
 その勢いに怖れをなして、司は両手を上げて降参の意思表示をした。
「それに手前、礼二郎にいかがわしい代物売りつけただろう。馬鹿を騙して金巻き上げるような卑怯な真似しやがると、いくら古い知り合いとはいえ容赦しねえぞ。手前の店なんか、叩けばいくらでも埃が出てくるのは解ってるんだからな」
「誤解だよ修ッ公、エヅには真っ当な品物しか売ってないって! いくら僕だって、友達を騙すような真似はしないよう!」
 必死で真面目な顔を作っていたのが功を奏して、ややあって渋渋ながら木場は手を離してくれた。あるいは、水掛け論になりそうな気配を察したのかもしれないが。
 司は安堵の息を吐き、その場でそろそろと後ずさって距離を取った。
 木場はまだ何か云いたげな目で、司を睨み据えている。兎に角、落ち着いてソファに端座るよう勧めると、木場は不承不承と云う様子で、腰を下ろした。

「それにしても、何もそんなに怒ることないじゃないか、修ッ公よう」
 司は、店の女の子に茶の用意をさせると、木場に勧めて自分は少し離れた事務机の上に端座った。
 まだ多少警戒モードが残ってはいるが、軽口を叩く余裕は出てきている。
「エヅ公なんか、そりゃあ馬鹿で乱暴で、ちっと薹は立っちまったかもしれないけど、顔は可愛いんだから有り難く戴いとけばいいじゃないか。昔から、据え膳食わぬは何とやらって云うしねえ。それに、あんなに一生懸命なのに、少しはほだされたりしないのかい」
「手前は俺の人生を滅茶苦茶にする気か」
「今更修ッ公が、何云ってるんだよう!」
 仏頂面の木場の返答に、司はさも愉快そうに、声を上げて笑った。
「夢は可愛い女房と子供二人、ごく普通の家庭です、ってか? こないだ刺されて死にかけたばかりだってえのに、ちっとも懲りちゃいないんだから。どうせ修ッ公なんて早死にするに決まっているんだから、下手に家庭なんか持たない方がいいんだよ」
 先日木場が被害を受けた傷害事件は、慥かに木場自身の暴走が引き起こしたもので、自業自得と云う他にない。
 返答に詰まって、木場が口を出せないでいると、司は調子に乗って益益云い重ねた。
「その点エヅは子供も作れないし、一人残されても生活の心配はいらないし、一番修ッ公には都合のいい相手だと思うけどね。それに、もしあとで女と結婚したくなっても、エヅ公なら文句云わないよ。別れてはくれないかもしれないけどね。まあ、両手に花ってのも乙なもんだよ。男冥利に尽きるよ」
「俺は……」
 木場は、やけに厭な顔をして司から視線を逸らせた。まるで、今にもその場に唾棄しそうな勢いだ。普段からそう愛想の善い男ではないが、こうまで苦苦しい顔というのもまた珍しい。
「そんな不誠実な話は認めねえ。それに、都合がどうとかそう云うのが、この世で一番嫌いなんだよ!」
「へえ……」
 意外そうな顔で、司は呟いた。
 巫山戯たサングラスの向こうで、目がまん丸になっている。余程驚いたらしい。
「ちったあ考えちゃいるんだ。てことは、全く脈が無いって訳でもないのか……」
「おい、勝手な解釈するなよ!」
 木場が立ち上がりかけたので、司は周章てそれを制した。
「兎に角さ! これは本当に親切で云うんだけど、エヅ公だっていくら綺麗でももう三十路過ぎてるんだから、少しでも箸をつける気があるんだったら、早くした方がいいと思うよ。いつまでも若い気でいたら大間違いだからね。光陰矢の如し、少年老い易く学成り難しってね」
「余計なお世話だ! 手前になんか何が解るってんだ!」
 木場は悪態をつくと、来た時と同じ乱暴な仕草で、また唐突に部屋を出て行った。
 その後ろ姿を見送りながら、司は自然に、頬に笑みが浮かんでくるのを感じた。

「なる程、なる程……。エヅに教えてあげたら喜ぶだろうな、いや、待て……」
 独り言を呟きながら、熊のように嵐の去ったあとの部屋をうろつき回る。
 ふと見ると、散乱した商売物の無惨な様子が目に入った。
「これは弁償して貰ってもいいよな……。此処の損ぐらいは、エヅに被って貰ってからでも罰は当たらないだろうよ。何、情報だってタダじゃないんだ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべながら、司は品物の山をかき分け、売りつけられそうな物を嬉嬉として選り分け始めた。
 頭の中には、一見成功しそうにみえて失敗間違いなしの、絶妙な作戦が次から次と、泉のように湧き出してきていた。



(了)

京極堂が「司君」って呼んでいたのは記憶にあるんですが、エノさんがどう呼んでいたのか失念。一応「喜久ちゃん」を採用してみましたが、あとで違うとなったら変えるかもしれないです。
作戦としては、出入り不可能な狭くて暗い部屋に、一週間ぐらい二人で閉じこめておくのが一番有効かと思われ<虫かよ。


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