■戀■
 兄の友人がまた目を患ったと聞いて、見舞いに行かなければと思った。
 兄はお前が心配することではないと云ったけれど、以前イラストの仕事を無理にお願いしたことなどもあり、彼は立派な我が社の取引相手なのだ。これは決して、個人的なことではない。
 大体兄にしてもその周りの人々にしても、私が彼に特別な感情を抱いているのではないかと、余計な気を回している節がある。それは明らかな誤解だ。
 私は……。そう、私はどちらかと云うと、彼が苦手だ。
 アンティーク人形のような綺麗な面立ちで、あんまり綺麗だから、正面から真っ直ぐに顔を見るのが気恥ずかしい。自分と比べるような烏滸がましいことを思っている訳ではないのに、それでも矢張り気が引けて、注視(みつめ)られると俯いてしまうのだ。
 そして、彼があの薄い鳶色の目で凝乎と私を見る時、私ではない別の何かを見ている気がして、空恐ろしい。
 人の記憶を視る能力(ちから)があると、兄に聞いたことがある。何度説明を求めても、具体的なビジョンは浮かばない。それがどんなことだか結局はよく解らないし、最早自分には不可知の領域の話だと思う。だから、理屈ではなく感情で、ただ注視られることが恐ろしいのだ。
 そうして私が、間近で彼の顔を見られないことを、男達は誤解している。私の畏怖を、彼らは推し量ることも出来ない。


 約束をすれば却って気を遣わせてしまう気がして、見舞いの品だけ持って、突然神保町の事務所を訪れた。
 目当ての人は居らず、寅吉さんが一人で奥の部屋へ籠もっていたが、片付け切らない衣類が事務所の方まで溢れてきていて、大変なことになっていた。
 爆撃を受けた民家だって、こんな状態にはならないだろう。一体何があったのか。
「これはこれは。敦子さんじゃないですか。お珍しい」
 まるで年末の大掃除のような出で立ちで、寅吉さんが顔を出した。
 益田さんは外に出ているのか、他に誰もいないようだった。
「何か御用で?」
「あの、私……。お見舞いにと思って……」
「お見舞い? お見舞いって何の? ああ、お目のことですか? そりゃあ一体、何時の話ですか。とっくにお治りになって、先生は絶好調ですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、今日も天気が好いからって、北の丸公園の方にお散歩に行かれました」
 寅吉さんが明るく云ったので、別に空巣や強盗に荒らされた跡と云う訳ではないらしい。それならどうして、こんな状態になるのだろう。

「これは……」
 私が部屋の中を指差して云うと、寅吉さんは小さく苦笑いをした。
「今朝までは綺麗だったんですがね……。お散歩に行くことになって、お着替えを選ぼうとなさったらもう、この有り様ですよ。常時(いつも)そうなんです。探偵として人に会う時、パーティにお出になる時、お散歩に行かれる時……。常時、それに最も相応しい服をお選びになろうとする。ところが、ご自分がどんな服を持っているのか、爽然把握してらっしゃらないんで。ある物を全部引っぱり出すから、お着替えになる度に、常時こうなっちまうんですよ」
 寅吉さんは肩を竦め乍ら云ったが、別段迷惑そうな様子もなかった。彼はきっと、困った困ったと云い乍ら、主人の身の周りの世話をするのが好きなのだ。
「そうなんですか」
 私は少し楽しくなって、同じように肩を竦め乍ら、笑みを浮かべた。

「お待ちになりますか? 何時戻って来るやら判らないんですが」
 寅吉さんが、事務所の方に出て来て私にソファを勧めた。
「あら、いいえ……。仕事もありますので、帰ります」
「申し訳ないです。折角お出で戴いたのに」
「とんでもない、お約束していた訳でもありませんし……。あの……、榎木津さんは、お一人でお散歩に?」
「いえ、木場の旦那とお二人ですよ」
 寅吉さんは、にこやかな顔で云った。
「旦那が先生を、公園にお誘いになったんで。私が思うに、きっと旦那はうちの先生に、投げたボールを取ってくる芸を仕込もうとなさっているんですよ」
「は?」
「あ!」
 私が聞き返すと、寅吉さんは明らかにしくじったと云う顔をした。
「私がそんなことを云ったなんて、先生には云わないで下さいましね!」
「はあ……」
 何の事やら解らない。だが、寅吉さんは、相当周章ていて、忙しい忙しいと独り言を云い乍ら、また奥に引っ込んでしまった。
 私は仕方なく、持参した見舞いの品を、応接のテーブルの上に置いた。


 外へ出ると、もう日は暮れかかっていた。
 靖国通りを九段の方へ向かって歩いていると、前の方から長身の男が、踊り乍ら歩いて来るのが見えた。
「敦っちゃんではないか!」
 彼は私を見つけると、飛ぶように私に駆け寄ってきた。
「久しぶりだ! 僕の事務所へ寄って行き賜え! 丁度伯剌西爾から取り寄せた、珍しい豆が届いたところなのだ!」
 私は、ふと何かを感じて、探偵の顔を見上げた。
 常時と変わらぬ、彫りの深い端整な顔立ち。眉目秀麗とはまさにこのことだ。薄茶色の髪と、鳶色の瞳。眩しい程綺麗で、だが、今日は常時の近寄り難さがなかった。親しげで、何処か可愛らしいようにも感じる。
「おや、もう寄ったのか。その菓子折は何だ? ああ、ウィスキーボンボンか。益益都合が良い。珈琲に善く合う」
 何も訊かぬうちから、彼はそう云った。
 普段なら胸がざわつくような、そんな彼の言動にも不思議と恐ろしさを感じない。兄達のように慣れてきたのだろうか。いや、慣れる程彼と親しくはない筈だ。
 服の所為かも知れない。英国の乗馬服のようだが、学生みたいな真っ白な襯衣で、スカーフは鳶色によく合う深いオレンジだ。玉蜀黍のような髪に、ちょこんと帽子を乗せているのが、迚もチャーミングだ。
 どうしたのだろう。迚も可愛い。間近で見ても気恥ずかしくないし、凝乎と注視られても、居ても立ってもいられないような、あの不穏な感じがない。
 こんな彼を、今まで見たことがあっただろうか。
「そのお洋服、素敵ですね。よくお似合いです」
 そう云うと、彼は満面に笑みを湛えて見せた。
「おお! 流石若い女の子は違うな! この炬燵櫓男は、僕が着替えてもまるで気づかないのだ!」
 彼は大仰に、後ろを指し示して見せた。咥え煙草の、矢張り兄の友人である刑事が、緩慢(ゆっくり)とお濠の方から歩いてくるのが見えた。
「よう」
 彼は私に気づいて、片手を上げて見せた。
「敦っちゃんだったのか。こいつが尻尾振って飛んで行くから、誰かと思った」
「ご無沙汰してます」
 頭を下げると、彼は少しはにかんだように笑った。
 兄の家で、厳めしい顔をしているのを何度か見たことはあった。悪気はないのだろうけれど、多分歳の離れた若い娘は苦手なのだ。常時酷く無愛想で、笑った顔など見ることがあるとは思わなかった。
 私は、その人の好さそうな笑みに、少なからぬ驚きを覚えた。
「今日は非番なんですか?」
「ああ、まあな。此処んとこ事件が立て続いて……。敦っちゃんは、仕事の方はどうなんだ?」
「ええ、私は……」
「こんな処で立ち話なんかすることはない! 僕の事務所はすぐそこなのだ! うちで話そうではないか!」
 そう云って、また探偵は私の顔を覗き込んできた。
「この豆腐頭が、どれ程気が利かないか話してやろう」
「御免なさい。社に戻らなくてはいけなくて……」
「無理に誘うなよ、馬鹿」
 木場さんはそう云って、帽子の上から榎木津さんの頭を、掌で二三度軽く叩いた。
「馬鹿と云うな、馬鹿!」
「馬鹿を馬鹿って云って何処が悪いんだ」
「僕が着替えても判らない馬鹿のくせに!」
「判らない訳あるか! 家中ひっくり返しやがって! 呆れて物も云えないだけだ!」
 こんな悪口の応酬は、中野の兄の家で何度か見たことがある。気の所為だろうと思った。常時と変わらない。まるで同じ風景だ。

「それじゃ……」
「次は必ず寄ってくれ賜えよ!」
 頭を下げると、探偵と刑事は、軽く手を振って私が来た方へ歩いて行った。
 背中から、木場さんが疲れた声で、「ああ、可愛い可愛い。手前は何を着ても似合うよ」と、おざなりに云う声が聞こえた。
 また榎木津さんの罵声が聞こえるかと思ったが、そうではなかった。小さな笑い声が起こって、私はふと後ろを振り返った。
 丁度顔が離れていくところで、その直前の行動を見ることは出来なかった。ただ、榎木津さんの笑顔が迚も、柔らかに見えた。
 ずっと、綺麗な人だと思っていたのに。そう思っていたのに。それでもこんなに綺麗だっただろうかと、私は少し、不思議に思った。



(了)

「〜宴」の上巻で、敦っちゃんがエノさんのことを好きなのではないか、みたいな深読みできそうな描写があったので。このネタは「温泉行」のところでも一回使いましたが、再度登場。
ところで敦っちゃんはどこに行くつもりなのでしょうか…。このままだと東西線の九段下の駅に行ってしまいますが、九段下が開通したのは1964年だから、まだ何もないです。

というか、バカップル再び。いくら暗いからって、天下の公道で!


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