■可視の記憶■ |
近いうちに休みを取ると云ったのに、矢張りその約束は守られなかった。また一月近くも袖にされて、僕は度度警察へ会いに行った。 会えば常時困った顔をされ、僕も切ない気分になる。でも足が向くのは止められない。木場修は、優しげな口付けで誤魔化すことを覚えたが、それも屹度僕が悪いのだ。 その日は、偶偶彼は外回りに出ていて居なかった。 大体のローテーションは把握したつもりだったのに、何か変更があったのだろうか。 何度も来ていて顔馴染みになっている刑事は、面白がって僕を刑事部屋に上げた。暇を持て余している訳でもあるまいに、忽ち僕の周りに人垣が出来る。 「一遍話してみたいと思ってたんだよ」 「こんな男前は地元じゃ見たことがないな。否、別嬪さんと云うべきか。流石東京は広い」 「常時修さんを訪ねて来るな。あんたは修さんの何なんだい?」 地方から応援に来ているという話で、口々に話し掛けられる言葉は、中には耳に馴染みのないものもあった。 物珍しそうに覗き込んでくる顔を一通り見渡してから、僕は勧められた薄い茶を飲んだ。 「僕は、木場修の情人(いろ)だよ」 そう云うと、どっと座が沸いた。 「面白い兄ちゃんだな!」 「知ってるよ。あんた榎木津子爵のご令息だろ? 修さんの幼馴染みだ」 「ああ、あの探偵さんか! 新聞に載っているのを見たことがあるよ」 彼らはそう云い乍ら、僕が解決したことにされている有名な事件について、口々に語り始めた。 認識に大いに誤りがあるが、正してやるのも面倒だ。どちらにしろ、あの古本屋は表に出るのは好まないし、報道には偏重があって、僕の身分や立場が取り上げられることは多い。 知っていて、古本屋は面倒を僕に押しつけているのだ。こんな誤解は日常茶飯事だ。 「嘘じゃないですよ」 その時、人だかりの後ろから声がして、僕は思わずその方を見た。 優しげな、夢見るような目の色男で、声音が迚も柔らかい。一度も会ったことのない男だ。これも地方から来た応援部隊か。 優しい目は、しかし表情が無く深い漆黒だった。彼の記憶は、暗がりの中にある。 「その人、嘘はついてませんよ」 もう一度、彼は念を押すように云った。 その頃にはもう、話題は白樺湖の事件に移っていたので、皆何の話かと首を傾げた。 男は目を細めて僕を見ると、小さく会釈して背を向けた。僕は、その力無い背中を暫くの間見つめた。 僕は、あんな顔をして木場修の口付けを受けていたのか。思っていたよりずっと僕は必死な様子で、木場修は辛抱強く見えた。何度も執拗に繰り返される口付け。それが深くなればなる程、僕は泣きそうな顔になる。 記憶は、時に真実ではない。印象によって如何様にも歪曲されるものだ。彼の目には屹度、木場修は優しい男に映ったのだろう。包むように僕の肩を抱く太い腕、愛おしげに頬を撫でる無骨な指。木場修は僕を、静かに慈しんでいるように見える。 目を閉じて、もう一度開いた。もう、あの記憶を見せた男の姿は見えなくなっていた。 「今のは、誰?」 そう訊くと、人の善さそうな老刑事が答えてくれた。 「あれは、千葉の方から来た応援だな。最近、修さんと組むことが多い。彼奴が帰って来たと云うことは……」 云い終わらないうちに、木場修が部屋に顔を出した。 待機中の刑事に取り囲まれ、茶を振る舞われている僕を見て、彼は少し眉を寄せた。どういう状況なのか、測りかねているのかも知れない。 「修さん、如何だった、聞き込みは」 仲間の刑事が訊くと、益益深く眉を寄せて、木場修は溜息を吐いた。 「どうもいけねえな。捗捗しくない」 疲労の色が見てとれた。無駄足に苛立っている様子は、刑事ではない僕にも善く判る。 「修さん、今日はもう帰んな。偶には湿気ってねえ蒲団で、ゆっくり寝た方が善い」 「そうだよ、修さん」 「この別嬪さんを、家まで送ってやんな。何、上の方には、俺たちが巧く云っておくから」 仲間が、次々と木場修に声をかけた。 彼は何故か僕の顔を凝っと見て、何も云わずまた眉を寄せた。 大体天の邪鬼な男なので、普段はそう云われたら、意地でも捜査本部に残っただろう。だが今は本当に疲れているのか、それとも僕が余程変な顔をしていたからか、小さな声で「そうさせてもらうよ」と云ったかと思うと、僕に手を差し出して、刑事部屋の安いソファから立ち上がらせた。 もうとっくに都電は無くなっており、僕らは流しのタクシーを探して、大通りに沿って歩いた。通る車も、数える程になっている。 木場修の歩みは何時になく遅く、僕は彼の数歩前を歩いた。お互いに、違う理由で言葉が少なくなっていた。 人気のない通りを、白い猫がするりと横切った。何故か遣る瀬無い気がして、僕は足を止めた。 「どうした」 同じように足を止めて、木場修は訊いてきた。振り返らず、僕は僅かに肩を震わせた。 云わなくても善いことだ。こんなことは、木場修の耳に入れるべきではない。僕が黙っていれば、彼は僕の部屋に一緒に帰り、僕の隣で眠るに違いないのに。翌朝寝過ごしても、刑事部屋の仲間は木場修を労って、巧く取りはからってくれる。急に休んだとしても、誰かが何とかしてくれるだろう。 「あの男……」 だが、気が付くともう口は、言葉を結び始めていた。 「あの、千葉から応援で来た若い男……」 「ん? 長峰か?」 木場修は、僕に縁もゆかりもない名前を、ぼそりと口にした。 「最近善く組んでるって聞いた」 「ああ、真面目だが要領の悪い男で、俺は指導官の役割を押しつけられたような格好だよ。それがどうかしたのか?」 「どんな男?」 「善く解らんよ。礼儀正しいが、口数が少なくて、表情が乏しい。何を考えているか、俺のような気の利かない男には善く……」 木場修は、ポケットを探って煙草を取り出し、口に銜えた。 火を点けようとして、ふと動きを止める。 「真逆……」 「彼が犯人だ」 僕は振り返って、木場修の顔を見上げた。 酔っ払いの運転する車が、猛然と通りを走り抜け、一瞬眩しい程に僕と木場修の顔を照らす。 フラッシュに浮かび上がった、奇妙な顔。 僕は瞬きもせずに、彼の目を見据えている。 「……見たのか?」 記憶を。僕は、僅かに頷いた。 様々な記憶を。隠れるように口付けを交わす僕ら。目を閉じる女。伸びやかな白い手足。都会の片隅の切り取られたような景色。 どの記憶も全て闇の中で、モノクロオムの写真のように鮮明だ。そしてどれもが、キネマのように美しい。彼の記憶は、例えようもなく美しい。 「捜査本部に応援に来る前の行動を調べた方が善い。非番の日は必ず東京に来ていた筈だ。東京に来てからも、一人で行動していた時間がある。完全な単独犯。好みは背の高い女。どうすれば証拠が手に入るかは僕には解らない。泳がせてみるか、囮捜査でもするしかないな」 不意に木場修の大きな手が伸びてきて、僕の頬に触れた。 少し熱を持っているように感じられた。僕の頬が、ただ冷えていただけなのかも知れないが。 「刑事部屋で見たんだな。何を見た?」 「今云った通りだよ」 そう答えると、木場修は僕の両頬を挟んだまま、何かを探るように僕の目を覗き込んでくる。 「捜査本部に戻るか?」 自嘲気味に見えるかもしれない笑みで片頬を歪めて、僕は云った。木場修から目を逸らさない。彼もまた、僕の目を覗き込んだままだ。 「……見るな」 しかし返って来た答えは、僕の想像していたものとは違っていた。 「そんなもの、見るんじゃない」 「どうして? 証拠がない情報は、役に立たないから?」 「お前が、傷つくから」 僕は、目を見開いた。 嫌な物を見るのは慣れている。今更そんなことを、気に病むこともない。 傷つくのは僕じゃないだろう。気のないようなことを云い乍ら、屹度木場修は彼を気に入っていた。言葉少なく、物慣れない新人を。 何故僕にこんな力があって、それで木場修を悲しませなければならないのか。僕に何か辛いことがあるとすれば、只そのことだけなのだ。 「済まねえ」 ふわりと、胸の中に抱き込まれた。 柔らかな声が、耳の上から降ってくる。 「俺に、そんなことを云いたくはなかっただろう」 僕は無意識に手を伸ばして、木場修の背中を掻きむしった。 顔を伏せて、犬のように鼻先を彼の肩に押しつける。鼻の奥が痛かったが、辛うじて涙は出なかった。 「……独りで帰れるか?」 僕の頭を抱きかかえ乍ら、木場修はそう云った。 「問題ない」 掠れないように、出来るだけ気丈に僕は答える。 解っている。僕を蔑ろにしている訳ではないことを。こんなことは警官を情人に持った時から、重重承知していたことだ。 問題ない。何も問題はない。 木場修は、静かに僕を放すと、目隠しをするように僕の目の上にその大きな掌を置いた。 そんなことをしても見えなくはならないことを、彼も知っているだろうに。気休めかまじないのようなものか。 掌の熱を感じて目を閉じる。 熱い唇が僕の唇に触れてきた。目を閉じても見える木場修の記憶は、月明かりに照らされた僕の顔だった。泣きそうで、だが熱に浮かされたような朦朧とした顔にも見える。 まるで僕ではないように、美しい。木場修にはこんなに綺麗な印象があったのか。 長い口付けを交わしながら、僕はそれが何時のものだろうかとずっと考えていた。僕が覚えていたのは月の姿ばかりだったから、それに思い当たるまで暫くかかった。 (了) 久しぶりの更新が、こんな辛気くさい話でスミマセン…。次回は楽しい話か多少エロい話を希望(自分が)。 |